サムフェアエルスビフォア

キリコ

小説

16,726文字

かつて王だった女性と、かつて夜警であった青年が、雪の世界で多くの経験をしながら心を通わせて行きます。

一、イントロダクション

 

朽木の枝が折れそうな程に降り積もった雪の中、アルビノの女性が、アオギリの幹にしなだれかかっている。白地に赤い飛白模様の着物はやや乱れ、帯は崩れ、薄い胸元が白い洞窟のように見える。髪は黒く染められ、雪によく映える。腰丈の長さだが首の後ろでしっかり結ばれ、前髪は丁寧に分けられているため、見目の細さに反して芯を感じさせる。

膝元に下ろした両手には透明と見まごうばかりの鋭さを持つ鉈が握られている。刃についた血糊は所々に黒ずみが目立つ。身体よりも重そうなそれは雪原に深く埋まり、吹雪の洗礼を受けているようだ。

女性の左薬指は第二関節から切り落とされて、動く気配はない。血の止まった断面から先は雪に紛れて宝物よろしくたたずんでおり、見る者に痛みを伝えてくることもない。

薬指の下、半ば雪に埋もれかかった着物の裾に、銀の指輪が落ちている。一目には分からないが、よくよく見れば内側に血の跡が付いている。残された指の様相と合わせれば、これが彼女によって外された物だと分かる。

誓いも、約束も、指輪も、それを支える指さえも捨てて、肩にかかる雪も気にかけることなくアオギリに寄りかかり、やがて鉈からも手を離し、彼女は感情のない目を僕に向け、今となっては意味も持たない言葉を、一言だけつぶやいた。

 

二、眼底からの火

 

出掛けに残った煙草をまとめて吸ったからか、気分が悪くてかなわない。肺は二倍に膨れ上がって熱を持っているし口の中は漆喰を流し込まれたようだし、目の奥から燃えさしが溢れ出て来てものがまともに考えられない。彼女の手に握られている鉈が死神の鎌に見える。自ら薬指を切り落とした、あの時の鉈。そのついでに僕の肩口から心臓を切り落として欲しかったと思う。雪に埋もれて死ぬよりはその方がよっぽどましだと思う。今からでも遅くないと、情けない思いが巡る。

懐から取り出した煙草に火をつけ一息に吸い切っては放り捨てる僕を、皆が一様に嫌な目で見た。最後に袋を投げた時は罵声も飛んだ。だがそれもこれも過去のことだ。今僕は、生きるために生きていなければならない。死ぬにはもう遅すぎるのだ。

アオギリの枝が全て落ちて、力ない薬指に突き刺さる。彼女は一本一本丁寧にそれを抜き取り、流れ出た血を愛おしげに舐める。その血だけが本物で、薬指を鉈で切り落とす覚悟だけが生き残るべきだと僕は思う。包丁も短刀も太刀も打刀も、それを切り落とすために作られた物ではない。鉈と濡れた銀の指輪と意味のない言葉と微かに溶けた淡く赤い雪だけが彼女と僕を照らして、彼女は最後の力で僕の胸を切り落とすことはせずに目を閉じて、僕の眼底の灰を拒絶する。僕は泣いて謝りたかったけれどそれは叶わなない。嗚咽を漏らすことも許されず、震えながら燃え残りの全てが空に消えるのを待っている。そうして、彼女と繋がろうとしている。何の目的もないままに。

 

三、再開

 

彼女は全ての枝を抜き取った薬指と銀の指輪を飲み込んで、アオギリの幹から立ち上がる。横殴りの雪が強まって長い髪に緩やかな波を作る。額から流れ出た血は頬を伝い首から右腕に流れ、握られた拳に達すると彼女の身体へ帰って行く。僕は置かれたままの鉈を取り上げて彼女の後ろに付き従う。アオギリの幹がなぎ倒される。足音を察知して振り返った彼女の視線にはわずかに生気が込められていて、僕は思わず怯んでしまう。けれどもゆっくり動かした口の形は艶かしい陶器の曲線を思わせるから、僕は怯えを忘れて声なき言葉に耳を奪われる。まだ膨らんだままの左肺を鉈の柄で殴りつけて抑え、僕は彼女がどこへ行くのか考える。今は、静かに動く彼女の唇だけがそれを知っている。

 

四、氷柱

 

彼女は幾筋もの血を流しながら、頼りない新雪の上を、見目の儚さに反して堂々と歩んで行く。僕は彼女が記した道を踏み消すようにして一歩一歩足を進める。十分ほど氷柱と枯れ木の中を歩いただろうか。彼女は歩を緩め、振り返って氷柱を全て割れと言う。かじかむ手を震わせて立ちすくんでいると、彼女の目の色が命令調に変わる。その鋭さに耐えかね目を逸らそうとするが、繋がりを断ち切りたくなくて、必死に見返し、寒さで凍り付きそうな涙を目尻にためて、眼光の力を受け続ける。彼女は少し驚いて目を大きく見開いて僕に近寄り、柄を持つ手に薬指の先で触れ、血の温かさを分けてくれる。僕の血はそれで沸騰し、彼女の命令を遂行するため足は動き出す。両手に握った鉈でか細い氷柱を次々打ち壊して行く僕の姿を、彼女は何も言わずに見ながら、更に堂々とした佇まいで吹雪を払いのける。

 

五、喉を穿つ

 

