カランと氷が溶け崩れた音で俺は我に返った。少し眠ってしまっていたのだろうか。確かまだ1杯目のはずであったが多少酔いがまわり始めてきたのだろう。
グラスの中の琥珀色のウイスキーはまだ半分残っているが、何故かこれ以上呑みたい気持ちにはならなかった。
コルクで作られている真四角のコースターは、グラスの結露で大半が色を濃くしていた。俺はそんな中、うたた寝をしていたのだろう。
L字カウンターの端。ここで俺はいつも取材の内容を煮詰めている。
仕事柄必須の書面やパソコンなどは持ち込まない。誰も背後には回れない場所なのだが、あくまでも頭の中の記憶のみで作業をしている。
この席からの眺めは見飽きているが、客が増える度に店主は顔の皺に影を刻みながら、古いオイルランタンを客前に一人一人に灯してくれる。
灯火がカウンターに連なる酒瓶にゆらりと反射しながら、薄暗い店内に一人客が増えればポツリと点いて、一人客が帰れば消えを繰り返す。
そんな中で俺はこれまで何十時間も多数の記事を作り上げてきた。
眠りに落ちる前よりも、ランタンの明かりは自分のを含めて3つに減っていた。
今回の取材もいよいよ大詰めだ。大臣の経験がある大物政治家と大手民間企業の収賄疑惑。
この記事を完成させれば年内は楽なものだが、ただひとつ、汚職のパズルを完成させるのに欠けているピースがある。
もとはと言えば株の仕手筋で注目を集めていた大手民間企業の脱税事件から始まっている。
すでに元証券会社社員が7名逮捕されているが、さらに国会議員や官僚など数名への工作疑惑が浮上したところまでで、未だに立件はされていない。
その中の一人である大物政治家が株の売買に関与しているのではないかとみて、直接取材を試みたが当然のように門前払いを食らった。
株の売買に関する有力な証拠が重要な欠けているピースになるが、この問題も解決に向かっている。この大物政治家の側近だったというMという人物から連絡があったのだ。
もちろん多額の報酬との引き替え条件になる。俺はこの男と近々コンタクトをすることになっている。
このバーにはアンティークな絵画が多数飾られている。
その中で自分の席から真正面の奥に見える長手が横2m、短手が縦1mほどのゴツゴツとした枯木で作られたような額縁に入っている油絵の御婦人が、記事を練り上げている俺の相談相手になってくれる。
何処かのお屋敷なのか、フランスの古城のような味気のない石造りのだだっ広い部屋。
その壁には、紅蓮のタペストリーの上に剣と斧が交差して掲げられており、その下から5本の真っ赤なバラの花束がそれを見上げている。
そして王が鎮座しそうなくらい大きく豪華な椅子に、インディゴブルーのドレスを纏った御婦人は堂々と足を組んで座っていた。
相談相手といってもこの御婦人が何かを語りかけてくれる筈も無い。
ランタンの灯が揺らぐと油絵の具の凹凸が立体的な光沢を浮き上がらせ、様々な御婦人の表情を生み出すのだ。
俺が取材に行き詰まったときや苛立っているときは慰めてくれるような柔和な眼差しを送ってくれる。しょうもない芸能人のスキャンダルをスッパ抜いて、ヘラヘラと酒を呑んでいるときには、一変して厳しい剣幕で俺をにらみつけてくる。
道徳的と言えば道徳的な御婦人でなのである。
俺の斜め前、店主の正面で呑んでいる2人組の30歳半ばのサラリーマンの会話が不意に聞こえてきた。
「なぁ、そう言えば定年で退職したSさん、亡くなったらしいな」
「本当に?なんでまた急に、病気か事故?」
「心筋梗塞だとよ。せっかく退職してこれから有意義な老後を迎えられたっていうのに、気の毒だよなぁ」
そう言って、もみあげ付近の白髪が少し目立ちかけている水割りの男が、皿の上のナッツを指でお弾きを始めた。
「いやぁ、あの人には入社したての頃に研修で随分とお世話になったからね。思い出としては忘れられないよね」
「確かに。その後の業務ではたいして絡みはなかったけどよ、Sさんと言えば研修を思い出すよな」
水割りの男はナッツを2~3個をまとめて口に放り込んだあと、指に付いた塩をグラスの水滴で拭き取り、続いて語りだした。
「人ってさ2回死ぬっていうよな。1回目はもちろん肉体が滅んだときで、2回目は人の記憶から忘れ去られたときってさ」
「ああ、誰か有名人が言ってたよね」
「いや有名人はいいよ、作品とかを色んな人に憶えてもらえるし、記録にも記憶にも残るだろ。んで思い出してもらえる。でもうちら一般人は・・・、例えば子や孫には憶えてもらったとしてもさ、ひ孫やそこから先の子孫なんてすっかり忘れられちゃうだろうからな」
水割り男の相方の、中年太りに足を突っ込みがちで優しそうな雰囲気の男は、グラスをゆったりと回し赤ワインを香りながら「そこまで行くと、個人個人としてではなく先祖代々に含まれちゃって、その他大勢的な存在になっちゃうよね」と小刻みに肩を揺らし、頬を膨らませてこう答えたのだった。
「って考えると寂しいよなぁ。まぁ大半の人間はそんなもんで、人類の歴史なんてそれの繰り返しよ」
そう言って彼は残りの酒をグイと飲み干して、笑顔で氷だけが残ったグラスを振って店主に同じものの注文をした。
するとワイングラスの男は少ししんみりしながらこう言った。
「永遠に分からないけど、死んだ人間ってさ、記憶って残されているのかな?」
