十二時四十五分。
激務の合間に一息つくランチタイム。朝から喋り通しで満身創痍の体を抱え行く先は、職場併設の清潔なカフェテリア。馴染みの席。ちょうど窓から日が差し込む特等席で、目の前のプレートが照らされる。
本日の昼食は、オムレツがメイン。そして、サラダにトマトスープ、パン、そしてミルク。小ぶりのオムレツにはジャガイモとほうれん草が練り込まれていてヘルシー。
空腹の成人男性にはやや物足りない量だが、時間がない昼時には都合が良い。手際よくパンを一口サイズに取り分け、いそいそと口へ運ぶ。
テーブルの端には午後の業務の資料。昨晩、丹念に時間をかけて作成したが、受け入れてもらえるだろうか。完成させたことによる昨晩の安堵が不安で上書きされる。
呑気な眩しさが、不安の存在を強引に虚構とみなすかのようだ。午後の業務から遁走する心持で、視線を窓の外に向ける。
明るすぎる。窓に背を向け、資料を持ち直す。
すると、一人のレディに声をかけられた。
「佐々木先生、おかわりしていい?」
ここは五年三組の教室だ。特等席とは、教室内に設置してある教員用のデスク。
一月も半ばだというのに妙に天気の良い日であった。この日の北海道S市は、冬真っ只中なのに、コート内が汗ばむ程に温暖であった。冬は冬らしく寒くあれ。
そして、俺は「オフィスカジュアル」で、つまり、ジャケットを羽織る働き盛りの若者……だといいのだが、実際は着古したテロテロのジャージに身を包む教員だ。
首から下げるのはイカした企業のICカード……ではなく、運動場で子どもを従わせる用途の馬鹿うるさい笛。都会の洗練されたオフィスでは「ピッ」とカードを機械にかざせば自動でドアが開くという。俺はこの時代に「ピピーッ!」と近所迷惑な間抜けな笛で児童を統率する。
清潔な職場など幻想で、外は塵芥にまみれているし、教室ではチョークの粉と埃をかぶる。時には、トイレ掃除で汚物と対峙する。憧れの職場からは程遠い。泥臭いどころか糞臭い。
そして、目の前には一晩悩み抜いた新しい座席表。面倒だから全部くじ引きにしたいのだが、保護者からの苦情だとかを考えるとリスクがある。それに、授業をするうえでも俺が不都合を被る。時間をかけるべき作業だ。
とはいえ、教員が一方的に座席を決めたとなると、不平不満が生まれる。狭い教室だし、どこでも変わらんと思うのだが、子どもにとっては大きな意味を持つ。なので、席替えの時にはPCの画面をスクリーンに映し、ランダムの抽選で座席が割り当てられるかのような演出をする。
三~四分かけて、スクリーン上の空欄の座席を児童の氏名が埋めていく。どの子も天国と地獄の審判を待つかのような面持ちだ。学校生活で一番緊張する瞬間かもしれない。
実際は、俺があらかじめ設定しておいた座席が表示されるが、小学生だと意外と騙される。子どもにウソをつくのは罪悪感がある。しかし、こういうのは、サンタクロースのように必要な演出だ。教員生活四年目だが、何度も助けられた。このトリックにより、「クジで決まった席だから仕方ない」感で不満を抑えつつ、俺の思惑通りの配置を実現するのだ。
そんなわけで、秘密のプリントをさりげなく袖机の引き出しに隠し、女子児童からの問いかけに応答する。
「お、そろそろおかわりしていいぞー。」
クラスから歓喜の声が上がり、五~六人の児童が教室前方の給食台に群がる。
俺は給食は嫌いだ。現在二七歳で、あと三十年近くはこれを食うとなるとうんざりする。弁当持参が許される高校教員に転職したい。
特に洋食がまずい。学校内に給食室があるから比較的他校よりはマシなはずだが、給食の洋食はそれでも救いようがない。
特に卵料理は最悪だ。アツアツではなくて半端に温められたぬるいオムレツや目玉焼きが提供される。卵の生臭さが濃縮され、口に入れた途端にえずいてしまう。
しかも、ドリンクが牛乳しか許されないので、茶や水で流し込めない。卵臭くて吐き出しそうなのに、乳臭い液体で強引に胃に収めることになる。欠陥だろ。食育以前に緊急で食べ合わせの改善を検討すべきだ。
