キチガイも正気になりそうな陽気だった。そんな陽気に誘われて、家の周りをあてなくふらついた。暑さに目が覚めたのだった。開け放した窓からは熱気が渦巻き、扇風機は焼けた空気をかき混ぜていた。起き抜けに枕元を探るとあるのは空のパケの山。最初の一服を切らしていることに微かな苛立ちと侘しさが胸に湧いた。パケの内側にこびりついた結晶を指ですくい取ってモンキーパイプで焚こうと思ったしそんな貧乏たらしいことをせずにすぐにRに向かおうかとも思った。だけどその日に限っては、そこで今更な自制心が働いた。毒煙草を追い焚きし続けても碌なことが無い。なによりも昨日の酒が、というよりは今日の酒が抜けきっていなかった。酒とケミカルの喰い合わせはひどいものだ。自分がむちゃくちゃになったことも判らないくらいむちゃくちゃになる。頭では判っていて、懲りもせずに毎日毎日くりかえしていた。
パケに紛れるようにして置かれた灰皿からは燃えカスがくすぶっているわけでもないのになんとも嫌な匂いが立ち込めていた。腐った卵とも低温で焦げたビニルとも違う。経験したことが無ければきっと判らない、得体の知れない化学物質が焼けた甘くて苦い匂いだ。スティールの灰皿の縁には粘り気のある黒々としたヤニがべっとり。反吐が出そう(ボミッティ)で吐き気のする(スピュウィ)どろりとした束の間の悪夢の残骸。グラム当たりたったの一八〇〇円で購えるお手軽な地獄だ。金が尽きるより先に身体がぶっこわれてどうしようもならなくなる類のリーガルドラッグは今世紀最悪の発明だ。マザファッカー。吸殻をごみ箱代わりのレジ袋に叩き込んでその口をきつく縛る。右手にぷらぷら下げながら鍵もかけずに部屋を後にする。
エレベーターを下るとエントランスには集合ポストから溢れたピザや女のデリバリーのチラシが乱雑に散っていた。ドミノにアオキーズに熟女倶楽部に銀の皿にくら寿司にANITA(まだ紫色のマンコをしたチリ人妻の再審請求がワイドショーを賑わしていた頃のことだ)。チャイナ野郎どもはモラルがない。俺と、三階のワンフロアを豪勢に使っている大家の親戚を除けばここに住んでいるのはチャイナだけだ。北向きで両脇を雑居ビルに塞がれた安アパートなんてそんなものなのだろう。共用のゴミ置き場にレジ袋を押し込む。前の自販機のスポーツ飲料はいつも売り切れ。むかむかしながら大通りに出る。豆乳を混ぜ込んだドーナツ屋の前に客がちらほら。胃が鳴って、それで初めて空腹に気づいた。飲みながら何度か吐いたことも思い出した。クスリ漬けの日々は恐ろしい速度で過ぎていくから、そんなことすら忘れていた。小さくちぢんだ空っぽの胃袋。身体は飢えていても脳が飢えていなかった。
ランチタイムも終わった時間に、オフィス街のはしっこは人通りもまばらだ。俺みたいなげっそりした顔の薬中だって大手を振って歩けたし、職質だって滅多に受けない。少し歩くだけのことで背中に汗が伝った。体力も随分と損なわれていた。交差点で信号待ちをしているとカルロスに会った。最初は誰か判らなくて、こちらを向いてにっこり笑顔で手を振る湯上り肌の外人にはて、俺の働いている店の客にこんな奴がいたかなと首をひねった。店を出している場所柄、客筋は表に立って女の金でほっつき歩いているフィリピン人たちばかりで、ヒスパニック系の若い奴らもごろごろいた。ただこんなにガタイのいい奴には覚えが無かった。信号が青になる。胸筋をゆさゆさと揺らしながら横断歩道を渡って近づいてきた。ああ、カルロスだ。平日のこんな時間に道端にいるなんてこいつは一体どうしたんだろうと思いめぐったが、そういえば黒人も真っ青のブラックマッサージ屋を辞めて不法就労のカルロスから無職のカルロスになったのだったと思い出した頃には腕周りが窮屈そうなTシャツに身を包んだ不良外人は目の前にいていつもの調子で俺に話しかけてきた。「や。元気?」つぶらな瞳をきらきらさせて、口角を大きく上げて笑う。「ひま? 落ち着くトコ、行こう」
