毎朝、おかあさまはいつもキスして起こしてくれる。ぼくの額をなでながら言う。おきなさい、わたしのかわいい子。……おかあさまはなんていうか、ぼくに対していつ
もこの調子だ。最近は少し恥ずかしくなってきた。たぶん、恥ずかしいと感じないといけないんだと思う。だからおかあさまのキスを恥ずかしいという顔をして拒もうとする。ぼくの最大限の努力だ。でもおかあさまは全然気づいてないみたい。……ぼくは白いシャツに着替えて、おかあさまと一緒に長いらせん階段を降りて、塔の一階にあるホールへ向かう。お母様のドレスから石けんの匂いがする。これはね、シルクのいいものなのよ。……ぼくの手とつなぎながら言った。そう、おかあさまはいつもこんな調子なんだ。
一階のホールでおかあさまと一緒に朝食をとる。テーブルに並ぶ卵とパンとミルク。いつもおかあさまは右端に座って、ぼくは左端に座る。メイドさんはおかあさまの三歩うしろにいる。今日は全部ご飯を食べることができた。小鳥のさえずりが聞こえる。塔のどこかの窓に、巣を作っているんだろう。おかあさまと鳥のお話……ぼくは最近、おとうさまのことが気になって仕方なかった。おとうさまがぼくに会えないことはわかっている。ぼくはもう子どもではないのだ。ただ……おとうさまは、ぼくぐらいの歳の時、いったいどんな子どもだったんだろう? そう、気にする仕方が変わったのだ。おかあさまに聞いたら、そんなの知らないわ。おまえはそれを知ってどうするのかしら? たぶんね、今とおんなじだと思いますよ。
朝のお祈り、朝のご飯、朝のおしゃべり……ぼくにとって朝の最後は、おかあさまのお小言だった。おかあさまはお約束と言っている。でも、ぼくはもう子どもではないのだ。おかあさまに言われなくてもちゃんとわかっているんだ。……絶対に塔から出てはいけませんよ! お外は危ない。あたたかい暖炉も、おいしいお菓子も、優しいおかあさまもいません――おまえを助けてくれる人は、だれもいません。……おとうさまは? そんなことは聞いたことがない。単に聞こうと思わなかったからだ。理由なんてわからない。外は危ない。きっとそうなんだ。「お約束」のあと、おかあさまは外へ出て行ってしまう。おかあさまにはお仕事がある。それは立派なことらしい。でも、ぼくにはよくわからないところがあって、いつかメイドさんが「立派なことですわ、奥さま」と言った時、おかあさまはものすごく怒った。「怒った」と言っても、おかあさまはただ微笑を浮かべていただけだ。でも僕にはわかっていた。次の日、そのメイドさんはいなくなっていった。お暇を出されたらしい。おかあさまが塔から出る時は、そのことを思い出さないわけにはいかなかった。
「立派」――絶対に口にしてはいけない言葉だ。もし口にしてしまったら……。ある時、キッチンからそんな声が聞こえたことがあった。その料理人さんも、次の日にはいなくなっていた。朝が終わるとお勉強の時間だ。外から先生がやって来る。まずはラテン語、次にギリシャ語、最後に歴史を教えてくれる。授業のあと、先生はお話をしてくれる。毎日、違うお話を持ってきてくれた。……あるアラビアの国に、王族の兄弟がいました。2人の王子さまは、とても仲のよい兄弟でした。2人の王子さまは大きくなって、父王から王位を継ぎました。父王が亡くなる時、国の領土を2人で仲良く分け合いなさい、と言いました。だから2人は、王国を北と南に分けて治めることにしました。兄王が王国の北を、弟王が王国の南を治めたのです。……しばらくして、2人の王さまは結婚しました。どちらのお妃さまも、とても美しい女性でした。ある日、兄王は自分の国に弟王を招きました。その夜会で兄王は見てしまったのです。お妃さまが弟王と……お城の美しいお庭で、整えられた茂みの影で、2人はそれをしていました。兄王は怒りのあまり、お妃さまをその場で締め殺してしまいました。弟王は兄王に謝りました。兄王のお妃さまがあまりにも美しかったから、ついしてまったと。……兄王は悲しみのあまり、毎日、ラクダに乗って砂漠をさまよいました。ある時、砂漠の中にオアシスが見えました。オアシスで悪魔が兄王を待っていました。悪魔はこの世の者とは思えないほど美しく、その顔は、死んだお妃さまに似ていました。兄王は悪魔に誘惑されましたが、寸前のところでなんとか耐えました。その日の夜、お城の中で兄王はこう思いました。おれと弟王の絆を引き裂いたのは女だ。そうだ。美しい女は罪だ。……今日はここまでです。続きは宿題をきちんとやったらお話しましょうね。先生は帰る時、ぼくを抱きしめてくれる。これも最近、少し恥ずかしい。先生の胸がぼくの顔に触れて、いい匂いがした。……なんだか変な気持ちになってしまう。
お勉強の時間が終われば、ぼくは好きにしていてよかった。と言っても、塔の一番上の部屋……ぼくの部屋にいて、本を読んだり、トランプをしたり、ひとりで遊んでいた。また窓の外をじっと眺めて、鳥が飛んでいくのを待っていた。日が傾いてくると、太陽が机からベッドの中へ、そしてぼくの部屋のドアへ、ゆっくり移っていく。太陽と時計はぴったり動きが重なっている。天井のシャンデリアは今日もくるくる回っていた。……夜が来るのが楽しみだった。おかあさまが帰ってくるからだ。ぼくは机に向かった。今日の授業で習ったラテン語の詩を覚える。おかあさまが帰ってくる二時間前、一時間前、十分前……どうせ覚えられない。今日はどんな詩をつくろうかな。これが最近の秘密の楽しみだった。蝋燭に火を灯す時間に、おかあさまは帰ってくる。
ぼくはホールへ降りていく。おかあさまは青い羽のついた帽子をメイドさんに渡して、ぼくに目を向けた。おかえりなさい、とぼくは声をかけるけど、おかあさまは返事をせずに自分の部屋へ行ってしまった。最近はいつもそうだ。おかあさまは自分の部屋にしばらく篭ってから、ホールへ出てくる。その時、おかあさまはとびっきりの笑顔でぼくを強く抱きしめた。ぼくは恥ずかしいというか、なんだかいろいろ気持ちが一緒にこみ上げてくる。おかあさまにこの気持ちを聞いてほしかったけど、言えなかった。これもただ言いたくなっただけだ。言おうとすると、ぼくは喉になにかつまったように、言葉が出てこなくなった。もし本当にぼくの喉に、なにかつまっているのだとしたら、そのままにしておいたほうがいいんだ。
夕食は子牛とジャガイモとスープ。おかあさまは、最近うずらの卵を食べている。急に食べたくなってしまったの、本当に、急にね。……おかあさまは独り言のように、誰