そして、サラダ。現代の学校給食では食中毒予防のため、生野菜を提供しないのが主流だ。そのため、茹でただけのやる気のないキャベツが温野菜として出される。これも、青臭さが増量し、不快だ。ウサギだって食わねえぞ。ドレッシングで誤魔化したい。
ただ、トマトスープなどの汁ものは例外だ。ハズレが少なく、旨味を感じられる。スープが一番うまいと感じるのが加齢の証拠だ。時折、アルファベットを模した謎のふやけたマカロニが入っているのが意味不明だが、子ども受けは良い。楽しく完食できるのなら、学校的にはアリだろう。
しかし、自分が子どもの頃は何も考えずに食べていたはずだ。最近は、どうしてこんなに不満ばかり出るのだろう。実際、受け持ちの児童は、おかわりまで所望しているのに。
ここ数年、不満が多くなった。そして、処世術を身につけて小賢しくもなった。
おかわりの許可を得た女子児童「神田ティア」は、目を細めて嬉しそうだ。手には袋に入ったコッペパンを持っている。この児童は頻繁におかわりをするが、毎度主食を選ぶ。今日だったら、メインのオムレツあたりが人気なはずなのに。クラスで一番小柄で140㎝もない彼女はよほど空腹なのだろうか。そして、コッペパンがパサパサで不人気なのは今も昔も変わらない。
ティアはパンを握るとパタパタと自席に向かっていった。1つに括られている髪が茶色に輝く。
ところで、「ティア」という名前は所謂キラキラネームの部類だ。最近は、「剣士(ないと)」や「翔馬(ぺがさす)」のように難読の名前が多い。そのため、「ティア」と悩まずに読める分にはありがたい。それに、読みがキラキラネームでなくとも、難読はありふれている時代だ。どっちみち名簿の全員の名前にフリガナを振るので、俺は何とも思わない。本人が気に入っているか否かが重要だろう。
ティアは自身の名前を気に入っているようだ。
四月の授業開きの時。五年生ではクラス替えが行われるので、最初の授業では、お互いの自己紹介から始めた。
正直、四年も同じ学校にいるし、幼稚園が同郷の者も多いので紹介し合う必要があるかは不明だ。まあ、児童もいきなり授業を受けるモチベーションもないし、こういう時間は神経質な児童には緊張をほぐすきっかけとなると学部の教員養成の講義で聞いたことがある。
すっかりマスクの着用がマナーとして根付いた世の中だが、品不足でお手製の布マスクを使う児童が教室の半数を占めていた。流行りの市松模様や麻の葉模様のマスクやキャラクターのイラストのマスクを身につける者も多い。
担任によっては、無地のマスクを推奨するようだが、俺のクラスは今のところは何も言わない。学年で取り決めが交わされない限り、藪蛇はつつかない。正直、マスクの柄が何だろうと良いと思う。羨ましがるのを理由にするのなら、服装やカバンのキーチェーンや文房具から統一すべきだ。「キャラマスク警察」としての仕事を作らないでほしい。
世間では紙マスクが不足しているが、手作りの布マスクは子どもにとって羨望の対象のようだ。うちのクラスでは紙にマジックでイラストを描きだすものもいた。
「自己紹介では、名前、前のクラス、好きなものを言おう。そのあとに、喋るのをやめてそっとマスクを下げよう。お互いにどんな顔なのか確認しようじゃないか」
「そんなことしていいの!?」
先頭の席に座る市松模様の健太が大きな声で質問をする。
「本当は良くないけど、一瞬なら大丈夫。だけど、絶対に口を開かないように。これから一緒に過ごす仲間の顔がわからないのは嫌だろう?どうしてもマスクを下げたくない人は、無理しなくても大丈夫です」
児童も説得に応じてくれた。好感触だ。実のところ、俺はこの学校に今年から赴任したため、クラスの児童の顔を肉眼で確認するのが目的だ。
ティアは三番目に自己紹介をした。控えめな小花模様のハンカチを加工したマスクだ。
「神田ティアです」
「変な名前だよな~!」
