しるし

合評会2023年01月応募作品

黍ノ由

小説

3,928文字

アボカドの語源は、アステカ人の言葉であるナワトル語のahuacatlと言われているそうです。

出しゃばらないこと、第一声では共感を示すこと、愚痴は長めに聞くこと、でも陰口になったらその場を立ち去ることのできる口実をいくつか用意しておくこと。公園や保育園の前は通らないこと、それと、圧倒的に蔑める存在を確保することも。日々を平穏に過ごすために、心得ておいた方がよいことはいくつかある。
そんなふうに決めていても毎瞬間を心おだやかに保つことなんて難しい。だから私は時々商店街に寄って帰る。
「おお、マコちゃん、今日も来てくれたの。また俺に会いたくなっちゃった? うれしいねえ」
八百屋に入るなり、店主が話しかけてくる。二日連続だった。昨日は職場の畑中さんが産休前最後の出社日ということで、課の女子社員で彼女を囲ってランチをとったのだ。
「俺にばっかり会いに来てちゃ彼氏がやきもち焼いちゃうんじゃない? マコちゃんいつも早く帰ってくるけど、若いんだから、たまにはマコちゃんのマコちゃんに夜のお仕事もさせないとだめだよ」
はいもう十分。来て早々だがさすがは安定の仕事ぶり。昨日買った野菜で作ったカレーがあと二日は持つはずだし、一刻も早く帰ろうと、サラダ用にトマトときゅうりを手早くとって会計を頼む。
「はい、三百八十円ね」返事はせずに百円玉を四枚ぴったり重ねてぎりぎりの端を指でつまんで店主の掌にのせる。店主は私に目線を据えたまま、右腕だけを後ろの棚に伸ばして、小銭の入ったカゴをかき混ぜる。ジャリジャリいう音が消えると、握った拳をそのまま胸の前に水平移動させて、手品師のように一拍間をおいてから私に向かって開いて見せた。
「ああ、一枚多かったか、じゃあこれはおまけ。いや、これで今夜のお仕事を発注しちゃおうかな、なんてね」歯と歯の隙間から漏れ出す息で笑いながら、店主は両手で私の掌を挟み、そのまま軽く上下させた。
目だけで、笑っているようにも見える顔を一瞬作ってから、お釣りを落とさないように手の平を擦り抜いて、店を出る。後ろから店主がまだ何か話かけている声が聞こえたが、商店街の雑音に意識を向けて、歩く速度を上げる。最後の一軒の前を過ぎたところで一度止まる。まだ掌に握られた硬貨を力一杯アスファルトに叩き付けるところを想像する。けどそんなこと実際にはしない。目を閉じて小さく深呼吸して財布をとり出し、三十円を丁寧にしまう。さあ帰ろう。
鍵を開けてドアを開くと、靴を脱いで一歩で届く小さなキッチンに野菜の入ったビニール袋を置く。そのまま足を止めることなくワンルームに進んで、本棚からA5サイズのノートを取り出す。雑誌の付録についていた、アパレルブランドのものだ。直径一メートルもない丸テーブルの前に座って、ノートを後ろの真っ白いページからめくる。ペンを探しながら八百屋でのやりとりを頭の中で再生する。店主の周囲を窺う目つき、ことばと一緒に出てくる湿った息の生暖かさを思い出すと、内臓が蠢くのがわかった。集中しないように、時々顔を上げて意識を分散させながら、文字だけを淡々と紙に置いていく。あの所々皮が小さく捲れた唇から出た音が完全に大気に混じって集められなくなる前に形にして残す。言われた言葉は噛みしめない。書いたページも二度と見ない。それでも今はこの文字たちをしるしにしておく。頼っているつもりはない。わざわざ主婦層が引いた後の、客足が少ない時間を選んで卑猥な言葉をもらいに行く自分が気持ち悪いとも思う。それでもまた確かめるようにあそこに行ってしまうだろうと私は知っている。あの店主は「女」以外には言わないから。たとえ十円分でも気持ち悪くてもしるしにしておく。
一通り書き終えてようやく上着を脱いで、キッチンに戻る。冷蔵庫からカレーの入った鍋を取り出し、そのままコンロの火にかける。ビニール袋からトマトときゅうりを取り出し、さっと洗ってまな板にのせる。きゅうりに包丁を入れた瞬間思わぬ手応えを感じて手を止める。ばかに固いなと力を入れ直して包丁を下ろすと、その切れ目はきゅうり然とはしていなかった。ズッキーニと間違えたのだろうか、いや、それにしても水分が少なすぎる。まあ大したことない。トマトだけ添えて食べよう。明日から一週間は研修で駅直結のオフィスビルに通うから今夜はいつもよりゆっくり眠れそうだ。

 