に対してでもなく言った。夕食の最中のお話――今日の授業のことを話す。ラテン語、ギリシャ語、歴史……昔の王様の名前、星と人の運命について、ぼくは話した。おかあさまは笑顔でぼくの話を聞いてくれた。食べ終えると、今度はラテン語の詩を諳んじる。……今日はどこを覚えたの? ぼくはどきっとした。……ねえ、どこを覚えたの? おかあさまは知っているんですよ。おまえが最近デタラメを口にしていることがね。そんなことをしていると、立派な大人になれませんよ。……ぼくはいたたまれなくなって、下を向いてしまった。……嘘をついたわけじゃない――とっさに言ってしまった!おかあさまはぼくに近づいてきた。ぼくの頬を両手で優しく包みんだ。つめたくて小さな手だった。ぼくに笑いかけてから――右手でぼくの頬をひっぱたいた。
窓から外を眺めていた。今日は風が強くて、もみの木の葉っぱが揺れている。ぼくは右の頬を押さえた。じんじんして痛かった。ぼくは窓から首を少し出した。風が頬に触れて、くすぐったい。……おかあさまにぶたれたのは初めてだった。おかあさまはあの後、すぐに自分の部屋へ行ってしまった。ぼくは床に倒れていたから、おかあさまの顔は見えなかった。……なんであんな馬鹿なことを言ってしまったんだろう。もしあんなことを言わなければ、ぶたれずに済んだ。いつもなら、ぼくはこういう時に口をしかり噤むことができたはずだ。ぼくは口を噤むことにかけては、とても上手だとひそかに自慢していた。……さっきはなぜかうまくできなかった? たぶん、いろいろなことが間に合なかったんだと思う。
今日は満月だ。欠けるところのない月だ。まだ眠れなかった。……またあの馬がここへ走ってくるかもしれない。もみの木の葉っぱが怖かった。そう、ダメだ。このままだとひとりで眠れなくなる。今日はおかあさまのベッドへ行くのは嫌だ。遠くから足音が聞こえた。目をこらして見ていると、兵隊さんの行進だった。だんだんこの塔に近づいてきた。先頭の兵隊さんは白馬に乗っていた。こんなの初めてだ。白馬と銀の鎧、風に揺れるブロンドの髪……あの人は、他の兵隊さんと全然違う。月明かりが銀の鎧に反射して、鋭く輝いていた。ぼくは見惚れていた。でも……なぜか見てはいけないものだと思った。先生のお話に出てきた、茂みの中にいる弟王とお妃さまのように。……そろそろおかあさまが来る! ぼくはベッドに潜り込んだ。危なかった。ドアが開いた。ろうそくの細い明かりが部屋に入ってくる。ぼくは窓を閉め忘れたことに気づいた。今度は、左の頬をぶたれるんだろうか。……おかあさまは、ベッドの隣に椅子を置いて座った。ぼくは目を瞑って寝たフリをした。おかあさまはベッドの布団をめくって、ぼくの額をなでた。そしてキスをした。ぼくは冷や汗をかいた。……今日はごめんね。わたしのかわいい子。でも、おまえを思ってやったんですよ。おまえはうんと立派にならなければなりません。おとうさまのような、小人[しょうじん]になってはいけません。絶対に。……おかあさまは出て行った。
階段を降りる足音に耳を傾ける。少しもその音が聞こえなくなるまで、ぼくは全身を縛り上げるように、じっとしていた。……よし、聞こえない。もう大丈夫だ。ぼくは窓に駆け寄って外を見渡した。もう兵隊さんたちはいなかった。空はしみひとつなく澄んでいた。あの先頭の兵隊さんは、空へ飛んで行ってしまったのかもしれない。天使が羽を隠して、兵隊さんごっこをしていたのかもしれない。……どうしてかわからないけど、ぼくは先生の胸の柔らかさ、そして先生の髪の匂いを思い出した。音をひとつも出さないように、ぼくは部屋の中をゆっくり歩き回る。疲れて眠れるようになるまで――
あれからしばらくの間、あの兵隊さんは現れなかった。それどころか普通の兵隊さんさえ見なかった。毎日毎日、目を開けていられる限界まで外を眺めていた。あまり眠れていないから授業にも集中できなくて、先生は怒ってもうお話をしてくれなくなった。ラテン語の詩も覚えられない。けれどおかあさまはぼくが覚えてなくても、ぶたなかった。ただ悲しげにこう言うんだ。……立派な大人になれませんよ。ぼくも悲しくなって、泣きそうになるけど、なんとか堪えている。昔、ぼくが階段から足を滑らせて転げ落ちた時、ぼくは大泣きしてしまった。ぼくがまだ子どもだったころだ。……おかあさまはこう言った。泣くような弱い男は嫌いです! そしてお部屋に篭ってしまった。その時、ぼくはおかあさまの顔を見ていなかった。……眠いこと以外は、前と変わらない生活だった。ただ、先生のお話がないから、ぼくは好きにしてよい時間に、あの兵隊さんのことばかり考えるようになった。もし天使でなかったら、エンデュミオンが寝ぼけて山から降りてきたのか、それともオーディンが戦士の魂をヴァルハラへ導くところだったのか。……ぼくは窓ガラスにあの兵隊さんの正体を指で描いた。エデュミオンとオーディン以外にも、テセウス、イカロス、カエサル……イエスさまかもしれない。世界に剣を投げ込みに来たんだ。窓ガラスにイエスさまと剣と火と青い馬を描いて、すぐに消した。
そうやって毎日、窓ガラスに指で絵を描いていた。あの兵隊さんと世界と……そしてぼくを描いた。あの兵隊さんがテセウスならぼくはミノタウロス、あの兵隊さんがカエサルならぼくはオクタヴィアヌス――そうやって待ち続けた。夢を見ながら眠ることができた。これで今夜も外へ行ける。下のほうで音がした。かすかな音だ。ベッドのマットレスに耳を当て、音を拾い上げる。おかあさまの足音じゃない。トカゲでも、フクロウでも、カタツムリでもない。塔に住んでいる鳥たちでもない。……おかあさまじゃない。ぼくはベッドから出た。窓にすり寄って、塔の下を見る。何もなかった。さっきのあの音は聞いたことがなかった。ぼくは振り返って、部屋のドアへゆっくり近づいた。そうだ。こういうことにしよう。トイレへ行こうとして、ぼくは寝ぼけて外へ出てしまったんだ。……そういうこともあるんだ。ぼくはもう子どもではないのだ。なんだって起こるし、なにがあってもやっていける。ドアに手を当て考えた。それに、もし下にいるのがイエスさまなら、ぼくは会いにいかないわけにはいかない。おかあさまと先生に、そして全世界の人々に、これから起こることを伝えにいかないわけにはいかない。ぼくはもう子どもではないのだ。立派な大人だ。……ドアを静かに開けた。蝋燭を灯していないから、真っ暗でなにも見えなかった。見えなくてよかった。ぼくがどこにいるかおかあさまにわからないからだ。いつも降りる時、おかあさまは左側の窓があるほうに、ぼくは右側の石の柱があるほうにいた。……ぼくは左側に沿って降りていった。床に足がつく。やわらかい絨毯があった。軽く手を振ってみる。広いところに出たようだ。あのホールまで辿り着いたんだ。ぼくは真夜中にここへ来たことがなかった。ぼくはお別れを言わないといけない――さよなら、また会う日まで!