「そんなこと言うなや!」
雄太が囃し立てる。雄太は、思ったことを発してしまう癖があると前任の教員が引継ぎ書に書き残していた。そして、昨年は児童会書記を務めあげたと記録されている理子が強めの口調で諫める。
ティアは雄太の方を向き、黒目がちな眼をカッと見開いた。
「私の名前はね!ピカピカのティアラが由来なの。プリンセスがつけてるやつ!お母さんがつけてくれました。だから……」
小柄な体から大声を発して訴えるティアに雄太もクラス全員も圧倒された。雄太は涙目で俯く。正直、空気が怒りに呑まれている。まずい。
すると、ティアが一息ついて続ける。
「ティアってたくさん呼んでください!あっ、前のクラスは二組で、最近好きなことはおばあちゃんと料理をします。よろしくおねがいします!」
ティアが空気を二度も変えた。
雄太は神に許されたかのような安堵の表情を浮かべる。俺はどの児童よりも先に拍手をしてしまった。シンと静まり返っていた他の児童も続く。
「先生、まだ!」
慌てて、ティアがマスクをはずす。髪の毛を後方に括っているため、顔がよく見える。
季節など無視するかのように浅黒く日焼けした肌。小さな丸顔の中心には、奥二重の切れ長の目。そして、体格に似合わない鷲鼻が目に入る。鼻が目を引き上げるようだ。黒々とした眉が目の近くでアーチを描き、力を宿す。固く結ばれた薄い唇は、珊瑚色だ。
小動物のような少女に俺は見入った。知性と生命力を感じた。しかし、一方で脆さも垣間見えるようで気になった。
ティアの素顔はすぐに小花色のマスクで包まれてしまった。たった数秒であるのに、今でも脳裏に焼き付いている。
オムレツの給食の後、教頭に職員室に呼び出された。全教職員が円の形に集まる。
「この後、緊急で全校集会を開きますので、五限の授業は中止にしてください」
「どのような集会でしょう?」
ゴマ塩頭でサッカーのユニフォームを着た中年の体育専科の教員の山野だ。首からは例の笛を3つも下げている。山野は細身でワインレッドのシャツの教頭に質問する。
「時期的に感染症のことですね。とにかく、もうそろそろ時間なので、教室にお戻りください」
始業五分前の予鈴の音声がキンコーンと響き渡る。
五年三組四〇名が体育館に入場する。身長順で先頭のティアが、隣を歩く理子に話しかける。
「コロナのことかな」
「そうさね、東京で緊急事態とかニュースで見たしそれじゃないかい?」
児童たちの予想通り、教頭が手洗いうがいの大切さと関東の人々がいかに苦しんでいるのかを七〇〇人超の児童に語る。
「……であるからして、皆さんもお友達を守るつもりで生活をしてくださいね。そして、今日はもう一つ連絡があります」
体育館が騒めく。体育館後方の壁にもたれながら待機する教職員にも動揺が走る。やはり、何かあるのだな。
「さて、しっかり聞いてくださいね。感染対策のため来週からは午前授業にします」
その瞬間、不安の騒めきが歓喜のそれに変わった。マジか。そんな大事なことが児童とともに教職員に共有されるなんてアリかよ。でも、事務作業の時間が増えるから悪くない。児童も教職員も顔を見合わす。
「はい、はい。静かに。今日は水曜日ですね。来週から給食もなしの午前授業になります。緊急で申し訳ないのだけれど、おうちの方向けにプリントをこの後配りますので、絶対に見せてくださいね。学校のメーリスに登録しているおうちには、メールも届きます」
集会を終え、教室に戻る前に職員室に立ち寄ることにした。職員室中央で山野が教頭の胸倉をつかんでいた。顔は茹で蟹のようで、口からは泡。不潔だ。
「どうして……!どうして、そんな大事なことを勝手に決めてしまうんです!」
別にいいじゃないか。どうして怒り狂うのかがわからない。探し物をする振りをして自席の引き出しを無意味に開け閉めする。
「山野先生、落ち着いてください。近隣の東小学校も同様の対応をするのです。こういう感染症は地域ぐるみで対応するべきです」
「……っ」
