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『心気楼』

永海番陽

観測した人間の望むものを見せる蜃気楼が発生する不可思議な浜辺。人々はそれを求めて浜辺へ狂気的に群がった。
人々を飲み込んだ浜辺はやがて閉鎖されたが……

タグ: #哲学 #純文学

小説

3,709文字

その浜では非常に奇妙な蜃気楼が見えることから、かつては人が押し寄せ、騒ぎになった。ある人は事業に成功した自身が見えたと語り、ある人は恵まれた家族や友人に囲まれた自分を見たと語った。またある人は神や天使が微笑みかけてきたと言い、その隣で同じ水平線を見た者は宇宙の大規模構造が映ったと鼻息荒く喋った。見物する人間が増えるにつれ、蜃気楼はアップデートでもするかのように、観測した者へ幻聴も添えて提供し始めた。パガニーニのコンサート、リンカーンの演説、巌流島の決闘すらその水平線を舞台として上映された。見る者の理想、空想、憧れ、あるいは妄想、執着に合わせて、蜃気楼は変幻自在に、下品なまでに姿を変えた。しかも、本来の蜃気楼ならあり得ないことだが、それは朝だろうと昼だろうと夜だろうと、どんな悪天候であろうと、いつ訪れても観測できたため、浜辺は一日中人が絶えなかった。挙げ句、蜃気楼無しには生きられなくなった者たちが、打ち上げられた鯨か海豚のように大量に居座り、テントを張って住み着き始めた。最初は観光地として浜辺を利用していた町も、すっかり心の琴線の錆びた虚ろな目の彼らをおそれた。何人かは水平線に向かって泳ぎ出してそのまま溺れたり、浜辺近くの崖から身を投げ出したりした。それらの事態に、町は結局海岸一帯を封鎖し、一切の立ち入りを禁止した。その際、住み着いた彼らを立ち退かせるのは骨が折れた。排除に来た警官さえ、一度海の果てを目に入れてしまえば、例外なく心を乱され、砂に足を取られたのだから。

そのために浜辺の封鎖が完了するまでには1ヶ月の時間を要した。

上述した出来事からはすでに数十年が過ぎている。その間に何度もこの奇妙な蜃気楼について、国や自治体は科学的な調査を行ったが、まるでこの何者かの悪意すら感じる現象の手がかりは発見できなかった。調査を指揮した、徹底的な無神論者で有名な学者さえ、霊魂の自然現象への関与を疑ったほどである。しかしそのような不可思議で魅惑的な事件も、時間と共に風化し、人々の記憶からは消えはじめている。

が、今でもどこかから噂を聞き付けた者が月に数人は浜辺へ入ろうとするため、警備員は現在も数名置かれている。彼らは様々な理由や弱さ(あるいはただの馬鹿げた若さの過失)から蜃気楼を頼る者たちを諭して、町へと帰す。かつての騒動のように暴力的な事態にはほとんどならない。

これが、奇妙な浜辺のあらすじである。正直に言ってしまえば、読者がここまでの話で覚える必要があるのは、観測者が望む景色を蜃気楼のように見せる浜辺がある、という要素だけである。次の物語を読む上で、浜辺の歴史的ないきさつについては、特に頭に置く必要はない。

しかしながら、“蜃気楼無しには生きられなくなった者”という部分については留意していただきたい。おそらくそれが、これまでの話とこれからの話の根幹だからである。

夜明け前のことである。熱いほど光っていた満天の星が徐々に消え、海は冷たく波を立てて遊んでいた。

女は奇妙な浜辺にただ佇んで、日が顔を出す前の水平線を眺めていた。

女にはその水平線が真一文字に閉じた口に見えた。なにもかも飲み込む口に。実際、そこに映し出される光景に、いくつもの命が吸い込まれた。ここは境界線である。人であるかどうかの境界線である。そう考えた人間が、白波に貫かれてきたのだ。女は動かなかった。動き方を、忘れたようだった。しかし、浜辺を歩く人影が見えて、女はそちらへ顔を向けた。

海の果てを見ながら、男が女の方へゆっくりと歩いてきた。男は大きいサングラスを掛けていて、緑の警備服を着ていた。浜辺の警備員に違いなかった。声が届く距離まで彼が近づいたとき、女は小さく言った。どうもはっきりしない、靄にぼやけるような声だった。

「あら……私を捕まえに来たの…?」

警備員の男は、海の果てから目を一切逸らさず立ち止まり、低い声で答えた。

「いえ……僕にそんな資格はもうないでしょう」

それはとても強く聞こえた。

「……いつもなら、あなたのように、勝手に浜に入った方は、なんとかして帰っていただくのですけど、今の僕に、それはできません」

「どうしてかしら」

「ここの警備員は、絶対に蜃気楼を見てはいけないと決まっているんです。浜辺に一番近くて、長い間身を置く我々が蜃気楼など見てしまえば、惑わされるに決まっていますから。ですから僕らは蜃気楼を遮る加工がされたこの特殊なサングラスを掛けるよう義務づけられているんです」

