行くあてがなかった。名古屋駅の太閤通口を出てすぐの噴水の前にわたしは腰をかけて、ぼんやりと噴水を眺めた。なぜだかほとんど水は出ていなくて、水を模したようなモニュメントくらいしか目のやり場がなかった。
携帯電話が震えた。カワサキさんからの電話だった。わたしは一呼吸置いてから電話に出た。
「はい」
「もしもし。今いいかな?」とても遠くからカワサキさんの声が聴こえたような気がした。
「はい」
「あの後、大丈夫だった?」
「大丈夫でした。門限には間に合いませんでしたが」
実際には施設に帰っていないのだけれども、そんなことまでカワサキさんに話す気にはならなかった。
「無事でよかった」とカワサキさんは言って息を吐き出した。「今日の仕事もいける?」
「ごめんなさい、生理がきました」
「そうか。じゃあ、ヨシイさんで予定してた仕事は別の子で対応するね」
「申し訳ないですが、よろしくお願いします」わたしはアスファルトを見た。「カワサキさんは大丈夫でしたか?」
少し間があった。車のクラクションが響いてから、歩行者用の信号が青になったことを知らせる音が鳴った。
「あまり大丈夫ではないな」カワサキさんの声はかたかった。「今後のことを考える必要が出てきた。ヨシイさんと話がしたいんだけど、今日来れる?」
「わかりました。カワサキさんの仕事がおわるころ部屋に行きますね」わたしはそう言って電話を切った。
身体がとてもだるかった。鈍い腹痛が続いていて、ときどき腰も痛んだ。朝からなにも食べていないことを思い出した。わたしはカフェ・ド・クリエに入った。しらすを使った和風パスタとホットコーヒーを頼んだ。パスタの味はよくわからず、コーヒーも温かいことしかわからなかった。
パスタを食べおわり、コーヒーも飲みほして時計を見た。十二時半だった。カワサキさんの部屋に行くまでにずいぶん時間があるけれど、行くべきところはなかった。店内の客を一人一人眺めて、それからあくせく働く店員のことをくまなく眺めた。眺めるものがなくなったので、十三時すぎに店を出た。
わたしはビックカメラに入った。冷蔵庫や、洗濯機や、電子レンジなどの家電を眺めた。家電を見ながら、わたしは一人暮らしをする自分を想像してみた。なんとか想像できたけれど、生活のためにほかのことをしている自分が想像できなかった。
わたしの未来はどこまでいっても今やっていることの延長線上にしかなくて、どこか別の場所にはたどりつけそうもない。そんな実感があった。
ビックカメラでも眺めるものがなくなると、わたしは熟女キャバクラと無料案内所の間にある漫画喫茶に行くことにした。個室のフラットシートに入った。
返却コーナーに置いてあった漫画が目について、なんとなく手に取った。死人が夜な夜な集められて、異星人と戦うSFアクション漫画だった。パラパラとページをめくったけれど内容がまったく頭に入ってこなくて、漫画を閉じて寝転がった。天井が見えた。漫画喫茶の天井も施設の天井も、大差ないように思えた。
気がついたら眠っていた。目覚めて時間を確認すると十六時半だった。二時間くらい眠っていたことに驚いたけれど、眠たくてしかたがなかった。頭の動きが鈍い。重い腰を引きずるようにしてトイレに行った。
時間をかけて手を洗ってから、ドリンクサーバーでマグカップにホットコーヒーをそそいだ。ブースにもどってゆっくりとコーヒーを飲んだ。それからまた眠った。わたしは漫画喫茶でほとんど寝て過ごした。二十一時四十五分頃に漫画喫茶を出た。
待機部屋のソファでカワサキさんとむき合った。カワサキさんの部屋には、わたしたちのほかにはだれもいなかった。
「まずは昨夜起こったことから確認したい」とカワサキさんは言った。「ヨシイさんがここに連れてこられた経緯から教えてくれるかな?」
わたしは頷いた。
「二十時ごろにマクドナルドのバイトをあがり、それから電車に乗りました」わたしは膝の上で手のひらを握り合わせた。「施設の最寄り駅で降りて、歩いて施設にむかいました。施設のまわりは人通りが少ない住宅街なのですが、そこで彼らの車が突然あらわれました」
「その車はノーズ……車の先端部分が長くて、大きな黒い車だった?」
「そんな感じの車だったと思います。黒くて大きくて、スポーツカーっていうんでしょうか? あまり見ない車だったと思います」
カワサキさんは腕を組んだ。「その車が突然あらわれて、それから?」
「わたしの行く先をふさぐように車が突っこんできて、あの二人の男が出てきました。彼らはわたしを後部座席に押しこみました。客だった男がわたしの隣に座り、スキンヘッドの男が運転をしました」
だんだん気持ちが悪くなってきた。下腹部が鈍く、強く痛んだ。
「わたしのあとをつけていたと彼らは言いました。その日のわたしの行動をぴたりと言い当てました。嘘やごまかしは通じないと悟りました」
ゆっくりと瞬きをして、気が遠くなる痛みをじっとやり過ごした。
「わたしは包み隠さずに話しました。モグリ系の業者であることを。それからマンションの場所を喋らされ、一緒に連れてかれました。わたしがドアチャイムを鳴らし、彼らは死角に潜んでいました」
「乱暴なことはされなかった?」
「されませんでした」
カワサキさんは息を深くはいてから、横をむいて黙った。
「これからのことについてなんだけど」とカワサキさんは言った。「みかじめ料を納めるように彼らから要求されている。金額は僕から提示することになっている」
カワサキさんはそこまで言うと、膝の上に置かれた両手を握り合わせた。