ぼくはキッチンへ慎重に歩いていく。たいへんだ。ここから曖昧になってしまう。最後にキッチンへ入ったのは、ぼくがまだ子どもだったころだ。……男の子とキッチンでかくれんぼしていた。たぶんかくれんぼだったと思う。ぶどう酒の樽の裏に、ぼくは隠れていた。その子はいつも「おに」をやってくれた。その子はぼくを熱心に探してくれたけど、たまに手を抜いていた。キッチンにあったパンやりんごをこっそり食べたり、ぶどう酒の樽に指を突っ込んで舐めたりしていた。ぶどう酒を舐めはじめると、舐めることに夢中になるから、樽の裏にいれば見つからなかった。その日もその子は指についたぶどう酒を舐めていた。それはもう舐めすぎて、顔が真っ赤になっていた。ぼくはぶどう酒の樽の裏で息をひそめていた。樽の反対側からその子の声が聞こえた。……もう食べられないよ。おれはお腹いっぱいだ――さよなら、また会う日まで! ……その子はキッチンの裏口から出ていった。それから二度と帰ってこなかった。そうだった。あそこから出ていったんだ。ぼくはカエルみたいに両腕を動かしながら、暗い池を泳いでいく。いろいろなものにぶつかりながら、裏口の戸までたどり着いた。
ぼくは戸を静かに開けた。草の匂いがした。土の匂いがした。月が草原で走り回った。セイレーンの陽気な歌声が聞こえた。今度はぼくが「おに」になって探すんだ。……ぼくは数歩、前に進んだ。それから振り返って塔を見た。ぼくが想像していたよりも、ずっと大きい塔だった。ただ、少し古すぎて、今にも崩れそうに見えた。……月は空へ、セイレーンは海へ、帰ってしまった。イエスさまも天国へ帰ってしまった。ぼくも塔をひと回りしたら部屋へ帰ろう。そう思って、右から塔の裏へ回った。月明かりが完全に遮られたところに、あの兵隊さんがいた。
あの兵隊さんは、肩に矢を受けていた。鎧の間から血が流れていた。塔の壁を背にして座りんでいた。ぼくは動けなくなってしまった。あまりにも急で、あまりにも近いからだ。ぼくはもし神さまとばったり会ったら、今まで自分のした悪いことを、全部打ち明けるつもりだった。毎日その準備をしていた。悪い子は神さまの火で焼かれますよ……
「ねえ、きみ。大丈夫かい? なにか怖い目でも合ったのかな? ああ……これか。大丈夫だよ。死にはしない」
ぼくは返事ができなかった。
「ママは近くにいる?」
辛うじて首を横に振った。
「いないか。……これはまさかきみの家かい? もしそうなら、パンと水を少し分けてもらえないか」
塔のキッチンへ戻って、真っ暗な中でパンと水を探した。あの子とのかくれんぼを思い出して、パンを見つけた。ぼくは井戸がどこにあるか知らなかったから、水の代わりにぶどう酒をコップに入れて持って行った。
ぼくはパンとぶどう酒の入ったコップを、あの兵隊さんの前に置いた。
「ありがとう。きみは優しい子だね」
あの兵隊さんはぶどう酒を飲んだ。パンを少しかじってぼくを見つめた。きれいな鳶色の目だった。
「助かった。なにかお礼がしたいな。……そうだ。十日間後の同じ夜に、ここに来てくれないか。きみに見せたいものがあるんだ」
ぼくはうなずいた。
「……今日はもう遅いから帰ったほうがいい。ママが心配するよ」
あの兵隊さんは右手を出した。ぼくも右手を出して握手した。あたたかい、大きな手だ。
「おれは……ダミアン。またね」十日後の夜……ぼくはまた外に出られるんだろうか。もしその時に行かなければ二度とダミアンさんに会えないと思う。……ぼくはあの夜から十日後の夜まで、真面目に毎日を過ごした。なにかとても悪いことをしたような気がして、そんな気持ちを打ち消すためだった。おかあさまか先生に、あの夜の出来事を話したくてたまらなかった。毎日、二人に抱きしめられて、二人のいい匂いがする時、なにもかも、打ち明けてしまいたくなる。もちろんその後、ぼくはきっとたくさんぶたれる。だけど、もし打ち明けてしまえば、ぼくはこのままずっと、この立派な塔に住んでいられる気がした。ぼくが大人になってからもずっと、ぼくが死んでからもずっと。……ぼくが真面目に授業に取り組むようになったから、先生はまた授業の最後に、お話をしてくれた。先生があの夜から九日後にしてくれたお話は、こんなものだった。……兄王は国中から集められた美しい乙女たちを毎夜一人ひとり、夜伽役として寝室に呼び出して、朝になると処刑していました。処刑は苦痛がないように、世界一の首切り役人のサンソンを、途方もない俸給で雇ました。兄王は乙女たちに苦痛を与えることは望みませんでした。しかし乙女たちの確実な死は望みました。国中の乙女たちは、臆病な男たちのように、明日、自分は死ぬかもしれない。……そんな恐怖に打ちひしがれていました。そこで、国の大蔵大臣の娘である、シェヘラザードが立ち上がりました。シェヘラザードはたいへん美しい娘でしたが、大臣の娘であったため、兄王の呼び出しから特別に免れてしました。しかし、勇敢なシェヘラザードは、国中の乙女たちを救うために、自ら兄王の夜伽役を買って出たのです。シェヘラザードは妹をこの偉大な行いに誘いましたが、妹は拒否しました。……おねえさま、お許しください。あたしは弱い女です。今、国中で震えている他の女たちも。みんながおねえさまのように、勇敢ではないのです。そんな非難がましい目で見ないでください! おねえさまの目は、残虐な王の目とそっくりですわ。……なんてかわいそうなシェヘラザード、ひとりぼっちのシェヘラザード! それでも、シェヘラザードはたったひとりで、兄王の寝室へ行きました。……今日はここまでです。続きは宿題をきちんとしたらお話してあげましょう。
ぼくは先生に近寄った。いつもみたいに抱きしめてくれると思ったからだ。そうしたら先生は一歩、ぼくから後ずさった。また明日ね……と笑いかけて、そのまま部屋から出ていった。ぼくは窓から先生が帰る姿を見ていた。先生が見えなくなるまで。
ぼくもシェヘラザードのように、ひとりぼっちになった。たったひとりで兄王の寝室へ行く。……シェヘラザードは寝室の中で、どうやって兄王と戦うんだろう? 兄王の寝首を……その後、王さまを殺した罪で、死刑になるんだ。ぼくは泣いていた。先生とも今日でお別れだ。そんな気がした。いや、間違いなくそうだ。ダミアンさんと明日会えば、ぼくも王さまの寝室へ行くことになる。もうすぐおかあさまが帰ってくる。ラテン語の詩を覚えなくちゃ……
夕食の時間、おかあさまは食事に手をつけなかった。今日は食欲がなくて……と誰に対してでもなく言った。おかあさまは最近、どんどん痩せてきているように見えた。もともとお身体が細かったのに、手も足も、子どもの力で折ってしまえそうなぐらい細くなっていた。お仕事が辛いんだろうか。おかあさまの後ろで控えていた、メイドさんと目が合った。メイドさんならなにか知っているかもしれない。いつもならぼくと目が合うと笑ってくれるのに、今日はまるで人形のように動かなかった。ぼくもあまり食べたくなかったけど、なんとか無理して食べた。食事の後、ラテン語の詩を諳んじた。おかあさまはぼんやりした顔でぼくの声を聞いていた。ぼくはいたたまれなくなって、なんとかしなくては……と思った。おかあさま。ぼくが作った詩をおかあさまに聞いてほしいです。……とっさに言ってしまった! おかあさまは、はっとした顔してぼくを見つめた。その時、ぼくはとてもまずいことを言ってしまったと気づいた。もっと別のことを言うつもりだった。もっとおかあさまを元気づけるような、立派なことを言おうとしていたのに。……おかあさまはぼくに近づいてきた。ぼくは目をつむって、頬を両手で抑えた。しばらくそうしていると、肩を叩かれた。目を開けると、おかあさまはいなかった。横にメイドさんが立っていた。……奥さまはお部屋でおやすみになれました。ご伝言があります。……立派な大人になれませんよ。
次の日、ぼくはひとりで起きた。メイドさんが着替えを持って来た。おかあさまは? ぼくはメイドさんに聞こうとしたけど、言葉を飲み込んだ。ぼくはもう子どもではないのだ。……メイドさんはぼくの顔をのぞきこんで、こう言った。……奥さまは体調が優れないため、今日は一日お部屋でおやすみなさるそうです。メイドさんは小さな紙をぼくに渡した。そしてこう言い添えた。……奥さまからのご伝言です。あの先生はもう来ません。おまえには今度、男の先生をつけます。アエネイスを全部覚えなさい。覚えるまでおまえは寝てはいけません。もし覚えていなかったら、鞭で叩きます。……ぼくがおかあさまの伝言を読んでいたら、いつのまにかメイドさんはいなかった。まるで幽霊のように物音ひとつ立てずに消え去ってしまった。
