身内ではないが、身近な人の死というものを初めて実感した時だったのかも知れない。
この体育館の冷めたい床の感覚よりも、生徒たちのすすり泣く声が反響している、そんな乾いた空気感の方がよほど冷たく感じたことは、今この時まで僕には経験が無かった。
僕にとって最低最悪な学校のイベント、マラソン大会。
これだけは本当に嫌いだった。
いかにして公然とサボれるのか、膝の成長痛を言い訳に病院を受診するも「この程度ならマラソン大会は大丈夫」だと医者に不本意な太鼓判を押された僕の心は、マラソン大会の出場決定への嫌気と、医者にこちらの思惑を見透かされた恥ずかしさでやりきれない心持ちになっていた。
土曜日の午前中、学校の近くにある大きな都立公園がマラソン大会の舞台である。
所々赤く染まり始めている葉が目立つ木々のトンネル内を、バタバタと生徒らが駆け抜けて行くが、僕は想像以上にしんどかった。
小学生時代の無尽蔵だった体力とは真逆で、中学2年生の僕は成長期にて身体も肥え、帰宅部だったことも拍車を掛け開始早々に首が上がっていた。
僕はこの時だけ、今度こそ運動をして身体を鍛えようと心に誓う時間はない。
それは単に、今の自分が息苦しいのを悔い改めているだけで無く、そんな僕を置き去りに、もう何処にも見えない先頭集団にいる、颯爽と駆け抜けて行く野球部やサッカー部の同級生を憧れの眼差しで追走する女子生徒らの視線に対する嫉妬心から来るものでもある。
が、実際は家に帰ってしまえば直ぐ忘れてしまうような、苦し紛れの一時的な気の迷いのようなものであった。
マラソン大会が終われば即解散、となるはずだったが、閉会式の終了間近に各組の担任教師の数名が慌しくなったのを記憶している。
と同時に僕は、1学年6組の担任の内、隣の5組を担任の女性教師が居ないことに気が付いた。
「2年生は全員、体育館に集合!!いいな!!」
風貌がまるで暴力団の構成員のような1組担任の国語教師が、両手をポケットにしまい腹を突き出して、がなった。
この都立公園から僕の中学校までは歩いて10分程度だったが、その間に僕の家がある。
マラソン大会を終えてクタクタな身体には、そのことが二重三重と僕の徒歩を重くしていた。
近くを併歩する同級生たちは、なぜ2年生だけが体育館へ集められるのかと喧々と予想を立てていた。
誰かが喧嘩や煙草、飲酒かシンナーでもやり警察の厄介になったのか。
いや、それなら全校生徒の前で話をするだろう。
不純異性交遊、これは案外闇に葬られるか・・・。
何も心当たりの無い生徒からすればいくらでも空想をかき立てることができる。
一方、いわゆる「不良」と部類されている生徒らに、普段の威勢はどこにも無くなっていた。
この時、前向きな出来事であろうと予想していた生徒は、たぶん一人も居なかったと思う。
どうせろくでもないことだろうと、みんな胸の内々をざわつかせていたに違いない。
当然、僕もその内の一人だった。
体育館へ集まり、各組ごと縦6列に整列し座らせられると間もなく、演台に校長がやってきた。
普段の月曜朝礼で見せる表情とは明らかに違った緊張感が滲み出ており、いつもの顔のテカりも少なかった。
「皆さんには大変つらい報告があります。昨日、5組の担任の○○先生が心臓発作でお亡くなりになりました」
背中がゾワッとし、身体が宙に浮いた錯覚がした。
「えーーー!!」と大きな声を出したのは、普段から目立ちたがり屋の一人の男子生徒だった。
隣列の5組の生徒たちの、特に女子生徒の数名は両手で顔を覆い泣き崩れたり、肩を震わせていた者も居れば、いつも物静かな男子生徒でさえも口を開いたまま戦慄している者も居た。
亡くなった女性教師は30代半ばくらいであり、夫と小さな子供との3人家族だったらしい。
細身だが背の高い、女性教師らしくキビキビとした印象しか僕には無かった。
