――九月二十日 (月)
玄関のチャイムが鳴ったので、僕は夕ご飯のうどんをすするのを止めてじっとする。ちょうど大きな油揚げを口に挟んでいたところだったから唇が焼けるように熱かったけど、僕はじっと我慢した。郵便の配達や新聞の勧誘かもしれない。だけど僕を連れ去ろうとする悪い人たちかもしれないからじっとしていた。悪い人たちが僕をどこに連れ去るのかって? それは強制収容所というところ。噂では僕みたいな人間は一か所に集められて、ボロキレみたいな服を着せられ、やりたくもない仕事をしなきゃいけないんだって。従わなかったら反抗できなくなる薬を無理やり注射されるらしい。もっと酷いことをされるって言う人もいるけど、その酷い内容についてここに書かない。書いたら本当のことになってしまう気がするから。
僕は強制収容所には入りたくないからじっと息をひそめる。二度、三度、四度、数秒おきにチャイムが鳴るたびに僕の心臓はドクンドクンと胸から飛び出しそうになったけど、五回目のチャイムのあと六回目は鳴らなかった。僕は次のチャイムが鳴らないのを暫く待ってから急いでうどんを食べ終えて屋根裏部屋へ向かった。寝るときはいつも屋根裏部屋だ。だってベッドルームで寝ているときに悪い人たちが玄関のドアを蹴り破って中に入って来たら見つかってしまうでしょ? だから僕は屋根裏部屋に布団を敷いて寝ている。この日記も屋根裏部屋で書いているんだよ。
――九月二十一日 (火)
僕にはお母さんもお父さんもいない。二人とも事故で死んじゃったんだ。だから僕はこの家に一人で暮らしている。お母さんもお父さんもいないから色々と不便なことがあるけど、僕たちにはコミュニティがあってお互い助け合って生きているんだ。直接会う機会はあまりないけれどね。
食べ物はカップ麺とか温めるだけのごはんや缶詰ばかりだから、たまには焼き肉やお刺身、新鮮なサラダを食べたいと思うけど、悪い人たちに見つかる可能性があるから街のレストランで食事することはできない。定期的にAmazonで食べ物を注文しているんだ。もちろん置き配指定にして外に誰もいないことを確認してからさっと玄関のドアを開けて取り込むんだ。
いつまでこんなことを続けなきゃいけないのか、どうしてこんな世の中になってしまったのか考えても僕にはどうすることもできない。この埃くさい屋根裏部屋でじっと世界が変わるのを待っているしかないんだ。
――九月二十三日 (木)
コミュニティの仲間たちとネットで週に一度の報告会をした。もちろんトーアを経由してね。話した内容は各々の近況と、新たにコミュニティに協力してくれる人の情報、それと雑談。みんないい人ばかりで凄く楽しかったけど、一つだけ気になることがあった。僕に凄く優しくしてくれるヤスヒコさんがオフラインだったんだ。僕たちへの締め付けが今ほど厳しくないときにコミュニティの集会所でヤスヒコさんに会ったことがある。そこでヤスヒコさんはお母さんとお父さんが死んで気落ちしている僕に優しく話しかけてくれた。二人で集会所を抜け出して裏山で遊んでくれた。とってもかわいがってくれた。今日もいっぱい話をしようと楽しみにしていたけれど、オフラインだったから話せなかった。他の人にヤスヒコさんのことを聞いても、なんでヤスヒコさんが今日来てないのか知らなかった。僕はヤスヒコさんが悪い人たちに捕まって強制収容所に連行さられたのかと一瞬考えてしまったけど、風邪をひいたとか別の用事があったから参加しなかったと思うことにした。悪い想像はしない方がいい、だってお母さんやお父さんがいなくなったときのことを想像していたら本当にいなくなっちゃったから。だからヤスヒコさんが強制収容所に連行されたとは考えちゃいけないんだ。
明日ヤスヒコさんに直接連絡してみよう。
――九月二十五日 (土)
今日はミヨちゃんがうちに遊びに来た。玄関のチャイムが「ピンポン」と鳴って少し間を開けて「ピンポン、ピンポン、ピーンポーン、ピーンポーン、ピンポン」、それから「ピンポン、ピンポン、ピーンポーン、ピンポン、ピンポン」、また間を開けて「ピンポン、ピンポン」と鳴った。これは僕とミヨちゃんとの間で取り決めた秘密の合図で、複雑だけど、そうしないと悪い人たちとの区別がつかないから、ミヨちゃんに覚えてもらったんだ。
僕は玄関のドアを少し開けて、ミヨちゃんの姿を確認してからミヨちゃんを部屋の中に招き入れた。ドアスコープで確認すればいいって思うかもしれないけど、ミヨちゃんはまだ小学校に上がったばかりでちっちゃいから、ドアスコープで姿を確認することができないんだ。
