猫であるが故に悲しい

秋山優一

小説

5,606文字

猫の視点で話がすすんでいきます。ミステリーじかけでなお純文学です

「猫であるが故に悲しい」

狭い箱に俺は押し込まれていた。辺りは猫や犬の声に、それと鳥や人間の声まで聞こえてくる。ここはいったいどこなのだろう。俺はただ壁を蹴ったりして叫ぶことしかできなかった。
だが、叫んだところで、ここから出れるはずはない。俺は無駄に体力を使うのをやめた。
時折人間が俺を箱の中から出してくれる。なぜ出してくれるかというと、俺のした糞の始末を片付けることだ。片付け終わると五十半ばの小母さんに「可愛い猫ちゃん」といつも頭を撫でられては、また俺は箱の中に入れられるのだ。どうやら俺は猫らしい。
毎日俺は箱の中で外の世界を見渡していると、様々な人の顔をみたりする。嬉しそうな顔、それに悲しそうな顔、変質者みたいな顔と、色んな人間達がいるが、きっと俺はここに来る人間達は、人間関係と社会に疲弊しきっているのだろうと、勝手におもいこんでいた。
ある日俺は何時も通り箱の中から外の世界を見ていたら、一人の男が俺のことをずっと見てきたので、気持ち悪かった。
男は短髪の背の小さい、愛想笑いがうまそうなやつで、俺のことをみる度に、「どうしようかな。買おうかな。買うのやめようかな」と、独り言をつぶやいていた。
暫くして男は俺の目の前から姿が消えた。当然箱の中の扉が開き、小母さんが俺を抱きかかえて今度はもっと小さい箱に俺を入れた。なにやら小母さんとさっき俺のことを見ていた男が話ている。小母さんが何度も軽く頭を下げると、男が俺の入っている箱を持ち上げた。
「買っちゃたよ。少し高かったけど。でもよかったな、もう少しで殺処分だったかもしれなかったぞ」
男は笑っていたが、俺は笑えなかった。
人間の世界では人権というものがあらしいが、猫にも人権と同じくらいに猫権というものがあってもいいのではないか。世の中というものは矛盾で満ちている。そうとしか思わない。

俺はあれから箱に入れられた生活から、男との同棲生活がはじまった。
男は俺に飯を食わせてくれたり、遊び道具を買い与えたりしてくれて、それなりに生活は満足していた。ただ一つ難儀なのが、糞尿をある一定の場所でやらないと、あの男に怒られてしまうとういうことであった。
最初の頃は難しかったが、次第に慣れていき、あの狭い箱の中での生活よりかは、遥かに自由であり、なによりいい飯と外にはいい雌猫にも会えて、俺は幸せだった。
男との同棲生活が半年過ぎた頃、男は仕事が忙しくなったのか、家に帰ってくる時間が遅くなった。その分俺は俺であの男から頭を撫でられたり、抱きつかれないので、かえってよかったのである。さらに自由な時間が俺には増えたので、いいことずくしだった。
ある日、男はなにやら板を指で滑らしたり、触ったりしていた。あれは猫の遊び道具と一緒で、人間にも遊び道具があるのかと思った。俺は暫く男を見ていた。
すると男はなにやら板に話しかけていた。その板から人間の声が返ってきた。それも人間の雌の声がするのだ。俺はなにが起きているのか、さっぱり分からなかった。
猫の世界でのコミニケーションなんかは、互いの尻の臭いを嗅いで、互いを知るのだが、それにくらべて人間はあの板でコミニケーションを取ると考えると、なにか非動物的なものを感じさせる。俺はつくづく人間とは不思議な生き物だと感じた。
男は板から聞こえてくる雌の人間と楽しそうに会話をしていて、会話が終わると、どことなく陽気で間抜けな顔になっていた。俺も雌猫にあった時に、こんなだらしない顔をしているのであろうか。
男はなにやら股間をもぞもぞしはじめたので、俺は外に出ることにした。

