おれは猫になりたい……。あの四足歩行とたった毛並みだけの美しさで可憐な女性職員たちからチヤホヤされたい……。おれは人間的な生活が自らの要領の中に上手く当てはまっていないことを二十五年の人生の中でようやく認識することができた……。それだって十分な成果だと思う。けれど多くの人々は、なんの課題も乗り越えていない給食をいつまでも食べている五時間目の女子生徒を視るような目でおれを視ている……。おれは医学部に行きたくなんかなかったのに……。
「これで猫になるしかない……」という口ぶりとともにタンスターは猫を飲み込んだ。それは野良猫だった。街中でいつでものうのうと生きているクサイ野良猫。タンスターは野良猫をひっ捕らえて持ち帰り、その四肢を切断して舌を切り取り、残りの全ての部位をミキサーにかけて液体にした。それはアッと驚くほど凝縮された可憐な猫のにおいに満たされた粘液だった。赤黒く、接着に使用できそうな粘り気に満ちていた。タンスターはそれを一気に飲み干した。それでも自らの身体が猫に変形するどころか、喉と喉が密着して窒息することさえなかったことに唖然として猫の墓を造った……。
「これは猫にならなければならない……」街並みを遠くに歩幅を増やしている。タンスターは居酒屋でいくつかの借金をこしらえてから、それらをチャラにするため火炎放射器を購入した。タンスターが世間一般的な名称で軍人と称される大半の理由はそこにある……。彼は逆境という風向きを鋭く読み、それでいて火炎放射器の扱いに長けている。彼は火炎放射器を指先のように使用するのだ。どこかの軍曹の声が反響している。おれは猫にならなければならない……。
抑揚のある声を辿っている便器のような色をした白衣を着るペンウィー医師はタンスターの横にいつの間にか座っていた。彼がいつどのように着席したというのだろう。きっと世界のどんな最先端でシュミの悪い器具であっても彼が着席した瞬間を観測できない……。ペンウィー医師の声がする……。優秀な医者というのは患者に自らが着席する姿をみせないのだよ、タンスター……。
彼はよくおれの名前を呼ぶ。猫の背を撫でるようにおれを呼ぶ。あんたにとっておれは患者なのかい……。俺は波打つ飛沫のように訪ねてみた。それは意図的なものだった。ペンウィー医師は椅子の上で指先を転がして答えた。「世界が私にとっての患者だからね。世界は病気だらけ」
それからおれは自分の身分がいつの間にかペンウィー医師の前へ誘われていることを知った。この衛生安全局には手術という動作にとって友好的な道具しか置かれていない……。
「おれはどうなる?」と、おれはすっかり手術衣装に着替えたペンウィー医師に訊ねた。すでに頭蓋のどこかが開けられているのかもしれない。頭頂部の周辺に冷風が触れているような感覚がある……。ペンウィー医師は新しい医療用メスを握っておれに語り掛けてくれる。
「君は猫になる……」ペンウィー医師の声が反響している。頭蓋をすり抜けて脳漿が冷たいものに触れている……。頬の部分に生えたばかりの猫の毛が薄らと浮かんで粒のように痒く感じる……。農相が猫の形になる。おれは猫のあの耳とは脳漿の形なのだとようやく知る……。ペンウィー医師の顔つきが六角形のような様相をみせてくる。「君は猫になるしかない……」おれは生の肴を食べてみたいと思ってしまう。もう火炎放射ができない。おれは気付くと路地裏に立っていた。いいや、おれはそこですぐに自分が二足歩行ではないことを知った。別に鏡を視たわけではない。人は誰だって自分が二足歩行であることを自覚するところから日々をはじめる。それは確認だった。おれは自分が四足歩行になり、毛並みを持ちこれからどこかの美女に拾われる猫になったのだと思い知った。
「それはいいことだ……」とおれは囁いた。しかしそれは人としての尊厳を最低限保った声ではなかった。ニャァオン、などと路地裏に響いている。
「まるで猫だな……」いいやそれはおれの声ではない……。おれは四足歩行の尻の部分に誰か別の男が居座っていることを知った……。視たのだ……。なんなの利益も出さずに空き瓶を売るだけの男のことをおれは視た……。まるで達磨だった……。おれはギラリと叫びながら男の組み敷いてくる姿から逃れようとした……。「猫のナカはいい具合だ」男の唾液に満ちた声がする……。温かな肉棒として劈いで脳漿が染みてゆく……。おれは男の陰茎の一部になった。「少なくとも女が男と性交する時、結合した瞬間から女は男の一部になる」ペンウィー医師が開催していたあの講習の声がする……。おれは波打つ白い濁ったものたちが蠕動し、おれの方向に溜まって重たく肥えてゆくことを視た。夕暮れがある。男の達磨の背がそこに映り、おれはヤツをさっさと滅却してやりたいと思う。
「けれど火炎放射なんて使えない……」
おれは肉球と化した素手の中の湿ったいつまでも居座る男の感触を地面に擦り付けて逃がそうとした。そんなことをしては駄目よ……。次の新しい声がする。おれは耳を立ててからその方向に鼻先を向けた。女が立っている。大学に勤務する立方体のような女……。おれは自分の身分が彼女の所有物に上手く収まることを予見した。網タイツに縋ると足蹴にされる……。「どうしてあなたが私の家に泊まることができると思ったの?」おれは真っ逆さまに地球に落下してゆくように事実を知る。身分における絶対的な事実……。
それからおれは彼女の入れ歯の奥から出てきた黄色いものを煮干しだと思い込んで咀嚼し暖を取った。いくつかの尻を視ていくつかの肉棒を受け入れた……。生まれてから一度も湯に浸かっていない……。おれは遠い医学の事務局が愛おしいというようにベンチに丸まって目を閉じた。開いた次の瞬間、隣にペンウィー医師が座っていることをおれは視た。
彼がどこかに着席することを誰が視るだろう……。世界のどんな慈善団体職員の男も女も、シスターや司教でさえ彼が座る瞬間を視ていない。路地裏の猫であっても彼が腰をゆるりとラクにする瞬間を知らない……。
「世界が、患者……」
おれはペンウィー医師の頬似すり寄るように訪ねた。ペンウィー医師の白衣に包まれた裾の硬い腕がおれの眉間を流れて脳漿の冷たい箇所に触れてくる……。それはいつかの日のベッドにそうするように額を預けた。人間になりたい……。
「君は最初から猫だったよ」
ペンウィー医師のキャットタワーのような声がめり込んでくる……。
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