ミヨちゃんはセミロングの髪の毛を真ん中で分けて、耳の後ろで纏めた髪の毛が白い半そでブラウスの両肩にちょこんと乗っている。橙色の丈の短いフレアスカートからニョキっと日焼けした細い足が伸びていて、開いた両足を身体に対して幾分大きめのスニーカーで支えている。ミヨちゃんは僕を向かってニコッと笑うと「おじゃまします」と言って玄関でスニーカーを脱いでリビングに向かって歩いて行った。僕はミヨちゃんのすぐ後ろに付いて歩いて行く。髪留めゴムからはみ出した細い栗色の髪の毛が汗で張り付いているミヨちゃんのうなじを見つめながら、僕は鼻から大きく息を吸った。干し草の匂いが鼻腔にわっと広がる。僕はその匂いを吐き出す前にもう一度大きく息を吸ってから息を止め、そしてゆっくり吐き出した。女の子は小学校四年生くらいから嫌な匂いがするようになる。男の子も中学生になると匂いが変わるけど、女の子の匂いは男の子のそれとは少し違っていて、男の子が熟れていないかぼちゃの苦みのような匂いが混じるように、女の子はみかんのような甘い匂いとお魚屋さんから漂って来る生臭い匂いが混じる。それが大人の女の人の匂いなのだろうけど、僕はその匂いが大嫌いだ。外に出歩けていたころは、その匂いがすると近くに大人の女の人がいないか探して、見つけると遠ざかるようにしていた。匂いでウエっと気持ち悪くなってしまうんだ。だからミヨちゃんの匂いを嗅いで僕は安心する。ずっとミヨちゃんの匂いを嗅いでいたいと思う。このままミヨちゃんが大人にならなければいいなと思う。
僕たちはいっぱい話をした。いっぱい遊んだ。ミヨちゃんが「そろそろ帰らないとお母さんが心配する」と言っても、引き止めて遊んだ。だって僕にはお母さんもお父さんもいないから寂しいんだよ。だからずっと、ずっとミヨちゃんと遊んでいたかったんだ。
――九月二十七日 (日)
今は五時。朝の五時だ。ミヨちゃんと遊んだときのことを思い出していたら眠れなくなっちゃって、なんなくパソコンを立ち上げたらコミュニティから緊急の連絡が入っていた。コミュニティに参加している人が悪い人たちに連行されたらしい。僕は怖くなったから玄関に行ってちゃんと鍵を掛けているか、郵便受けを開いて外に誰もいないかを確認してからまた屋根裏部屋に戻って日記を書いている。コミュニティの人が連行されたからといって直ぐに僕のところにも悪い人たちが来ると決まったわけではないけれど、気を付けなければならない。でもね、僕たちがどんなに気を付けていても、悪い人たちは僕たちを見つけ出すことがあるんだ。その方法は分からないけど、一人連行されたら続けて何人も連行されることが今までに何度かあった。そして連行された人はもうコミュニティには戻ってこないんだよ。
しばらくすると玄関から厭な物音が聞こえてきた。「ガチャガチャ」というドアノブを回す音、「ドンドン」というドアを叩く音。
悪い人たちが僕のところにも来たんだ!
僕は布団にくるまってじっと息をひそめる。音を出さないようにゆっくりと呼吸して体を動かさないようにする。すると「ガチャガチャ」「ドンドン」が聞こえなくなった。
僕は悪い人たちが帰ったのかと思って布団から顔を出す。すると大きな声で僕の名前を呼ぶのが聞こえて来た……。
※
「どこにもいませんね」
山田巡査長は玄関から奥の部屋に続く廊下の真ん中に立つ橋本警部補に向けて言った。左手にリビング、右手には和室が広がっている。橋本警部補は山田巡査長の言葉に頷いたあと、顔を上げて廊下の天井を指さした。
「あれを見ろ」
山田巡査長が橋本警部補の指さす方を見上げると、天井の中心に正方形に切り取られた金属製の枠があった。枠の下辺に穴の開いた取っ手が付いている。
「屋根裏部屋ですかね?」
橋本警部補はあたりを見渡し、電話台の横に立てかけられている先端が鉤爪になった金属製の長い棒を見つけると、手に取り天井に向けて伸ばした。そして鉤爪を枠の取っ手に掛けて勢いよく引っ張った。「ガラガラ」とレールを滑る音と共に木製の梯子が降りて来る。
「行くぞ」
橋本警部補は山田巡査長を従え梯子を上って行った。橋本警部補は屋根裏部屋に顔を出したところでペンライトのスイッチを入れる。そして屋根裏部屋を照らした。布団一式とその隣に毛布が見える。毛布は何かがくるまっているように膨らんでいた。
「ビンゴだ」
橋本警部補はそう呟くと毛布のふくらみにペンライトの光をあてながら屋根裏部屋に上った。続いて山田巡査長も屋根裏部屋に上がる。そして二人で毛布に近づいて行った。
「坂本安吾だな!」
橋本警部補は毛布の端を掴んで引っ張った。
※
――九月二十八日 (月)
ヤスヒコさんはやっぱり凄い。悪い人たちが僕の家に来る前に助けてくれたんだ。昨日の朝、玄関のドアノブを回す音やドアを叩く音が聞こえたから悪い人がやって来たと思って音を立てないように布団にくるまっていたら、僕の名前を呼ぶ声が聞こえた。僕はすぐにヤスヒコさんの声だと気が付いた。僕は屋根裏部屋から出て玄関の何重にも掛けた鍵を外してドアを開けると、やっぱりそこにはヤスヒコさんがいて、僕を車に乗せて助け出してくれたんだ。ヤスヒコさんは助手席に座る僕に「ミヨコはどうした?」と聞いて来たから、「毛布にくるんで屋根裏部屋においてきた」と答えたら、「そうじゃなくて」と言って、僕はその言葉に「ああ、そうか」と気が付く。「ちゃんと撮影したよ、このSDカードに入ってる」と言ってSDカードを運転席に向けた。それを見てヤスヒコさんは優しい微笑を僕に返してくれた。
(了)
千本松由季 投稿者 | 2021-09-20 04:14
上手く理解できないのですが、登場人物の坂本安吾は坂口安吾で、小学一年生のミヨコは坂口より17才若かった妻、坂口三千代で、ヤスヒコさんは作者の諏訪靖彦さんで、警察は警察ですね。坂本や彼のコミュニティは幼児好きで警察に追われていた。坂本はミヨコを殺害して布団で包んだ。考え過ぎ?