僕は彼女を憎んでいる、と考える。

彼女は一人で立っている。僕は一人で立てずに彼女の鉈でバランスをとりながらそれを振り回して氷柱を壊し続けてやっと生きている。彼女は僕が倒れかかることを許さない。自分が僕にもたれることも許さない。アオギリの倒れた今、彼女は一瞬も揺らぐことなく吹雪をものともせず、さながら氷柱の一本として立ち続けている。彼女の目は全ての感情を孕み、同時にそれらを無感情に統合して冷たさと熱さの渦の中心で何かを待っている。僕ではない。誰でもない。実際のところ誰も待ってはいない。彼女は自分を待っているのだ。

僕は残り少ない氷柱を倒して回って感情がのど元から逆流するのを抑え、震えを止めて、ともすれば自分に向けられそうな刃を透明な無垢な無罪な彼らにぶつけて狂気から逃れている。彼女はそれを止めようとはしない。そうしなければならないことを知る彼女は、歯を食いしばっているのか、肩を怒らせ、身体の向きを変えないまま、目だけは僕をねめつける。僕の両手が力を込め過ぎて赤黒く変色し始める。とうとう見渡す限りが枯れ木だけになって、僕は彼女の元へ駆け寄る。体当たりする寸前でやっと勢いを止めて、鉈を振り上げ彼女の肩口で逸らし地面に打ち付ける。もう一度、三度、五度、最後に力の入らない右手で持って左腕に落とす。

手から離れた鉈はまだ紫がかった傷だらけの左腕を滑り落ちて少し深い傷を残す。決して綺麗とは言えない傷が残って血が流れ落ちる。雪が赤黒く染まる。彼女はそれを見ると、小指の爪を白い歯で喰いちぎって研ぎすまし、見えない速さで傷の脇に十の穴を開け、着物の糸を一本抜き取り見たこともない手際で傷口を塗い始める。僕の喘ぎ声に耳も貸さず、数十秒かけてきつく、固く縫い付けられた傷はやがて血を止めて凍り付き、彼女はその血を引っ掻いて落とす。僕は、お願いだから殺すか殺させるか放るか手を握ってくださいと嘆願する。彼女は何も反応を見せないまま、振り返って再び歩き始める。

鉈はもういいいんですか。

彼女は一言、もういいと言った。

 

六、血球

 

それでも何かの役に立つかと思って、半ば雪に埋もれた鉈を取り上げ、両手で抱えたら先刻の傷口が開いた。僕は声を上げたが彼女は何も反応しなかった。鉈は僕の血を吸って重くなったように感じ、彼女の目障りな気持ちが乗り移っているようにも思える。とは言え、その後何度か獣を切り刻むのに用を為してくれたし、血の油で切れ味が鈍ってからは鈍器にもなった。山犬、狐、狼、小熊。小熊を殺した時は親熊が襲って来ないか恐ろしかったけれど、冬眠しているのか知らない、死への恐怖は杞憂に終わっている。

彼女は獣が視野に入ると足を止め、僕が殺すのを待つ。比較的柔らかい肉は裂いて食べ、毛皮は傷口をくるむのに使う。熊の内臓をすする彼女は、持つ手から滴り落ちる体液と相まって凄絶な神話の女神を想起させる。僕は彼女が一口物を食べる度、毛皮と薄汚れた布で血や、名も知らない液体を拭う。彼女が凍傷にかからないよう、気をつけて。僕の腕に巻いた狐の毛皮はどうやら防寒具の役割を果たしてくれているようだった。

ありがとうございます。

僕の礼に、また少しだけ表情を取り戻す彼女。怪訝そうな瞳に濁りはない。僕は目を向けてもらえただけで満足で、傷口を縫ってくれたことも僕の獲った獣を役立ててくれることも気付いてくれなくて一向に構わない。

切り取った熊の毛皮を彼女の首に巻き付け、僕達は雪原を進む。

 

七、雪を掘る心臓

 

僕が薬を飲む時だけ、彼女は歩みを止める。それ以外は決して速度を変えることなく歩み続け、体力の衰えを微塵も感じさせない姿は、行軍というよりも緩やかな自殺に似ている。

僕は三刻ごとに薬を飲む。大きな錠剤と粉薬を一包。近くに水はなく、あっても凍っているばかりだから足下の雪を口の中で溶かして飲む。水と呼ぶには少ない水分で飲む錠剤はいつも喉に引っかかり、僕は嘔吐いて四つん這いになる。粉薬は舌や喉に張り付いてなかなか飲み込めないうちに溶け出して行く。二つの薬が効いているのかどうかはよく分からないが、副作用である目眩が起こるということは少なくとも力を発揮しているに違いない。良いか悪いかはさておいて。彼女は僕が嘔吐くのを見ても何も言わず、ただ近くにある石や枝を弄ぶ。休みとばかりに座り込んで、冬にまみれた冷たい死体を愛おしむがごとく、手の中で転がし、撫で、興味をなくすと放り捨てる。アオギリやニレを好んでいるように見える。そう言えば、幹に寄りかかっていた時、彼女は何となく安心していたようにも思える。

その理由は、多分宮廷で過ごした時間にある。

僕が涙ながらに薬を飲み終えると、決められた流れのように旅が再開される。彼女は再び何ものにも興味を示さないアルビノに戻り、僕は彼女を追う従者と化す。彼女への義務も義理もそこにはなく、ただ他に何もすることがないからだ。

本当に?

