独歩が歩いた道 後編

平島 公治

小説

11,779文字

早大生の越川美奈は家庭の事情から大学を中退しなければならなくなった。学生生活の記念に友人3人と大分県の佐伯市へ国木田独歩を探訪する旅に出た。独歩の佐伯時代とカットバック的手法でパラレルに描く青春物語。

 

国木田独歩館は主屋と土蔵に分かれ、それぞれ一階と二階が展示室になっている。最初、詩織と亜美は主屋の1階で独歩の佐伯時代を中心とする資料を見て廻った。

美奈と北村は2階で独歩と収二の兄弟が下宿した部屋を体感した。その後、二組は入れ替わり、さらにその後、1階で合流して土蔵に入った。4人のほかには客が少なかったこともあり、今度は4人一緒に1階と2階を見て廻った。2階は休憩できる椅子があったので皆、腰かけた。

「やはり、4人一緒は動きにくいですね。なにせ、この建物が狭すぎます」

北村がタオルハンカチで汗を拭きながら辟易したように言った。

「とかなんとか言って、また、美奈と二人だけになりたいんでしょ」

亜美が揶揄うように笑って言った。

「また、亜美ったら。ところで、今日の予定はこの後、鶴谷学館跡を見てから昼食をとり、独歩の第二の下宿先跡がある葛港に行ってホテルに帰ることになっていますが、小登山を予定していた明日の最終日、お天気がよくないようなので、ちょっと変更させてください。今日はこの後、近くの城山に行きます。独歩は佐伯で元越山や尺間山などいくつかの山をそれぞれ1、2度登っていますが、最も頻繁に登っていたのがこの城山です。私も登ったことがないのでよくわかりませんが、前もって仕入れた情報によると旅行客が普通の恰好で頂上まで登ることは特に問題ないそうです」

「ええ? でも今日はまさか山登りするとか思ってないからスニーカー履いてきてないわ」

詩織が心配そうに言った。

「うん、そう思ってさっき見たけど、そのパンプスなら大丈夫よ。ゆっくり行くし……」

「え~? ほんとに?」

詩織は不安そうだ。他の3人は皆、スニーカーで来ているので問題ない。

「標高どのくらいですか?」

「サイトを検索すると、144mで山頂まで約20分と出ています」

「わかりました。でも昼食は降りてからすぐにしませんか? きっとお腹がすきますよ」

北村がすかさずに言うと、「これじゃあ風車の弥七じゃなくて食いしん坊のうっかり八兵衛じゃない!」と亜美が言ったので皆、大笑いした。

「ちなみに独歩は、『余が初めて佐伯に入るや先ずこの山に心動き』とか『この山なくば余には殆んど佐伯なきなり』と記しているほど、この山を愛したのです」

美奈が補足した後、4人は独歩館を右に出ると、山際通りを歩いて城山に向かった。途中、矢野龍渓生家跡を見学した。

城山登山道の入り口の下に着くと、右側に大きな案内板が立っており、北村が近寄って眺めながら「へえ、登山コースは4つもあるんですね」と美奈に言った。すると美奈が「そうらしいけど、今日はいちばん標準的な登城コースで行きます」と言って納得させた。

登山道入り口から左側には文化会館が見える。その手前のすぐ近くにトイレがあり、途中は用を足せないということで4人とも入った。

トイレを出たら登山の開始である。鳥居をくぐるかたちになるので、北村は、「こりゃあ創価学会の信者には酷だな」と呟いた。すると美奈が、「あら、北村さんって学会の信者さんだったの?」と訊くと北村が「いや、ぼくは無宗教だけど親兄弟が学会なんだ」と言った。

詩織は勾配を見て「ひえ~! きつそう……」と悲鳴をあげた。それでも亜美に励まされながら共に登り始めた。

周囲の照葉樹の木々は風に葉裏を返しながら、まるで登山客を歓迎しているかのように揺れ動いている。

「山頂にはなんかあるんですか?」

北村が言った。

「独歩碑があるわ。でも何よりお楽しみは頂上から見る絶景よ」

そんなことを言いながら登り始めた4人だったが、石畳の道が見えたあたりで詩織が「美奈、やっぱりこの靴じゃ無理だわ」と言うので美奈が「痛いの?」と訊くと、「痛くはないけど脱げそうで登りにくいの」と言った。