それからぼくはベッドに横たわって時計を見ていた。針の音が虫の羽音のように耳にまとわりつく。……やっぱり起き上がって、窓のほうに向かう。窓を開けると、春のあたたかい日差し、花のあまい匂い、小鳥の静かなさえずり。……古い岩のかたまりも太陽と一緒に笑い出した。……ダミアンさんは今、どこにいるのだろう? 頭に兜、首に花の首飾り、竜に乗って飛び回っている。だれも傷つけないし、だれも悲しませない世界をつくる。恐ろしいリバイアサンも、子どものころ見た夢の中で生まれ変わる。……夜まで窓のそばでそんなことを考えていた。おかあさまは夕食に来なかったから、ぼくはひとりで夕食を済ました。ぼくには珍しく、今日はおかわりもした。おかあさまと一緒の時は、おかわりもしなかった。
すべての準備を整えなければならない。ぼくは自分の左手を右手でぶって、鞭で叩かれる準備をする。ぼくはもう子どもではないのだ。どんなに痛くても大丈夫だ。部屋へ来たメイドさんは、ぼくの「準備」を見て笑いかけてくれた。……夜になって、キッチンの裏口から静かに外へ出た。月もセイレーンも、今日はどこかに隠れていた。塔の裏に回ると、ダミアンさんは十日前と同じ場所で立っていた。暗い森を見据えながら、剣の柄を握っていた。ダミアンさんもひとりぼっちのシェヘラザードなのだろうか。……ダミアンさんはぼくを見つけると、ぼくに手を振ってくれた。
「来てくれたんだね」
ぼくはうなずいた。
「今夜はね、この近くの村で婚礼をやるんだ。羊飼いの男と、農民の娘の結婚。真夜中だけどね。……きっと楽しいよ」
ぼくはダミアンさんと手を繋いだ。暗い森の中ではぐれないようにするためだった。おかあさま以外の人と手を繋ぐのは初めてだった。途中、小川があった。とても細くて狭い川で、水の流れる音がしなかった。だからいつのまにか足が水に浸かってしまい、ぼくはびっくりして声を漏らした。だけどダミアンさんはぼくを気にせずどんどん歩いた。ぼくは手を離さないように必死だった。この手を離したら、ぼくはずっとここにひとりで取り残されてしまうと思った。森を抜けると、ひらけた草原に出た。遠くに大きな木が一本見えた。それは草原の真ん中にあって、その周りを小さな光が囲んでいる。
「ほら、見て! あそこだよ。もう少しだ。もう始まっているから急ごう」
ダミアンさんは走り出した。その時、ぼくと手を離した。ぼくは走らないわけにはいかなかった。だんだん人々の歌声が聞こえてきた。風の神さまアネモイが助けてくれて、ぼくは早く走ることができた。このまま世界の果てまで行ってしまうぐらいに。気づくと、ダミアンさんはぼくの遥か後ろにいた。
「……きみは早いなあ。追いつけなくなるところだよ。なんとか間に合ったね。よかった」
ダミアンさんは息を切らしていた。きっと鎧が重いんだろうな。……ぼくは息を切らさなかった。ぼくはもう子どもではないのに、身体が軽すぎるんだ。最近はちゃんとご飯も食べていたのにな。……これから、花婿さんと花嫁さんが「めおとの契り」を結ぶらしい。壇上で花婿さんと花嫁さんがお互いに向かいあって、真ん中に神父さまがいた。人々はその周りを取り囲んで、神父さまのお祈りを聞いている。ぼくたちは一番後ろからその様子を見ていた。花かんむりをつけた花嫁さんに、花婿さんがキスをした。人々は一斉に拍手し、そして歌い出した。神父さまも一緒になって歌い出した。女たちは頭に花かざりをつけて踊る。男たちは腰に剣を帯びて踊る。四方にある松明が優しくぼくたちを照らした。……人々の歌はぼくにはわからなかった。知らない国の言葉だ。ダミアンさんにどこの国の歌か聞きたかったけど、聞かなかった。聞いてもわからないと思った。ダミアンさんは歌わなかったし、踊らなかったからだ。ただ、ぼくの手を握って、人々を見ていた。
「もう帰ろうか。あまり遅いとママが心配するよ」
ぼくがうなずくと、女の人がぼくたちめがけて走ってきた。さっきの花嫁さんだ。
「帰らないで! ここからが楽しいんだから」
「おれたちは、もう帰るよ」
「そう言わずに――」
「たまたま立ち寄っただけだから」
「……いくじのない男ね」
「おれたちはいくじなし。それで結構だ」
「お願い。わたしはあなたを気に入ったの。そうだ。……ここが嫌なら、近くの池でお話しましょう」
花嫁さんはダミアンさんの手を握った。ダミアンさんは顔を伏せた。それを見て花嫁さんは小さく笑った。松明の炎に二人の顔が照し出されると、アポロンとヘレナが愛し合っているように見えた。でもそうするとぼくはなんだろう? アポロンの竪琴……きっと違う。ぼくはそんなんじゃない。ぼくはせいぜい、パンかぶどう酒、岩のかたまりかモミの木、きっとそんなところだ。
ぼくたち三人は、婚礼の宴から離れて、近くの池のほとりまで来た。しんとした静かな場所だった。草むらのさざめきだけが聞こえる。池を取り囲むいちじくの木の下に、ぼくたちは座り込んだ。
「きみは……貴族だろ?」
「いいえ。あたしは農民の娘。朝から畑仕事しながら大きくなって、羊飼いの男と結婚する。子ども産んで育てて、それから死ぬだけ。この土地でね」
「嘘だ。なら――」
「そういう騎士さまはどうなのかしら? ずいぶん大きな謎をお持ちのようね」
「からかわないでくれ」
ダミアンさんは花嫁さんにキスをした。長いキスだった。花嫁さんはダミアンさんの手を取って、胸に押しあてた。
その時、ダミアンさんは花嫁さんを突き飛ばした。花嫁さんはよろめいて、池の中に落ちてしまった。花嫁さんは仰向けになって浮かび、花かんむりが水面に散らばった。
「気持ちいい。……ここからだと騎士さまが坊やに見えます」
「なんでこんなことしているんだ?」
「生きるために決まっているじゃない」
花嫁さんは池から上がってきた。麻のブラウスから身体が透けている。髪を握って水を絞った。濡れた手でダミアンさんの手を掴んだ。
「騎士さまも踊りましょう」
「おれは無理なんだ……」
ダミアンさんは震えていた。泣きそうになっていた。ぼくはやりきれなくなって、ダミアンさんに抱きついた。ダミアンさんがどうして震えているかぼくにはわからなかったけど、こうしてあげるしかなかった。
「かわいそうな人……きっとこれから先、立派なことはなにひとつできないでしょうね」
ダミアンさんは剣を抜いて、剣の切っ先を花嫁さんに向けた。しばらく花嫁さんを見つめていた。そのまま池の中へ剣を投げ入れた。剣は池の底へ沈んでいった。
「……おれたちは帰るよ」
花嫁さんは池に浮かんでいた青い花をすくい上げた。青い花をダミアンさんの手に握らせた。
「ああ……あたしの勇敢な騎士さま! この花をあたくしだと思って、大切に持っていてください。張り裂けそうな、あたしの心をどうか察してくださいまし!」
池の周りの木がゆれた。山犬の大きな遠吠えが聞こえた。
「早くここから離れよう。ここは悪い場所だ……」
ダミアンさんは顔伏せて言った。泣いているように見えた。いったいダミアンさんはどうしたんだろう? きれいな女の人からお花をもらう。みんなで歌って踊ってお祝いをする。ぼくはダミアンの手を強く握った。どんどん早く歩いて、二人が最初に出会った場所を目指した。人々が婚礼の宴を行っていた、大きな一本の木……もう誰もいなかった。跡形もなく、なくなっていた。ただ、このまっすぐ上の空にあったはずの月が、地上に落ちそうなぐらい迫ってきていた。
途中、またあの小さな川を越えた。来る時よりも冷たかった。人々の笑い声、踊りのステップ、花嫁さんの青い花……ぼくの中に残っていたが、川を越えていくと、それらが去っていった。
塔まで着いた。モミの木につながれた白馬がぼくたちを見つけて、大きくいなないた。……帰ってきたんだ! 塔の壁を背にして、二人で並んで座った。
「ここまで来たらもう大丈夫だね。今日は付き合ってくれてありがとう」
ぼくはうなづいた。
「今日はもう遅いから……。ママが心配するよ。また会おうね」