分からない。

彼女は一本の細い枝を持ち、指揮棒を思わせる仕草で僕に指示を出す。僕は何も言わずそれを汲み取る。枝の先は鋭く尖り、彼女の意思がそこから僕を射抜く。

 

八、成層圏の視線

 

風と寒さで死んだ、黒い鳥と白い鳥が雪に乗って飛んで来た。血は既に固まっているのか飛び散っていないが、その数はさすがの彼女も足から目に意識を移す程だったらしく、吹雪にもめげなかった瞳が細められた。視界は白と朽木の色に油のついた黒が混ざり、悪い夢の背景のように見える。先に通り過ぎたのは黒い鳥で、抜け落ちた多くの羽と共に彼女の身体を打ち、よろめかせた。僕は彼女に駆け寄り前方を固める。彼女がそれをどかそうとすることはない。嘴が一本、脇腹をかすめて鈍い痛みを残して行く。羽が視界を埋める。痛みに動揺して振り返ると、彼女の後方が黒く染まっている。まるで背中に闇を纏っているかのように、彼女は白い肌と黒い羽で色のない対比を描く。表情がわずかに厳しくなった感じもする。心配げな色が瞳に出たのを憎悪したのか彼女の表情が曇るので、僕はすぐにまた道の先に身体を向ける。途端、白の鳥が顔を直撃して頬から血が流れる。思わず上がるうめき声に耳を貸す者はいない。どうやら彼女には当たらずに済んだのか。安心のため息が漏れる。白い羽と薄汚れた身体はその後も次々に降り注ぎ僕達を襲う。雪と鳥と、どちらが災厄の主役なのか分からなくなる。

やがて空気が渦を巻き、軽い羽はその場で竜巻に変わる。彼女の背中に黒い竜巻、僕との間に白い竜巻。彼女は周囲の空気に油絵具を塗りたくられたようで、あるいは彼女自身が白黒の絵の一部として切り取られた風でもある。白と黒に切り分けられた王女。その目は悲しくないと静かに主張している。

鳥達は成層圏の外側から降って来たのかもしれない。彼女を祝福、あるいは呪うためか。いずれにせよ、空より上にいる誰かから守ろうと、僕は思う。

 

九、死の床

 

夜が近付いたせいか、空の色が濃くなり始めた。一方で風と雪は勢いを弱めつつあり、凍死の心配は少しだけ減った。あくまでも雪中行軍を止めようとしない彼女に何度も休もうと呼びかけて、もう一刻近くになる。喉が痛い。彼女も多少の意地を張っているのかもしれない。足下がかすかにふらついている。元々身体の強い方ではなく、何もかもを精神力で保たせる人なので仕方ないとは言え、放っておきたくはない。僕は雪が止んだのを見計らって彼女の肩を掴み、まだ進もうとする身体を雪の上に引きずり倒した。仰向けに寝転がった彼女は折れて落ちたアオギリの枝のように頼りなく、とても夜通し歩き続けられるようには見えなかった。強情に全てを否定し続ける顔を睨みつけると初めて目を逸らし、雪に頬をつける。脈絡もなく見せた弱みに腹が立ち、僕は細い首に手をかけ、ゆっくりと締め付ける。冷えきった口から途切れ途切れに咳のような吐息が漏れる。苦しみに耐えかね、目尻から涙が滲む。それを見て僕は正気に返り、手を離して謝った。彼女はそれを聞いて怒りも悲しみもしない。

のしかかった身体をどかして雪の中に薪をくべる場所を拵える僕を尻目に、彼女は乱れた髪を直そうともせず、両足から崩れ落ちた格好でその場に座り込み、まだ風の残る濃灰色の空を見上げた。目には絶望的な光が浮かんでいる。それが殺されなかったことによるものか、未来を思ってのことかは分からない。泣きもせず、感情も込めず、ただ希望を失った瑠璃玉が二つ並ぶ。もしかすると、口を開けた瞬間に全てが飛び出して行くのだろうか。それを堪えるため、目だけに絶望を込めたのか。だとしたら、先刻僕が絞り出した吐息は彼女に残された感情の欠片だったのか。

それが良いのか悪いのか分からないまま、薪を探す間に彼女が消えてしまわないことを、僕は強く願った。

 

十、乾いた地に這いつくばる

 

日は沈み、葉の落ちた薮の中に作った簡素な宿で僕達は休息を取った。幸い風が弱まってくれたおかげで、焚き火が消えてしまうことはないように思われた。僕は野営の経験がほとんどないから確たることは言えないけど、その点は彼女も違いない。彼女にとっての野営は暖かい天幕の中を指す。

僕は雪で固めておいた獣の肉を背嚢から取り出し、太めの枝に刺して火にくべる。一つだけ残っていた欠けた椀に雪を詰め、白湯にして彼女の手に握らせる。彼女はその温かみに少し驚き、それが収まるとちびりちびりと上品に口をつける。アルビノだからと言って、頬に生気の色が浮かばない訳でもない。また、肉を千切る手には力が戻っているようでもあり、自分から進んで食べるのは何かが変わり始めているのかもしれないと思う。僕も入念に火を入れた狼の肉を食べる。昼間から考えて、状況が随分ましになったと感じる。着の身着のまま放り出された彼女は実質死罪だったし、僕も共に死ぬことを覚悟していた。

覚悟。許されざる罪人に与する覚悟。それは自分が罪人となることも意味する。人々は僕達に石の入った雪玉を投げつけた。彼女のこめかみに向かって飛ぶ石を、払おうとすれば払えたのにそうはしなかった。

今だったら払いのけるのか?