「サイズが合ってないんじゃないの」と美奈が言うと詩織は憮然としている。このままでは降りると言い出しかねない。「ローヒールだし、見た感じ、行けそうに思ったんだけどなあ。足のサイズは私と同じだったわね。私と靴を替えましょう」と美奈が言って靴を替え、なんとか事なきを得た。

山頂に着いて早速、4人は眺望を楽しんだ。かつて独歩が弟の収二と眺めた景色とは大きく変わっているが、佐伯を流れる番匠川の流れは変わってはいないはずだった。

夏の陽射しを受けて煌めいている水面を見ながら4人はしばし感慨に耽った。しかしこの川が決壊して佐伯の住民を苦しめたことが度々あった。明治に入って最初の氾濫は、じつに独歩が佐伯に着いて約二週間目のことだった。

 

 

(美奈のN)独歩兄弟は佐伯に着いて2、3日間は富永旅人宿に泊まりましたが、その後は佐伯の一等旅館であった月本旅人宿に移りました。しかしその1週間目に独歩兄弟は大分県下未曽有の大洪水を経験することになったのです。明治26年10月14日をピークとして番匠川が氾濫して洪水が前後1週間も続いたのです。独歩兄弟が住む月本旅館のある地区と独歩の職場である鶴谷学館のある地区とをつなぐ橋が流されてしまいそうになりました。橋がなくなったら独歩兄弟は学校に通えません。そこで月本旅館のおかみさんであるセイさんの機転により、独歩兄弟は川向うにある支店に再転居することになりました。ところがその頃、独歩は病床の身だったのです。

 

〔月本旅館の独歩兄弟の部屋。セイと収二に見守られるように独歩が寝ている。〕

「外は人間と馬とが折り重なるように倒れた死体や瓦礫が散乱してひどいもんです。こんな状態じゃお医者に診せることもままなりません。とにかく諸木橋が落ちないうちにお二人は内町の店に移らないといけませんよ」

〔セイが心配そうな顔で収二に言う。黙って頷いている収二。哲夫の額の手ぬぐいを取ると、横の盥の水で堅く絞った〕

「こうなったら僕が兄を背負って行くしかないですね」

「大丈夫ですか?」

「兄は軽いのでなんとかなります。それに生活がかかっています。橋が落ちたらしばらくは学校に行けなくなるのですから……」

〔苦しそうな哲夫の表情を見つめるセイと収二。〕

 

〔同日、坂本永年邸。〕

「この分だとしばらくは休校ですな」

〔鶴谷学館の経営主任である中根が館長の坂本と相談している。〕

「新教師を招いてすぐにこれですからな。こういうことがあるとつくづく人事の無力を思い知らされます」

「まったくです。学館としてはやるべきことをやって、あとは天命を待つより仕方がない。時に国木田君はどうしているでしょうかねえ」

 

〔再び、月本旅館。収二に背負われた哲夫が、見送りに出てくれた旅館の夫婦や従業員たちに挨拶をしている。雨は小止みになっている。出発する二人。通りに出ると、あちこちで工事や片付けなどの作業をしている人がいた。その中を兄を背負った弟が歩いて行く。そしていよいよ諸木橋にさしかかった。見るからに傾いている。少し渡りかけると軋む音が鳴った。眼下には濁水が流れている。水嵩が増せば一挙に流されてしまいそうな状態だ。〕

「兄さん、渡るよ」

「ああ。もし橋が落ちたら私はいいから、お前だけでも泳いで渡るんだ」

〔収二はこれに返事はせず恐る恐る渡ってゆく。途中、急にガタンと音がして倒れそうになるが、なんとか態勢を立て直して歩き続け、無事に橋を渡り切る収二。やがて二人は転居先である内町の店に着いた。〕

 

(美奈のN)約2週間後、哲夫と収二は坂本永年邸に引っ越しました。佐伯に来てこれが3度目になります。二人が下宿することになった部屋は二階の二部屋で、八畳間が独歩、三畳間が収二の部屋でした。独歩兄弟は永年氏をお父さんと呼び、夫人のトキをお母さんと呼んだそうです。そしてそこにはモヨという娘がおり、独歩の身辺の世話を任されていたそうです。独歩兄弟は休みの日になると、あちこちに散策に出かけました。時にはトキさんに握り飯をたくさん作ってもらって泊りがけで出かけることもあったそうです。学校の方も順調に過ぎてゆきました。しかし年が明けると独歩にとっての大事件が起きるのです。