ダミアンさんは立ち上がって、ぼくの頭をなでた。それからモミの木につながれた白馬の縄を解いた。白馬は前足を上げて喜んだ。ダミアンさんは背中を優しくなでた。白馬はやがて大人しくなって、草原のかなた、水平線のむこうを暗い目で見つめた。ダミアンさんは白馬にまたがった。ぼくに手をふった。ぼくも手をふりかえした。白馬が走り出す。……ぼくはダミアンさんが見えなくなるまで、ずっと手をふっていた。
あの夜のあと、ぼくはまたこれまで通りの毎日を過ごした。先生がいないことを除いて、すべてが元通りだった。おかあさまはまた朝にぼくを起こしに来てくれた。朝はあかあさまとお祈り、パンとミルク、最後に塔に住んでいる鳥のお話……それからおかあさまはお仕事へ行ってしまう。新しい男の先生は、先生と同じように、ラテン語、ギリシャ語、歴史を教えてくれた。それはとても楽しい授業で、ラテン語の詩もすぐに覚えることができた。だけど、男の先生は「お話」はしてくれなかった。もちろんぼくはもう子どもではないのだから、「お話」なんていらないなんだ……ぼくはそうやって我慢することを覚えた。男の先生が帰ったあと、アエネイスをずっと覚えていた。おかあさまの鞭が怖ったわけじゃなかった。ただ文字を目で追って、それが頭の中に流れ込んでくる。そうやって昼間の時間が過ぎてほしかった。ぼくはもう子どもではないんだ。だから、真面目に毎日を生きていくんだ。
夕食の時間、おかあさまはぶどう酒を飲んでいた。でもその日はいつもとちがって、二杯以上は飲んでいた。お仕事がたいへんなんだろうか……ぼくはおかあさまを元気づけるような言葉をかけようとしたけど、ぼくはその言葉をなんとか押しとどめた。ぼくは立派な大人になったんだ。おかあさまの背後に立っていた、メイドさんと目と合った。今日はなぜか悲しい顔をしていた。……今日はたいへん嘆かわしい出来事がありました。恐ろしいことに、国王陛下がナイフで刺されたのです。宮殿の入口で馬車から降りた時に、ならず者が白馬に乗って衛兵をなぎ倒し、国王陛下にナイフを突き立てました。もう少しのところで、国王陛下のお命が奪われるところでした。このままでは、世界は消え去ってしまいます。正しい秩序を取り戻さなければなりません。ならず者は、八つ裂きの刑に処されることになりました。わたしのかわいい子、よくお聞きなさい。これで取り戻すことができるのです。……おかあさまは指を鳴らし、メイドさんに食器を下げさせた。
その夜、ぼくはベッドの中でダミアンさんのことを思い出した。別れた後、白馬に乗ってひとりでどこへ行ったのだろう? ……兵隊さんたちの先頭で、遠い外国で正しい人々を救うために戦っているんだ。それとも……そんなことはありえない。あの時、ダミアンさんは剣を池の中に投げ込んだ。人を傷つけことなんてできないんだ。ぼくは起き上がって、窓から外を眺めた。あの夜から、兵隊さんの行進は見なかった。……さっきおかあさまが言っていた。一週間後の正午に、街の広場で刑が行われます。街の民衆は、みんなそれを見ることでしょう。ぜひとも見せる必要がありますわ、奥さま。メイドさんがぶどう酒を注ぎながら言った。その時、ぼくはつい「ぼくも見たい」と言ってしまいそうになったけど、なんとかその言葉を押しとどめた。もしそんなことを言ってしまえば、ぼくはきっと鞭で何度も叩かれてしまう。
遠くから音が聞こえた。何かの足音だ。……あの白馬だ! ぼくは窓から身を乗り出した。白馬がこっちに向かって走ってくる。でも誰も乗っていなかった。背中の鞍が外れかかっていた。白馬は塔の前にあるモミの木の前で止まった。それからモミの木の周りをぐるぐる歩き回って、大きく三度、いなないた。それはひどく悲しい声で、あのデュオ二ソスもきっと泣き出してしまう。
おかあさまが言っていた「ならず者」……それはダミアンさんだ。ぼくはそう思わずにはいれられなかった。ひとりで王さまの寝室へ行ってしまったんだ。ぼくの中ですべてつながった。……もしかしたら全然違うものかも? ダミアンさんとは何の関係もないかも? ぐるぐる同じところを回り続ける白馬を見ると、そうも思えてくる。本当はみんなサカサマで、今、ぼくが見ている白馬は、ダミアンさんのあの白馬ではなくて、どこかのだれかの……ただの白馬なのかもしれない。
下へ行って確かめるしかない。そうするしかない。もっと近くで見ればわかるはずだ。ぼくはいてもたってもいられず、部屋から飛び出して、階段を駆け下りた。おかあさまやメイドさんがまだ起きていることを忘れていた。そんなことはどうでもよかった。後でどんな罰が待っていても構わなかった。一階のホールにはだれもいなかった。蝋燭が金色の燭台で溶けていた。もう寝てしまったのかな。……ぼくは急に冷静になった。心臓のどくどくが直に聞こえた。深呼吸して、慎重にキッチンへ向かう。裏口から出た。戸を開けると、白馬はぼくにすぐ気づいて、近づいてくるぼくを見つめていた。白馬の小さな耳が立っている。ぼくは白馬の背中をなでた。あたたかい背中で、ダミアンさんの冷たい銀のよろいが目に浮かんでくる。白馬は安心して、目を閉じて眠っているようだった。白馬は頭を垂れて、土の匂いを嗅ぎ始めた。なにかを探しているみたいだ。木の下にあったユリを見つけて、ユリを食べ始めた。ぼくは白馬の首に抱きついた。……ダミアンさんはどこにいるの? きみは捨てられた。ぼくも捨てられた。会いたいよ。どこにいるか知っているなら、ぼくを連れて行ってほしい。白馬は頭を上げて、ぼくの顔を舐めた。獣とユリの匂いがする。白馬は鼻を鳴らした。ぼくは背伸びして、はずれかかった鞍を元に戻した。皮の紐をしっかり結び直す。白馬は前足を折り曲げた――さあ乗れ! ぼくは白馬の背中に飛び乗った。白馬は立ち上がって、遠くを見ていた。……世界の果ての果てまで、たとえなにがあっても、ぼくは行くんだ。白馬は走り出した。
夜の冷たい空気が耳に入りこむ。ぼくは白馬の首にしがみついていた。馬の乗り方は知らなかった。目を片方だけ開いて、前を必死に見ていた。ただ白馬が走る方向に進んでいくしかなかった。白馬はひたすら草原を走っていき、森へ入った。白馬は走る速度を落とし、木々を避けながら、じぐざぐに歩いた。ぼくは両目を開けた。濃い霧に包まれ、何も見えなかった。木の葉がときどき顔に触れる。ぼくはもっと強く、白馬の首に抱きついた。
おかあさまはぼくがいないことに気づいたのかな。ぼくを追いかけてくれるとは思わなかった。……おかあさまはそんなことしない。ぼくにはわかっているんだ。きっとおかあさまはいつもの調子で、立派な大人になれませんよ、と言いながら、自分のお部屋に篭ってしまうに違いなかった。
森を抜けると、狭い道に出ていた。道の両側にライ麦畑が広がり、小屋が点々とあった。だんだん日が登ってきて、空は薄明るくなってきた。人がいる場所へ来たんだ。白馬はまっすぐ走る。ぼくは白馬の首から身体を離して、目を凝らして遠くを見た。街の城壁、お城の屋根がぼんやり見えてきた。真っ黒な杭が海の中からぐいぐい迫ってくるようだ。でも実際、迫っているのはぼくのはずだ。これが「街へ行く」という感じなのかな。……おかあさまはお仕事のために街へ行く。先生は街から塔へ来てくれる。おとうさまは……おかあさまが言っていたんだけど、おとうさまはあの街よりもっと遠く、おかあさまも知らない外国の街にいるらしい。その街はひどい場所で、人々は心を失くしていて、隣人を騙し、盗み、奪う。神さまからもとっくにそっぽ向かれている。おとうさまはその街を救うために、人々の心を神さまのところへ返そうとしているらしい。……おかあさまはそう言っていた。それ以上、ぼくがおとうさまのことを聞こうとすると、その前に自分のお部屋へ篭ってしまった。
太陽がはっきり見えてきた。小屋から人が出てきた。白い頭巾をつけた女の子が、小枝を拾っていた。そのあとを小さな男の子が着いてきた。女の子が枝を折って、男の子が籠に枝を入れた。ぼくはその光景を一瞬しか見ることができなかったけど、その子たちは、ぼくの目に焼きついて離れなかった。ぼくはもう子どもではないのだ。そう思っていたけど、実際ぼくはもしかしたら……あの子たちのように枝を拾ったり折ったり、そんなことをして毎朝過ごし、夜はおとうさま、おかあさま、兄弟たちと一緒にたき火をしたり踊ったりする。みんなでベッドに入り、みんなで同じ夢を見る。……街の子どもたちはいったいどんな感じなんだろう?
