
彼女が初めてわたしの家を訪れたのは、昨年の暮れのことだった。庭には遅咲きのバラが彼女を待ち受けるように咲いていた。
彼女はそのバラをわたしに断ることもなく──といってわたしはその時寝ていたのだが──一本手折った。そして、それを押し込み強盗の凶器のように利き手である左手に握りしめて、カギの壊れたわたしの家に入ってきた。
出し抜けにわたしが寝ていた部屋の扉が開き、わたしは目を覚ました。その刹那、彼女が勝手に手折ったバラを唇に押し付けてきていた。
あまりに突然の出来事に、わたしは身体が固まってしまい、目を開くだけで身動きが取れなくなってしまった。
彼女は右手でポケットから何かを取り出した。それがルージュだと云うことに気がついた時には、唇に塗リたくられていた。
わたしは自分の頬がどんどん青ざめていくのを感じると同時に、寝巻きが冷や汗で湿っていくのを感じた。
彼女は手折ったバラをわたしの枕元に投げ出した。
その棘は押し込み強盗さながらのナイフのように妖しく発光してるように見え……。
開口一番に、「あなたはあたしを騙したんだわ!」と彼女 は叫んだ。
わたしは何のことやら、さっぱりと分からない──彼女はそのまま──「あなたがあたしから悟を奪ったの。あなたにはあたしがどんなに辛かったか全然分からないでしょうね!」
何のこと? わからない。サトル? だれ?
「なぜ黙っているの」 糾弾するような口調。
彼女の右手は依然としてわたしの唇にあり、かつ、意志を放棄したかのように乱雑に、ルージュを塗りたくっていた。
そのために、わたしはとても口を開くことができないでいた。
それを知りながら「なんで黙っているの。あなたのせいで、あたしは……あたしは……」と呟き、彼女はついに涙ぐみ始めた。その仕草は見事なまでに芝居じみていた。
わたしの身体は緊張のあまり凍ったように強ばってしまった。
彼女はひったくるように手を伸ばして枕元のバラを取ると、
「ぜんぶあたしのせいって言いたいんでしょ!」と言ってそれをわたしの顔に投げつけた。
「あたしはあなたが憎い! あたしにはあなたが必要なのに!」
握り固めた左手で、強くルージュをわたしの口内に押し込んで、そのままそれを口内で踊らせた。
その味は生々しかった──雨ののちに漂うぺトリコールの臭い──土壌から立ち上る微生物の臭い………。
彼女は脱力したかのように身体を弛緩させると、項垂れてゆっくりと扉の方にあゆみ始めた。それはまるでわたしが「待って!」と叫ぶのを祈るような姿勢に見えた。
それを見て、またしても肌着は嫌な汗で染まった。
わたしは恐る恐る彼女に塗りたくられた唇に隙間をあけると、「また来てね」と言った。
その声は自分でも驚くほど嗄れた声だった。
彼女は振り向いて侮蔑の一瞥を投げつけると、そのまま踵を返し去っていった。
乱暴に閉められた扉の激しい衝突音と同時にわたしは、
「愛してるの、わたし、愛してるの、英子!」と叫んだ。聞こえたかは、分からない。
そしてまた自分自身がなぜそんなことを叫んだか分からないまま、わたしは呆然と、ただただ、緩やかに滲んだ服を全て剥ぎ取った。
「また来てね、わたしが誠実なら……」
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