 

〔明治27年2月10日。朝、起床して部屋の窓を開け、背伸びをする哲夫。景色を見ながら目を下に移すと、庭先に書状のようなものが落ちている。何だろうと訝る表情の哲夫。階下に降りる。慌てて降りてきた哲夫を見て驚いた顔で声をかけるモヨ。〕

「おはようございます……」

「ああ。おはよう」

「どうされました?」

「庭に何かが落ちているんだ」

「わたしが拾ってきましょうか?」

「いや自分で行くからいいよ」

〔庭に出て書状を手に取る哲夫。その場で、つらつらと目を通す。〕

(美奈のN)それは勧告書事件と云われている出来事でした。本文は次のとおりです。

「別段書き置かざるべし。ただ其の意は、第一、先生来伯の時、自分のため八分、学生のため二分を務むと言ひしは薄情ならずや。第二、偏愛あり。第三、勉強家を益々庇護し、不勉強家を遠ざくるは、給金を受けつつある義務にそむかざるか。第四、昨日、矢野先生を気概なしと罵りたる所以は如何……等なり。」 記名は山本修吉となっていましたが、そのような名前の生徒は鶴谷学館にはいませんでした。実際は石丸敏一という生徒の仕業でしたが、後年、この人物は東京で独歩と仕事を共にすることになるのですから、人の縁とは不思議なものです。

〔読み終えて首を傾げながら部屋に戻って来た哲夫。弟の収二にも読ませて感想を訊いた。〕

「どうやら、私はかなり誤解されているようだ。特に、自分のため八分、学生のため二分を務むなどと言った憶えはまるでない。私が言ったのは『自分が佐伯に来たのはただ教師になるためではない。自分も皆と共に勉強し、修養するつもりで来たのである』ということだ。それがなんでこうなる。しかもまるで依怙贔屓しているかの言いようではないか。収二。お前はどう思う?」

「さあ、僕にはよくわからないけど、兄さんが誤解を受けていることは確かでしょう」

「今日、学校に行ったら富永君にも感想を求めてみるよ」

 

〔その夜。哲夫と富永が廊下で立ち話をしている。書状を読んで哲夫の顔を見ている富永。〕

「これは厳しいですな。まあ、誤解もあるようです。しかし何より問題なのは実名を伏せていることだ。意見があるなら堂々と名乗り出るべきだ」

「誰と思うね?」

「石丸しかいないでしょう」

「やはりそうか……」

「今日は来ていませんでしたが、明日、来たら、ひとつ呼び出して問いただしてみましょう」

「それはよいが争いごとにならんようにな。くれぐれも友好的にやりなさい」

「わかってますよ。僕や尾間、飯沼、並河、山口といった教会のメンバーが事を起こしたら耶蘇攻撃の理由を与えることにもなりますからね。中島先生あたりは大の耶蘇嫌いですから、石丸を背後から操っているかも知れないし……」

「まあ、滅多なことは言うものではない。とにかく石丸には問い詰めたりせず、表情から察するにとどめよ」

「わかりました。それと今度の土曜日に益友会主催の演説会があります。僕も出席する予定ですが、ここでも何か動きがあるかもしれません」

(美奈のN)「益友会」というのは、鶴谷学館の生徒を中心に構成された言論団体で、演説会と討論会を行い、「益友」という雑誌も出すなど、活発に活動していました。その演説会で独歩にとって致命的ともいえる出来事が起きてしまいます。佐伯に来る前に、徳富蘇峰から「人と衝突する勿れ」と忠告されていたのに、独歩自身が争いごとに突入してしまったのです。

〔明治27年2月17日 益友会、演説会の会場。夜8時半。たくさん人々が集まっている。石丸敏一が演壇に上がると割れんばかりの拍手が鳴り続けた。それを慣例通り、手で制して語り出す石丸。演題は「会員諸氏に訴ふ」と掲示されている。〕

