目を開いたら、光が東窓から差し込んでいた。上半身をあげ、視線をユキオさんの机の上に向ける。いつかユキオさんが拾ってきた拳くらいの石が黄色に光る。O2が薄い黄緑色をしている。灰色のN2をうまく避けながら、わたしはO2を吸い込み、紫色のCO2を吐き出す。
ユキオさんはいつもどおり隣で寝ている。わたしはユキオさんの胸に耳を当てて、自分の鼓動とそれが決して重なることがないことを確かめる。そこに驚きはない。
涙は、十年前に、タオルがぐしゃぐしゃになるまで、体内から排泄した。十二歳のとき、十三歳になるとし。涙が排泄物と知ったあの日。あの日から、わたしの目から出る液体はブルーになった。あの日から、わたし以外の人がどこにも居ないことを知っていた。だから二三年近くにいたユキオさんだって、居ないことを知っていた。だから、胸に耳を当てても、唇を重ねても、目を瞑って暗闇に彼が来ることを知っていても、感覚するのはオカルトの信仰みたいに感じられた。
わたしたちにお金はほとんど要らなかった。ユキオさんとわたしが得ている年金で、息を吸うことができていた。何より、わたしもユキオさんもなにもほしくなかった。ユキオさんは以前はそうではなかったようだけれど、わたしと一緒に暮らすようになってからは、わたしと同じ生活に変わってきて、食事はもう一年くらい野菜だけ、一日に一度だけ。
ユキオさんは体質からか、みるみる体が薄くなっていって、透明に近づいていった。
ユキオさんは裕福な家庭で育ったと自ら言っていた。本人が言うくらいなのだから、本当にそうなんでしょう。でも学校や社会では浮いていた「のだと思う」そうだ。
わたしが、「どんなふうに」と問うと「分からない」って。
わたしは小さなアパートの軒下で雨宿りをしていた。スーツ姿の男性がわたしの前を通り過ぎ、錆びた階段を2段上った音がした後で、戻ってきた。そしてこう言った、
「傘が無いの」
「帰れなくなってしまって」
エアコンも無い暑い部屋でユキオさんが、わたしのシャツのボタンをはずしている時に、ボタンを掛け違えているのに、同時に気がついて、
「名前……」と呟いた。
「タカハシ。チアキ。」
「僕は、フカイユキオ。冬の雪。」一瞬逡巡して「君は名前も知らない人の部屋に入ったよ」
「わたしは、学校にも行ってないし、叔母と同じ部屋で寝るとき以外は、いつもひとりだった。友だちなんて居ないけど、当たり前。」うん。「ただ──どんな感じなんだろうって思って」
一時間後、ユキオさんは睡眠薬を飲んで汗をかきながら眠っていた。
わたしはまだズキズキ痛むのを感じながら、煙草をすった。★★★★★★★。「人殺しの気持ち」。後々、そう、ユキオさんが教えてくれた。紫煙なんて云うけれど、その日のわたしには虹色に見えた。家に帰ることなんて考えなかった。ユキオさんは煙草を吸わない。
わたしはどこにでも居るし、どこにも居ない。それと同じくらいの音量で、わたししかいないの。ユキオさんはわたしのシャツのボタンを治してくれるお守り。
ユキオさんは、わたしと関わり始めてからしばらくして仕事を辞めた。二人で六畳半の部屋で眠っていた。朝から晩まで。ある日、ユキオさんが起きる気配がして目が覚めた。同居し始めて初めの秋口の日だった。わたしが起きたのに気がついて、ユキオさんは重たそうな瞼を辛うじて開けて、ぽつっとこう呟いた。
「僕の精子は死んでいる。会った日から君は一度も訊かなかったね。」「うん。」「それだけ。」
ユキオさんは力尽きた様に瞼を閉じた。
出会った日から、もう二年は過ぎている気がする。わたしにもユキオさんにも日付感覚がない。この部屋には時計もカレンダーもテレビも無い。あるとしたら、ユキオさんの携帯電話だけど、わたしは開かないし、音が鳴ったのも聞いたことがない。
わたしはひと月、精神的にも身体的な変化がない。何か病気なのかもしれない。病名なんて知らない。子どもを産むだけの栄養が足りてないってことだとおもってる。
ユキオさんもわたしと同じ生活をしているうちに、同じように渇かなくなっていった。
日の光で目が覚めるなんて何か月ぶりだろう。透き通ったユキオさんの身体が嬉しかった。ユキオさんの下腹部に中指を置いて、あばら骨のあいだを通って、中心線を引く、首、喉仏に当たる。わたしはその場所をそっと押してみる。ユキオさんは全く反応しない。
もう少し強く。
次は、もっと強く──
わたちはユキオさんの数少ない所持品である日記帳を開いた。もう何度も読んでいるユキオさんの日記。初めは起きたときにユキオさんが気が付くように、最後のページに、
「読んでもいい? 」
と書いた。
何日か後に、日記を開けると、
「いいよ」と書かれていた。
ユキオさんの日記は、高校生の頃から、十年弱続いていた。日記には関わりをもった女のことしか書いていない。そういう関係が絶えたことはほとんどないみたいだった。ユキオさんは、その時の関係のリズムに身を任せて流れていくようで、それを本人も自覚したうえで、よし、としているようだった。
わたしのことも書いてある。わたしと会った日のことを、「タカハシチアキと出会う。八月の大雨の中、僕の家の前で雨宿りをしていた。僕は部屋に彼女を招いた──僕が眠って起きたときにも、何事もなかったかのように、服を着て彼女は座っていた。そうして、帰れないって。雨が降ってて帰れないって。」と記されている。
その後はわたしに対する懸想で筆が動いているのが感じられるけれど、だんだん文字数が少なくなり、最後のページには「母の命日。チアキも起こして、二人で二本の線香をあげる」
思い出そうとすると、それはもうずっと前のことだったように思える。分からない。半年? 一年?
ユキオさんの声を最後に聞いたのは? ユキオさんもわたしも会話を求めなかったし、同じ時間に起きていることがそもそもほとんどなかった。
わたしはユキオさんの痩せて透き通った身体を光で愛でた。わたしがユキオさんをこんなふうに変えた。ユキオさんにはもう心は無い。身体の中もほとんど空っぽだろう。その身体が、わたしのお守りだ。これがわたしが必要としていたものなんだね。
もう夏──だけど、暑さも寒さもほとんど感覚がなく、夏であれば好いなって思っただけ。あなたが溶けるにふさわしい季節だから。
マッチを擦って、煙草に火をつける。吐いた煙は──ユキオさんの肌のような──薄く濁った白色をしている。
そう、ユキオさんが教えてくれたんだよ。
「人殺しの気持ち」。
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