「でも、アンタも知っているだろう、東小学校では児童の家族に感染者が出たから休校になった。うちが合わせる必要ない!」
「保護者からすれば学校はすべて学校ですよ。実際、先週から問い合わせが何十件も来ている。今年度については、休校で授業時数が減っても学校教育法施行規則で問題ないとされるようです。校長の許可は得ているし、手続きも奇跡的に迅速に進んだのですよ。何が問題です?先生もリフレッシュしましょう」
「でも、そんなに短絡的に決めていいことじゃないでしょう!納得がいきません!」
「山野先生」
教頭が落ち着いた口調で、シャツを掴む山野の手を払う。
「あなたに納得してもらう必要があるのですか?」
山野は口を紡ぎ、舌打ちをして退室した。俺も適当に目の前の教科書を掴んで退室する。
「佐々木先生もご理解いただきましたね?」
教頭が小声で俺に話しかけた気がした。
実際、保護者からの反応は上々であった。子どもの分の昼食の準備が大変、早く帰宅するとうるさい、などの意見が多数かと思いきや、うちのクラスでは2件のみ。それも、マニュアル通りの説明をすると、「まあ、こんな時期だから仕方ないわね」と渋々承知してくれた。話のわかる保護者で助かる。
クレーム処理に怯えていたが杞憂であった。「お子さんの命を守るため」というワードは最強の切り札だ。納得せざるを得ない。あとは、早く帰れてご機嫌な子どもを見ると、悪い気もしないのだろう。
金曜日。一旦最後の給食の日であった。児童たちは名残惜しい顔をすると思いきや、そうでもなかった。今の子はドライだ。
メニューは、カレーライス、麦ごはん、フルーツポンチ、牛乳。そして、チョコレートババロアと半分凍ったプリン。デザートが2品も出るなど、異常事態だ。急に給食の発注をやめたため、今週いっぱいをかけて徴収した給食費の調整が行われているようだ。
名残惜しさを誰一人として出さないものの、この日は完食する者が多かった。クールだ。神田ティアは並々に盛ったカレーライスをおかわりしていた。
俺は気まぐれでこんな提案をしてみた。
「なあ、給食センターの職員さんにお礼を言いに行くのはどうだろう。こんな時期だし、全員じゃなくてもいいし、長居しないこと。今日の三時くらいまでは、誰かいるだろうから、手紙でも渡すと喜ぶんじゃないかな。もちろん直接お礼を述べてもいい」
俺の提案はハッキリと反対も賛成もされなかった。というより、「……」という反応であった。暗に反対をされているのだ。ここで声を上げると、自分が悪者になるから助け船を待っているのだろう。低学年の子らならば、「やろう!」と乗り気になるが、高学年だと気恥ずかしさもある。
「まあ、強制はしないけどね。こういうのは、命令されて行くものじゃないな。心のないお礼なんて意味がないもんな。ごめんな」
俺は、独り言の体で即座に提案の取りやめを宣言した。衝動的にイレギュラーなことを発するべきじゃない。空気がほぐれ、クラスに安寧が訪れた。
翌週の水曜日、安寧はいとも容易く崩れる。神田ティアが万引きを働いたという。学校の目の前のパン屋「パンドラ」の店主のオヤジから学校に連絡が入った。幸い、オヤジの温情により、警察沙汰は免れた。
事務員の鈴木さんが用意してくれた菓子折りを手に、謝罪に向かう。
この日は酷い大雪で、通りを渡るだけで肩に雪が積もる。ギッギッと雪を踏み固めながら、正門前の横断歩道を渡る。俺が万引きをしたわけではないのだが、足取りが重い。これも仕事だ。
肩の雪を払い、パンドラの扉の前で深呼吸。肺に冷気が刺さる。扉を開けると、店主と目が合った。会釈をすると、店主は苦笑いしながら手招きする。学校の馴染みの店で本当に良かった。
「あー、なんもなんも。やったことがやったことだし、俺もあんな小さい子がそんなことするとはね。驚いてさ、厳しめに怒っちゃった。ごめんねー」
「本当に本校の指導不足でご迷惑をおかけしました。担任として厳しく指導いたします。後日、本人とも謝罪にお伺いさせていただきます」