「売上の二割までならば、みかじめ料をわたすことができると思う。ぎりぎりのラインであれば、二割五分までいけるかもしれない。今の売上であれば、月に百万円前後だ」カワサキさんは目を伏せた。「ただ、彼らにみかじめ料を納めるべきではないと考えている」
少し意外な結論だった。わたしは話の続きを待った。
「一度みかじめ料を納めれば、際限なく搾り取られることになるだろう。そんなのはごめんだ。だから、彼らに手切れ金をわたして、廃業することができないかと考えている。残念だけれども」とカワサキさんは諦めをこめるように言った。「みかじめ料を納めずに仕事を続けることはできないし、勝手に廃業することもできない。彼らはきっと追ってくる」
「手切れ金はいくら用意できそうなのですか?」とわたしは訊いた。
「おおよそ三百万円」
わたしは下をむいて考えた。ローテーブルの木目が前衛的な模様に見えた。それから喋った。
「可能性はなくはないと思います。ただ、三百万円は少ないですね」とわたしは言った。「彼らとは関わるべきではないと、わたしも思いますけど」
カワサキさんは頷いて沈黙した。顎に手をあてて考えこんでいるようだった。
「可能な限り、交渉の引き延ばしを狙ってみようと思う。みかじめ料の調整に時間がかかっているという理由で」とカワサキさんは言った。「その間に、できるだけ多く手切れ金を蓄えようと思う。できれば一千万円以上を」
カワサキさんは考えを整理するように、人差し指でローテーブルを何度か小突きながら話した。
「三か月くらい時間を稼げれば、一千万円近くのキャッシュを用意できるはずだ。けれど、彼らはそんなに待たないと思う」
わたしは頷いた。
「手切れ金のほかにもわたすものを用意したいと思う。気は進まないけど」カワサキさんは左目を細めた。「彼らのもとで仕事をすることに同意したメンバーをわたそうと思う。かつて一緒に働いたことがある子、一緒に働くことを見送った子も含めて」
わたしはカワサキさんの目を見据えた。カワサキさんは思った以上にしたたかな人なのかもしれない。
「無理強いはしない」とカワサキさんは弁明するように言った。「ただ、彼女たちのなかにはできればこの仕事を続けたいと願う子もいるはずだ」
わたしは頷いた。
「たしかな後ろ盾がある環境で働いたほうが、かえって安全だという考え方もある」
わたしは押し黙った。少し混乱していた。心を落ち着けてから口を開いた。
「わかりました」わたしは髪をかきあげた。「ベストではないでしょうが、ベターかもしれません」
「けっしてベストな選択ではないことはわかっているが、これ以上のプランは思いつきそうもない」カワサキさんは肩の力を抜いた。
「まとめますと、まずは彼らとの交渉の長期化を狙う。どれくらい引き延ばせるかは疑問ですが、その間に可能な限り手切れ金を増やす。そして、彼らに手切れ金をわたして廃業する許可を得ることを狙う。とはいえ、手切れ金の額に懸念があるので、交渉が難航する場合は、合意を得たうえでメンバーを彼らに差し出す。こういうことですね?」
カワサキさんは深く頷いた。それから再び、少しだけ沈黙した。
「うまくいかないときのことも考えて、身柄をかわす準備はしておくよ」カワサキさんは力なく笑った。「ハワイにでも逃げられるように」
わたしは無言で頷いた。
「そういえば」とカワサキさんは言った。「彼らの身元につながるヒントはなかった? お互いの呼び名とか、あるいは身体的な特徴とか」
「個人情報的なものはわかりません。お互いを名前で呼び合うこともありませんでした」わたしは宙を見た。「身体的な特徴も、ぱっと見てわかること以外にはとくに浮かびません」
「客だった男の身体にも特徴はなかったかな? そうだな……例えば、刺青が入っていたとか」
わたしは少し考えこんだ。「身長が高いということ以外に、これといった特徴はなかったと思います」
気がついたら二十二時半を過ぎていた。わたしは足早にカワサキさんのマンションをあとにした。
無断外泊をして、さらに門限が過ぎてから施設に帰ると、武田先輩をはじめ何人かに色々と言われた。談話室を通りかかったときに真奈美と会った。
「もう帰ってこないかと思った」と真奈美は言って苦笑した。
「心配かけてごめん」わたしは頭をさげた。
真奈美は左腕で髪をかきあげた。そのとき、先っぽがない真奈美の左手の人差し指が目についた。
「なにかあったの?」と真奈美は心配そうに言った。
「ちょっとね」わたしは目を伏せた。「近々、カワサキさんから真奈美にも話があると思う」
真奈美は不安そうな顔をした。「なにがあったの?」
わたしは口をつぐんで真奈美の目を見た。真奈美の目が、ほんの少しだけ揺れたように見えた。
「半グレに目をつけられたの」
真奈美はいっそう不安げな顔をした。「どうなるの?」
「わからない」わたしは言葉を選びながら喋った。「でも、きっと大丈夫。話が通じない相手ではないと思う」
きっと大丈夫。わたしはそう思った。
それから真奈美と少しだけ仕事の話をした。
「あたしはこの仕事をしてみてよかったと思ってるよ」と真奈美は言って微笑んだ。
わたしはそっと真奈美を抱きしめた。真奈美は少し驚いたように身体をかたくしたけれど、静かにわたしの背中に手をあててくれた。
「どうしたの?」と真奈美が耳元で言った。声が笑っていた。
「幸せになろうね、わたしたち」
結婚するタイミングを逃したOLのようなことを言い、わたしは真奈美を強く抱きしめた。うっすらとメロンの香水のような香りがした。真奈美の身体はあたたかくて、柔らかかった。
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