「一人の教師と二人の生徒あり。しかして奇妙なる勧告書の教師の手に落ちし時、彼は之を一生に問ひしに、一生之を他生の所為なりと告げしと仮定せよ。之れ果して友誼あるものとなすべきか。友の悪を目の前に責むるこそ親友たるもののなすべき事たれ。さるを、そを直ちに其の師に告ぐる、之れ実に如何ぞや。況や其の人にして其の行なくば其の憤りや果して如何。古来歴史に接するに疑念ほど人を殺し、社会を毒せしものはなし。然るにこの疑心を挟んで浸りに人を上下することはそも何事ぞ。或は国家の政治を論じ教育を論ずるものに告ぐ。さる大なる経綸をなすよりも、乞ふ先づ自家の疑心を払へと。咄、何たる事ぞ。我を以て汝は一人の奸物となすか。我より国木田へ態々告げしものとするか。汝こそげに人を疑ふ者にあらずや。……」

〔再び、満場の拍手喝采。演壇から降りる石丸。〕

(美奈のN)これは独歩の一番弟子である富永徳磨を独歩もろとも痛烈に批判したものでした。これに憤った富永が反駁を試みましたが会場の反応はおもわしくありません。そこにやって来たのは独歩でした。

「富永、私に代わりなさい。私にも言わせてほしい」

「あっ、先生」

「それは許可できませんなあ、国木田先生」

「田川か。どうしてだ?」

「益友会にも会則というものがあります。演説は会員にのみ認められています」

「ま、ま、そう固いことを言うな。ちょっと喋らせろ」

「ダメと言ったらダメです」

「規則だった所詮は人間が作った決まり事に過ぎないではないか。そう杓子定規に言うものではないよ。頼む。ちょっとだけでいいから喋らせてくれ」

「しょうがないなあ。ちょっとだけですよ」

(美奈のN)根負けした委員が独歩に登壇させたのですが、独歩はこの折角のチャンスを台無しにしてしまいました。事もあろうに、地元の名士であり、独歩を鶴谷学館に推薦した矢野龍渓を批判するようなことを言ったのです。会場の生徒たちは怒って独歩を追い返しました。その次の土曜日に行われた演説会にも独歩が現れましたが、この時は演説は拒絶され、その代わり場外乱闘のような大激論をやらかしたのです。

〔数日後の学校の職員室。中島が険しい表情で哲夫を見ている。〕

「国木田君。この前は生徒を相手にずいぶん息巻いたそうじゃないか。そのせいで乙級の中から君の排斥運動が起こっているんだよ。知らなかっただろう?」

「ええ。そんなことになっているとは全く知りませんでした。それで生徒らはどうしようっていうんですか?」

「ストライキに突入するようだ」

「ストライキ?」

〔意表を突かれたかのような表情の哲夫。〕

 

 

詩織がペパーミントガムと皆に差し出しながら言った。4人はそのガムを噛みながら眼下の景色を見ている。

「国木田独歩という人はちょっと難しい性格だったようですね。気は短い方でプライドも高く尊大な面がある。仮にあの時代にタイムスリップしたとしてもお友達にはなれそうにないタイプです」

北村が言った。

「でも雰囲気としては似てるけど……」

亜美が北村を見て笑った。

「そうでしょうか……」

不快な表情の北村。

「ねえ、ところで北村さんはなぜ哲学なんてやろうと思ったの?」

ガムを吐き出したところで詩織が訊いた。

「うん、私もそこは知りたい」

美奈も同調した。

「私は聞きたくない。哲学なんて、この実社会には意味ないじゃない。私が男で早稲田を受けるなら政経を選ぶに決まってるわ」

亜美がマジな表情で言った。

「僕も第一志望は政経でしたよ。でもね、テレビのなんとかっていうアナウンサーを見て、あれが早稲田の政経卒なのかと思うと白けちゃったんです。あまりに軽くてねえ。他にも政治家とかジャーナリストなんかにその手の人間がいるでしょう。でも出てくる奴、出てくる奴、みんなダッセーのね。いや、見た目じゃなくて言ってることがですよ……。それで志望を変えたんです」

「それにしたってなぜ哲学なの。それになぜ、早稲田にこだわったの」

詩織がたたみかけるように言った。

「いや、そう詰め寄られても困るんですが、うちのおやじが早稲田でね。僕が大学行くって言ったら早稲田以外は受けさせないなんて言うバカ者なんです。それと哲学を選んだのは、最終的には学会員の両親を見返してやりたかったからです。父も母も、僕が子供の頃から法華経のことばかりを言うんですね。これが絶対的な真理だと……、創価学会こそ宗教と哲学とを止揚したような究極的な団体であるかのように言うんです。たしかに僕も創価学会が創価教育学会の時代は優れていたと思います。戸田先生の時代はね。でも池田先生の時代になってからおかしくなってきたと思うんです。彼が偉大だとすれば、教育者としてのそれではなく、新興宗教の教祖としてのそれでしょう」