思えば鎌倉遠足の時にどこかの寺の門前で僕が居るグループの生徒数名と一緒に映った写真が、確か残っているはずである。
が、どうしてその時、他クラスの僕らと写真に映ってくれたのか、時の記念か気まぐれか、その真意は分からない。
僕の両腕が震えていたのは、体育館の冷たい空気で汗の引いた身体が冷やされたからでなく、動揺によるものだったとそのときは判別できなかった。
生徒は各教室に戻され担任が来るのを待ったが、静まり返る教室内に、廊下から隣クラスの女子生徒たちのすすり泣く声がそよいで来る。
しかし皆が沈痛していたわけじゃなかった。
僕の教室の窓際1列目の男子生徒が後ろ向きに椅子に座り、後列に座る男子生徒と声を出さずにジャンケンを繰り返していた。
彼らはその場を和ませようとしていたのか、ただ目立ちたかっただけなのか、それとも単純に退屈を凌いでいただけなのか僕には分からなかった。ただ僕が誰かに、彼らは悲しんでいなかったのかと問われたら、そんなことはどちらでも構わなかった。
帰宅すると、昼前に僕が戻ると思っていた母が、昼食を用意して待っていてくれた。
「遅かったじゃない」
「隣のクラスの○○先生が亡くなったんだって」
母は当然、絵に描いたように驚いたが、大まかな経緯を僕は説明した。
遺された家族のことを思うと、我が身(母を産んだ祖母は母を産んだ19日後に27歳で衰弱死している)と照らし合わせ、いたたまれなくなったのだろう、母の眼は充血していた。
翌朝の日曜日、マラソン大会の疲れもあり遅めに起床しリビングへ向かうと、母が僕を待ち構えていたように、朝食の残りがあるテーブルの上に無理やり朝刊を広げた。
「ねぇ、ここに載っている記事、あんたの学校の先生のことじゃないの?」
新聞の社会面の小さな記事であった。
『○○区立の中学校の女性教師が飛び降り自殺』
昨日の体育館で味わった、あの身が宙に浮く感じをまさかこの短時間で再び体験するとは思わなかった。
「本当に心臓発作で亡くなったって言ってたの?この記事だと自殺になってるけど、同じ区の別の学校の先生にしたってこんな偶然って重なるかしら」
その通りだと僕も思った。だとすると、校長も各教師も生徒に嘘をついたということになる。しかしなぜ嘘をつく必要があったのか。
生徒たちの衝撃を考えて死因をすり替えたのだろうか。自殺よりも心臓発作の方が、死の悲観が薄れるとでも思ったのだろうか。
大人とは、そんなに子供たちに対して思いやりを持てる生き物なのか。
なにより恐ろしかったのが校長も各教師も、女性教師の自殺の理由にはっきりとした心当たりがあったのだろうかと考えたからだ。だから死因をすり替えたのではと思ったことである。
週明け月曜日の朝礼で、全校生徒の前の演台にて校長は女性教師の死因の訂正と謝罪をした。
だが、もし新聞報道がされていなかったら、きっと訂正などしなかったであろうことくらいは、まだ中学2年生の僕でも見透かすことはできていた。
やはり後になって噂話が立ちのぼっていたが、女性教師に対して保護者から何らかの圧力が掛かっていたらしいが、どのような圧力だったのかそれが女性教師の自殺に繋がる出来事だったのか、それは僕らの知るよしもなかった。
今現在、この女性教師が担任を務めていたクラスの生徒は、未だに忘れようとしても忘れられない記憶となっているに違いない。
担任の自殺の原因の一端を、もしかしたら自分であったり自分の親が関わっていたのだとしたら、或いは遺族に恨まれ、憎まれているのではないかと考えてしまうこともあるかも知れない。
僕らの卒業式のとき、卒業生代表の女子生徒が、来場者へ対しての答辞の中でこの女性教師のことにふれている。
それはただありきたりな台詞のような、つまらない言葉だったということしか、今の僕は憶えていない。
終わり
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