何故彼女に付き従ったのかはまだ理解出来ない。守らなかったことも。けれど今、僕は彼女を守ろうとしている。

僕達は肉を食い千切り、交互に白湯で飲み下して行く。それは自殺ではない。生きるためでもない。今、ここで出来ることを、淡々とこなしている。それを指す言葉を、僕は知らない。夜は同じように淀みなく深まって行く。普段は恐るべき敵となる山犬や狼は、火と寒さと僕達の存在を避けているようだ。彼女はここでも王の血をそびやかし、僕はその一部を共にする。

食事が済んだ後で、温もりで溶け出した薬指の血を、舌で掬い取った。彼女は何も言わず、僕に約束の上塗りを許した。

 

十一、浮浪者の毛布

 

都に住んでいた頃、早く夜になれと毎日祈っていた。毛布を頭まで被り、膝を抱えて仮眠もとらずに夜警の開始時刻を待った。昼は誰もが息をしていて僕の居場所はなく、街に出れば嘔吐き、話しかけられる度に身を固くした。日が落ちると最低限の引き継ぎを済ませて城門に上った。彼方に見える巨大な運河と堤防、そこに至る街道、平原、林、薮、驢馬と人の足跡、時折立ち上る煙。街道から運河に着いて半里と少し脇に逸れた位置に大きな橋がかかっていた。土壌の関係で直結しなかったそうだ。人柱は二桁に上ったと聞いている。

夕刻を境に門が閉まり、間に合わなかった隊商は野営をする。小さな火を遠くから眺めるのは好きだった。そして、内側に意識を移すといつも城だけが煌煌と光を放っていた。

今の僕達を見ている兵士はいるのだろうか。高い門の狭間から指を指して、悪あがきと笑うだろうか。それでも構わない。彼らの立つ場所、その向きに間違いはない。では、失敗したのは誰だ。

食事の後片付けを終えても彼女が眠る気配はない。そうは言っても疲れは極地に達しているだろうし、これまでの生活を考えれば、夜半に差し掛かる頃には自然と眠りにつくに違いないと、僕は考える。そしたら、僕は彼女に何をしてやるべきなのか。してもいいことは数えきれない程あり、したくないこともそれに匹敵する。それは倫理でも約束でもなく、僕の願望だ。相好を崩してうつぶせに寝転がる彼女を見ながら考えを巡らせる。彼女の視線の先には僕の作った窪地と、手に取った溶けかけの雪がある。それらを見ているのかどうか分かるほど、僕は彼女を知らない。

ふと、彼女が膝を折った。小さな子供がするように、交互に拍子をとりながら、踵を軽く振り上げる。右、左、右、左、両足の力を抜いて尻へ乗せる。冷え切った両手を組んで顎の下へ。眠るよう言いそびれ、僕はその様子を見守る。彼女にも眠れぬ時があったのか。僕の昼がそうであったのと同じく、彼女も侍従のいなくなった寝室で、夜を持て余していたのか。

何度も格好を変える彼女に、毛布をかけなければと僕は思いつく。

 

十二、風の外側

 

出来るだけならした地面にボロ布を一枚だけ敷いて、仮の寝床を作る。幅は一人が寝返りを打てる程度か。何にしても眠りのない僕にはあまり関係ない。いつからか眠りを失って、それで死ぬのだと予想していたのがどういう訳か外れ、健康とは言えないまでも立つだけの仕事くらいはこなせる身体と共に生き、更には一日の吹雪にすら耐えた。何度もこれが最後と思っては期を逃し、おそらく今夜も、明日の朝になっても状況は変わらない。いや、今だけは変えてはならない。今の僕は案山子ではなくなってしまったから。

案山子でなかったのは今だけか?

僕の中の誰かが問う。答えが見当たらない。どの時が案山子で、そうでなかったのがいつなのか、僕には答えることが出来ない。問うた誰かも僕の答えを期待してはいない。

薬指は壊疽にかかりかけたので根元から切り落とし、消毒をして出来るだけ綺麗な包帯で傷口を覆った。飲み込まれた指と落とされた指。彼女の約束は分たれ、捨てられ、僕の穢れを受け入れている。申し訳ないと、僕は思う。

自分から僕の言う通りに動かない彼女を抱き上げて焚き火に手の届かない位置、布の上に寝かせる。背嚢の一番奥に入れてあった毛布を引きずり出し、今しも姿勢を変えようとする彼女を押さえつける形で掛けてやる。一瞬もがいて、すぐに力を抜く彼女は納得したのかしないのか、仰向けに横になって毛布を肩まで引き上げた。僕はそれを見て、薪を一本足す。

早く来い。

彼女の声がした。空耳と思って焚き火に注意を払っていたら、やや苛立たしげに、同じ命令が下される。振り返ると、彼女が確かに僕を睨んでいる。一瞬、雪原が接見の間に変わったのかと錯覚させられる。だが、ここは僕が半刻で作った仮宿なのだ。なのに彼女は声に力を込める。否、彼女の声には力が込められている。僕は命に従い、半ば自分の望み通りに、彼女の元へ行き、毛布の半分を被る。腕が触れ、その冷たさに戦慄し、手をたぐり寄せ指を絡ませた。彼女はそれ以上何も言わず、再び力も失って、温みを僕に委ねている。

 

十三、掌の細密度

 

眠りは深く、短かった。目覚めてしばらくしてから自分に眠りが訪れたことに少し驚き、下瞼を撫でたら、常に分厚く覆っていた隈がわずかになりを潜めたような気がした。風は収まっており、雲は薄い。星の光はさすがに届かないものの、月明かりは白さを取り戻した雲の上から茫洋と地上へ降りてくる。僕の左手は彼女の右手と繋がれたままで、そこだけが深夜の冷気から逃れている。雪解けにも朝にもまだまだ早く、底冷えが身体の芯を貫く時間。彼女は上体を起こして運河の方に顔を向けている。眠ったのか眠らなかったのか、表情に変化がないため疲労の度合いは見て取れない。