ヤク中のブラジル人に連れられて中央公園へと向かう。妙な気分だ。俺は、客同士は店の中だけでの付き合いと割り切っていた。俺も含めてみんなそれなりにワケありだからだ。ただ、こいつのワケはだいたい心得ているつもりだった。それになんだか懐かしさもあった。ケミカルに浸りっぱなしの日々は、それはもうとんでもないスピードで昼夜昼夜昼夜と過ぎていく。だからほんのひと月やそこら顔を見ないだけでも何年ぶりかに再会した古い友達のような気がしてしまうものだ。早い話が、俺は油断しきっていた。汗が首筋からだくだくと溢れる。通りすがりにいい身体をした女とすれ違う。デニムの短パンから生白い脚がのびている。「や。凄くイイね。イイおっぱい」彼は顔を綻ばせた。「日本はほんとイイ国ね。イイ国。女のコかわいいし、何でもある。酒もクスリも。それに、外歩いてても撃たれナイ。最高だよ」
*
カルロスはRの昼の客だった。その頃のRは、販売は合法だけれど摂取は違法(*)だとかの妙な法規をすり抜けるために上のフロアの一室を借り上げて常連向けにプレイルームとして開放していた。そこではカルロスはテレビの前に陣取った赤いソファーの端が定位置で、ずんぐりとした体躯をちぢこませて坐っていた。太い指を器用に操って、唾でしめしたライスペーパー(**)を細く、硬く巻く。チルやジャマゴ(***)の枯れた緑色のリーフがぱんぱんに詰まったそれを、いつだって丸テーブル越しに回してくれた。「ほら、元気なるよ。グッド、ベリィグッドね」彼から貰うショットはいい味がして、ほんわかと暖かな気分にさせてくれた。昼と夜の客だった俺はお返しにと手持ちのショットを勧めたが、それは大抵断られた。「これカラ仕事だから」とカルロスは屈託なく笑っていた。それはそれはいい笑顔で、俺の身近にはとんと縁が無かったが働き者のおじさんというのはみんなこんないい笑顔をするのだろうかと少しさみしくなるぐらいだった。
お互いが随分といい気になると、「子供、かわいいんダヨ。見る?」そう言ってポケットから一葉の家族写真を取り出すのが常だった。そこにはよく肥った奥さんと、奥さんの胸に抱かれた彼によく似た小さな息子が写っていた。「毎日、毎日、ばかばかしいよ」カルロスは朝と夕と夜に働いていた。だから昼だけの、ほんの少しの自由な時間の間だけの客だった。「あと二年、三年、五年。そしたらこども、おっきくなる。それまで我慢、ガマンだよ」そう言って彼は赤ん坊みたいな表情で笑っていた。彼の言葉を借りるなら「がんばろおぜ、お互い!」ってところだ。握手すると、ざらついた手のひらは厚く頼りがいがあった。きっとこれが父親の手なのだろうと、なんだかやはり少しさみしくなった。そうして陽気なブラジル人は、いつもきっちり十五時を二十分過ぎた頃に店を出た。午後の仕事があるのだろう。バイトのハヤト君はカウンターで小売り用のショットを巻きながら「たいしたもんだよなあ」とにんまり唇を曲げた。
*当時の毒煙草屋はどこも輸入雑貨やアロマ屋の体裁を取って営業していた。毒煙草はアロマ、固形の粉末はバスソルト、チューブにつめた液体は植物の栄養剤と称して販売していた。もちろん、売り手も買い手もよくよく承知の上でのことだ。店内には丁寧に「吸引目的での購入はお控えください。」との掲示まであった。
**ライスペーパーといっても春巻きの皮ではない。麻の繊維から作られた極薄い巻紙の事。一般の巻紙よりも若干割高の価格設定がされていた。紙にはタールがほとんど含まれておらずその愛好家からは“ナチュラル”であると考えられていた。
***チルはチルエックス、ジャマゴはジャマイカンゴールドの略。どちらも全世代を通じて大麻に似た質感のブランドイメージを保ち“ナチュラル”であるとして根強い人気を誇った。
*
中央公園は無闇と広い。美術館と科学館を力技で同居させた市民の憩いの場の辺縁では浮浪者相手の炊き出しは隔週ペースで頻繁に行われていて、朝方にベンチにたたずんでいれば得体の知れない爺が日雇いの口利きをしようかと寄ってくる。そんな場所だ。公園の隅にある青いジャングルジムには遠足の子供たちがたわわに実っていた。蜘蛛の巣状に組まれた鉄パイプにぶらさがる子供たちの帽子は赤白赤白白白白赤赤白。真っ赤に錆びたブランコの鎖がギチギチと不愉快な音を立てる。ソプラノの金切声。蝉がけたたましく鳴いている。炎天下の広場はよくわからないが踊ってみただか脱いでみただか、コンテンツとしての露出狂の聖地、とやらになっているらしい。遠景では冴えない見た目の少女がカメラの前でリテイクを繰り返しているようだ。カンカン照りの広場から随分と離れてこちら側は、剪定の行き届いていないブナだかクヌギだかの落葉樹の木立が緑の木陰を造っている。背後の大噴水が景気の良い打ち水になってこの真夏日にひんやりとした風が吹いている。草むらを野良猫が横切った。