出かけの直前にネットで調べて暗記しておいた謝罪文を読み上げる。
「思春期でよくわからない時期ってあるよなあ、泣くまで怒ったしそんな連れてこなくていいよ。先生、それよりさ、気になることがあるんだけど、見てやってくんないかい」
オヤジは声を潜めて俺に伝えた。
その日、ティアは欠席した。体調不良を親に訴えたようだ。通話の様子だと、保護者は万引きを知らない。
木曜日、遅刻一分前にティアは登校した。伏し目がちに着席するティアに声をかけたのは理子だった。
「ティアちゃんさ、昨日パンドラで万引きしたしょ」
「えっ……」
「うちのお母さんが、店員のおじちゃんに怒られてるの見たって言ってた。なして、そんなことした?」
「……」
高学年の女子には配慮よりも正義感が勝る者が多い。学級委員の理子は典型的なそのタイプだ。その正義感は往々にしてトラブルを引き起こす。悩ましい。
朝の会を告げるチャイムをかき消すように、ティアの周囲に輪ができる。
「パンなんか盗んでどうするんだよ」
「犯罪者とは絶交」
「わーるいな、わーるいな、センセイに言ってやろ」
その「センセイ」は俺なのだが、もう滅茶苦茶だ。予定が狂う。項垂れるティアのマスクから液体が垂れる。俺も泣きたい。喧噪の中、俺は立ちすくすしかない。
ティアは廊下を通りかかった山野によって別室に連れていかれた。俺は、朝の会を職員室で授業準備をする非常勤講師の大学院生に託し、後を追う。御免!
滅多に利用されず、説教部屋となっている視聴覚室の扉を開ける。埃が宙を舞う。前方座席のティアは、俺の顔を確認するや否や、両手の甲で目を拭い、嗚咽する。俺はティアの横に座る。学生時代の生徒指導の講義で、対面ではなく横並びに座ると圧を与えにくいと聞いたからだ。
「怒らないから話せるかな?」
「……盗んでないけど盗もうとした」
「盗もうとしたら、見つかっちゃった?」
「そう」
「パンドラのおじさんから、もう謝ったって聞いたから、俺からは怒らない」
ティアの嗚咽が増す。
「で、なして、盗ろうとしたの?スリル?」
「ちがう」
「ちがうんだ」
「……」
沈黙が五分程続く。目の前の山野の貧乏ゆすりが目に見えて激しくなる。
「神田!言え!」
堪えきれず山野が怒鳴る。残響。ティアの体が戦慄する。
「……お腹がすいたから」
「ティア、御免!」
俺は、ティアの方を向きなおし、素早く抱擁した。一瞬驚いたティアであるが、俺の肩に頭をもたげ、慟哭する。今だ。
ティアの頭に鼻を近づける。濃い豚の脂身のような臭いがマスクごしに伝わる。手で頭を撫でると指に不快な油脂が付着する。目線を落とすと、黒いセーターの肩にはフケが重なっている。襟から飛び出ているインナーのシャツの縁は帯状に黒い。
「佐々木先生!何するんですか!」
俺は山野を無視する。ティアの両肩に手を置き、彼女の目を見て質問する。
「ティア!お前、朝ごはん何食べた?」
「朝は食べない」
「朝は抜きか?じゃあ、火曜の夜は?火曜の昼でもいい。最後に食べたのは何だ」
「日曜日の夜にセイコーマートのツナおにぎり」
やはり、だ。まともに食事を与えられていない。
パン屋のオヤジの悪い予感が当たった。泣きながら謝る様子が過去の万引き犯とは違っていたらしい。普通は「お母さんには言わないで」「先生には言わないで」と自分を愛する人からの信用の失墜を恐れる。ティアは違っていた。「叩かないで」としきりに懇願した。
「わかった。大変だったな。これ食え」
パン屋の帰りに購入しておいたチョコレートブラウニーと緑茶を渡す。ティアは、息を荒げ、獣のように無我夢中で食らいついた。
ティアを保健室に預け、俺と山野は職員室に向かう。
「山野先生、もしかしてこうなるのわかってました?ほら、この間」
「佐々木先生、見て見ぬふりしましたよね」
はい、おっしゃる通りです。
「神田でなくても、どのクラスにもああいう子はいるんですよ。金がないわけじゃないから給食費は不足なく引き落とされるけど、世話ができない親」