その辺がはっきりしないので、なんなんですが、文章は秀逸で全体に流れる緊迫感がよかったです。
小林TKG 投稿者 | 2021-09-20 05:00
日記にしては随分と他人の目を意識してるなと思いました。いや、どうなんだろう。私のやってるそれが、単に人の目を気にしなすぎなだけかもしれないんですけども。ただまあ、読んでる人を楽しませようとする工夫みたいなのが感じられました。いや、小説だからそらそうなんでしょうけども。アンネの日記とかも実はこういうのなのかな。どうなんだろう。
ヨゴロウザ 投稿者 | 2021-09-23 00:21
安吾はどこか頭のおかしい人、たぶん子供でもない年齢の男で、ミヨコちゃんは殺されたのでしょうか。自分も千本松さんのような解釈をしましたが、警察が「坂本安吾」だと思って引っ張った毛布の中に彼女の死体があって、間一髪逃れた安吾は殺害の模様を収めたSDカードを同好の士であるヤスヒコさんに見せた、と。コミュニティを密告したのもヤスヒコ?
鈴木沢雉 投稿者 | 2021-09-23 22:34
ミステリ掌編としては面白かったですが、いかんせんホロコースト要素が薄すぎでしたね。そしてミヨコがこちらの想像通りの目に遭ってるとしたら、後味悪くて夜も寝られません。いつものことですが。
波野發作 投稿者 | 2021-09-24 11:36
もはや名人芸。アンネの日記の隠遁生活をモチーフに現代訳をしつつ、ペド事案として成立させるなんて、どこのナショナルチームのソーンプレスの精度だろうかと感服しました。
古戯都十全 投稿者 | 2021-09-24 22:02
ラストで大笑いしました。
ホロコーストのテーマを騙ったハイパーペドンタテインメントですね。
ミヨちゃんの執拗な描写のところで予想できなかった自分はまだまだ至らぬ身です。
大猫 投稿者 | 2021-09-24 23:56
ホロコーストとの関連性はアンゴとアンネ?
ヤスヒコさんはアンゴを助け出したのですか?
それとも山田巡査部長がヤスヒコさん?
なんて野暮なことは聞きませんので、合評会当日はベド野郎と言われても甘んじて受け止めて下さい。
Fujiki 投稿者 | 2021-09-26 00:41
他者に読まれることを意識した日記というものは谷崎など変態モノの定番なので大いにありだと思う。体臭に関する記述が秀逸。ヤスヒコさんの業が深すぎて、お題とかどうでもよくなってくる。
松尾模糊 編集者 | 2021-09-26 12:56
ミステリの方で自分の知らぬ間にペドキャラしているようですね。警察を煙に巻くヤスヒコさん、シリーズ化できそうですね。
曾根崎十三 投稿者 | 2021-09-26 13:44
甥っ子の話かと思ったらまさかのペド!
匂いの描写が良かったです。変態的で。ヤスヒコさんはペドヒエラルキーの上の方なんですね。
アンネの日記をなぞらえていましたが、お題からは少しそれたような……。刑務所に行っても大量虐殺されるわけではないので。
一希 零 投稿者 | 2021-09-27 13:58
破滅派感ある小説ですね。久しぶりに破滅派に顔出させていただきましたが、なんだか安心しました。ホロコーストと本作を重ねるには、加害と被害が逆転していますので(単純な加害の側と被害の側が分けられるものではないことを了承の上)、「ホロコーストがお題の小説」としては、なかなか危険な小説と思いました(アンネ読者に怒られそうで破滅的です)。凄まじい描写力に読まされました。良かったです。
Juan.B 編集者 | 2021-09-27 16:22
何が起きてるかよくわからない部分もあったが、俺は警察なんか嫌いなので、とにかくいい話だと思った。これからも彼らには社会への攻撃を頑張ってほしい。