無論のこと僕は「酒は切らしてるんだ」と嘘をついた。うん、もちろんシャンパンもビールもウイスキーもブランデーもワインもスピリッツも泡盛も――今すぐバーを開業できるくらいの酒はあったさ。でも、繰り返しになるけれど、毒太朗の相手ができるような心に余裕のある日じゃなかったんだ。分かるだろう?
顔を背けて小さく舌打ちするというのが僕のその嘘を聞いた瞬間の夏太朗兄さんの反応だったわけだけど、彼はそんな反応を見せたあと、嫌いだと言っていた小瓶のコカ・コーラを取り、そうしてそれをこの世から一掃したいと言わんばかりに一気飲みした。で、それから彼は「ざまあみやがれ!」と言わんばかりに大きなげっぷをしたあと、距離を置きたいと言っていたアイスコーヒーを僕に頼んだんだ。
「ついうっかり死期を悟ってしまったというような顔をしてるけど、いったい何があったの?」と僕はアイスコーヒーを注いだグラスを夏太朗兄さんの前に置いてそう尋ねた。
「夫婦喧嘩をしただけだよ。言葉は喧嘩するために発明されたものだから、口喧嘩をするのはどこまでも人道的だよね」と夏太朗兄さん。
夏太朗兄さんは僕の姉の重たい尻に敷かれている。が、それは極めて当然のことだと言える。彼の住んでいるこのマンションの部屋だって僕のママが買い与えたものだし、それに彼は稼ぎが少ないみたいだし。子供の名前がこの夫婦の力関係を何よりもよくあらわしているんじゃないかな。
そんな嘆かわしい義兄に僕はこんな質問をしてみたのさ。「亜利紗の尻に敷かれるなんて僕にしてみればそれは銃弾ではなく防弾チョッキで殴られて殺されるくらい屈辱的なことなんだけど、そもそも何で亜利紗と付き合おうと思ったの?」
姉のようなブスで性格の悪い女と付き合うなんて(しかも結婚するなんて!)、社会通念上考えられないことである。夏太朗兄さんが僕の義兄になって五年半、僕は姉と夏太朗兄さんの馴れ初めについて尋ねたことがなかった。なぜかって? 興味がないから質問する気が起きなかったのさ。この二人について僕が知っていたのは、姉が利亜夢を身ごもったから学生結婚した、ということくらい。姉夫婦は結婚式は挙げた(海を望む美しいチャペルだった。新郎新婦の見映えがよければ感動できたかもしれない)けど、披露宴は執り行わなかった。つまり、二人の馴れ初め話を披露宴で無理やり見聞させられるという生き地獄を僕は体験せずに済んでいたってわけ。
さて、そもそも何で亜利紗と付き合おうと思ったの、という僕の質問に対する彼の回答は次のとおり。
「亜利紗と初めて会ったのは大学の『ただ働き蜂研究会』っていうサークルの飲み会だったんだけど、そこで友だちになって、それで、何ていうか、まあ、気づいたら付き合ってたって感じかなあ」
つづく
"Adan #23"へのコメント 0件