辛亥革命から四年目の晩冬、「それ」は忽然と現れて、始皇帝が開き二千年超の歴史を有する古都、咸陽は一刻も経たずに火の海と化した。咸陽の南を流れる渭水には民の死体が三日三晩も途絶えず流れ、川岸には集まった民がひれ伏し号哭する声だけが響いた。たった一人だけが生き延びた。病院に担ぎこまれた生き残りは床で記者へ語った。
――「それ」はやすやすと城壁を壊して侵入した。銃と大砲が爆竹のように鳴り響くが、「それ」を覆う毛は弾丸を弾き返す。「それ」は真っ先に女子どもを食べた。家族を「それ」に目の前で食べられた民も瞬く間に食べられた。
絶望に打ちひしがれた兵たちは泣きながらお互いの頭を中で撃ち抜く。火災が起こり、火の柱が咸陽の城を蹂躙した。「それ」は火を恐れず、城を埋めつくす四合院を足で蹴りあげていった。武器を持たない民は燃え盛る咸陽城から抜け出したが、民は逃げ場を失い渭水に飛びこむが、川へ入るやいなやすぐさま凍りついて、流木のようにぴたりとも動かなくなった。川を流れる死体を踏み台にして渡った生き残りは、西安城近くの畑に倒れこんでいたところを発見されたのだった。
国民党の機関紙・民国日報で咸陽消滅の顛末が報道されると、列強に分割されたあげく清王朝が倒れ、混乱を極める中華は恐怖に叩きのめされた。読書人たちは明王朝末期の順治二年、清軍が江蘇省で八十万人を虐殺した揚州虐殺よりも惨いと評した。
結局、「それ」は一体なんだったのか。珍説奇説が雨後の筍のように生まれ、各地の新聞は大真面目に取りあげた。
泰山のある道士が、冥界を統べる泰山府君を祀る岱廟で壁にかけた八卦太極図を信者に見せ、「気の流れが乱れ、鬼が現れた」と説法したと上海の新聞に載った。一方、北京の新聞には、北京大学の歴史学教授が清王朝の学府・北京国子監の時代から建つ書庫で、雍正帝の編纂させた百科事典・古今図書集成を発見し、事典の印度犀の絵を引用して「巨大な獣の仕業だろう」と記事を投稿していた。
そのどちらも正しかったが不十分だった。「それ」は鬼であり、獣であり、そして人でもあった。
民国五年春。咸陽から南東二十五公里にある西安は十三の王朝が都を置き、唐王朝の世には人口百万人を誇る世界一の大都市であった。明王朝の太祖・洪武帝の築いた高さ十二米、周囲十四米の堅牢な壁に四方を囲まれた城は、幅四十米の大街が東西南北を貫く。その大街の交わる中心には、高さ三十六米の鐘楼が建てられていた。
鐘楼の内を染めるのは一面の赤、天井のいまにも泳ぐような龍の彫刻の金、床の煉瓦の青くくすんだ灰色。
その緻密に敷かれた煉瓦の床には高さ三米の炉が鎮座している。俺は額の汗を拭って一呼吸置き、鈍色に輝く炉を見あげた。――八卦炉だ。まだ北京に皇帝陛下のおわした頃、俺は故郷の西安から上海へ出て戯作者を目指していた。西遊記の第七回で、孫悟空が八卦炉に放りこまれ太上老君に焼き殺されそうになったことは当然知っていた。結局、作品は数作しか出せずに食いつめて中華民国科技軍へ志願した。
面接は上海郊外、貢院の廃墟で受けた。かつて官僚を目指す若者たちが文字通り人生を賭けて科挙を受けた場所で、崩れた壁を背にした考官はたった二つの質問――「そこまで飯を食わせられないがいいか」、「配属は西安だがいいか」――しか聞かなかった。「好」と二回返事しただけで、試験官は書類に印を押した。印の字は「考上」だった。
作家崩れの、いままで働かずに筆しか握ったことのない身なのにすぐ採用された。科技軍とはそういう類の軍だった。
中華は軍閥どもが分断し、国を統べる軍隊すらいない。名乗りをあげれば卑しい馬賊さえも将軍になれる。科技軍は軍閥に武器の供与や技術支援をしていて黄河と長江の間、中華の中心一体の軍に影響力を持っていたが軍というよりは俗に言う死の商人というもので、群雄割拠する軍閥には科技軍を毛嫌いする将軍も両手で数え切れないほどいた。
炉の側面のはしごを登る。その八卦炉が実在するなんて思わなかったし、炉の内部に顔を突っこむなんてあまりいい気分ではない。はしごを登りきって八卦炉の上面にたどり着く。一辺が五米の八角形には、辺に沿うように八卦が彫られている。中心の、太極図の描かれた蓋を開ける。呑みこまれそうなどす黒い闇が炉に詰まっていた。
八卦炉のなかを見回す。目を凝らして見ると、暗がりには数え切れないほどの多支管が柱のように底面から上面すれすれまで伸びている。多支管は龍の姿を模していて、いまにも天に向かって昇りそうな数多の龍の頭はこちらをじっと睨んでいた。