僕は手を離さないよう気をつけながら身体を持ち上げ、腕を、肩を、彼女のそれに触れさせた。彼女にも血が通っているのだろう、着物に隠れた純白の肌はゆっくりと脈打って、指先へ生気を送り込んでいる。その気配を確かめるように彼女が身体を寄せ、聞こえるか聞こえないか程度の声で何事かつぶやいた。言葉にならない言葉の意を汲み取れたのかは分からない。ただ、僕は彼女の手を引いて立ち上がる。一寸手を離し、手早く荷物を背嚢に詰め込んで肩に背負う。同じく立ち上がった彼女の元へ戻って再び手を繋ぐと、それは何の抵抗もなく受け入れられた。しかし、僕はむしろ自分からそうしたことに驚いていた。彼女が鉈を振り上げた時の憎悪はどこへ行ったのか。そもそもそれが憎悪だったのか、引き締まった冷気の中では分からない。どちらでも良いのかもしれない。

僕は襟巻きを外し、彼女の首にかける。上等の着物には合わない粗末なそれを、彼女は躊躇いがちに巻き付け、片手を首元に、空いた手を僕の元に委ねる。恥ずかしげともとれる表情が何を意味しているのか、考えるべきではない。

貴方と僕はこんな形にならなければならなかったのですか。

問いかけは声帯を通さず白い吐息に変わる。王の血は、何処へ行った。貴方の持っていた、ただ一つの力は。 貴方は、自分であの場所にいることを選んだのではなかったのか。

 

十四、金色手拍子

 

子供の頃、彼女の姿を一度だけ見たことがある。赤と黒の格子模様の敷布にだらしなく身体を倒して僕を忌々しげに見つめていた。誰も信じていない瞳は路地の野良猫を思わせるもので、他人と上手く通じられない僕を見抜いているようでもあった。僕は着飾った父親に手を引かれてその場を後にし、何も変わらぬまま身体だけは成長し、やがて一族にも見放されて一人城門の上に立った。それから先、夜警の仕事だけが僕の世界を構成した。心地よくはなかったが、疑問はなく、当然の仕打ちだと思っていた。仕打ち?処置と言い換えろ。医師の言った言葉を僕は何度も反芻した。

四季が何度も巡る中、城は灯台よろしく輝きを失わず、そこにいる彼女もまた時間をかけて錬磨されて行った。髪は黒く染められ、爪をきらびやかに塗られ、光を帯びた着物に身を包み、何度も群衆の前に臨み、御輿に乗って目抜き通りを行き来した。あるべき物事があるべき場所にあって、僕の見下ろす城門は何もあるべきではない場所だと思っていた。金屏風の前で艶やかに座り、洗練された動きで手を合わせる彼女と、槍を杖にして空と運河を見つめる僕との間には千里の径庭があった。野良猫に見えたしどけない寝姿からもそれは感じていて、王の血かくも偉大なりと言う父親に賛同するしかなかったのもよく覚えている。生を受けてからどれだけのことをしようとも、埋まらない谷が僕達の間に横たわっていた。

ただ、彼女を初めて見た時、その後何度となく目にするだろう顔が全て嘘だと僕は確信していた。何故だろう、何もない場所にいなければならない人と感じたのだ。そしてそれは当たっていた。全てを疑い、立つことを止めない野生の瞳。血に反するものを持っている彼女は、だから僕の脳に全てを焼き付けたのかもしれない。では、僕を敢えて撥ね付けようとしたあの目つきはどこから生まれたのか。僕達の繋がりはそこにあったのか。何一つ接点がなく、世界の端と端にいる二人に機会は訪れるのか。今となっては愚問でしかないのだけれど。

彼女はやがて夫を迎えることとなる。それが上手く行かないだろうことも、僕は知っていた。

 

十五、愚者は骨盤を失う

 

婚礼と戴冠の儀は見事なものだったらしい。三昼夜街の灯が消えることはなく、収穫祭以上の食べ物と酒と踊りが振る舞われた。祝祭に沸く街の様子だけは見ていたけれど、肝心の儀は噂話に聞いただけで詳しいことを知らない。三日間、僕は城門から下りずにいた。誰もその任を志願しなかったし、僕自身他にすることも思いつかなかったので丁度良いといえばその通りだった。同僚は僕に感謝し、裏でせせら笑った。笑い声はどんなに遠くからでも僕の耳に届いた。

婚礼の際に用いられた衣は、既に焼き捨てられている。本来ならば国の財産として丁重に保管されるはずだったのだが、状況は変わった。それを着る人も、見ようとする人ももうおらず、誰もがそこから目を背けようと必死になっている。あれはなかった出来事だ。存在しない人間だ。皆、そういうことを平気で出来るのが僕には少しうらやましい。

儀礼式典の類が全て終わり、やっと街から明かりが消え、城にも静寂が訪れた夜、彼女は夫となった、髪の長い、整った顔立ちの元上級貴族と共に部屋へ入った。初めて顔を合わせてからきっかり一月目に当たる夜だったという。全ては慣例通りに行われ、邪魔者もなく進んでいた。