プラネタリウムに向き合う形で、歩道の縁石に並んで腰掛けるとカルロスは僕に一服を勧めてきた。手持ちを切らした身にはひどく有難かった。デニムのポケットから取り出したマルボロの空き箱の中にはショットがぎっしり刺さっていた。ライスペーパーから透けて見える赤と黄の鮮やかな花びら。入荷したばかりの最新の品種だ。一本一本、家で律儀に巻いたのだろう。文無しになっても気前の良さは相変わらずだった。その中のカチカチに巻かれた一本を手渡されて、火をつける。一吸いで先の三、四ミリが一気にちりりと燃える。健康志向の彼にしてはキツめの品目だ。無職となると嗜好も変わってくるものらしい。それがまたなんとも有難い。辛くて苦いケムリを吐く。脳が焼ける。ショートしたニューロンが混線してあらゆる出来事がイカレ出す。皮膚感覚がのっぺりとした質感に入れ替わっていく。指先がプラスチックになって、現実が虚構に虚構が現実にすげ替わっていく。「いいね、凄くいい」思い出が未来に明日が昨日に置き換わっていく。草むらを野良猫が横切った。ソプラノの金切り声。あらゆる出来事がコマ送りだ。俺は確かに俺だけれども俺ではなくていつも通りの仮初めの俺に更新されていく。いつものことだ。いつものことだった。蝉時雨と心拍が重なりあってエイトビートを刻みだしてしばらくすると、木漏れ日が眩しいくらいに降ってきた。
*
「ニホンに来て、これはいい!とほんとに思ったヨ」そう言って、推定するところ2Lサイズの甚平姿ではしゃぐカルロス。また始まったよ、といった顔でハヤト君は苦笑いする。その日はたまの休みらしくて、夕方を過ぎても彼はいた。プレイルームには花火の後みたいな煙がこもっていた。テーブルにはビールの空き缶が一つ、二つ、三つ。“ナチュラル”に類似した品種は極まれにアルコールとのみごとなマリアージュをみせる。「甚平! これ、最高のジャパニーズカルチャーだよ。和だよ。和」俺はと言えばただそのシチュエーションコメディをにやけた顔でながめるばかりだった。目に入るあらゆる物にキラキラと妖精の鱗粉みたいな光が散っていた。頭の緩い女だったら『やばい、すっごいキラキラしてる、チョーきれい』とかなんとか言い出しそうな具合に。なんのことはない、ハードな品種を摂取して俺の瞳孔がぱっくり開いているだけだ。「はいはい、和だね、和」生返事で濁すハヤト君。うんざりしているのかバカにしているのかその両方か。その姿も出来の悪いピンホールカメラみたいに二重写しにぶれて見える。身体が火照る。副交感神経が暴れる。「これ、海外で絶対売れるよ。バリエーション、カラー、サイズ。最初から揃ってる。それで安い。流行るしかないよ。俺はもうサイトの名前も決めてある。GAI=ZINBEI。ワカる?」自分を指さし、「ガイジンと、ワカる?」着ている紺の甚平を指さし、「ジンベイをかけてるんだよ! これは絶対イケるね。大当たりダヨ」屈託なく笑っていた。文字通りキラキラ輝くカルロスの得意顔はちょっと笑いごとじゃないぐらいに神々しく俺の目に映った。「カルロス、あんた天才だよ」俺はそれがおかしくておかしくって腹を抱えて笑った。
*
木漏れ日が降ってくる。「我慢、ガマン。もう疲れたヨ」カルロスはつぶやいた。
*
近隣の毒煙草屋の中では随分と客層のマシなRの中で、このオーバーステイのブラジル人はまとも過ぎるほどにまともだった。それはつまり、つまずいたらとんでもない速さでひっくり返るってことだった。仕方ないことだ。弱いってことは悪いってことだから。Rはこの街で一番の老舗で、店の常連は相手がどこの誰かなんて詮索する奴は一人としていなかった。最近出たリーフはどうこうで、こんな感じにキマった。どこどこの会社から次世代向けの新製品が先行で出るらしい。どこそれの店のなんとかって客がバグって(****)トラブった。そんな話をみんなで楽しそうにくりかえしていた。それが、こういう類の店で遊ぶ人間同士の暗黙の了解だった。誰がどんなワケを抱えているかなんてわかったもんじゃなかったからだ。例外があるとしたら、もう隠しようのない商売をしているか、失うものがなにもないクズだ。Rの入っているビルの一階で弁当屋を営んでいたオヤジが前者のいい例で、店番の人間やプレイルームの常連はよくそこに出前を頼んでいた。届けに来た店長は店のロゴの入った間抜けなポロシャツを着たまま一服を決め込んでいたものだった。そんな風に開き直ってるわけでもなくてただただ裏表のないカルロスは、だからまったくもって迂闊な男だったというわけだ。