「ティア…いや、神田。そっか、神田、毎回主食をおかわりしていたかも」
「ほら、しっかり見てますよね。ずるい」
山野がピシャリと俺に言い放つ。俺は、見て見ぬふりをしていた。ずるい。ティアのバッグからパンの袋が飛び出しているのも見たことがある。「猫にでもやるんだろう、小学生はそういうの好きだからな」なんて面倒を避けるような言い訳を捏造していた。
嗚呼、本当は気づいていた。それに、山野にも見抜かれた。
今気づいたかのように惚けて、わざわざ声にだして。そして、罪を免れようとする弱さも。浅ましさも。きっと。なんて、俺は小賢しいのだろう。
俺は余計な仕事を避けていたのではなく、目を背けていたのだ。それで、仕事ができる感に浸り、飢餓状態の女児を生み出した。自己陶酔も甚だしいじゃないか。
その日の夕方、ティアの家を訪問した。築五十年といったところのプレハブ小屋のような家だ。ティアラのような煌めきなど、この空間には皆無で、居間には祖父母の仏壇があった。趣味の「おばあちゃんと料理」も虚構なのだ。
ティアの母親と対談する。風が吹けば崩れそうな家だが、貧困というわけでもなかった。この母親は夜間営業のスナックでの仕事をしているようだ。おかげで、育児に手が回らなず、洗濯機の前には衣服の山ができていた。そして、この母親は、給食がなくなったことも、娘の万引きのことも、俺が告げるまで知らなかった。パン屋での万引きを知るや否や、血相を変え、泣き崩れてしまった。
「言ってくれれば、昼食代を渡したのに……。どうして」
ティアは給食がなくなることを母親に告げなかった。
あの日、保健室で養護教諭に確認してもらうと、ティアの体には痣などはなかった。母親に尋ねると、数か月前に父親のDVを理由に離婚したのだという。俺たちが調べることはできないが、ティアは日常的な虐待を受けていた可能性が高い。
ティアが言うには、昼間に睡眠をとる母親を起こしたくなかったという。そして、つい、魔が差したとのことだ。
そんなことで、たった一五〇円のアンパンを盗むか?親を起こす勇気がなく、盗みに至ったという言い分は現実的か?真相はわからない。
その後、神田ティアには転校の手続きが取られた。小さな町には娯楽がない。人の噂がエンタメとなる。ご近所新聞を発行すれば一儲けできそうな陰湿な閉塞感が存在する。故に、「貧乏で万引き」という噂が広まるのは一週間もかからなかった。
ティナの最後の登校日の夕方、教頭は「穏便に済んだのは佐々木先生のおかげですよ」と廊下ですれ違いざまに俺の耳元で囁いた。
三月。雪融けの季節がやってきた。通常授業に戻り、給食は復活した。再度全校集会が行われた。
「皆さんの頑張りのおかげで、お友達を守ることができました。引き続き気を引き締めていきましょう」
教頭が誇らしそうに述べる。どの子も褒められて嬉しそうだ。五年三組の三十九名もマスクの上の目を細めている。
俺は、どのような表情が適切かわからなかった。
それに、どの段階で何をすれば良かったのかもわからない。一人の少女のために、感染リスクを捨てて給食を続けるように働きかけるべきだったのか?過去に戻ったとして、ティアの危機を察知できたか?隠れて食事を与えるべきだった?パンのおかわりで疑うことができたか?教員の職務の範囲外では?学校の立場は?
もう「教員としての俺」でしか考えられない。この期に及んで、自分を擁護してしまう。手遅れだ。こんなこと、誰からも教えられていない。正解がわからない。俺の何が悪いんだ?俺は正しいのか?教えてくれ!
式の間中、山野の冷淡な視線が刺さる。
夜の帰路、雪片が浮かぶ水たまりをザンブザンブと蹴り散らしながら歩いた。ブーツの中の足が浮遊する。泥水で着地点を求めても見つからない。このまま引き摺りこまれてしまいそうだ。
俺は、後悔すらできない。
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