貪る(一)

芦野 和亮

小説

5,419文字

飽食とは――腹いっぱい食べて満ち足りること

 

 

「いらっしゃいませー」

コンビニに入ると同時に聞こえた店員の声を背に受け、広川は店内をズシリズシリと歩き回り、500mlペットボトルのお茶を片手にレジへ向かった。太い腕よろしく太い指で尻ポケットに納めてある財布を取り出しながら、広川はレジ店員にこう言った。

「唐チキください。5つ入りのやつを3個ください」

唐チキとは、唐揚げチキンを略した商品名である。どんな商品かと言えば、鶏のから揚げ、なのだが、それが1袋あたり二口くらいのものが5個入っている。ほとんどの客は1袋だけ買うのだが、広川は毎日3袋15個をいっぺんに食べる。広川はそれが大好物だった。

レジで代金を払い、唐チキ3袋とペットボトルの入ったビニール袋を片手に店内に設置されてある椅子に座る。体重100キロを超える広川が椅子に座った途端、細いパイプの椅子が上下にゆがみ、悲鳴のような軋む音を立てた。

広川はビニール袋から唐チキが入った紙袋を取り出す。その袋に太い指を突っ込み、唐チキ2つをつまんで出すと、そのまま口に放り込んだ。カラッとした衣と弾力性のある鶏肉を堪能するように奥歯で砕き、口いっぱい広がった油と共に胃袋へと飲み込む。そしてまた紙袋に指を突っ込み、取り出した唐チキを口に放り込む。胃袋が満たされていく至福感に、広川は油でてかてかとなった唇を弓なりにさせる。自然と頬が緩んでくる。しかし、しっかりと奥歯は鶏肉を砕き続けている。

「広川」

唐チキ2袋目を食べ終わったとき、背後から自分を呼ぶ声に広川は気が付いた。声をかけてきたのは、同じ職場の同僚だった。同僚は目を丸くして吉川にこう続けた。

「おまえ、また食ってんの? さっき昼飯で、家から持ってきたお弁当とコンビニで買った弁当食ってたばかりじゃんか。何人分食うつもりなんだよ、おまえ?」

同僚の呆れ顔に、広川はてかてかした唇を尖らせてこう反論した。

「そんなに食べてないですよ。そんなこと言わないで下さいよ」

そう反論する広川の太い指は、ビニール袋の中にある紙袋を探っていた。

 

誰の部屋なのかはわからないが、ぽつんとテレビがついている。誰もいない部屋はカーテンが閉められて薄暗く、ランダムに色を放つテレビ画面からの光だけが壁に影を作らせている。ぽつんとついているテレビはニュース番組を映し出していた。テレビ画面の向こう側でニュースキャスターは原稿を読んでいる。

「連日お伝えしています異常気象の猛威は衰えを見せません。世界各国の農作物や家畜への被害は甚大です。世界各国の政府は食糧不足を避ける緊急措置として、自国の農作物や牛肉や鶏肉といった生鮮食品や加工食品の輸出に制限を始めています。その影響で食糧不足に陥る国が出てきている状態で、それらの国々からは非難の声が強まっています。食料の自給自足率の低い日本もその影響を避けられそうにありません」

 

広は3年付き合っている円佳を連れて、夜のファミレスに入った。ファミレスの店内はカップルや学生、家族連れで席が埋まっていた。どの席からも楽しそうな笑い声や話し声が聞こえてくる。店員が運んできたステーキやらサラダを頬張るほかの客の姿を見ながら、広は溜め息を吐く。

「この時間帯はいっぱいだな。どうする?」

「どうするって、ほかの店に行っても待つことになるよ、きっと」

円佳もあきらめたといった風に店内を見渡す。そこに店員が駆け寄ってくる。

「いらっしゃいませ。お二人様ですか? ……喫煙席と禁煙席がございますが? ……申し訳ありませんが、お席が空くまでお待ちいただくことになりますが、よろしいでしょうか? ……お席が空き次第、お呼びいたしますので、あちらの席に座ってお待ちください」

店員とのやり取りを終え、広と円佳は案内された椅子に座る。座った途端、広が周囲に聞こえるように舌打ちをする。

「どのくらい待つことになるんだろうな。それよりも腹減った」

「けっこう待つことになるんじゃない? それよりさ、期間限定のスペシャルイチゴケーキが食べられるんだって。デザートはこれに決めた」

円佳はファミレスのメニュー表を広げて騒いでいる。広はメニュー表をちらっと覗いてスペシャルイチゴケーキの写真を見てみた。反切りされたイチゴがハート型のようにイチゴケーキを囲んでいる。イチゴケーキを囲んでいるイチゴは何個くらい使っているのかを考えるだけで、広は胸やけがしてきた。