整備士からの報告によると三日前、八卦炉の燃焼訓練の際に異音がしたため、実験を中断。確認すると多支管が折れて、その多支管を維修したばかりだった。新しく付けかえた多支管の龍は他のものより煌めいている。
懐から黄紙を取り出す。今回の稼働訓練で、上天界の最高神・元始天尊から八十百万瓦の能量を調達する祈祷文を書く。古くから道教では神仙への祈祷を文章にしたためる。筆で字を入れながら「道教の儀式ってお役所仕事みたいだな」と俺はぼやいた。
――元始天尊に上天界との境を経て、八十百万瓦の能量を提供するよう。急々に律令のごとく、行いたまえ。
火柴箱を取り出す。箱には地球が描かれていた。中華民国の領土が大きく拡大されていて、地球には五色旗が刺さっていた。北極から大きな鶴が中華を覆う。背景には「中華民国万歳」と楷書体で書かれている。皮肉なことに中国製の火柴でなく、日本の神戸製だった。民は、火柴すらまともに作る気になれなかった。将軍も、革命家も、乱れた世が静まるようにと日々寺や道観へ行って、仏や神を拝むしか能がなかった。
火柴を擦る。硫黄が燃え、亜硫酸瓦斯の刺激臭がする。黄紙に火をつけて八卦炉に放りこんだ。刹那、炉が唸り声をあげて、炉の端の煙突から青烟を吐くと光りだした。
八卦炉からは配管が伸び、鐘楼の地下に埋まっていた転換器を経由。虎の姿を模した転換器の内部には輪機が設置されており、八卦炉のなかを高速還流する気の流体が輪機を高速回転させることで電力が発生する。
馬達のうなり声が、鐘楼のなかに鳴り響く。
転換器の反対側から伸びた電纜は、高さ二十五米の機器人の背中に接続されている。
機器人の形状は、はるかむかし、ひとつに繋がっていた天地を引き剥がした身の丈四万五千公里の巨人・盤古を模している。装甲は深紅、金、青の極彩色に彩られているが、機器人の上半身は鐘楼の天井をくり抜いて入れているので、ここからは下半身しか見えない。機器人を入れた天井の穴からは盤古の手の先が顔を覗かせていた。何も手に持っていないが、本来なら武器として斧を持っている。盤古が天地を裂くときに使った斧にちなみ、世界開山斧と名付けられている斧は盤古の足元に置かれ、数多の機器師たちが群がって裂縫を溶接していた。機器人の足の指先に設置された指示灯は蛍のように淡く点灯していた。
これが巨大機器人盤古だ。倭寇あがりの蛮族・日本との戦争に敗れた清王朝は軍事力の増強をはかるため、西太后の密命により戦闘用巨大機器人の開発に着手。その初号機・盤古の試作機は完成したが、革命により王朝が崩壊すると存在を忘れ去られた。
科技軍が上海の工廠・江南機器製造総局の煉瓦倉庫に眠っていた機体を発見したときにはすでに動かなくなっていたが、これまた上海で科技軍が棋盤街――上海有数の花柳街、別名は風流地獄だった――から救出した『先生』が、西洋科学と古代から中国に連綿と伝わる機械術、そして道教を徹底的に研究し復活させた。
盤古に近づく。盤古はまさに巨人だった。本体重量一一九・二屯、全備重量一七〇・〇屯。装甲材質は三国時代から江蘇省で生産される宜興鋁鋼合金と宜興陶瓷。
外部から接続された電纜で電力を供給され、背中に搭載した動力中心の馬達を回転させ油圧抽機を駆動、全身に三十二個設置した伺服閥門が油圧を制御し、能量を盤古の手足に伝える。盤古を稼働させるのに必要な八十百万瓦もの電力は送電網が整備されきれていない西安では調達できない。よって鐘楼から発掘した八卦炉で電力を補う。八卦炉と盤古の間に設置された転換器、そして盤古の制御に使用する可編程邏輯控制器は八卦炉とともに発掘された。
炉の梯子を降りると、背後から呼びかけられる。舌足らずで甘く、それでいて低い声だった。そして鼻をかぐわしい匂いがくすぐる。
「楊、炉のなかはどうだった?」
「ああ、怖いよ、江先生。落ちたら燃やされるんじゃないかと思って」
「つべこべ言うな。孫悟空だって五百年間燃やされても平気だったろ」
「ひでえこと言うなよ」
振り返ると、江先生――科技軍臨時技術総理が立っていた。先生といっても、まだ十九歳だ。桃のように白く、綺羅を飾った服。痩身。華奢。江先生は科技軍に入る前、棋盤街の、阿片窟も兼ねた男娼で春を売っていて、まだその色気が抜けきっていない。銀白の髪には碧の挑染がいくつも入っていた。細長い輪郭。丸眼鏡。直線的で美しい眉。気だるげで、優しげで、だかどこか醒めた目。薄い唇。