足元にはさっきまで身を包んでいた全ての服が、外側から順番に脱ぎ落とされたその形のまま重なって小さな山を作っていた。初冬の冷気は十時間ぶりに入った部屋の中にも満ちていて全身が小刻みに震えると同時に姿見に映る裸体は上から下まで鳥肌を立てていた。
その夕方までは順調な週だった。同じ研修を受ける同僚と毎日違う店でランチをしたり、普段使わない乗り換え駅にあるカフェで一時間ほど過ごして帰るのも新鮮でよかった。
「明日が面接なのに、二日目に当たるなんてついてないよ。気分落ちる」
研修後に目薬を買うために入った薬局でその声は聞こえてきた。受験生らしき制服姿の若い女の子が二人、鎮痛剤が並ぶ棚の前で選ぶでもなく話している。
「月に一回が三十年って考えると、三六0回。今平均で一・五人いかないでしょ、出生率。いとこの家とか見てても多くて三人くらいだよ。五回妊娠するとしたって残りの三五五回は無駄になるわけじゃん。高確率で無駄じゃん。その無駄のために毎月痛い思いして、生理用品にお金かけてって考えると効率が悪いとしか思えない。で、欲しいと思った時には不妊治療でしょ。こんだけ医療が進んでたら、初潮から十年くらいの間、良質な卵子をためておいて、欲しいと思った時にいっぱい放出できるみたいな薬ができてもいい気がするのにないのかな?体の仕組みとライフスタイルがずれすぎだよ」
「わかる。今は必要じゃないっていう時の生理は無駄にしか感じないよ。ナプキン気にしながらの試験とかほんと煩わしいし」
「あ、ねえ、吸水ショーツ知ってる? 私使ってないけど、ナプキンよりいいらしいって聞くよ」
「最近聞くね。サステナブル? 気になるけど試してないな」
吸水ショーツ?ふーん、そんなものが今はあるんだ。生理用品はもう何年も使っていなかった。
やめた方がいい。そう思いながらも足は店に向かってしまった。
「マコちゃん、何日か見なかったじゃない。デートで忙しかったの?」
「研修があったので」低い声で答えながら目線を商品に這わせる。だいぶ寒さも増してきたからポトフでも作ろうかと考えて見繕ううちに、先日きゅうりと間違えて買ったものを見つけた。
「あの、これって……」
「ああ、それ、珍しいよ。種無しアボカド」その声色で店主の顔が弛んでいるのがわかった。
「マコちゃん、アボカドって名前の由来知ってる?」黙っていると、店主は左右それぞれの人差し指と親指をつけて輪を作り、それを両足の付け根に当てた。
「これよこれ、タマのことなんだってよ。でもこれ見て、種が無いもんだからもう玉じゃなくなっちゃったの。これじゃタマってよりも……」と言いながら小さめのきゅうりみたいなアボカドを股間に持っていく。
「いや、これじゃ小さいな。俺のはもっともっとよ。もしマコちゃんが触ってくれたらさらにもっとよ」

 

種がないから玉でもなくなったアボカド。
姿見に映るたまごのない私の体は女の形にふくらんで今もそれを保っている。薬局にいた女子高生たちの声が聞こえてくる。無駄、無駄、無駄。

洗濯機の上の花瓶を掴んで、姿見に投げつける様子を想像する。できない。そんな激しさが自分にあれば、せこせこと八百屋に通うことなんてなかったはずだ。

 

穏やかでもなかったけれど極度の緊張もなく、数日間を静かに過ごした。考えようとすることをやめるのが一番健康的と本能的にわかっていたのかもしれない。姿見は布をかけてクローゼットにしまった。平穏に過ごすためのルールに鏡や大きな窓ガラスを避けることを加えた。高校生の頃は卒業すれば、世界は無限に広がっていくものだと思っていたけど、二七歳の今、私は世界を狭め続けることで平穏を維持しようとしていた。
その日八百屋に入ろうと思えたのは、いつもの店主の代わりに奥さんらしき人が店に出ていたからだった。あのアボカドの隣には柿が並び、そこに「種無し」と手書きの札が置かれていた。
「いらっしゃい、寒いわねえ。ストーブあるからちょっと温まってから見てったら?」
奥さんの言葉が優しかったから何か少し抵抗したくなった。ストーブには目もくれずアボカドと柿の横まで進み言った。
「品種改良で種がなくなったら人は喜ぶけど、選ばれた木はかわいそうですね」気弱な私には精一杯の皮肉のつもりだったけど、奥さんには通じなかったのか、さっきと同じトーンで話し出した。
「ああ、それね。ぶどうなんかは人工的にジベレリンっていう液につけて種が育たないようにするんだけど、柿とかアボカドは割と自然に種ができないことがあるみたいよ。種ができないと当然次の世代は残せないんだけど、それでも昔から種のない実が一定数できるってことはそれなりになにかの理由があるんだろうね」
小さなきゅうりみたいな、まだ固いアボカドを袋に下げて、ゆっくりゆっくり歩く。「なにかの理由」などあるのだろうか。
頭の中で公園前に立ってみる。母子手帳が重ねて置かれた婦人科の受付に健康保険証だけ出す時の気持ちとか、待合室で、赤ちゃんどころか卵子も入っていない腹をさすって、周囲との違和感を消そうとする惨めさなんて知らないだろう幸せそうなママ達の間を通り抜ける自分を想像する。いや、できないな。それでもこのアボカドが熟す頃に、公園のフェンス越しに、こっそりあのノートをゴミ箱に投げ入れるくらいならできるかもしれない。

