生まれて、生きて、死ぬ――別にどうってことないだろう。
おれの躯は黒かった。小さかった。泥まみれだった。生まれつきだった。どれだけ躯を鍛えたところで鋼の躯を持つ彼と同じになれるわけじゃない。それはおれが冑蟲じゃないからだった。
おれは頭も悪かった。足りなかった。まわらなかった。死ぬまでどうしようもないことだった。どんなに空を夢見たところで颯の翅を操る彼女と同じに飛べるわけじゃない。それはおれが蟻だからだ。
そいつを厭だとか彼らと同じ躯に生まれてきたかっただとか、そういうことに気がいったことはない。おれはいつだってこのままがよかった。今までどおりに生きてくたばれば、たぶんそれで満足をする。
右の蟻がいった。僕たちの命は軽い、と。左の蟻もいった。私たちは奴隷だ、と。そういう言葉を聞くたびにおれは自分のことがわからなくなっていった。
蟻は蟻だ。蟻以外の何者でもない――誰かがいった。些末な命でも粗末な暮らしでも、君たちはまず蟻に生まれてきたことを誇りに思わなくちゃいけない。
いったい誰がそんなことを思うんだ?――右と左の蟻がいった。後ろの蟻もいった。おれもいっていた。おまえもおそらく同じことを思っている。ちがうか? そうだろ?
軽い命のせいで僕たちはどんな目に遭わなくちゃいけないんだ? 私たち奴隷のおかげで得をしているのはどこの誰? おれたちがもっとも忌むべきことは蟻に生まれてきたことなんじゃないのか。ちがうか?――いや、そうに決まっている。
おれたちには顔がない。名前がない。歓びも悲しみもない。それはつまり、闇だ。ひと筋の光も届かない黒々とした世界がおれたちのすべて。支配の下で生きるしか能がないちんけな命。
闇だの光だのなにをいってるんだ。僕も君も蟻じゃないか――みんながみんな、口にした。闇に暮らしているのに闇の正体を知らない愚か者。光の世界を辨えている者など、ここには誰もいやしない。
頭のなかで誰かがわめく――逃げだせ。こんなところに未来はない。ろくに顔も知らない主のために、ただでさえ薄っぺらい魂を磨り減らしてどうする。心の翅を揮わせろ。
それとも脆く愚かで薄汚いだけの人生はそれなりか? 生きることの旨みはこんなもんじゃない。なにもできやしないと思う前になにができるのか、微々たる脳味噌を使ってよく考えてみろ。
さっきからなにをとち狂ったことをいっている。逃げだせ? 未来? 旨み? 虚言を口にするのもいい加減にしろ。従うことのほかになにもできないおれたちの頭で、そんなものが理解できるわけないだろう。
力も賢さも美しさもおれたち蟻には無用だ。今だって誰かの命令を待っている。邪魔立てをするな。おれたちはそういうふうにしか生きられないんだ。
昔、おれたちは空を飛べた。誰にも使役されなかった。自分のために生き、目的を持つことが許されていた。みんなはそれを自由と呼び、命が持つ権利だといった。
やがてそいつを賭けた戦いに誰もが身を投じた。多くの不自由の上に成り立つひとつの自由――敗れた者の命は塵芥に同じだった。空を追われたおれたちは大地に翅を落とし、闇にその身を紛らせた。
――現実はくそだ。
――おれたちは肥溜めの底にいる。
――なにもわかる必要はない。
――厭ならとっととくたばっちまえ。
《うんざりだった》
「誰のせいだ?」
《あいつのせいだ》
「おまえのせいでおれのせいだ」
《どうした? くだらないか? つまらないか? 泥にまみれるのはそんなに厭か?》
「なにをしたくてなにをしたくない?」
《おれたちは誰かの食い扶持だ。闇の世界を支える――》
『部品だ』
権力は正義だ。冑蟲がいった。蟋蟀もいう。賢さは豊かさだ。まちがいじゃない――頷いた。美しい鳳蝶はなにもいわない。それはおれが蟻だからだ。
おれはなにをするものでなんのために生まれてこなきゃならなかったんだ? その理由すら知らされることなく死ぬまで生き続けなくちゃならないのはなんでだ? 誰がそいつを決めた? 主か? 神か宇宙か? それともおまえか?
頼む、教えてくれ。光の世界はどこにある? どうすればそこへ行ける? 死んで地獄へ落ちるのはかまわないが、生きてる間までもそいつを味わいたくはない。そこは楽園なんだろう? 空があるんだろう? 奴隷をしなくて済むんだろう?
にわかに現れた渦巻き模様――無邪気な殺意。肌色の塊がおれを押し潰す。脆い躯はすぐにぶっ壊れた。生きたかったのかどうかも今となってはわからない。黒々とした靄がおれを包む。悪い気分じゃなかった。
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