ところが、彼が彼女の寝間着に手をかけた瞬間、彼女は激しく抵抗した。声を荒げ両手を振り乱して彼の誘いを押しのけようとした。彼は最初戸惑ったものの、次第に勝手な理解を示し、彼女の緊張を解きほぐそうとあらゆる手を試みた。その手の技術には長けていたそうだ。底が知れる。

それをして、なお彼女は彼の手から逃れようとした。妃に似合わない態度は彼の苛立ちを買い、やがて彼は膂力をもってことを為そうとするに至った。互いの力比べが始るや否や状勢は彼に傾き、彼女は掠れた喉から悲鳴を上げた。侍従達が扉を叩き、彼は何も心配いらないと笑い声混じりに返事をし、最早王である自分への反抗を許さなかった。彼女の身体のあちこちに瘤や擦過傷が増え、寝間着は無惨に引き裂かれた。耳の裏側が切れて血が流れた。彼女は決して音を上げず、泣こうともしなかったものの、敗北は必至のように思われた。

揉み合いの勝敗がつき、彼の手が彼女の太股を広げようと手首から離れた瞬間、彼女は寝台脇に備え付けられていた短刀を取り彼の骨盤を刺した。

 

十六、皆行ってしまって

 

二つの処刑は迅速に行われた。翌日の昼、城の前庭に両手を背中で縛られた彼が頭を垂れて座り、その脇に無地の着物の袖を襷掛けにした彼女が無表情に立った。腕には傷跡がいくつも残り、群衆は痛々しい云々と口々に哀れみの言葉をぼそぼそと言った。朝から降り始めた雪は風と共に勢力を増し、大半の人間が刑と関係なく震え上がっていた。

王は妃に強制力を持たない。女は男を傷つけてはならない。数少ない法の二つが同時に犯され、それが規範となるべき二人によるものだったことは民を震撼させた。いわんや、あのような理由で。

司法の長でもあった彼女は朝一番で法廷を開き、彼の死罪と自らの追放を決めた。わずか半刻に満たない裁判だった。裁判官は誰も動かず、傍聴人の顔色は皆白く、僕だけが平静を保っていた。裁判は殆ど略式に近かったが、ことがあまりに単純で重いためにそれも許されたのだと思う。彼女らが権力の頂点にいたことも。ただ一点、彼女自身が刑を執行すると言い放った時、皆が声を上げたのが例外と言える。裁判官達は彼女を見上げ、絶望的な溜め息をいくつも吐き出した。

彼の刑に用いられたのは処刑刀ではなく、武器庫の片隅から彼女が拾って来た最高級の鉈で、それを見た職人は複雑な顔をした。柄が短く重い処刑刀ではなく切れ味鋭い鉈を選んだのが慧眼だからか、戯れと思ったからかは分からない。どちらにしても、刑は長引き陰惨なものになると予想された。

彼は涙と洟を垂らして命乞いをした。二度としないから許して下さいと。それは王の地位を引き継いだ人間が発する言葉ではない。僕はあの時の彼をまだ許していない。おそらく、彼女も。だけど彼女は直接手を下せただけましだと思う。両手に鉈を持ち、鳩尾の高さに構え、振り上げる動作は見とれるほどに優雅だった。群衆も瞬間、声をなくした。ただ彼だけが、前夜の彼女にも勝る悲鳴を上げていた。

 

止めて下さい。

取り巻く兵士の間をすり抜け懇願した愚かな人間がいた。その男は言葉も上手く使えず、力も技術も持たないために、そう叫ぶことしか出来なかった。彼の命が惜しかったからではない。彼女につまらない理由で人を殺して欲しくなかった。純潔を出来る限り保って欲しかった。それすらつまらない理由であることを忘れ、男は再度同じ台詞を叫んだ。群衆は正気に帰り、男を糾弾した。兵士は槍で男を地面に押さえつけ、彼女の指示を待った。

彼女は、自分に下したのと同じ処遇を男に与えた。

それから再度彼に向き直り、泣きわめく首目がけて鉈を振り下ろした。男は止めろと叫んだ。その声は首が地面に落ちる音をかき消し、取り巻く人々を黙らせた。

通常、一撃で首を落とすことは達人でなければ難しい。それが出来たのは王の血のせいか。職人が涙したのは気のせいか。落とした首に追い打ちをかけようとする彼女に、兵士の手から抜け出して抱きついた男は追放に値する者だったか。何故、そんな罪にしかしてくれなかったのか。

 

全てが切り取られた風景と共にある中、僕達は罪人として取り囲まれながら目抜き通りを歩き、石をぶつけられ、門を閉ざされ、鉈はその後彼女の薬指をも切り落とした。

 

十七、憎悪から祈る者

 

後方で城門の閉まる音がしてから彼女が薬指を切り落とすまでについてはあまり記憶が確かではない。仕掛け壁のような雪と打ち倒されそうな風と、彼女以外殆ど何も見えない視界が無限地獄のように続いていた。彼女は真っ直ぐに立ち、吹雪などないと思わされるしなやかさで運河に向けて誰もいない街道を歩いた。胸元に鉈を、大事そうに抱えて、ややうつむきがちだったろうか、感情の露にならない瞳に何事かを走らせながら、ただただ運河を目指しているように見えた。僕はその後に付き従うのがやっとで、何とか持ち出して来た背嚢の重さに耐えかね、いつもは支えになる槍を懐かしく感じた。

道が細くなり、両脇がアオギリの林で埋め尽くされると彼女の歩調が弱まった。まるで道と共に自らの力を絞られたかのように。更に一刻ばかり歩き、一本の頼りない樹を見つけると、彼女はそれに寄りかかり、そのまま座り込んで動かなくなった。