それに彼は、毒煙草と長く付き合っていく上でもっともしちゃいけない勘違いをしていた。それは、毒煙草と長く付き合っていけると信じ込んでいたことだ。あいつはとにかく“ナチュラル”が好きだった。新興チェーンのBあたりに吹き溜まっていたブレザー姿の不良学生たちと全く同じ嗜好だった。あいつらは毒煙草の世代が切り替わって新製品の時期になると(*****)、スツールでくつろぐ俺に「こんどの世代は、何が一番ガンジャに近いっすか?」なんて聞いてきたものだ。俺はその度愛想よく、きっとあれが近いよ。鉄板はチルだけど、なんてやり取りをして意気投合したふりをして内心バカめと毒づいた。“健康的な毒煙草”なんて噴飯ものの糞ジョークだ。
昼間のプレイルームはだいたい暇で、ゆるやかな時間が流れていた。「最近、カルロス見ないね」と世間話の合間にハヤト君が言った。ハヤト君は以前にセンパイの紹介で入った仕事で知り合った間柄で、その頃からクスリにどっぷりだった彼から俺は毒煙草を教わった。Rを俺に紹介してくれたのもこいつだった。ハヤト君の目の下はクマで真っ黒。パイレックスの手持ちパイプを絶え間なく吹かしている。「あーいてぇ」こめかみのあたりを押さえる。焦げ茶のドレッドが揺れる。彼は群発頭痛とかいうなんともキチガイっぽい持病をもっていて、障碍者手帳と生活保護をフルコンプリートしている正真正銘のクズだった。「最近、またちょっとやばいんだよね」あんまりにも頭痛がひどくなるとしばらくバイトを休む。どれほど痛むのかとたずねた時は、『頭の上でおっさんがラインダンスをしているぐらいだ』と真顔で返されてぞっとした。自殺頭痛という大層な別名がついているのだと、これも彼から聞いた話だ。「アロマ、もうやめたら?」透明なパイプの中に真っ白な煙が満ちる。「この頭痛、阿片が特効薬なんだよね」同じ色の煙を口から吐き出す。「じゃあ、しょうがねーか」
アロマとリキッドを社割で購入しているハヤト君はもう後には引けない程度の廃人だ。「長生きしないね」「そりゃそうだろ」彼には帰る地元もなかった。ハヤト君の生まれ育った田舎はこの街から車で下道を一時間ほど行ったところにある郊外で、ラスタファが幅を利かしていた。“ナチュラル”好きが高じて休耕地で栽培しはじめるような陽気でやばいやつらだ。「みんな死にたいんだよ。ガンジャをキめてハッピーなやつらとは根っこが違うワケ」その一員だった彼はある日草(くさ)泥棒(どろぼう)の汚名を着せられてコミュニティから叩き出された。ほんとに盗ったのか厄介払いされたのかは、五分ってところだった。「線があるんだよ、線がさ。生きたいのと死にたいのをすっぱりわけるようなやつ。ナチュ喰ってるやつらは生きたくて楽しくてしょうがないし、ケミは死にたがりのやつばっかり」こういう時にハヤト君は中卒の癖によく口が廻った。死人みたいな顔色をしているのを割り引いても十分に男前だったから、無職の廃人でも女には困っていなかった。「たまに勘違いしてるのもいるけど、そいつらみんな頭すっかすかなワケ」彼の言うことはいちいち腑に落ちたが、「カルロスのこと?」この時の俺はなんだかいらついていた。「ああ、お前カルロスと仲良いもんな」「あいつはいい奴だよ」ハヤト君はシンナーで溶けた前歯をむきだしてケタケタ笑うと、客の噂でカルロスが失業したことやタチの悪い奴らに嵌められてなけなしの金を博奕で溶かしたらしいことなんかを俺に話した。「もうとっくに手遅れだよ、あのおっさんは。恰好つけて逃げてるだけ」彼は顔をしかめて頭頂部に手を遣った。