「いやまぁ俗に言われているのは生まれ変わったらなんもかんも忘れちまってるって話だけど、仮に生まれ変わるにしてもそれまでの記憶ってのは残っているんじゃないのか?だから恨みとか祟りとかっていう話が存在しているのかも知れないし。あくまで死後の世界があれば、の話だけどな」
水割りの男はそう言うと新しいグラスで酒を口に含み、染み渡るアルコールの強さに顔をしかめながら「でも記憶が残っているってのは・・・どうなんだろうなぁ」と。
「僕は何にも無くなっちゃう方が良いなぁ。眠っている延長、みたいな」
「何にも考えなくて良いからな、その方が楽は楽だけど、それも怖い気がしないか?」
「肉体が滅んでも記憶が残る。で、他人からも、本人でさえ自分の記憶が消えた時に、本当の死が訪れる」
ワイングラスの男はこう台詞っぽいことを言うと、今度は若手アイドルグループの話題にガラリと切り替えた。
勢いよくバーのドアが開き、ドアに付いている鐘の乾いた音が店内にこだました。
同時に俺の前にあるランタンと、サラリーマン2人組の前にあるランタンの炎が刹那強弱した。そのとき油絵の御婦人の顔が一瞬だけ、初めて見る怪訝そうな表情になったのを俺は見逃さなかった。が、それよりも俺は店に入って来た男に意識を奪われていた。
男は見覚えのあるサファリハットを被っていた。
張っているエラに蓄えられた無精髭にも、着ていた黒革のジャケットにも同じ様に、米粒のような輝きの雨に濡られていた。
2人組の男は一時こそ帽子の男に気を取られ会話をためらったが、その後すぐに好みのアイドルの自慢話に戻っていった。
小太りのワイングラスの男から2つ席の間隔を取って、男は雨に濡れていることを気にも止めない素振りでドカリと座り、店主にウイスキーのストレートを注文した。
店主はいつもの通りオイルランタンを帽子の男の前に差し出したが、男はランタンの灯りを遮るように帽子のツバを下げ、軋む黒革の音と共にカウンターに両肘をついた。
ややあって、店主はウイスキーのストレートを男のランタンの横に添えた。
すると間髪を入れず男は逞しくゴツい手の、毛の生えた指でグラスを掴み、それを一気に飲み干すと、すくっと立ち上がりジャケットのポケットから生身の現金を引き出し、クシャクシャの千円札2枚をカウンターに置き「ごちそうさん」と低く唸ると、釣銭を用意しようとする店主に背を向けて、再度、乾いた鐘の音を店内に響かせて出ていった。
店主はこんなことも慣れているかのように、灯したばかりのランタンを早々に引き上げてそっと消灯した。と、店主は何かを思い出したかのように、俺の手元のランタンに横目をやった。
途端に俺は何かの違和感に気付き始めた。
店内に居るにも関わらず、俺のスーツは帽子の男と同じように濡れていた。
だが不思議と冷たさは感じなかったが、どうして俺のスーツは濡れているのだろう。店主は相変わらず俺の手元のランタンを見つめている。
「マスター、さっきからどうしたんですか?」と、ワイングラスの男はこう店主に問い掛けたが、店主はため息交じりに俺の方に歩み寄って来た。
「こちらのお客さん、一体どこへ行かれたんだか。今までこんなことは無かったのですがね」
「え?まさか呑み逃げ?」と、気持ちよさそうに酔いがまわった水割りの男が、赤ら顔で小バカにするように言い放った。
「いえいえ、こちらのお客さんはそんな方ではございません。何か急用でも入ったようで、直ぐ戻るからと2時間ほど前に出て行ったきりで」
そう言うと店主は、俺の目の前のグラスを取り上げてしまった。
「ちょっと待て・・・」と俺は言いかけたが、まるで音も出ず風船が空気を吐き出しているように、俺は一切の声を出せなくなっていた。
それと同時に俺は、濡れたスーツの下で張り付いているワイシャツが鮮血に染まっていることに今さら気が付いた。
何故か俺は、奥の壁にある油彩の御婦人の顔に頼りざるを得なかった。御婦人の表情は、明らかに俺を哀れんでいるように切なげな顔をしていたが、そこはかとなく聖母のような温かみを感じさせるものでもあった。
そうだった。
俺は欠けているピースを埋めるためにMに電話で呼び出されバーを出た。
落ち合った公園で待っていたのはあの帽子の男であった。Mがこの男なのかは定かではない。
男は何も言うこともなく、外灯を背に夜の暗闇に溶け込んでいた。
男の胸元あたりがキラリと光ったと同時に、俺の左胸に言い難い衝撃が走った。後ろに飛ばされ仰向けに倒れた俺は、喉から口へなにか熱い鉄錆のようなものが込み上げてくると同時に、身体が動かずまったく呼吸ができなくなっていることに戦慄した。
外灯の白い光の周りに、もうひとつ虹色の光の輪ができている。煮えたぎる溶岩を冷ますかのように、俺の顔に大粒の雨が降りかかっていた。
目の前のランタンの炎が強く灯った。
そうだったんだ、俺の身体はもうここに、このバーには居なかったのだ。
店主は目の前のランタンを取り上げ、渋々とした表情で消灯すると一層辺りが暗がりに包まれていったが、あのサラリーマン2人組は眩しすぎるランタンの灯りの下で、相変わらず談笑を続けている。
古木の額縁で囲われている油絵のインディゴブルーのドレスの御婦人は、堂々と足を組みいつも通り整然とした表情で座っている。
俺は深い闇に吸い込まれていくように、自らの瞑目を実感し始めたのであった。
終わり
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