新しく建った店の座敷。火鉢にあたる初老の夫婦が仲睦まじく座っている。
「あんたにね、機嫌なおしに一杯飲んでもらおうと思ってね、一本酌けてあるんだよ」
歌舞伎座の大舞台。奥から徳利をもってくる女房おたつ役は寺島しのぶ。
「本当か、酌けてあるって……酒か? やっぱし女房は古くなくちゃいけねえ……そうか、どうも畳のにおいだけじゃなく、いい匂いがすると思ったんだよ」
客席に笑いが起きる。酒と聞いて目の色を変えたのは、ようやく店を持てた中村獅童演じる魚屋政五郎。舞台の奥から鐘の音が厳かに響いてくる。亭主は茶碗を手に取って酒を呷り、女房がこれまた徳利で空いた茶碗に酒を注ぐ。
「はぁ……何年ぶりだな。お前にこうやって酌してもらうなんさ……おっ、除夜の鐘を打ち始めた。明日は日本晴れ、いい正月だ……いいねぇ、酒を飲みながら、除夜の鐘が聞けるなんて。おいおい酒がこぼれるよ!」(萬屋!)
大向うの声が響き客席からは微笑ましい笑いも聞こえる。そんななか、政五郎は突如、茶碗を畳にドンっと置いた。
「え?……どうしたの?」
おたつは驚いた顔をして亭主の顔をのぞく。
「俺、やっぱりよすよ……また夢になるといけねぇ」
おたつが満面の笑みを浮かべながら政五郎に抱き着き、「おっと」と言うように、背中から畳にころげるような姿のままスナップ写真のように動きが止まると、附け打ち二つがババンっと鳴る。(音羽屋! 萬屋!)
打ち出し太鼓と万雷の拍手が響くなか、赤緑黒の定式幕が右から左へとザーッと引かれて『芝浜革財布』が終わった。会場の照明が明るくなり、岬は疲れた赤いコートを左手に持ちながら二階席の椅子から腰を上げる。
「早く出ないと、混むよ。あんた」
「ああ、ちょいと待ってくれ。それにしても芝居はいいねぇ」
正平は股の間に挟んでいた杖を右手に持ち、「よっこらしょ」と言いながらゆっくりと立ち上がる。
「その尻に敷いてるジャンパー忘れるんじゃないよ!」
「へい、へい……」
外に出る客に押し出されるように歌舞伎座の外に出ると、師走らしい寒さが二人を纏い、それぞれが手に持っている上着を羽織る。正平が彼の顔のしわと同じように使い込んだジャンパーを着ているあいだ、岬は杖を預かっている。木挽町はすっかりと暗くなっていた。空を見上げれば低く垂れ込んだ雲に銀座のネオンが反射している。左腕にはめている安時計を正平が目を細めながら確認する。十七時を回っていた。岬は束の間預かっていた杖を正平に渡す。
「いい時代になったなぁ。岬」
そう言われた岬は、しゃがみながら眉間に皺を寄せて正平の顔をのぞき、「なにがさ?」と、正平の顔の上〈十二月大歌舞伎〉〈満員御礼〉と書かれている赤色の大きな垂れ幕を見ながら聴き返した。正平は年季の入った岬の顔を見ながら、「女が大歌舞伎の舞台を踏める時代になったぁ」と小さく呟いた。――あれから七十年。こんな長くこいつと共に生きるとは思わなかった。
「あんた。また、昔のことを……さあ、行くよ。明日は観音様にお参りだよ」
「歳をとったと思わねぇか?」
――なにを言うのかしら、あたりまえのことじゃない――「いまさら」と発する岬に向かい正平は、
「爺いになって疲れちまったということだ。タクシー拾ってめしでも食いに行かねえか」
「なに言ってんのさ、あんた! うちらに余分な金があると思ってるのかい?」
正平は照れくさそうに「いいじゃねえか。大晦日くらい。駒形に行って、どじょうでもと……」と言うと、
「なに馬鹿垂れてるの! まだ十二月半ばでしょ……さっさとタクシー捕まえな」
「いいのか?」
「夢にならないうちにはやく捕まえなって!」
* * *
昭和三十年春 東京浅草
千秋楽結びの一番で西の大関玉乃乳に勝利した東の大関岬海。土俵の上で勝ち名乗りを行司がした後、化粧廻しを身に締める女力士四人(中には負けた玉乃乳の姿も)が土俵に上がり、東西南北四方に分かれて客側に向った。踏み俵から上がるは呼出の正平。正平は白扇を開き、弓取りを無視して異例の相撲甚句を謡いだした。
〽女大相撲春場所千秋楽よぉ
(ハァー ドスコイ! ドスコイ!)
〽ハァー勧進元や世話人衆
お集まりぃなぁる皆々様よぉ
(ハァー ドスコイ! ドスコイ!)
〽お名残惜しゅうは候えどぉ
女力士は、その掛け声と同時に化粧まわしを上にあげる。彼女らの首元、腕、乳、腹には玉のような汗が浮かび、照明にあたって光り輝く。
〽結びの一番終わればよぉ
土俵北に陣取っている玉乃乳の豊満な乳の先にある突起から、一雫の汗がポトっと土俵際に落ちた。濡れた土俵の土は刹那に乾く。
〽来場所までの暫しのお別れぇ
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