だんだん街の大きな門に近づいていく。街は堀で周囲をめぐらせていた。橋は上がっていた。まだ街へ入ることはできない。ぼくは白馬から降りて、堀の前に立っている松明に白馬を繋いだ。ぼくは白馬のそばに膝を抱えて座った。堀の中を覗き込むと、水は澄んでいて、ぼくの顔が映った。塔にあった古い鏡よりも、はっきり映し出している。……ぼくってこんな顔していたんだな。そんなふうに堀の水面を見ていると、かかっていた橋の影が消えて、日光がまぶしく輝いた。ぼくは思わず目を覆った。ぎりぎり橋をロープで降ろす音が聞こえる。橋が堀にかけられた。
橋を渡って街に入る。石畳の道が続き、狭い道で人々が行き交っていた。家、教会、学校……屋根と屋根の間は紐で結ばれ、たくさん洗濯物がかけられていた。風で白いシャツがくるくる回っている。ぼくは周りにあるものをひとつひとつ確かめながら、とにかく歩き回った。あれは、家のバルコニーにある花瓶、あれは、牛を引いて歩くおじいさん、あれは、お祈りをする子どもたち。……くさい! ぼくは鼻をつまんだ。今まで嗅いだこともないひどい悪臭に襲われた。ぼくが足元を見ると、近くに凍った生ゴミと、凍った馬糞と……たぶん人の出したものが固まって、山のように積み上がっていた。氷の山は春の暖かさで溶け始めて、悪臭をひどくしていた。ぼくは走って逃げた。でもどこへ行っても悪臭は消えなかった。ぼく自身に悪臭が染みついてしまったんだろうか。……ぼくはいつの間にか広場まで来ていた。広場の真ん中で必死に身体の臭いを嗅いでいた。同じ場所でぐるぐる回っていると、背中に鈍い痛みが走った。振り返ると、小さな石が転がっていた。男の子たちが数人、ぼくを見て笑っていた。彼らはぼくよりも身体が大きく、顔はそばかすだらけだった。ぼくがぼうっとしていると、彼らはまた石を投げてきた。今度はぼくの近くにいた女の人に当たった。女の人はおかあさまぐらいの歳に見えた。女の人は彼らをにらむと、彼らは逃げていった。そして女の人はぼくを見た。……ぼくのこともにらんだ。それからぼくに背を向けて、何もなかったかのように歩き出した。
ぼくは寂しくなった。街までやって来て、ずっと高鳴っていたのに、凪のように静かになった。そういえば、この街にぼくの知っている人はひとりもいない。石を投げられても、馬糞を投げられても、だれもかばってくれない。さっきの女の人……もしおかあさまだったら、どんなによかっただろう! 視界がどんどん狭くなっている。真っ暗になってくる。ぼくは足を引きずりながら、広場からなんとか逃れた。狭い路地に入りこむ。路地をふらふら歩いていくと、行き止まりに突き当たった。そこはまた氷の山だった。ここはひどい悪臭がするはずなのに、ぼくは鼻が慣れてしまって気にならなくなっていた。そんなことよりも、落ち着けるような場所、安心していられる場所を探していた。氷の山の向こう側に、何か光るものが見える。人の目玉だ。見知らぬ人たちが、ぼくを見つめていた。ぼくは疲れてしまって、氷の山のふもとに座りこんだ。冷たくてなんだか安心できる。ぼくは目を閉じて斜面に耳を当てた。……鈍い音が聞こえる。ぼくが目を開けると、乞食たちが氷の山をスコップで壊そうとしていた。ぼくは驚いて逃げようとしたけど、足元の氷に足が取られて上手く立てなかった。だけど乞食たちは、まるでぼくなんていないかのように、仲間と話をしていた。
――百年ぶりに八つ裂きの刑が行われるらしい。
――だからこんなにうるさいのか。
――俺たちも見に行くか?
――ばかな! 外で何があっても出て行かないぞ。
――糞の山を溶かすのが俺たちの務め。
――これしか、ないからな。
――でも……もしなにか変わるとしたら?
ぼくは氷の山からそっと立ち上がった。乞食たちから静かに離れて行った。ぜひともぼくは八つ裂きの刑を見に行かないわけにはいかない。ここにいるよりもさっきの広場にいるほうがマシだ。ここにいると立派な大人になれない。ズボンについたりんごの皮を払い落とした。太陽が真上にあった。もう正午だ。……ぼくは広場へ向かった。氷の山を離れると、だんだん自分に染みついた悪臭が気になってきた。もしかしたら、ぼくは元々こんなひどい臭いなのかもしれない。そうだ。ぼくは生まれた時からこんな臭いだったんだ。ぼくはお尻についていたダンゴムシをポケットに入れた。お守りになると思ったからだ。ポケットの中でダンゴムシが丸まった。
広場へ戻ると、人々が集まっていた。こんなにたくさんの人を見たことはなかった。家の屋根の上にまで、ぎっしり人が立っていた。ぼくは人々をかきわけて、前へ前へと進んだ。するすると処刑台へ向かうことができた。さっき助けたミミズの魂が、力を貸してくれているのかもしれない。一番前まで出てきた。粗末な木で作られた大きな処刑台があって、その周りを兵隊さんが取り囲んでいた。処刑台の後ろに、大聖堂があった。石造の長い階段の果てに門があって、その上にマリアさまのステンドグラスがはめこまれている。ステンドグラスの両側に天使が並んでいる。……この広場のすべてを、これから何が起こるかを見ていた。神さまはどんなことも、きちんと見てくれるんだ。ぼくは深く息を吐いて、目を閉じた。おかあさまと毎朝しているお祈り……ぼくは忘れずにできた。人々の笑い声、叫び声、罵声、怒号……祈る声も押し寄せてくる。
――おい、あの女を見ろ!