「先生、いい加減、作業着を来てくださいよ」
「服は着てこそ服だろ。力を使わない将軍がどこにいる。智を使わない官吏もいない。ほら、楊機師、さっさと盤古に乗れ。一時間稼働させたら訓練終了だ」
「はいはい、わかりましたよ」と生返事をしたその時、突然、遠くから太鼓の音が聞こえだした。
西安の名物はこの鐘楼だが、西大街と北院門を隔て、三百米離れたところに鼓楼がある。西安の西には角張った、険しい山が連なる。山々の奥には、黄河の源・星宿海があり、その遥か遠くには西藏、火焰山、大夏、波刺斯、粟特、突厥、そして神仙の住まう崑崙があり、毎日、太陽は中華の空からそれらの国々へ旅立つように没し、その寸前に鼓楼の大太鼓が鳴ると、門番が城壁の門を一斉に閉める。
だが、なんで日没じゃないのに太鼓が鳴るんだ? 鐘楼の外へ出る。南大街の先一公里弱、高さ二十四米の永寧門が閉められる。そして、城壁の向こうから猿の鳴き声が聞こえてきた。
「いやあ、驚いた。もう来ちゃったか。さあ、ぶちのめそう!」
江先生の言葉と同時に、煉瓦積みの永寧門が、山津波の起きたように崩れていった。
「盤古を発進させろ!」
江先生が叫ぶ。
「はい!」
盤古の背に沿うように階段がかけられている。俺はその階段を駆け上った。
鐘楼の大窓越しに「それ」――大猩々が南大街を歩く姿が見える。盤古と同じほどの大きさの猿・大猩々は全身が長い毛に覆われている。南大街に胡麻粒のように散らばる兵士たちは大砲へ火を点けようとしていた。噂には聞いていたが、遥かに大きい。
奴を抹消しなければ。さもなければ西安が奴に抹消される。
階段を駆けあがって頭部の操縦席に到着。計器開関を押すと数百箇所もある指示灯が一斉に光りだした。異常のないことを確認し、盤古の可編程邏輯控制器の作動開関を起動。
「盤古、発進!」
動力中心の馬達の作動開関を押した。
体が揺れる。鈍く低い轟音。盤古に命が宿る。
両手足の動きは動力中心に送られ盤古に反映される。腕部の肩から肘にかけては搭乗者の腕の動きをなぞるように動作し、前腕部は手元の控制桿で操作する。足を馬の鐙を模した台に乗せ、足の動きと盤古が追従するよう設計されている。欲を言えば油圧駆動は応答性が悪い。江先生に全身を馬達駆動に改造してくれと言っているがなかなか実現しない。
脚に力を入れて台を蹴りあげる。盤古はやすやすと跳躍した。釘が一本も使われていないという鐘楼は面白いぐらいに軽々と突き破られた。
盤古は空中に舞った。眼下に西安の都が一望できる。
落陽西安九重の城。百八坊に区切られ、巨大、豊穣。聖上の都。いまや城内は煙塵を生じ、大猩々は飛び跳ね、家々の甍が塵芥のように吹き飛んでいる。
大猩々は門の内に着地し、咆吼をあげるや南大街を疾走しはじめた。
道を行き交う民が蜘蛛の子を散らすように逃げた。
宙を舞った盤古が西木頭市の通りに着地する。すぐさま地面を蹴りあげる。南大街の車引きが黄包車を捨てて、書院街へ走るのが見えた。残された客が呆然としていたが、刹那、客を黄包車ごと毛人が踏みつけた。
科技軍の兵士たちが大砲を発射。さらに他の兵士たちが大猩々へ一斉に銃をむけて発射。春の砂嵐のように、横から叩きつけるように降る弾丸を、大猩々は一心に受けたが弓や鉄砲で撃っても、弾丸は皆、跳ね返されて地に落ちてしまう。
助けなければ。
大猩々は歩き、逃げ惑う兵士たちの一人をすくい上げると、あろうことか口の中へ放りこんだ。断末魔が響き渡る。毛人は赤い血を口から滴らせて兵士を乾し肉のように噛んでは、あっという間に飲みこんだ。
――おぞましい。思わず体が震える。すぐさま怒りがこみあげる。
「ひでえ。許せねえ――!」
一気に大猩々に駆け寄り、顔面を殴る。大猩々は地面に倒れた。毛人は奇声を発し盤古を襲おうとするがすぐさま腹を殴る。
顔を掴む。大猩々は暴れる。もう一度力を込め、鳩尾を殴る。
大猩々はうずくまった。控制桿脇の開腕開関を押下。腕の先についた機器人手を開く。その手を大猩々の顔を覆う毛へつっこむ。
悪臭がたちこめる。むしる。むしる。かき分ける。大猩々は意外なほど、無抵抗だった。
「孫悟空みたくもっと暴れろよ」
物足りなく感じながら、顔の毛をかき分けきった。
「なんだと――!」
ページ: 1 2
"巨大機器人盤古"へのコメント 0件