しばらくして店員が2人のもとへと駆け寄ってくる。

「禁煙席でお待ちの……大変お待たせしました。こちらの席へどうぞ」

店員の呼び掛ける声を途中で遮るように広と円佳は立ち上がり、案内された席に向かう。

「おまえ、サラダとスペシャルイチゴケーキしか食べないのかよ?」

注文を聞き終えて小走りに走っていく店員の背中を見ながら広は言った。円佳はメニュー表で顔下半分を隠しながら、

「体重増えちゃってさ、ちょっと食べる量をキープしようと思って。広も食べすぎないようにすれば? 最近、食べすぎじゃない?」

「んなことないよ。腹がいっぱいになったら残してるし、嫌いなものは食べてねぇし」

「嫌いなものはとことん口にしないよね、広って」

円佳はおかしそうに笑う。広は好物なものはおかわりしてまで食べようとするが、食べたくないものに関しては口にしないところか目を向けようとしない。円佳は広が食べたくないものにこそ体にとって栄養があると頭の片隅でわかってはいるが、今のところ、広がむしゃらに働けているので別に強要しなくても大丈夫、とも思っていた。

「お待たせしました」

店員が注文した品をテーブルの上に置いていく。円佳はサラダに目をくれず、まっさきにスペシャルイチゴケーキにフォークの行き先を定めた。

「いきなりデザートからかよ」

そう言いながら広は口にしたくないニンジンやブロッコリーを鉄板の縁に追いやり、油の染み出ている牛肉に食らいつく。

それからすぐのこと、円佳はスペシャルイチゴケーキを食べるのを急にやめ、フォークを乱暴に皿の上に置いた。金属と陶器がぶつかり合う刹那的な音が周りの談笑を裂くように響き、再び談笑の中に消えてった。

「どうした?」

ガールフレンドの不貞腐れた表情を伺いながら広は牛肉に食らい続けている。円佳はイチゴケーキをハート型に囲んでいる半切りのイチゴをフォークで突きながら溜め息を吐く。

「このイチゴ、美味しくない」

「ふーん」

「固いし、なんか生臭い味がするし、なにより甘くないもん。あたし、もういらない」

広は円佳が気に入らないことがあると行動そのものを止めてしまう癖があるのを知っている。それは食べ物に関しても同じことで、円佳自身が思ったような味でないと食べようしない。

不貞腐れた表情を崩さずに円佳は続ける。

「あたし、グルメな人だからね。おいしいものしか食べない主義だから」

「ファミレスのくせしてうまいもんも出せねえんなら、この店も終わりだな」

広がわざと店員に聞こえるくらいの大きな声で笑う。それを聞いた店員は表情を強張らせ、ぎこちなく顔を俯かせた。

最後の晩さんを終え、広と円佳が席を立つ。

テーブルの上に残されていたのは、焼けて縮こまっている野菜が見捨てられるように残されている鉄板と、ハート型を模っていた半切りのイチゴが空爆を受けて横たわる幾人の遺体のように転がっている1枚の皿だった。

 

誰もいない部屋の片隅にあるテレビは飽きることなく同じニュースを繰り返している。

「連日お伝えしております異常気象の猛威の被害が拡大する中で、もう一つの大きな問題が深刻化してきました。世界各国が農作物などの食品の輸出入規制を強める中、自給自足率の低い○○共和国では食糧不足が深刻化、現在では政府による食料支給が完全に止まっている状態です。国民は政府に対して速やかな食糧不足の解消を求めてデモを行っていますが、一部のデモ隊が暴徒化し、治安部隊との衝突が起こっています。一方、我が国では食品の値上げが相次ぎ、一部のスーパーやコンビニエンスストアでは買占めが起きている模様です。政府はそれらの問題への対応策を早急にまとめる方針です」

 

 

「食べずにあんなにも残ってる」

強張った表情の店員が片づけて鉄板と1枚の皿を交互に目をやりながら、美代子は黙々とサンドウィッチを口にしている康夫に囁いた。康夫はサンドウィッチを千切る仕草をやめて、そちらに目をやる。しかし、何も言わずにうなずき、千切ったサンドウィッチを口に運んだ。

「あんなにも食べ残してる。もったいない」

震えているように見えた店員の背中をじっと見つめながら、美代子はもう一度呟く。美代子の声も震えているように康夫は聞こえた。

「あんまり見ていると相手に失礼になる。冷めないうちに食べなさい」

康夫にそう促されて、美代子は止まっていた箸を進め始めた。綺麗に魚の肉と骨を分け、型崩れしないように箸の先で魚の肉を優しく挟み、静かに口に運ぶ美代子を見て、康夫はサンドウィッチをコーンポタージュで喉の奥に流し込んだ。