言いきると男はサングラスを外した。大きい茶色の瞳が露になった。おそらく、元々は活発な印象を与えたであろうその瞳は、ひどい隈によって濁りきって見えた。

彼は女の隣で水平線の蜃気楼を眺め続けた。女は男を見つめ続けた。

「僕は……警備員……いや、人として失格です」

「そうかしら」

「そうですよ。僕が……僕が今まで、浜辺に来た、蜃気楼に助けを求めて来た人たちに、何て言ってきたか」

「何て言ってきたの」

「……こんな幻に価値はない。現実も捨てたもんじゃない。あなたは一人じゃない。必ずそばに誰かがいてくれる。だから、蜃気楼に頼るのはやめましょう……」

「それは……間違ってないわ」

「ええ……間違ってるとは思いませんけど……今の僕を見てください。海の果てから目が離せない」

空が明るみ始めている。星は海の近くから消えた。蜃気楼はそれらの時間の変化を意に介さない。ただ男の望む景色を無慈悲に映すだけである。

「結局、僕がずっと言ってきたことは、薄っぺらい綺麗事だったんです。偉そうなこと言って、いいことをした気になって、それで自分が大切なものを見失ったら――こうやって蜃気楼に頼ってるじゃないかッ!……まったく……なんて情けない…………水平線の彼女と自分との距離を、測ろうだなんて…………星との距離を測った方がマシじゃないか……」

「……本当の蜃気楼は、どこかの景色が光の屈折で違う場所に映るのよね」

「ええ……そうらしいですね……」

「つまり、まるっきり嘘の景色を映すんじゃないのよ」

男の肩が、ぴくっと動いたのを女は見逃さなかったが、彼女は話を続けた。

「ここから見える蜃気楼だって、どこかにある景色で、本当のことかもしれないわ。嘘なんかじゃ…」

「どこにあるって言うんです! どこにいるって言うんだ! 彼女が、どこにいるっていうんだよ!」

男は声を張り上げて、女に掴みかかろうとした。しかし、それは失敗した。男の手は女をすり抜けて、彼はその勢いのまま砂浜に倒れてしまった。何が起きたか解らず、混乱したまま女へ振り返った。男はこの時、初めて女の顔を見た。そして、絶句した。

「人はね、時間を過去、現在、未来って勝手に順番を付けて認識してるの。それは同時に存在しているし、まるっきり違う時空だってあちこちにあるの」

男は急いで立ち上がり、女と向き合った。

何度も手を取ろうとした。

何度も抱き締めようとした。

けれど、すり抜けてすり抜けて、彼女の涙にも触れなかった。

「あの蜃気楼は、見えなくなった人の、見失った人の鏡……。心の屈折で見える光。でも、あなたのそばに、本当にいるわ」

「なら…! なら帰ろう…! 一緒に帰ろう!」

女は首を横に振った。それと同時に潮風が吹いて、彼女の姿は曖昧になっていく。

「どうして……どうして僕の幻になるんだ……」

「幻じゃないわ……確かに……あなたの目の前にいる。これからも……これからもずっとそうよ……」

朝陽が海の色を変え始めている。星はもう無い。

「ここは境界線……こっちとそっちの…………だから、本当は交わっちゃいけない……でも――」

「会いたかった……」

「――うん……そうよ…………会いたかった……どうしても……」

もう朝が来てしまう。

たとえ人の気持ちを置き去りにしても、朝日は変わらず顔を出す。

だからこそ、それは変えられないからこそ、彼女はいま、彼にいわなくてはいけないのだ。

「あなたは一人じゃない……必ずそばにいる……あなたは駄目じゃない……だから、蜃気楼に頼らなくても大丈夫……知ってるから……あなたをずっと……」

「“愛してる”」

二人の言葉は重なって、海と浜辺の間に濡れて交わって、すぐに風に乗ってどこかへ去った。

彼女の姿は、見えなくなった。

男は立ち尽くした。落とした涙で砂が濡れていくのをただ見るしか出来なかった。どう動いていいか、わからなかった。しばらくそうしていると、彼は彼へ駆け寄ってくる男に気がついた。それは男の同僚であった。同僚は男の元にたどり着くと、持っていた大きな毛布で彼の肩を包んだ。

「大丈夫か…!」

男は崩れそうになるのをこらえて答えた。

「ああ……悪い……悪かった…………悪かった…!」

「何が悪いんだ…………ただ、辛くなっただけじゃないか…………もう大丈夫だ……俺が言わなきゃクビにもなんねぇよだから……帰ろう」

「ああ……! あああ……!」

男は泣きながら、前を向いて、同僚に導かれるまま歩き始めた。日はやがて水平線より、蜃気楼より高く昇り、男と町を照らした。波が収まるのは、もう少し後になるだろう。

 

 

 

 

© 2025 永海番陽 ( 2025年8月5日公開

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"『心気楼』"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2025-09-20 06:40

    「リンカーンの演説」のチョイスいいですね

    • 投稿者 | 2025-09-29 01:38

      コメントありがとうございます。とてもうれしいです。

      著者
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