「おい、誰だよ。あたしの席に座ってんの」
背後から声が聞こえた。隣に座っている女が振り返りこう答える。
「新入りだよ、リエちゃん」
そこには若い女が、半分口元に笑みを浮かべながらこちらをみていた。彼女はわたしの座っているソファの背もたれに両手をついて、こう言った。
「ここリエの席なんだ、どいてくれる」
わたしは言われるままに席を立ち、向かいの席へ移動した。すると彼女はソファの内側にまわり、どこかのブランドマークが入ったスポーツサンダルを脱ぐと、その空いた席の上にどっかと片足を立てて座った。ショートパンツから引き締まった素足が勢いよく飛び出している。
視線を少し上げて、さりげなくそちらの表情を確かめようとすると、彼女はそれに気づいたのか、わたしの目を見て正面からニッと笑ってみせた。
リエちゃん。
彼女は重力に逆らい強く引かれた一重の目をしている。鼻はスラと小さくまとまっていて、唇はふんわりと薄い。若い女らしく頬は張って薄紅に染まっている。艶のあるストレートロングの黒髪をヘアバンドで持ち上げ、おでこがぜんぶ出されているから、その整った顔立ちが隠れることなく際立ってみえるのだった。
おそらくほかの人に自分の座っている席をどくように言われたら、なぜそうしなければいけないのかと疑問と反感を持っただろう。リエちゃんの場合はそうではなかった。そこはリエの席であると言われれば、なるほどそうだと妙に納得してしまう不思議な説得力が彼女にはあった。
リエちゃんはG棟の女たちの憧れの存在だった。
「サァ、イゴノ キィスハ タバ、コノ フレバガシィタ」
リエちゃんは少し前に流行った歌をうたう。皆は拍手して喜ぶ。
「リエちゃん本当に歌が上手」
「ほんものの歌手みたい」
彼女は鏡の前でヒップホップのダンスを踊ってみせる。
「リエちゃん素敵」
「かっこいい!」
彼女の座るソファの周りには常に人が集まり、その中にはいつも傍にちょこちょことついて回る、追っかけの女の子までいた。
リエちゃんは得意げに笑みを浮かべてこう話す。
「リエ、英語を話せるんだ。ペラペラだよ。プレゼント・フォー・ユー!」
そう言って隣に座る女に煙草を渡す仕草をすると、ワッと歓声があがった。とりまきの一人が感心して言う。
「リエちゃんは、歌もダンスも上手いうえに英語も話せて、本当に完璧な女の子だねえ」
ここにいる誰もがリエちゃんに羨望のまなざしを注ぎ、彼女がみせてくれるせかいの栄光に酔いしれるのだった。
彼女はこうも言っていた。
「リエ、芸能界に誘われてるんだ。ここを出たらすぐに事務所と契約して、プロのダンサーになるつもり」
そんなリエちゃんがある朝突然ホールから姿を消した。わたしがいつものようにホールに行くと、そこには彼女がおらず女たちが不穏な表情を浮かべ沈黙していた。追っかけの女の子は泣いている。不思議におもうわたしの耳に、遠くから、微かな叫び声のようなものが聞こえてきた。何だろうとおもいその声の方へと廊下を歩いていく。声は徐々に大きく響いてくる。鼓動がどくどくと速くなる。廊下を突き当たると、頑丈そうな鉄の扉の前にきた。向こうにも部屋は続いているのだろうか、わたしはドアノブをがちゃりと回してみるが、鍵がかかっていて開けることができない。声はますます近い。わたしは思い切って、そのひんやりと冷たい扉の表面に耳を押し当ててみた。すると声の内容は、よりはっきりと聞こえたのだった。
『出せっ おい出せっ
ぶっ殺すぞ
出せー!』
声の主は他ならぬリエちゃんだった。怒りに満ちた怒鳴り声と、何か固いものに体当たりするような鈍く重い音が繰り返される。
『出せっ、
出せー!』
「昨日の夜入れられたのよ」
女の一人がわたしの耳元に顔をよせて言った。
昼になり夕方になりその声は止むことがない。リエちゃんは夜になっても戻って来なかった。代わりに無人のホールに、女の叫ぶ声だけが一晩中こだました。
わたしはベッドの中で、リエちゃんがよくうたっていた歌を思い出してみた。小さく唱えるようにその歌詞を呟いてみる。
サイゴノ、キスハ、タバコノ、フレバガシタ
ニガクテ、セツナイカオリ
夢の中ではリエちゃんがダンスしている、まぶしすぎる光の中で、バックにはダンサーが大勢ついて、うたいながら最前列でダンスしている、彼女はカメラに向かって得意げな笑みを浮かべてみせる。凄い、リエちゃんは夢を叶えてしまった、わたしは精一杯の拍手をおくる。なんてきらきらと光るせかい、リエちゃんは、わたしは、まるで虹の上で踊っているみたい、ステージには金銀色とりどりのテープが投げ入れられて、その歓声が、光の洪水が、やむことはなかった。
ホールのこだまが止んだのは次の日の朝だった。それでもリエちゃんが戻ってくることはなかった。追っかけの女の子がぽつりと呟いた。
「リエちゃん大丈夫かな」
被せるように別の一人が言う。
「大丈夫に決まってる、何言ってんの!」
「だってリエちゃんだよ?」
それ以後言葉を続けるものは誰もいなかった。ホールは皆黙祷を捧げるかのように静まり返っていた。わたしはそれからしばらくの間、ぼんやりとしては彼女と、彼女のうたっていた歌のことを考えるのだった。歌はきっと明日のこともうたっていた。明日の今頃はどこにいて何をしているのだろうかと。
はたしてリエちゃんは一週間後に戻ってきた。紅い頬は色を失い少し瘦せたようにみえた。彼女はゆっくりとした足取りでホールへ近づいてくると、立ち尽くす皆の間を黙ったまま通り抜け、いつものソファの席にどっかと片足を立てて座った。そうして、煙草に火をつけて吸い始めた。言葉を発する人間は誰もいない、皆一様にうつむいている。その静けさを破ったものは、リエちゃんが深く煙草の煙を吐き出す音だった。ふうー、と長く息を吐き終わると彼女は言った。
「やっぱここは落ち着くな」
そのセリフを合図に皆が次々に喋りだす。
「リエちゃん、おかえりー」
「リエちゃんが居なくてみんなさびしかったよう」
「やっぱりリエちゃんが居なくっちゃ始まらないね」
追っかけの女の子が堪らなくなって叫んだ。
「居なくなってわたし毎日泣いてたんだよ、リエちゃんは泣いてなかった⁉」
またしても沈黙が女たちを包んだ。
リエちゃんは、ゆっくりとした動作で煙草を灰皿に置き、肺の中に残った煙をすべて吐き出すとこう言った。
「平気さ、あたしはトップダンサーになる女だからね」
俄かにその場の全員が口の端から広がる満面の笑みをたたえた。わたしだけがただ一人、明日のことをおもおうとして、とまどうのだった。
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