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倫敦讃歌 一の一

倫敦讃歌(第1話)

萩原蔵王

東京巣鴨に一軒家を構える馨吾。大学卒業後も定職に就かず自由な生活を送っていた。或日、彼の元に一通の手紙が届く。それは新聞記者として英国に渡った親友・火野からの書状だった。困窮した生活を送っていることを知った馨吾は、親類知人から金を工面して英国へ渡る。そして集めた金で日本へ帰ることを火野に提案するのだが──。

小説

3,435文字

   一の一

 

てつく冬も過ぎ去った。

馨吾けいごは寝起きに東日とうにち*の新聞を読んでいた。彼は右掌みぎてを畳の上に、体重をかけていていた。そのは極めて小さな針に刺されているかのようだった。そうして意識もせずに右手を起こして耳朶みみたぶを触り始めた。元来この男は、引切ひっきり無しに耳朶を触るという性質たちである。こうなると紙面を見ているようで何物も見ていないから、仮に彼の一日の習慣を一枚の紙に整えたとすれば、通算して十分程度はこのような時間が在る。耳朶を折り畳んで人差指ひとさしゆびの関節から爪にかけてをっくりと沿って流れていく快感を、彼はうん十年と続けている。人間の健全けんぜんたる人生を送るのに大した影響もないのだし、何しろ己は遊民ゆうみん*であるから、人の悪態あくたい逐一ちくいち癇癪かんしゃくを起こしていてはそれこそ健全でないだろうと──彼は近頃、この癖について批判する架空の人々を想像して脳内で反駁はんばくするようになった。だいぶ下らない。そんな下らないことを想像して爽然すっきりするようでは、自己をますます完璧な遊民であると自覚するようになった。遊民は縛られてはならない。遊民の健全たる人生は人の、たとえ親類と云えども辯駁べんばくしてはならないというのが彼の思想であった。こんな下らない男の癖について言及げんきゅうするのならば、一旦眼をまわりに向けて御覧ごらんよ、目紛めまぐるしい帝国主義のたかりに貴男方あなたがたは満足ですかいと云うのが一番効くから、馨吾は平然と耳を触るのであった。

彼の朝は長い。大抵はる前に枕元に擱いた新聞を読んでから起きる決心がつくから、朝っぱら鳥がうるさいのが、いつしか児等こらこえしずまる頃になってしまうのである。それは彼が遊民だから別段早起きを心掛ける理由もないし、畢竟ひっきょう耳朶を触ってさえ了えば、人の当たり前のように体躯たいく蒲団ふとんから起こすのは難儀なんぎなのである。

 庭は愈々いよいよ春めいてきた。甘橙ネーブルがもう実る時期になった。この果実は先年和歌山わかやまに住む旧友から送られてきたものである。自宅で栽培していたのだが、生憎あいにくちょっと多く育てて了ったものだから是非ぜひ引き取って欲しいと大きなひのきの木箱の中に書留かきとめが在った。馨吾はその年紀としの葉書に、書生と二人で幾日か経ていただいた。大変甘かったがちと多すぎたから、次からは僕の実家にも分けて送ってたまわけは話しておくからと書いて送った。その木箱の底に、書留と一緒に在った甘橙の種子たねを植え付けたのがそれである。当年まで抽斗ひきだし仕舞しまったまま放ったらかしにしていたのを書生の村上むらかみが見つけて、もう実るかどうか解りませんが取りえず植えてみましょうと迫られてのである。今では馨吾の手のひらほどまでに熟した。

馨吾はとうとう起き上がって、へやを出た。平屋のような一階に小さな二階をくっ付けた一軒家である。懐かしい春のあたたまった気が台所に充満していた。彼の馘元くびもとの動脈はそれによろこんでいるようで急に震動しんどうを始めた。その震動は中々まなかった。彼は紅茶を淹れた。彼が紅茶を好む理由として、一つに親爺おやじ焙茶ほうじちゃを好んでいるために対抗している心算つもりのと、彼に宿る茫乎癖ぼんやりぐせますのに最適だからである。しかし後から考えてみれば、遊民というみやびさを引き出すのには紅茶が一番かなっていると気付いた。しかし彼は、紅茶を注ぐ容子ようすを、耳朶を触ってもいないというのに、又もや何物も見なくなって了った。む前に茫乎としては仕方がない。すくなくとも一部の人間には、液体のしたたる容子を茫乎と見て了う欠点があると馨吾は思うことさえあった。

「おや先生」と云って、二階の階段を飄々ひょうひょうすべり降りて来たのが書生の村上である。

この書生は、馨吾の親爺が態々わざわざ雇ったらしい。大学を卒業して、一戸を構えるに当たった翌日、慇懃いんぎん学帽がくぼう詰襟つめえりをしゃんと着込んだ好青年をうちから送りつけてきた。馨吾からすれば好い迷惑であったが、しかしだからといって拒むことはできない。親爺は至誠しせい気概きがいとを何よりも尊ぶ人だった。馨吾が無精ぶしょうな生活を過ごすことを抑えるためだろうし、馨吾も孤独な暮らしぶりに憧れは抱いていなかったから受け容れたのであった。