康夫と美代子は二人とも戦前生まれの夫婦だ。康夫が七歳、美代子が五歳の時に終戦を迎えた。二人とも疎開先で玉音放送を聞いた。美代子は玉音放送を聞きながら崩れ落ちる大人たちの姿をぼんやりと覚えているが、康夫は、この国は戦争に負けたんだ、とはっきり理解できた。

戦争が終わって康夫が疎開先から戻ると、辺り一面が焼け野原だった。一緒に疎開していた級友たちは親に迎えられて帰っていったが、康夫の両親はこなかった。終戦の三か月前の大空襲で逃げ遅れた、と近所の人から聞かされた。ほかに身寄りのない康夫は戦争孤児となり、孤児施設に入れられては何度も脱走し、夜中に畑に入っては盗み食いを繰り返した。それがいつもうまくいくことはなく、空腹感を耐えなければならない日が続くこともあった。世間から見放された孤立感を小さな胸に抱き締めていた康夫にとって、空腹感は制圧しなければならない敵であり、だからこそ、土っぽい味がする生の野菜を闇夜の中で我武者羅にかじり続けられた。美代子は戦後の話をあまりしたがらないが、食べきれないほどのごちそうが出てきて、食べても食べても量は減らず、あれほど食べているのに満腹にならなかったという夢を何度か見た、と康夫に話したことがある。美代子もまた空腹感という満たされぬ肉体的な不満を強いられながら幼少期を過ごしたのだろう。

それが今はどうだろう。いつでもどこでも食べ物にありつけることができる。人の目を盗んで畑に盗み食いに入る必要はもうない。闇夜の中で物音一つに警戒しながら食べていた思い出は遠い昔のおとぎ話のようだ。土っぽい味がする生の野菜は出される前に調理され、弱くなった歯で噛めば染み込んでいた甘いスープが口いっぱいに広がる。野菜は柔らかくて甘い味がする、というのが康夫の中では当たり前になっていた。

空腹感はすでに康夫の敵ではなくなっていた。朝を知らせる目覚まし時計のように、食欲を満たすようにと適度に知らせてくれるシグナルに成り下がった。戦後が戻ってこない限り、康夫と空腹感とのその関係は変わりようがないだろう。それ自体が空腹感という敵を打ち負かした結果であるのかどうか、康夫は答えを出せずにいる。

「……あなた、どうしました?」

美代子の囁く声が聞こえてきた。康夫は半分かじりついたサンドウィッチを手に持ったまま、窓の外に見える夜空を眺めている自分に気が付いた。美代子が食べていた魚は骨だけがきれいに残されていた。

「どうしました、あなた?」

再び美代子の声が聞こえてきた。さきほどの声よりも口調が強めだった。康夫はわざと咳き込んでから、

「何でもない、何でもない」

と、手に持ったままのサンドウィッチを食べ始めた。

 

誰もいない部屋の片隅にあるテレビは、今日はにぎやかにニュースを伝えている。

「連日お伝えしております食糧不足の問題について、我が国の政府は、世界各国に対して食品の輸出入規制を撤廃するように求めた国会議決を衆院一致で可決、話し合いによる外交手段によって問題の解決をしていく方針を固めました。一方、止まらない食品の値上げと増える買占めと言った国内問題について、過度な値上げや便乗値上げ、不必要な買占めを行わないように国民に求めました。街の人の声です。

『乳児用の粉ミルクがどこにも売ってなくて、今度いつ入るかわからないって店員さんに言われて、どうしようかなって。今はご近所さんに分けてもらいながら凌いでますが、このさきどうなることやら(32歳・主婦)』

『こういう時のために缶詰をいっぱい保管しておったんですよ。これなら何か月も持ちますよ(67歳・無職)』

『給食がパンと牛乳だけじゃ寂しい(8歳・小学生)』

『買占めが恥ずかしい? みんなやってるじゃないですか、仕方ないじゃないですか、食べなきゃ生きていけないし。あっ、カメラこっちに向けないで下さいよ。訴えますよ(51歳・会社員)』

『値上げがね、いちばん困りますよ。年金暮らしでしょ、電気代やアパート代なんか払っちゃうと、年金、少ししか残りませんもの。今まで食事代をやりくりしてやってたのに、これ以上値上げされたら、生きていけませんよ(86歳・無職)』」(つづく)

 

 

2014年5月5日公開

© 2014 芦野 和亮

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