僕はしばらく近寄ることが出来なかった。今度は僕が吹雪を無視して立ちすくむ番で、普段は見下ろされるはずの立場が逆転し、彼女は僕の目線の下に留まることを許容した。凍りかけた血が再び熱を持ち、彼女のこめかみから流れ出したのもその頃だった。何度となく僕の手を煩わせることとなる傷口には髪の毛が貼り付いて、傷跡と傷の間を右往左往した。

何分経ったのか不明瞭になり、僕の意識が揺らめき始めるのと前後して、彼女は鉈の刃を両手で力一杯握り締めた。僕は背嚢を捨ててしゃがみ、手を引きはがそうとしたが、かえって事態を悪化させるだけだった。彼女の白い手のひらに一本ずつ線が引かれ、それは手首から肘へ伝わって積もったばかりの雪に落ちた。彼女は僕の意思と関係なしに鉈から手を離し、顔から首に血を塗りたくると、僕が両手首を掴んでも信じられない力で弾き飛ばし、肌を、無地の着物を二色に染め上げて行った。僕は赤く染まる彼女の柳眉に雪をなすり付けては血を落とし、その上にまた血が塗られると雪を掬い上げ、それを数え切れないだけ繰り返した。僕が彼女を止めたのは、その表情に喜びが浮かんでいたからだ。初めて見る表情だったのだ。どうして、こんな時に。

最早抵抗する力すらなくした僕は、彼女が右手に鉈を持ったことも、その意味を知っていながら止めなかった。

鉈は躊躇いなく振り下ろされる。それを見る僕にも感情はない。失血死しない方法だけが頭の中にあった。

今、その傷が全て塞がらないまま、僕と彼女は月が太陽の煌めきをもたらさず、あるいは太陽の煌めきを吸い取ってくれることを願い、手を握り合って夜の街道を歩く。腰元にはいつでも獣に対応出来るよう、松明と火打石、切れ味を失った鉈がある。手の平の傷は温かみを失っているが、いつ血が流れ出すか分からない。

何か巻かないと。

彼女は申し出を拒否した。手が世界との接点だとでも言うのだろうか。

僕は彼女を憎んでいる、と考える。

ただ、それが他の感情と矛盾することはない。

 

十八、眼の端にて

 

雲と雲の間から夜空が姿を現したのは夜明けまで三刻というところで、裂け目には月の欠片が見えた。気の楽な夜は必ず赤みがかっていた月が今夜は限りなく白に近く、太陽の存在を感じさせる。僕は嘔吐きそうになるのを抑え、空いた手を強く握り締めた。その気配を察知したのか、彼女が表情のないまま僕の方を向く。僕は、自分の劣等感を全て話さざるを得ないと思った。最初に言うべき言葉は?

夜が明けなければいい。

僕より先に彼女が言った。それだけで、僕の劣等感は拭い去られた。

祝詞に反応して、軽く頷き肯定の返事を送る。誰もが眠ったまま、起きなければいい。剣戟の音が響かず、密やかに短刀が振われればいい。何も見えない路地で過ちや密談が行われればいい。けれど、それらが叶わないことも僕達は知っている。知っているだけではいけないことも知っている。次は、太陽と戦わなければならない。僕達の元に何度となく訪れることとなる昼と、盾も鎧もないまま向き合わなければならない。それは苦痛に満ちた生だと、僕は思う。ただし、僕達は、もしかすると、一人ではないかもしれない。繋いだ手と血に何か一つでも証が残されれば、僕は自分を僕達と呼び続けられるかもしれない。

彼女が足を止め、煌煌と光を反射する雪に跪き、長い髪を解く。放たれた髪の毛は翼よろしく広がって行く。それが一頻り済むと、今度は雪を手に取って髪にこすりつけ始める。すると黒い染料がわずかずつ落ち、元あった白髪が月光の元に現れる。僕も荷物を置き、同じように、不器用な手つきで彼女の髪から染料を落として行く。吹雪でも落ちない染料を落とすのは手間がかかることを僕は知る。彼女の本来持つ色が最高の染料より美しいことも。

背嚢に残っていた石鹸も利用し、一刻ほどかけて全ての染料を髪から引き剥がし終えた。常に常態を保つよう手入れされていた彼女の髪は、やや乱暴に扱ったにも関わらず艶を放っており、癖の一つすら見当たらない。

一陣の風が吹いて、彼女の髪をなびかせる。無数の白が夜に描く曲線は、初めて見た瞳と甲乙付けがたく映る。彼女が立ち上がると白く輝く飾りのように白髪が舞う。王女の着物よろしく膨らんだ長い髪を広げたまま、彼女は両手を胸の高さに揃える。手の平から血が、湧き水のようにこぼれる。杯の形に固めた手にたまったそれを、彼女は僕に一口飲ませ、自分も同じだけ飲む。口元は紅を引いた色、瞳は憂いを手に入れたかのようで、僕は目を離すことが出来なくなる。

風が止み、雲の上を雲が覆った。闇が辺りを支配する中、彼女は僕を見下ろし、その場に倒れて動かなくなった。

 

十九、雪は今でも見ているが

 

血の花を散らして倒れたままの彼女を僕はしばらく何もせずに眺めていた。運が良いのか悪いのか、規則的に胸と肩は上下している。息を荒げることもない。手から流れ出た血は間もなく止まり、静けさを身に纏った彼女は一体の人形にも見える。淡雪に広がった白髪は世界の全てを表しているようでもあり、それを崩したくはない。何より、これが最後ならば彼女の思うようにしたい。勝手な想像と分かってはいても、血と白に彩られた一昼夜の後で、僕は他の手段を見つけ難かったのだ。