「そんな話、どうでもいい。さあ、美奈、これからどうするの?」

亜美が北村の話を遮って言った。

「失礼よ、亜美。訊いたのはこっちなんだから」

「それは詩織と美奈でしょう。私は訊いてない」

「もう、亜美ったらすぐこれなんだから……」

詩織がべそをかいたように言った。

「この後、鶴谷学館跡を見て、葛港経由でホテルに帰ります。最終日の明日は、雨が降るようだし、東京へは予定より早めに帰りましょう。今夜はお寿司でも食べに行きましょうよ。この佐伯というところは何も無いけど、お寿司だけは自慢だそうよ」

「へ~、そうなんだ。で、お寿司って高いんでしょう。割り勘なの?」

詩織が心配そうに言った。

「だいじょうぶ。私のおごりよ。だって、私の退学旅行だもの。付き合ってくれたみんなに感謝を込めて御馳走します!」

美奈がそう言うと、詩織と亜美は、「わーい!」と言ってはしゃいだ。北村は様子が違う。

「美奈さん、帰る前に1か所だけ行っておきたい場所があるんです」

「ええ、どこ?」

「独歩が通っていた教会です。面白いエピソードとか聞けるかも知れないし……」

「ええ、そうね。でも、その教会がどこにあるかは調べてないの。この町でいちばんのお寿司屋さんは調べてあるんだけどね」

美奈がそう言うと、詩織と亜美が大笑いした。

「じゃあ、僕が今夜中にネットで調べておきますよ」

「お願いします」

「まかせて下さい」

……というわけで、4人は城山を下りて5分ほど歩いたところにある鶴谷学館跡の石碑を見に行った。石碑には明治23年に毛利高範子爵が郷党子弟の中等教育のために設けた私立学校で製紙工場を改造した二階建てだったことが書かれていた。跡地には信用金庫が建っているので詩織と亜美が意外な顔をした。その後4人は、明治27年7月から最後の1か月を独歩と収二が過ごした葛港の下宿先を見に行き、いったんホテルに帰ってから、歩いて5分ほどのところにある、この町で一番有名な寿司屋に出かけた。

次の日……旅行の最終日。朝から雨が降っている。朝食を済ませてチェックアウトをすると、4人は北村が検索した独歩ゆかりの教会に行くことになった。

「よく見つけたわね」

美奈が感心したように言った。

「うん、こういうのは得意なんですよ。インターネットの検索では、独歩の名前と教会で検索しても教会名は出てきませんが、独歩を研究する団体のホームページが引っかかったので、その団体に電話して独歩が通った教会があるかを訊いたら教えてくれたんです

「へ~。なんかサスペンスドラマみたいね。それで遠いの?」

詩織がまた言った。

「ぜんぜん遠くないです。ただし、来た道を戻るかっこうになります」

「な~んだ、また独歩館の方に戻るのね」

詩織が、場所を聞いてうなだれている。

「独歩館まではいきませんが、ここから歩くにはちょっとありますね」

「だいじょうぶ。もう歩いてなんて言わないから」

美奈が言うと3人は目を輝かせて顔を上げた。

「……ってことはタクシー?」

「いいえ、バス」

ガクっとくる3人。バスが出る駅前まで歩く。北村が先導して佐伯コスモタウン行きのバスに乗り、中央通り3丁目で降りて少し歩くと教会があった。会堂の横に建っている、牧師館と表示があり表札に「猫屋敷」と書かれた建物の玄関で美奈がブザーを鳴らすと中からぼさぼさ頭の30歳くらいの男が出てきた。ちょっと見では身長こそ高くはないが顔は阿部寛似のイケメン青年である。

「なんでしょうか?」

「あの、あ、あなたぼ、ぼくしさんですか?」

あまりにインパクトのあるルックスに思わずのけぞってどもってしまう美奈。

「そうですが何か」

「いや、僕たちは早稲田の学生なんですが、夏休みにこちらへ旅行で来たのです。国木田独歩に関する場所とかを廻っておりまして、こちらの教会もそうだと聞きまして、ちょっと立ち寄ってみたんですが……」