二ヶ月たったある日。そいつはやってきた。
夜男が家から帰ってくると、香水のきつい香りがして、鼻が麻痺しそうになり、俺は頭がくらくらしそうになった。
どんなやつを連れてきたのかと、興味がわいたので、玄関まで出向きに行くと、そこには雌の人間がいた。臭いの元はこの人間の雌から来るものであった。
「二ヤー」
俺は頭が痛いので弱く泣いた。
「どうした元気がないな。ちゃんと飯あげてるのに、いつもなら元気に鳴くだけどな」
「あんたがちゃんと世話をしてないからじゃないの」
女は俺を両手で持ち上げると、顔を近づけた。眼鏡をかけた、髪の色が茶髪の何処か闇を感じさせる女で、何回も俺の頭をなでた。
「ニャー」
俺は臭くてたまらず、女の体から離れると、女は寂しそうな表情をした。
「あ、どうして逃げるの。まだナデナデしていたいのに」
「お前が嫌なんだろ。まあ、しょうがないよ。俺にしか慣れていないから」
二人とも嫌いになりそうだった。猫として生まれた俺はなんでこんな目にあわなくてはいけないのか、つくづく人生とは理不尽なものだと、この時俺は悟った。それは別に猫である俺だけだからじゃない。なぜなら人間の世界では無知と放漫が人や動物を自然な形で理不尽えと追いこんでいくからだ。
俺は暫く女の側には近寄らなかった。遠くから楽しそうな人間同士の会話が聞こえてきて、女が、「なにか頼もうよ」と、男にねだりはじめた。「じゃあピザ頼もうか」
「ピザいいわね」
男がないやら板に向かって話しかけていると、暫くしてピザという餌が届いた。人間も猫もあまり変わりはない。
ピザという餌が食い終わると、二人はなにやら絡みだした。たぶんあれは交尾というやつだろう。俺は男と女のいる部屋を出ることにした。
女の喘ぎ声が聞こえ、あの男が夢中に腰を振っているのを想像すると、何処か間抜けで笑ってしまう。

男と女が一緒に同棲生活をするようになり、男だ仕事に行っている時に、女が餌を用意してくれたり、俺の糞尿の後始末をするようになった。
ある時俺は二人の話しを聞いていると、このまま結婚しようとか、二人はいつまでも一緒だよとか、よく分からないことを言っている。
猫の世界では雌とやったもん勝ちで、結婚とか離婚とかそんなの猫の世界にはない。寧ろ人間の世界だけがいろいろな規制に縛られているような気がしてならない。他の動物より賢いと人間は思い上がっているのだろうが、けっしてそうではない。縛られているからこそ、規制に怯えそれに集団に依存するのではないだろうか。それは自分の意志で選び取った答えが、実は誰かの意図で自分の意志とは無関係にその答えを掴まされてるということだ。
人間の世界にはそれがあるが、猫の世界にはそれはない。そこが人間の弱さだと俺は思っている。
雨が振っていたある日。男と女が口喧嘩をしていた。理由は男の帰りが遅いという勝手な理由からであって、男のほうはいたって真面目に仕事をしているだけなのに、なぜか帰りが遅いというだけで、喧嘩に発展するのは些かおかしいと猫の俺でもおもっていた。
仕舞いには女は逆上して荷物を纏めて家からでっていってしまった。
男は急な女の行動に動揺してしまい、うなだれていたのだが、「ああああああああ」発狂してしまい、家にあるものを壊しはじめたので、俺は咄嗟に男の側から離れた。
あれから男は抜け殻のようになった。仕事から帰ってきても上の空で、ただ一点の視点を見つめていたので、俺はそこまでしてあの女に惚れていたのかと、男が惨めにおもえてならなかった。
それから数ヶ月後。男は仕事を辞めたらしく、毎日家にいる。男はしきりに板をいじってはにやにやしたり、「殺してやるぞ」と、急に怒りだす。俺は猫だから分からないが、相当あの板は人間を狂わせる力があるらしい。
男は俺に餌をくれなくなった。俺は外に行って適当に草を食べたり、又近所の猫好きな連中から餌をもらって、その日暮らしをしていた。
「ニャーニャー」と、鳴きながら近寄っていくと、あの男よりかもうまい餌が貰えるので、俺はあの家に帰るのが億劫になった。