****ハードドラッグの常習によって社会性や基本的なコミュニケーション能力、判断力を著しく欠いた状態を表すスラング。一時的な錯乱に陥って人を轢き殺すなどの事例は除外される。薬理性の統合失調または自律神経失調。せん妄もみられる。毒煙草の世代が切り替わる時には加減が判らずに「バグる」ユーザーが多かった。
*****毒煙草は度重なる法規制に併せて含有される化学物質が切り替わり、業者はそれを「新世代」としてリリースした。何の治験も為されずテイスターの勘でブレンドされたケミカルが提供される様は娯楽味のある人体実験の様相を呈していた。
*
「なんか、仕事ナイかなあ?」こちらの顔色をうかがうカルロス。無職といえばあまりにも無職らしい話の切りだし様だった。こんなガキに何か出来ることでもあると本気で思っていたのだろうか。まあ、まずまず無理な相談だった。自分の働く店は年中人手不足だったけれど、店番は前科の無い日本人に限っていた。ガイジンを雇い入れて客となれ合われても面倒なことだし、表に出せない金勘定をさせるには地続きの場所に親兄弟のいる人間が最低限の信用をおけたからだ。だけれど『店長に聞いてみるよ』なんて調子よくお茶を濁すのも気が引けた。そうだなあ。前に話してくれたビジネス、どうなったの?ほら、GAI=ZINBEI。世間話っぽく話を逸らすと、目を伏せて首を振るばかり。「ダメだ、ダメだよ。おカネ、ないし」ジャングルジムの向こうの車道に宅配便のウォークスルーバンが止まった。特徴的なカラーリングの制服を着た配達員が降りて、荷物を脇に抱えてどこかのビルへと駆けていく。「あそこの面接に行ったけどダメだった。コンビニもダメだった。どこもかしこもダメ」屈託の無い表情が俄かに曇った。「日本はホントいい国ネ。いい国。女ノこかわいいシ、何デモある。クスリも酒も」聞いた台詞だ。「おカネとシゴト以外、何デモある」木漏れ日が降ってくる。「困った。困った」蝉がけたたましく鳴いている。かける言葉もなかった。俺は生まれついての怠惰の家系で、親戚筋と言えば生活保護の厄介になってジャックフルーツみたいにテレビの前で寝そべっているような奴ばかりで。そういえばあのいまいましい果物はブラジルの果樹だったか。“働き者のおじさん”にかける言葉なんて、知る由もなかった。『がんばろおぜ、お互い!』なんて、気安く言えるわけもなかった。木漏れ日が降ってくる。彼はいつのまにか手に握る家族写真に視線を落とした。のぞき込むとよく肥った奥さんと、彼によく似た小さな息子。「シオドキだねえ」最近覚えたばかりでお気に入りのフレーズなのだろう、そう繰り返した。アーモンド色の肌に汗の玉が滴った。蝉の鳴き声が降ってくる。そう、キチガイも正気になりそうな陽気だった(*******)。
*******後日談がある。朝の一〇時前にBの軒先でいまかいまかと開店を待っていたジャンキーの間でカルロスのことが話題にのぼった。皆が口々にのべる近況をまとめると彼はマッサージ屋を辞めてから、風俗街のあまり質の良くない店で客引きまがいの仕事をして糊口をしのいでいるらしい、とのことだった。「不良外人のカルロスとは付き合えるけど、無職のカルロスとは付き合えないもんなあ」と郊外のJ町でコンビニの店長をする男は笑った。「まずいよな、あれじゃあよ」と目の据わったポーターも笑った。「あいつ、いいやつなんだけど」と、前歯のごっそりぬけたエイパーの親父が味のある表情をした。「仕事がなくて、ほんとに困ってるらしいんです。どうにかなりませんかね?」といちばん年下の俺はたずねた。おお、それじゃあ、と店長は続けた。「地元でロシアンがやってる工場があって、そこはどいつもオーバーステイだ。口利いてやろうかな」それがいい、それがいいとみんな請け合った。みんな、毒煙草が大好きで、カルロスが大好きなのだった。それから何週間かしてのことだ。またBのシャッターが静かに開くのを待っていると、件の店長と顔を合わせた。「おお、そういやあいつ、工場で働き始めたらしいぞ」と聞いて、俺は喜んだ。なんだかわずかばかりでも、彼が“働き者のおじさん”に戻る手助けができた気がしたからだ。だが今となってはこう思う。はたしてこの出来事がほんとに救いになったのか。それとも、もっとずっと深い闇に落ちるきっかけだったのか。俺にはわからない。それは彼の物語であって俺の物語ではないからだ。ここまでが、あの陽気なブラジル人に関する消息の全てだ。
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