北村が美奈をフォローするように言った。

「国木田独歩? この教会堂がその関係する場所だって?」

「はい」

「ここは特に国木田独歩とは関係ないですよ」

「ええ? でも独歩はこの町の教会に通っていたって……その教会が現在ではこちらだって聞いて来たんですが……」

北村がイラついたように言い返した。その表情をじっと見ていた猫屋敷は、ふふと笑って下駄箱の上のキーボックスから鍵を一つ取り出すと、玄関から出てきた。

「じゃあ、会堂の中をお見せしましょう。国木田独歩に関係する資料かなんかがあるかどうか気が済むまで家探ししてもらってけっこうですよ」

「いえ、私たちは、ただ、国木田独歩に関してなにか御存知ならお話だけでも聞かせていただけないかと思って……でも、いいです。失礼しました」

美奈はそう言うと、がっかりした表情で3人の方に振り返り「行こう」と言った。

そこから国東の空港行きの便に乗った。東京へはその日の夕方に到着した。

 

 

〔鶴谷学館では独歩と中島との議論が続いている。〕

「君が教師を辞任するか、自分たちが退校するか、2つに1つというわけだ」

「理由は?」

「1つは、先日の君の矢野批判。もう1つは、君が生徒を耶蘇教に導いていることだ」

「富永たちは、私が佐伯に来る前からすでに教会員です。私が導いた者などはおりません」

「そんなことはわしゃ知らん。だが少なくとも、この田舎町では耶蘇は好まれない」

「それは中島先生が……ではないのでしょうか?」

「うむ? それはどういう意味かな?」

「いえ、べつに」

「とにかく、このままではこの学校の存続が危うくなる。国木田君、君がこの問題に決着をつけるしかないよ、教頭なんだから。それに、元はと言えば君が蒔いた種だからね」

「私が種を……?」

「私も同感です。国木田先生がクリスチャンであるかどうかなんてどうでもいいが、生徒の前で矢野先生を批判したのがいけなかった」

〔石田が入って来た。その表情はいつもと違って険しい。〕

「いや、耶蘇のこともどうでもよくはありませんぞ、教会員の生徒を特に可愛がっているという噂もあるのですから」

「中島先生、それは違います。あなたのような耶蘇嫌いは勘繰って見るから、そう感じるだけのこと。私は常に公平さを心がけております。しかも生徒たちは私と同性であり年齢も同じような世代です。偏愛だなどというのは言いがかりにすぎません。あの勧告状の黒幕は私を虫が好かないと思われる誰かさんに決まってる……私はそう確信しています」

「君、はっきり言ったらどうかね。その黒幕がわしだと……」

「いや、やめましょう。ここで教師同士が言い争ったところでどうにかなるものでもない。この町もまだまだ未開なところがあるわけで、教師と生徒が同じ教会に所属しているというだけで、どんなに誤解を受けやすいかは国木田先生も自覚してほしかった。あなたはさっき、御自分が生徒と同性で同世代だとおっしゃったが、生徒の中にはあなたの高給を妬む連中もいるでしょう。そこに持ってきて矢野批判。あの演説会での一件は国木田先生の教師としての資質の問題だと思います。けっして生徒だけが悪いわけではない。しかし国木田先生だけを悪者にすれば済む話でもない」

「じゃあ、どうすればいいと思うかね? ここは国木田君に引いてもらうしか収拾する術はないだろう。生徒がやめてしまっては学校の運営が行き詰まる」

「引くというのは辞めるという意味でしょうか?」

「そうではありません。生徒の前で謝罪してほしいのです」

「ばかな、何を謝罪しろと……。わかりました。辞表を出します」

「ちょっと待って下さい。なにも辞めなくても……」

〔立ち上がて去ろうとする哲夫。慌てて止めようとする石田。中島は座ったまま憮然としている。〕

(美奈のN)独歩が鶴谷学館の教師を辞めて東京に帰ることを決心したのはこの時でした。しかし表明したのはそれからしばらく後の6月19日であり、正式に辞職したのは7月30日でした。その前後3日間は、学館の幹事たちが送別会を開いてくれたそうです。29日は教会で次のようなことを言っています。