俺は外にいる時間が長くなった。あの男は自分の女が離れていってしまった事に頭がおかしくなってしまい、手が着けられなくなった。
夜になると必ず発狂しながら物を壊し、それに包丁を振り回しながら壁に何度も包丁を突き立てたり、刺したりしては、なにが可笑しいのか笑っていた。猫の俺でもここまでくると、もはや手遅れだとおもった。
外の時間が長くなったからといっても、俺は時折あの男の家に帰る。なぜ帰るかというと怖い物みたさせで、あの男がどうなっているのか確認と好奇心からだ。
男の生活はまさに動物以下の生活を送っていた。電気と水道は停められていて、部屋はゴミで散乱しており、足の踏み場もない。それに猫の俺でも色んな障害物をよけながら歩いていかないと、ゴミに埋もれて死んでしまう。
暗闇で男が触っているバックライトが顔を光が照らしている。目元には隈ができていて、寝不足なのか目を半開きにしながら板を撫でていた。生きているのか、それとも死んでいるのか、分からない顔つきであった。
人間とは雌一匹でここまでなれるものなのか、猫の俺からしたら考えられない。
男を暫く俺は観察していた。ただ板を触ってはだらしなく口を開けて、涎を出す以外になにも動かない。だが、なにやら男は注射器みたいな物を手に持つと、透明な液体を吸い上げる、それを男は腕に打った。すると忽ち男は飛び上がり、目が血走りながら、この汚い部屋でジャンプをしだした。あれは猫の世界でいう木天蓼というものではないだろか、まさか人間の世界でも木天蓼があるとは、これであの男も少しは前向きになれると俺は少し安心した。
しかし、木天蓼の乱用がいけなかったのか。男は元気になるどころか、寧ろ板と人間の世界で使われている木天蓼は、男の精神と肉体を衰退させはじめた。
ふくよかだった男は一変として痩せていき、常に目は真っ赤に充血しており、又なにか怯える仕草をみせては包丁を握りしめて、なにか警戒しているようでもあった。
次第に男の言動はおかしくなっていくのであった。独り言を常に話すようになり、誰もいないのに「お前俺を馬鹿にしてるな」と、部屋には男一人しかいない。猫の俺でも分けの分からないことをしているとおもった。とうとうこの男は人間でもない動物でもない者になってしまったのだ。
男は常に包丁を手に持っていた。そしてその包丁を砥石を使って磨いていた。包丁を磨いている時、男はニヤつきながらただ一心不乱に何度も同じ動作を繰り返す。
猫の俺にとっては到底あの同じ動作をよくもあきずに続けられるもんだと感心した。男はもしかしたら、包丁を磨くことに一つの喜びを見いだしていたのかもしれない。
日中男は久しぶりに家を出た。俺も気になり男の後をつけることにした。
男はやはり用心深く、手提げ鞄の中にはいつも自分が磨いている包丁を入れていて、挙動不審な動きをしながらもスーパーに入った。猫である俺はあの男が何を買ったのか分からなかったが、スーパーから出てきた時には、自分の欲しい物が買えたのであろうか、嬉しそうな顔で自分の家に帰っていった。

俺はあの男と一緒にいることより、外にいる時間のほうが長いので、野良猫的な私生活を送っていた。だが時折あの男の家にもどってくると男はただ笑みをこぼしながら丹念に包丁を磨くだけであった。そして男はニヤニヤしながら、「一緒になろう。一緒になる方法があったんだ。なんで俺は気づかなかったんだろう」と、狂った笑いかたをしていた。
俺は男がなにを包丁に磨くことに嬉びを感じ、又なにに対して一緒になろうと言っているのか、意味が分からなかったが、ただ一つだけ分かることはあの男が包丁でなにかしようとしていることは猫の俺でも分かることだ。
ある日の夜、男は家を出た。そこから二日か三日くらい男の姿を俺は見ていない。なにをしているとか、特に気にもならないが、ただいつも男が磨いていた包丁が家にはなかった。
動物には野生の勘というものがある。きっと俺がおもうにあの男は包丁で何かをしでかすつもりだ。
あれから男は一週間たっても帰ってこなかった。こんな俺だが一週間たって帰ってこないというのは、流石に心配する。一体あの男はどこで生活をしているのであろうか。
俺は男がいなくなってから男の家に住み着くようになった。やはり五月蠅い奴がいないと快適でいい暮らしができる。俺は適当にその日その日を生きていた。
夕方俺はあの男の家で、ゴミの上に寝そべりながらくつろいでいた。二匹のゴキブリが俊敏な動きで壁によじ登っていく、俺はただそのゴキブリを眺めていた。
急に玄関の扉が開き、乱暴に閉まる音がした。俺はびっくりしてゴミの中に身を隠した。ゴミの隙間から除くとあの男が帰ってきたのだ。
男は白いティシャツに返り血を浴びていて、手に持った包丁には血が滴り落ちている。男は手で握り拳を作りながら、
「やったぞ。俺はやったぞ。これで一緒になれるぞ」
男の目は異様な目つきで何かを探していた。
「あった」と、男はスーパーの袋を手に取った。
スーパーの袋の中身には農薬が入っていて、男は農薬の蓋を開けると、一気に飲み干した。
「あああああああああ。痛い。胃袋が痛い」と、転げながらのたうちまわっている。暫くして男の口から泡が吹き出して、白目を向いて死んでしまった。
男がどうなっているのか、俺は気になって近寄ってみた。
男の血の染みたティシャツから前に同棲していたあの女の臭いがしてきた。男と女の間にはなにがあったのだろうと俺は考えた。
たぶん男は女のことが好きで忘れられなかった。しかし彼女の一方的な別れが男を苦しませてしまい、そこで男が女と一緒になれる唯一の方法が心中ということであって、だから毎日包丁を磨いていたのではないのだろうか。俺はそうとしか考えられえない。
結局真実はこの男しか知らない。それにあの同棲していた女は他にも男の臭いがしたからきっとこの男だけではないと俺はおもう。このこともその女しか分からないことだ。
俺はこの男が哀れでならなかった。
「二ヤー」
俺は男の屍に向かって悲しく鳴いた。

2022年8月1日公開

© 2022 秋山優一

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