僕は丁度通りがかりにあった寺の、古ぼけた本堂の屋根の下へ駆け込んだ。制服の襟を濡らすのが汗なのか、増えつつある重い雨粒によるものなのか判らない。
不意にあれほど煩く啼いていた蝉が静まり返ったかと思えば雷を伴った大雨が一瞬で焼けた路面を支配する。生暖かい空気を産むと同時にこの身を蒸発しきれなかった水分で溺れさせようとするのだ、この空は。
これだから夏は嫌いだ。女心と秋の空とよく言うが、夏空の方があれよこれよと変わっていく。どんなに用意周到にしてもどこかで気紛れを起こし、裏切る。
唯一許せるとすれば…盆だ。あの暑苦しくて面倒な人間関係築かねばならぬ学校生活から解放される。なんの面白味のない田舎に帰らねばならぬことは仕方のないことだから我慢ができた。黙っていても祖父母親戚一同からチヤホヤと、別に気分がよくなるわけでもない誉め言葉とちょっとした小遣いと与えられ、”高校生活はどうか”と聞かれるものならば”良い”と答え、馳走を食って適当に宿題をしている素振りをしていればいい。面倒ではあるが、日々教室のなかで繰り広げられる無意識の心理戦に比べればなんのこともない、簡単なことだ。とは言え、不便の塊でしかないここに住むのは真っ平ごめんだが。
雨で霞む夏景色を霧がにじり寄って消していく。空気が僕の頬を撫でるのが目に見えて、気持ち悪かった。反抗心を持たず素直に家族と共に来たならこんな目に遭わなかったかもしれない。
たった一日、他人より先に盆休みに入ってしまっても良かったのだが、帰ってきた頃にそれを「サボりだ」と言われるのが気に食わなかったから最終登校日まで健気に通って、駅まで迎えに行くと言った父を周囲に田んぼしかない無人駅で一時間も待ちぼうけるのも苦痛だったから手っ取り早く歩いて途中で合流しようとしたらこの大雨だ。
自分の選択にこれほど見離されるのも珍しいのではないか、と苦笑した。
続く轟音の中、寺のどこかしらで僕以外の息遣いと声が聞こえた。壮年の、男が数人……恐らく。談笑しているのがはっきりと。
彼らも僕と同じ気まぐれな天気の被害者か、それともここの坊主たちなのだろうか。ここで雨宿りしているのを見つけられて長々と説教じみたつまらない話をされるのも嫌だ。先手をうって、雨があがるまで居させろと言ってあとは話しかけるなと言わんばかりの雰囲気を出してしまえばいいだろう、と考え僕はずぶ濡れのスニーカーを脱ぎ、色の変わった靴下をその中へ突っ込んで声のする方へと向かった。
本堂、僧堂、寺務所と歩んだが、声の主はいっこうに姿を現さない。いや、気配はすぐ近くで感じるし声も側で聞こえ、人影も確かにあの角でゆらりと見えたのだ。それにも関わらず、角を曲がった先に人はいない。
苛立ちが募り始めた僕の目前に重厚な扉が立ちはだかった。この扉の向こう側から確実に談笑が聞こえる。
今度こそ居る。僕は躊躇わず扉を開けた。
冷たい風に混じって生温かい感触がいくつも僕の身体の間をすり抜けた。
薄明かり、扉の向こう側。
規則正しく、狂いなく同じ大きさの同じ形をした黒い小さな扉が幾つも、ぎっしりと並んで。
そこは、この世ではないどこかだった。
一つ、開け放たれた扉の中には白磁の壺が鎮座している。ただ、壺がそこに鎮座していた。
「おや、誰か来たのかな」
「うん?」
息をした生物はいないはずのこの部屋から僕に声が向かってくる。人であり、人ではない声。
僕は音を立てぬように後退りをすると、まだ降りやまぬ雨の中を裸足で走った。
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