「変な事件があったそうで、先生識ってますか」村上はどっかりと椅子に腰を下ろした。

「僕は別になんでもかんでも変な事件をっている訣じゃない」

そう云いながらも、馨吾は新聞のページを剥ぐって事件についての記事を探し始めた。彼は村上の云う事件を識っていた。

千里眼事件せんりがんじけん*というそうですがね。なんでもく側としちゃ滑稽こっけいなもんですよ」

「識ってますよ。──連日のように新聞に載っていたもんですから」

馨吾は沈黙を挟んだ後半の言葉を、その事件の記事を見つけてから云い放った。

村上との会話は平生ふだんからこんなもんである。大抵この書生が至るところから談柄だんぺいを漁って好いもん持ってきましたぜといった表情かおをして来る。馨吾がそれに付き合って批評する。その批評を書生が首肯しゅこうすることはほとんどない。しかし毎度のように批評を求めるのは向こう側である。この書生は「痛快つうかい」という言葉を大いに気に入っている。可不成かならずと云っていい程この言葉を口に出す。云って大学に行く。休講のときはそのまま洋卓テーブルに掛けて更に麵麭パンを喰ったり庭に出て植物をでたりする。一体何を考えて生きているのか明瞭めいりょうとしない。しかし馨吾は心中で、それが今の学生というものなのだろうと勝手に思考を終わらせた。

「にしても人間らしい騒動でしたな」

「というと」

「こうっと、つまりは騙し合いのことです。俗臭ぞくしゅうがするんですよ。それも酷い程に」

「君はどっちが善か、悪か、区別が付くんですか」

「そんなのわかりゃしません。俗臭に善悪もへったくれもないでしょう」

馨吾は無念にも口をつぐんだ。

「しかしね君。案外人の人生は権謀術数ですよ」

「さいですか。考えてみりゃ普通ですな。現に先生だって、今に職に就くぞ就くぞと云っておきながら、ついぞ職を探そうともしないじゃありませんか」

馨吾は少しムッとした。一介の学生に好い大人が揶揄からかわれてはたまらない。慥かに馨吾には怠惰者たいだしゃという自覚は在るのだが、かといって就きたい職も生憎あいにく持っていないから、こうして毎日野楽等のらくらと生きているのである。

馨吾が書生を持ってから識ったことと云えば、書生というのは大層主人を主人と思わないことである。一概いちがいに云っては良好である彼らに失礼なのだが、充分な大学*に通えている村上があの態度なら、もう一概に云って了っても差しつかえないだろうと思っている。その根拠として、この書生が宅から送られてから数日も経てば、次のような会話が生じてきたからである。──

「その癖には平生からですな」

「ええそうです」

彼は、この揶揄からかいが長く続くだろうと予想した。

「それで色々はかどるんですか」

「どうかな。五分五分ともいかないかな」

「それじゃ悪癖あくへきです」

「已めろと云ってもね。云十年とやってるもんだから」

「だから悪癖なんでしょう」

「しかしね君。僕は今まで、これといった失敗しくじりはないのだよ」

「でもそれは、どう頑張ったって今まで止まりでしょうが」

そこまで云うなら、と馨吾は訊いた。

「それじゃ君は、悪癖がないと見える」

「どうでしょう。僕自身そんな了見りょうけんはないのですが」

「その高慢こうまんさじゃないか」

「高慢ですか。そうなると先生が偉くなっちまいますな」

「君からすれば偉いだろう。現に先生、と呼んでいるじゃないか」

「そりゃ保身というものです。社会的に見れば僕と先生じゃ多少も変わりません」

「君、同級生にきらわれているんじゃあるまいね」

「まさか。案外居ますぜ」

「僕の時期はっとも」

「時代でしょう。先生はきっと境目だったんですよ」

「そうなんでもかんでも時代の所為にしちゃまずかろう」

「拙かろうと云われましても」

稚児ややっこしくはありませんか」

「人に因りますぜ。だから僕は全然」

「何の話だったか。やっぱり書生というのは生意気だね」

「主人が主人でしょうに」

「慥かに僕は好くないだろうな。こう、国民として見てみるに」

「僕だって出来るんならそう毎日野楽等と暮らしてみたいものです」

「そう大人を見縊みくびっちゃ不可いけない」

「見縊っちゃいません。社会が軽く思えるのは学生の特権ですから」

「そうやって後悔するのも大人の特権だよ。一部だがね」

「先生は悔やまなかったんですか」

「僕はね」

「驚いた。それなら僕も敗けちゃいられない」

「そうだ。そうやって信念があれば好い。その信念を持って大いにやってれ給え」

「まるで信念のない人に云われましてもなァ」

「代わりに僕は丈夫な人だ」

「さいですか。好い人生ですな」

村上が彼との会話を何気に楽しんでいるようだったから、馨吾は叱責したり憎悪を抱くようなことはなかった。

© 2026 萩原蔵王 ( 2026年2月14日公開

作品集『倫敦讃歌』第1話 (全6話)

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