――とってもきれいだねえ。
ぼくは目を開けた。大聖堂の右端に、吊るされている女の人を見つけた。あの夜の、あの花嫁さんだ。頭に花かんむりをつけたまま、風に吹かれて身体を揺らしている。首はちょうど右に四十五度傾いて、ブルネットの髪がきらめいている。目を閉じて、笑っているように見えた。……幸せそうな顔だ。
ラッパが鳴り響いた。処刑台の前へ、役人が出てきた。髪をきれいに巻いていた。役人は大きな巻物を広げて、声を張り上げた。
「偉大な国王陛下の名の下に、罪人に八つ裂きの刑を執行する。まず罪を犯した汚れた手を、硫黄で焼く。次に肉をペンチで引きちぎり、傷口に煮えた油を流しこむ。馬に手足をくくりつけ、バラバラに引き裂く。最後に火で全身を焼き尽くす。……灰は川にばら撒いて捨てる。さて、その前に、皆に己の罪を告白してもらおう――」
大聖堂の門が開いた。真っ暗な中から、人が出てきた。2人の兵隊さんに挟まれて、男が力なく歩き出てきた。……でもよく見えない。顔を下に向けているから、あのダミアンさんのなのか、わからなかった。兵隊さんに支えられながら、一歩一歩、石の階段を降りてくる。ブロンドの髪は顔にはりついて、表情もわからない。でもぼくは信じていた。彼は、ダミアンさんだ。白馬も銀の鎧もブロンドの髪がなくても、間違いなく彼は――。ダミアンさんはどんな恐ろしいことも乗り越えてくれる。それがどんなに大きな過ちだったとしても、どんなに正しくないことだったとしても、最後までやり遂げてくる……。
処刑台の前で、ダミアンさんは膝まずいた。広場の人々は一斉に静まった。兵隊さんも役人も、処刑台の後ろに下がった。たった一人で、神さまと向かい合っている。ダミアンは額を地面にこすりつけていた。……しばらくの間、広場は静かだった。兵隊さんがダミアンに近づいて、鞭を振りかぶった。でも、振りかぶった途中でやめてしまった。それから兵隊さんは膝まずき、大聖堂の上にいるマリアさまに祈った。ぼくも人々も、その姿を見て、同じようにマリアさまに祈った。判決文を読み上げた役人だけが、祈らなかった。役人は判決文を握りしめていた。真っ白で静かな昼さがり……街角にあった氷の山も、溶けてしまっているに違いなかった。
「……おれは、今、告白します。おれは、国王陛下を愛しています。夢の中で、国王陛下と寝ていました。おれは国王陛下を抱いていました。いえ、もしかしたら、おれが国王陛下に抱かれていたのかもしれません……。おれの国王陛下への愛は、純粋です。この国の誰よりも、どんな高貴な方々よりも、おれは国王陛下を愛しています。……おれたちは国王陛下とひとつになることはできません。国王陛下は、天上のお方、おれたち人間には、理解が及ばないのです。国王陛下は、おれたちにとって、遠くにあって、光輝くものなのです。そのはずでした。それが、真理のはずでした。……しかし、最近、人々は、国王陛下が、おれたちと近いもの、同じものだと言います。おれは、確かめずにはいられなくなりました。証[あかし]……を求めてしまいました。これが、おれの罪です。おれはここで、皆の前で、神さまの前で証言します――国王陛下の血は、青かった! おれたちのように、赤くて濁った血じゃなかった。国王陛下の血は、青くて、きれいな湖のように、おれの手が映るほど澄んでいた。……おれは罪を犯しました。青い血を見るまで、信じることができなかったからです。しかし、皆に問いたいのは、不信心という意味では、ここにいる皆が、おれと同じように、罪人なのではないか? ということです……おれは、身体をバラバラにされ、燃やされます。もちろん喜んで、喜んで血を流し、灰になります。皆のために、喜んで……」
広場の人々は、涙を流しながら、ダミアンさんの告白を聞いていた。誰もヤジを飛ばしたり、トマトを投げたりせずに、ダミアンさんの言葉に耳を傾けていた。ぼくも泣いていたし、ダミアンさんの側にいた兵隊さんや、処刑台の後ろに隠れていた役人も、泣いていた。
大聖堂の天使に止まっていた鳩が、飛び立った。国王陛下のいらっしゃる宮殿のほうへ、鳩は飛んでいった。役人は涙をふいて、処刑台の前に出てきた。兵隊さんの肩を抱いた。兵隊さんはうずくまったダミアンさんを立たせて、処刑台まで引きずった。その後ろから役人も処刑台へ上がり、右手を挙げた。するとラッパが鳴り響いた。……これから、始まるんだ。人々は「お慈悲を! 」と叫んだ。
「これより、刑を執行する――」
役人がそう言うと、黒い頭巾を被った処刑人が、処刑台に上がった。いったいあの処刑人はこれまでどこにいたんだろう? ……とぼくは不思議に思った。ずっと近くにいたはずなのに、まるで気配がなかった。影のようにすらっと背の高い男の人だった。大きな剣を持って、ダミアンの隣に立った。すると男たちが大聖堂の影からたくさん出てきた。彼らはたちまち火を起こし、大きな鍋に硫黄を注いた。煮える硫黄の臭いが広場に漂ってきて、人々は鼻を覆った。ぼくは最前列にいたから、立っているのも辛かった。最前列を陣取っていた人たちは、この臭いに耐えられず、逃げ出した。……いつの間にか、ぼくの周りに人がいなくなった。
ダミアンさんは処刑台に寝かされて、手と足を鎖で繋がれた。処刑人は、処刑台の上から硫黄の鍋を見つめていた。やがて十分に煮えたと思ったのか、下にいる男たちに合図をした。その時――乾いた音が聞こえた。処刑人が、処刑台から転げ落ちた。処刑人は硫黄を煮る鍋にぶつかって、硫黄がぶちまけられた。兵隊さんも役人も、みんなが逃げ出した。硫黄が処刑人の顔にかかり、黒い頭巾に穴が空いた。きれいな顔が見えた。……処刑人の胸から血が流れていた。
黒い馬が処刑台めがけて走ってきた。青い羽のついた帽子をかぶった男が乗っていた。処刑台の前に黒い馬を止めると、人々の前に銃を掲げた。
「撃ったのは、このわたしだ!」
――なんだ? あの男は?
――あれは、隣の国から来たのよ。服装が……この国よりもずっと派手ですもの。
――女でも、あんな格好しないわ。
――へえ……隣の国じゃ男もあんな……。
あの男は、外国から来たらしい。帽子もコートも靴も、見たことのないものだった。もちろんぼくは今日初めて街に来たのだけれど、きっと、あれは、この国のものではないし、ぼくたちのものでもない。ぼくにも一目でわかった。
黒い馬に乗った男たちが、広場へたくさん乗り込んできた。処刑台に向けて、銃を撃った。兵隊さんも役人も、処刑台の近くに人たちは、たちまち殺された。
処刑人を撃ち殺した男は馬から降りて、処刑台に上がった。ダミアンさんの鎖を解いた。そして立ち上がって、広場の人々と向き合った。
「諸君もご存知のとおり、隣の国で、革命があった。民衆が、国王の首を落とした。わたしはそれを見てきた。……わたしは以前、貴族だった。妻子もいた。しかし、わたしは、すべてを変えなければならなかった。隣の国では、なにもかもが平等だ。貴族と民衆、金持ちと貧乏人、大人と子ども、男と女、一切の差異がなくなった。素晴らしい! この国も、変わらなければならない。諸君は、そんなことは無理だと思っている。たしかに、少しずつ、というでは無理だ。ものごとは、どんなことであれ、まったく一気に、劇的に、なにからなにまで、すべてを変えなければならない! 青い血を見た男の狂気を、讃えようではないか!」
ぼくはこの男がなにを言っているのか、わからなかった。おかあさまが言っていた「かくめい」とは、こんな男たちが引き起こしたのかと思った。こんなに汚くて、卑劣で、なにもかも台無しにしてしまう。正しい秩序はぶち壊された。……あの男の手下たちが、拍手した。すると、広場の人々の中からも、拍手する人たちが出てきた。まばらな拍手だったけど、少しずつ、大きな拍手になっていった。
男の手下のひとりが、吊るされていた花嫁さんの縄を切った。花嫁さんは担ぎ上げられて、処刑台まで運ばれた。革命を語ったあの男は、花嫁さんを持ち上げた。
「これを見ろ! この美しい女性を! 新しい国では、美しい女性が主役だ!」
男の手下が、花嫁さんのドレスを剥いだ。胸が見えた。骨のように青白い胸だ。人々はどよめいた。男の手下が二人、処刑台に上って、花嫁さんの左右に立った。二人は、花嫁さんの手を取って、その両手を掲げた。十字架にかけられたイエスさまのように。……ぼくは目を背けてしまったけど、広場の男も女も、みんなが歓声を上げた。誰も花嫁さんを助けようとしなかったし、誰も怒り出すこともなかった。ダミアンさんは、いつの間にかいなくなっていた。ぼくは立っていられなくなった。処刑台の前で、うずくまってしまった。気分が悪くなって、吐いてしまおうと思った。だけど、吐くことはできなかった。そうだった。昨日の夜から、ぼくはなにも食べていなかった。
処刑台へ向かって、人々が殺到した。男たちは死んだ兵隊さんの鎧や兜を剥ぎ取り、大はしゃぎしている。女たちは処刑台の上に立った。花嫁さんのように、胸を曝け出して、腕を広げた。