「余が来伯せしより約十か月、其間余は人より誤解せられたり。又人に対して過激なりし故衝突を来したり。人は余に対して如何なる誤解をなすも、余は如何にも考ふる所なし。余が過激によって佐伯の青年は二分せられ、大に佐伯を害したりと雖も、余が過激は其の赤心より出でたる過激なれば、良心の責を受くべきなし。」云々。独歩が佐伯の地を去ったのは8月1日です。時は、日清戦争がはじまる直前でした。独歩兄弟と共に鶴谷学館の生徒であり教会の同志でもあった富永、尾間、高橋、山口の4名が上京しました。

 

 

カフェで美奈と北村が向かい合っている。

「美奈さん、忙しいのに呼び出してごめん。ただ、これからどうなるのかなって心配でさ」

「どうなるって、なにが?」

「いや、なにがって、僕たちの関係だよ。この旅行で僕たちは友達になれた。いや、僕としてはもうちょっと深くなれたと思っているんだけど……」

「私は部屋を整理したら今月中にでも退学の手続きをして福岡に帰り、仕事を探さないといけないから、他のことは今は考えられない」

「僕たちのことも?」

「ええ。悪いけど、正直、そんな余裕はない。ごめんね」

「じゃあ、仕事が決まって落ち着いたら考えてもらえるかな?」

「考えるって何を?」

「まあ、ぶっちゃけ交際だよ。それも結婚を念頭に置いての真剣な付き合いだ」

「ハハ、結婚だなんて、あなた私を揶揄っているの? 引っ越しの用意があるから帰るわ」

表情を変えて立ち上がる美奈。慌てて引きとめようとする北村。言葉づかいは以前と変わってタメ口になっている。

「ちょっと、待って。もう少し、いてくれないか。座ってくれよ、なあ、頼むから、座って」

北村を訝るように見ながら溜息をひとつついて座る美奈。コーヒーを一口飲んで、落ち着いたのか、また溜息をつくと北村を見る目をゆるめて口を開けた。

「借金まみれの私が結婚なんかできると思う。相手も一緒に借金を背負うんだよ」

「二人で力を合わせて少しずつ返してゆけばいいじゃないか。僕も来年、おやじの後輩がやってる会社に就職するから、収入が安定したら一緒に生活できると思うんだ」

「無理よ。私は母と妹を養わないといけないし……」

「仕送りすればいいじゃないか。僕たちは僕たちで結婚して生活し、君にも働いてもらえれば、お母さんと妹さんには毎月、決まった額を送れるさ。足りない分はおやじに言えばなんとかなる。おやじの顔を立てて就職するんだから、そのくらいは当然さ。妹さんの学資も返済のお金もボーナスなんか使って少しずつ積み立てたり返せばいい。僕だってそれくらいの給料はもらえる自信はあるんだ。ただし住まいは高級マンションとはいかないけどね」

「本気で言ってるの?」

「こんなこと冗談で言えるかよ。マジだよ、マジ。僕は君の退学旅行に参加して気持ちが決まったんだ。君となら頑張れる、どんな困難なことでも一緒に乗り越えてゆけるってね」

「でも私なんかのために、借金を背負う人生なんか、苦労が目に見えてる将来なんか、どうして選べるの?」

「単純さ、君が欲しいからさ。僕は君が大好きなんだ、体だけじゃなく心もね。そのためなら借金背負うくらいの覚悟はある」

「私のどこが好きなの?」

「だからさ、心身ともに……全体だよ」

「どういうふうに好きなの?」

「どういうふうにって言われると、これは簡単には言えないんだな。とにかくいつも一緒にいたい……同じ道を歩いて行きたいってことさ。今はフィーリングでつかんでもらうしかない」

しばらく考え込むような表情をしていたが、やがて北村の顔を見て微笑んで頷く美奈。独歩館でそうしたように美奈が手を差し出すと、北村はその手をやさしく握った。 (後編 終わり)

 

※この小説は実話を基にしたフィクションです。登場人物や団体は架空のものを含んでおり、名称が実在するものであっても内容的には事実と異なる部分があります。この小説を閲覧した方が当該団体および個人に連絡等をされた結果、何らかのトラブルが生じた場合、当方は一切責任を負いません。特に、養賢寺の未明における鐘の音騒音については、京都の臨済宗妙心寺派の宗務本所からの返答に「個ではなく公で対処」すべしとの勧告的文句がありましたので、そのとおり、公開させて頂いた次第です。(作者)

 

 

 

 

 

 

2019年5月14日公開

© 2019 平島 公治

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