2022年12月16日公開

© 2022 黍ノ由

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"しるし"へのコメント 12

  • 投稿者 | 2023-01-24 20:03

    きゅうりとアボカドなんて間違えるかなと当初は思ったけれど、たしかに熟していなければ似ているかもしれない。ゴツゴツした表面もきゅうりのイボイボに通じる部分があるし、細長い品種もあるのだろう。二十七歳で何年も生理がない体になってしまった原因がもっとわかりやすく書いてあるとよかった。

  • 投稿者 | 2023-01-26 14:59

    なるほど興味深い。

    ①こどもができないことが自分の欠点だと思い込み、それによってとても傷ついているという人がいる。
    ②その人物が「八百屋でわざとセクハラを受けてその様子をノートに書き留める」なんてことで精神の安定を保っている。

    この①はわかる。
    ②は繋がってるようで繋がってない気がする。

    「うわぁ病んでる」みたいなジャンプをする事で、繋げて読む読者もいるとは思うのですが、なんかもっと「こどもがいる事で一人前という顔をした社会」に対して、バレないように石を投げてるような行動になるんじゃないかなと。

    そこのロジックが見事だと、もっと際立つ気がしました。

  • 投稿者 | 2023-01-27 00:02

    アボカドってやはりあの大きな種の印象が強烈ですよね。自分もそれを起点に書いたのですが、同じところからこういうテーマに持っていったかと敬服しました。強いて言うと八百屋の露悪的な店主がやや類型じみている気もちょっとしましたが、世間の「全く悪意の無い言動」に削られる主人公が書かれたとても良い作品だと思いました。

  • 投稿者 | 2023-01-27 08:33

    私の印象が合ってるかわかりませんが、全体的に非情に硬質な感じでした。習字、毛筆じゃなくて、硬筆。話自体が、書き方?いや、どうなんだろう。印象です。印象ですけども。とにかく私なんかとは出来が違う。

  • 投稿者 | 2023-01-27 13:21

    種なしアボカドは見た目もアボカドらしからぬ細長い形なんですね。
    種なしアボカドはアボカドなのか? 生殖機能のない人間(自分)は人間で良いのか?
    と、悩む主人公が上手く描かれてます。そこに悩むからこそセクハラに不快感と喜びを感じている、みたいな。
    種なしアボカドの形はググッてははぁなるほどとなったので、種なしアボカドが種ありのアボカドと異なる形をしているという描写があった方がしっくりくるかなと思いました。

  • 編集者 | 2023-01-27 13:26

    店主がセクハラオンパレードで接客業やれているというところに驚きを覚え、また語り手のそれを自覚しつつそこへ赴くという前半の不可解さ、最後で回収するというところにチャレンジングな精神を感じました。Fujikiさんも指摘されていますが、自身が種なしとなった核の部分、それも種なしとするダブルミーニング構成であったら申し訳ありませんが、読者としてはそこが一番読みたい部分なのかなと思います。

  • 投稿者 | 2023-01-27 19:36

    読後の満足度が高い作品でした。
    主人公の奇妙な行動が、思慮深そうで魅力的な文体で淡々と描かれて、徐々に謎が解けて行くという展開。分かりやすく、かといって説明的にもならずうまくまとめられていると感じました。
    世界中が生殖であふれかえっていて、いちいちグサグサと刺さってくる感じが良く出ています。個人的には「種なし」が女性に刺さるかなと思ったりしました。「花が咲かない」とか「実がならない」の方が強烈かと思いますが、そこは今回のお題アボカドを活かしているからそれもいいかな。

  • ゲスト | 2023-01-28 19:13

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  • 投稿者 | 2023-01-29 05:14

    最初の一節で引き込まれました。終始自省的なトーンで貫かれていて感情移入もしやすい。主人公は子宮全摘したのかな? 八百屋のおやじのキャラが立っていて良かったと思います。

  • 投稿者 | 2023-01-29 15:34

    確かに種なしアボカド…知らなかった、そうかあ。かっちりした文体が心地よかったです。

  • 投稿者 | 2023-01-29 20:03

    何かしらの要因によって早発閉経した女性が「女」であることを確かめるために自ら進んでセクハラを受けるやるせなさが、グロテスクで後味が悪い。好みの作品です。

  • 投稿者 | 2023-01-30 09:53

    完璧なおじさん構文に感服しました。種無しのアボカドを調べてみたらたしかにキュウリによく似ていました。調査力も素晴らしいと思います。冒頭にその画像を添えたらもっとリーダビリティが高まったかもしれないと思いましたが、余計なお世話だったカナ?

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