しかし、身体もまた勝手に動いた。僕の朦朧とした意識とは裏腹に、背嚢から取り出した毛布を半ば巻き付ける形でかけ、着物の裾を裂き、身体を地面から引き起こして背中におぶる。背嚢は片手首に紐だけ引っ掛けておき、引きずって行くことにする。歩く度に締め付けられるのは仕方がない。肌に擦れる痛みと共に僕の意識を現実に引き止めておく道具と考えればいい。

彼女の身体は冷たい。その一方、予想していたほど冷え切ってはいない。力を失った身体に何が残されるのか訝っていた僕にとって、それはありがたいと同時に意外なことでもあった。彼女はまだ生きようとしている。背中から、衣越しに伝わる心臓の鼓動と、垂らされた手で時折揺れる血の温かみからそのことが分かる。ならば、僕も出来る限りの行動をとらなければならない。思っていた通りの軽さしかない身体に、今何が収まっているのか。それは育てるべきものか。支えても、いいのか。

一人分の足跡を追って、背嚢が雪の上に道を造る。細く醜い道は僕の負担の証でもあり、これから生きるための痛みでもある。道などないと信じ続けていた僕達の、最初の道か。彼女の太股を支える手首から先の感覚が段々と薄まっている理由がいくつも浮かんでは消え、その度に無理矢理血を流し込む。もし片手が腐り落ちても、彼女は何も言わないだろう。目の前は白く、後ろは僕達に汚されている。雪は今でも見ているが、その中で死ぬつもりが僕達にはない。

夜明けまで半刻。運河の堤防に辿り着いた僕達はようやく本当に足を止める。彼女の体温は先刻よりも幾分高く、鼓動も確かに感じられる。背嚢を引く手も黒ずんではいるが凍傷にはかかっていないようで少し安堵する。僕は彼女を起こさないよう丁寧に下ろし、堤防に寄りかからせる。長い髪が羽の軽さで背中に収まる。毛布をかけようとしたとき目を開けた彼女に、一言、着きましたとだけ言う。彼女は黙って頷き、毛布を放り出して僕を胸に抱き寄せる。その手つきは柔らかく、僕は元よりなかった抵抗の意思を更になくし、命までを委ねようと思う。表情は見えないし、見えなくても構わないと思う。ただ、目の前には乱れた着物と薄く白い胸だけが。

僕は彼女の背中に手を回す。額を鎖骨に乗せる。彼女が僕の首筋に指を当て、心臓の力を確認する。顔に頬を寄せ、冷たさを測り、両手に少しだけ力を込める。

半ば眠りを待つ格好で、僕達は抱き合って、大嫌いな朝を待っている。

 

二十、冬の運河

 

地平線に白みがかかる。雲は運河の向こうへ行ってしまって、天井はまだ群青色に染まっており、所々に星が瞬いている。子供の時分に教えられた話では、あの星々も太陽と同じく燃え盛っているのだという。それなのに太陽は嫌いで星がそうでないのは、矛盾していると言えるかもしれない。いっその事、太陽が天の彼方にまで去ってくれれば好きになれるのにと思う。見えないほど遠くで火を放っているならば、僕は太陽を嫌いにはならなかった。でも、と考えを切り替える。何処に行こうと太陽はあるのではないだろうか。昼を生み、光を好む者達を動かす存在は、逃げようと追いやろうと、視界から消えない埃のようにそこに居続ける。そう考えるのが妥当ではないか。

そうしている内に、微睡んでいた彼女が目を覚ます。僕は背中に回していた手を離し、肩の下に身体を入れて立ち上がる動作を助けようとするが、その必要はなかったようだ。今やアルビノの全てを曝け出した彼女は新たな命を得、僕達の王として君臨している。彼女は一人で何事もなく立ち上がることが出来る。足下に震えはなく、堤防を背に寄りかかる姿は誰にも似ていない。僕は毛布を畳んで荷物を整理し、彼女の手を取って来るべき時を待つ。

暁の空は橙色に焼けて、夜の群青を浸食して行く。雲に当たる曙光が眩しいので僕達は目を細めなければならない。雪も風もない朝、それが過ぎれば昼が到来する。

彼女は再び髪を結う。流れるままにしていた前髪を分け、耳を出し、たくし上げた後ろ髪を首筋の上でゆっくりまとめて行く。その動作は手慣れていて、長年の経験が背後に見える。おそらく、侍従に頼ろうとしなかったに違いない。一通りが済むまで十分足らず、朝は天井近くまで迫って、冬の夜に勝利を収めんとしている。彼女は振り返り、まだ姿を現さない元凶をねめつける。初めて会った時と同じように、何も信じようとしない、忌々しげな目つきで。眉をひそめ、腕を組んで、巨大な敵に立ち向かわんとしている。僕は寄り添ったまま、ありったけの感情を込めて視線を彼女のそれに乗せる。

夜明けは近い。しかし、毛布を被って嘔吐くことはもう許されない。忌々しいことだと僕は思う。彼女と同じく、あるいはそうではなく。

彼女が僕の方に向き直る。腕は組んだまま、肩の力を抜き、視線が重なって一つになる。

相変わらず感情の窺えない目を僕に向け、今や意味を持つ言葉を一言だけつぶやき、彼女は、からかうように、微かに、笑みを浮かべた気がした。

2010年9月7日公開

© 2010 キリコ

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