海野優人は限界を迎えていた。
数週間前から肛門付近にしこりが出来ているのは気付いていた。ほっとけばそのうちなくなるだろうと考えていたが、数日前から椅子に座るのが困難になり、排便時に激痛が走るようになった。これは病院に行った方が良いだろうと思い始めた矢先、便座に座る両足の間からポタンポタンと真っ赤な鮮血が便器に落ちていくのを見て、今がその時だと思った。
「Hey Siri 近くの肛門科は?」
「付近に2件の肛門科があります、地図を表示しますか?」
「そうしてくれ」
優人は便座に腰を降ろしたままiPhoneの画面を見つめる。駅前に1件、車で数分のところに1件表示されている。肛門科と縁のない人生を送って来たが、案外肛門科はどこにでもあるものだなと感心する。駅までは徒歩十五分、駅前の駐車場が開いているとは限らないので徒歩で行く必要があるだろう。ならば車で数分の場所にある肛門科に向かった方が良いだろうが、今車を運転したら事故を起こす可能性が高い。この忌々しい奴は座ったときにこそ真価を発揮するのだ。徒歩であれば肛門括約筋を微妙に調整すれば何とかなりそうな気がする。妻に送ってもらえれば良いが、あいにく妻は仕事に出ている。
優人は徒歩で駅前の肛門科に向かうことに決め、iPhoneをポケットにしまってパンツを上げようとして直ぐ戻す。あぶない、パンツが血だらけになるところだった。優人はトイレットペーパーを重ねて肛門に押し当てるためトイレットペーパーをカラカラ回していると、予備のトイレットペーパーを入れるラックの中に妻の生理用品が置いてあるのが見えた。あれを使えばいいのではないだろうか。優人はラックの中から生理用品に手を伸ばし広げてみる。おそらくこの柔らかい部分を肛門に押し当てれば血を吸収してくれるのだろう。しかし、左右に付いた羽のようなものの使い方が分からない。いやまて、俺はこれから肛門科に行くのだ。生理用品を身につけている変態がやって来たと思われはしないだろうか? いや痔のために生理用品を使っている男もいるのかもしれない。いるかもしれなが、肛門関係に疎い俺はそれが正解なのか分からない。ここは冒険するべきではない。
優人は何重にも重ねたトイレットペーパーを肛門に押し当てパンツをはくと、肛門括約筋を調整しながら駅前の肛門科に向かった。
「ああ、これはいぼ痔だね、だいぶ大きくなってますよ」
ビニル手袋をした初老の男性が優人の肛門を広げてそう言った。優人はドギースタイルで首を後ろに回している。
「手術が必要ですが?」
「うーん、今はいい薬があるからね、もう少し様子を見ましょうか。手術で切るのはこれ以上お尻を圧迫して……」
「なにを言ってるかわかりませんでした」
無機質な声が診察室に響いた。優人は医者を見ているだけで口は動かしていない。一瞬の静寂の後、初老の医者が口を動かした。
「いや、だからね、これ以上お尻を……」
「なにを言ってるかわかりませんでした」
医者は明らかに苛立っている。優人はポケットに手を入れiPhoneの電源ボタンを長押しした。
(了)
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