ここで待っていても、誰もぼくのところへ来てくれない。もうここにいても仕方ない。ぼくは立ち上がろうとした。処刑台の上から、青い羽の帽子を被った、革命を語っていたあの男がぼくを見ていていた。なぜ、ぼくを見ているんだろう? 処刑台から降りてきた。明らかに、ぼくへ向かって歩いてくる。ぼくは立ち上がって、逃げようとした。だけど、足ががくがくして歩けなかった。どんどん近づいてくる。ぼくはあの男に対してなにもできない。……たとえば、ダミアンさんと出会って、一緒に婚礼を見に行ったこと、そして、今日、ダミアンさんの処刑を見に来たこと。あの男に、それらを全部言って、それから、あの男に殴りかかるか、泣きつくか、どちらにせよ、もう本当に、本当にどうしようもないんだ。
そうやってぼくがもがいているうちに、あの男は、ぼくのそばまで来た。あの男は、ぼくの頬に触れた。冷たい、大きな手だった。ぼくは目を固く閉じていた。あの男の顔を見たくなかったからだ。
「目を、開けなさい。ここまで来たのなら、すべてを見てもらわないといけない」
ぼくは目を開けなかった。
「そっくりだな。なにもかも、そっくりだ! わたしが拒絶したのではない。あいつがわたしを拒絶したのだ。むろん、あいつはわたしが拒絶したのだと、逆のことを言うだろうがね。女はいつもそうだなんだ。あいつはそれをわかっている。わかっていてわざと……どうかわかっておくれ! わたしも苦しんでいたのだと! いつも胸が押しつぶされていた。いつも不安だった。ねえ、いったい、あなたはなにがそんなに辛いのかしら? ……わたしは、イブではなく、アダムなのだ。それは神が決めたことだ。ただ言いたいのは、一緒に楽園を追い出された身なのだから、少しはわかってくれてもよいのだが。……今、言ったことは、だれにも言うなよ。本当に正しくない、完全に間違った考えだからな。しかしこういう正しさが、雨水のように溜まって、革命を中身から腐らせていく。最後には、腐り果て、中身はすからっかんになる。形だけ残してね。それがいつしか当たり前になる。そんなことは、ここにいる民衆だってとっくにわかっている。どうしようもない。ただ、子どものお前にだからこそ、こっそり、言うのさ……」
ぼくはあの男が言っていることが、わからなかった。ただわからないだけではなかった。なんだか、とても嫌な気持ちになった。お腹が痛くなってきて、ぼくは吐きそうになっていた。ぼくはすっからかんになってしまった。いや、違う。たぶん元からそうなんだ。ぼくはなにか、間違ったことをしたのだろうか。おかあさまとの約束を破ったからかな。
あの男はしばらくぼくをじっと見ていた。ぼくの返事を待っているかのようだったが、ぼくはなにも言えなかった。あの男は死んでいる。ぼくにはわかっていた。かける言葉なんてありはしない。ダミアンさんはどこへ行ってしまったのだろう。……手下の男の一人が近づいて来て、あの男の耳元でささやいた。あの男はぼくに背を向けた。辺りは暗くなり始めていた。広場の人々は飽きてしまったのか、もう誰もいなかった。兵隊さんたちもいなかった。諦めてしまったのかな。……青い雲の間から、夕日がかすかに見えた。あの男は、大聖堂に火を放った。乾いた風が吹いて、どんどん火を大きくした。マリアさまにも、後ろにいた天使たちも、燃えていた。あの男と手下の男たちは、燃える大聖堂の前で、ただ、ぼんやりその様子を眺めていた。どうして、彼らはなにもしないで、ただ、立っているんだろう? 火が強くなると、大聖堂から司祭さまたちが逃げてきた。ぼくが広場の真ん中で、たった一人でいた。逃げてきた一人の司祭さまが、ぼくに声をかけてきた。
「ぼうや、こんなところにいてはいけない。早く逃げなさい。ぼうやの家へ帰りなさい……おお、神よ!」
司祭さまは二回も十字を切った。そして逃げるように、ぼくの前から立ち去った。だれかの視線を感じる。あの男が、またぼくを見ていた。手下の男たちが、あの男の耳元でささやいた。彼らは黒い馬に乗った。それからぼくのほうを振り返りもせずに、一斉に走り出した。彼らは闇の中へ、次々と消えていく。馬の足音さえ、小鳥の鳴き声のように、小さく、かすかにしか、聞こえなかった。広場はすっぽり闇に包まれ、冷たい風だけが吹いていた。どうしてなのか、わからなかったけど、なにもなくなった広場で、ぼくはとても安心できた。ぼくにとって、ぴったりと自分に寄り添ってくれる場所のように思えた。……あの氷の山にいた、あの乞食たちが、たくさん広場に来ていた。乞食たちは、広場で彷徨っていた。なにをするでもなく、燃えている大聖堂に目もくれず、自分一人で笑ったり泣いたり、走ったり座り込んだり……そうかと言って、おかしくなっているようにも見えなかった。乞食たちの目は、爛々と輝いていたからだ。ぼくは乞食たちの姿を見て、恐ろしくなった。八つ裂きの刑よりも、革命を語っていたあの男よりも、燃えるマリアさまよりも、乞食たちのほうが怖かった。……だんだん、眠くなってきた。起きていられなくなっていた。広場に端っこに、きれいな白い家があった。その家にだけ、灯がついていた。欠けるところのない完璧な漆喰と、立派な太い木の敷居があった。ぼくはふらふら、乞食のように、その家に近づき、玄関の前で倒れた。
目が覚めた。ぼくはベッドで寝ていた。あの白い家の人が、ぼくを助けてくれたらしかった。小さなテーブルに、りんごが置いてあった。「食べろ」ということなんだと思う。そういえば、ぼくは昨日の夜からなにも食べていなかった。窓から外を見ると、真夜中で、雨が降っていた。……ぼくは気づかれないように、この家から出ていかないといけない。もちろん、親切にしてくれた人に、お礼もせずにこっそり出ていくなんて、悪いことだ。おかあさまも、きっとお許しにならないと思う。だけど、ぼくがあの塔まで帰るためには、だれも気づかれないように、神さまにさえ見つからないように……そうしなければ、辿り着けないと思った。ぼくは窓から思い切って飛び降りた。石の地面に落ちた。だけど不思議と痛くなかった。すぐに立ち上がることができた。振り返ると、大聖堂があった。マリアさまも、天使たちも、元通りになっていた。何事もなかったかのように。
ぼくは、振り返らずに歩いた。広場を抜けて、まっすぐ街の門へ向かった。街は静かだった。昨日のことも、まるで何千年も前の出来事のように感じた。道に並ぶ家々は、たくさんの灯をともしていた。明るい話し声が聞こる。食べ物の匂いもする。ぼくはさみしくなって、走り出した。早くいかないと、街の門が閉まってしまう。この街にあと一日でもいたら……ぼくは消えてなくなってしまう気がした。
門はまだ開いていた。外に出ると、白馬が松明の近くで待っていた。ぼくを待っていてくれたんだ。ぼくは白馬の首に抱きついた。ありがとう! 白馬は静かにいなないた。ぼくはたしかにここにいる。……白馬がいるのだから、ダミアンさんもきっとどこかで生きていると思った。ぼくはそう信じていた。
白馬に乗って走り出す。雨は止んでいた。空気は暖かい。ぼくは急に楽しい気分になった。街が遠く離れていくにつれて、生き返ってきたような気がした。ぼくと白馬は、来た道を走り続けている。少しずつ、ライ麦畑が見えてきた。小屋もなく、水車もなく、なにもなく、ただ一面に、ライ麦畑が広がっていた。金色に輝くライ麦畑が、道に沿ってまっすぐに、どこまでも、続いていた。森は光に満ちている。枝には花がついていた。甘い匂いがする。白馬も嬉しそうに走っている。……セイレーンの歌声が聞こえてきた。ぼくは思い出していた。塔の中で過ごした毎日……おかあさまの朝のキス、先生の楽しいお話、窓から見える春の草原、あと少しで、あそこに戻れるんだ。
モミの木が見えた。帰ってきたんだ! ぼくはそう信じて疑わなかった。……だけど、ぼくが住んでいた塔は、塔だけがそこになかった。ただ、古い岩のかたまりがひとつ、草原にぽつんとあるだけだった。ぼくは白馬から飛び降りて、岩に駆け寄った。もしかして、道を間違えたのかな。……そんなはずはなかった。たしかに、ぼくは、来た道を正確に引き返したはずだ。このモミの木は、ぼくがいつも窓から見ていたモミの木だ。ぼくは周りを見渡したけど、たしかに、ここには、塔があったはずだ。ぼくは岩に触れた。ところどころ穴がでこぼこ空いている。きっと、とても昔からここにあったんだろう。
ぼくは岩の前で座り込んでしまった。岩の下に、青い花があった。だれかが青い花を置いていったんだ。ぼくは青い花をつかんだ。まだ新しかった。こんな、なにもない場所で、ただの岩の下にどうして……。ぼくの後ろで、白馬が大きくいなないた。そして街と反対にある暗い森へ、走り去って行った。
ぼくは街へ引き返した。一人で、ぼくは歩いた。
"青い花"へのコメント 0件