鍋島化の日記

山雪翔太

小説

29,765文字

山雪翔太のTwitterでリアルタイム更新していた、「鍋島化の日記」をまとめた物です。

12月4日

 これを拾ったのは俺が日雇いで働いてる店の裏のゴミ箱だった。誰か子供が落としてしまったのか、道端にぽつんと落ちていた。仮に子供が落としたとするならば、今こうやって俺が使わせてもらっているのは申し訳ない事だが、見つけた時にはもうだいぶ汚れていたので、多分大丈夫だろう……。

 日記なんか今まで書くつもりもなかったが、いつか俺がこの世から消えてしまった時、誰の記憶にも残らないのは寂しいと思ってしまったから、書くことにした。これが唯一鍋島化という存在の証明となる訳だ。俺の身体だって、本当に死んだら遺体として残るのかも確証が無い。

 近頃は急に寒くなってきてしまった。前に見た明治神宮外苑の銀杏は見事なものだったが、今日見ると随分落葉してしまっていた。流石にこの格好では耐えられないので、仕方なく、古着屋で買ったジャンパーを羽織る事にした。サイズが合わず、丈が太ももまであるが、仕方ない。しのげればいいのだ。

 今日の仕事も特に厄介な事は起きなかった。夜の方も。煙草も切らしているので、明日買いに行くことにしよう。

12月5日

前煙草も高くなったものだ。ああ。何とか手に入れたが、今後いつ吸えなくなるか分からない。電子煙草も前に吸ったが、薄めたジュースを飲んでるみたいだった。

 実際よく、俺はいつまでこうやって何もせず、ただ身体を売ったりして、夜は路地裏で段ボールを被って寝る生活を続けるのだろうと思う。いつまでもこのままなのだろうか。しかしそれも仕方ない。これが身勝手に妖怪になって人を傷つけた俺への罰なのだろうから。

 とにかく、今日もやる事は特に変わらなかった。コンビニでレジ打ちをして、終わったら道をふらふら歩くだけだ。出来るだけ警察に見つからない様に。

 この世に居る人間は多種多様だ。昔はもっと種類が少なかった様に思える。ただ数が増えるのは良いことでは無い。当然突然道端で発狂を始めたり、夜には薬でいかれてる奴もいる。ただ最近思うのだが、そういう奴らをあざけりながら見てるうちはまだ幸せなのだ。自分がいつ狂っている側に移るか分からない。そうだ、俺も身を潜めてずっと生きることなんて不可能に近いのだ。

 しかし俺はいつ狂うのだろう?もう狂っているというのか?俺は本当に正気なのだろうか。

 明日は風俗での接待だ。不特定多数とのセックスで、分かるかもしれない。自分が正気か、否か、がだ。とにかく服と化粧の準備だけしておこう。

12月6日

 ああ、思い出した。今日は木曜日じゃないか。

平日に風俗に来る奴なんて居ない。無職以外は。

今日は一人だけ俺の所に来た。無精ひげの薄汚い四十歳のおやじだった。いやはや、この仕事も楽じゃない。別に接吻くらいはしてやってもいいが、出来れば来る前に歯を磨くかブレスケアでも食ってきて欲しいものだ。にしても、今日の相手は愉快だった。思い出す度に笑ってしまう。

 最近の女達は男に嫌悪感を覚えているというが……俺にすれば男なんて可愛いものだ。……少し今日の男について書いてみよう。

 はあはあと荒い息を向ける男。その息はにんにくと哀れな四十年間で熟成された汚らしい胃のにおい。そいつは俺の肩をがっと掴んでくる。ただ大したものじゃなく、力は弱い。逃げようと思えば逃げれる。そうしてそいつは俺に接吻する。ただそいつは「キス」のやり方も知らないのか、唇同士をくっつけるだけで、味気ない。

 ……まあ、それからやった訳だが、はっきり言ってあまり覚えていない。俺はベッドの上で寝ているだけだ。若干眠っていたのだろう、気付いたらその男は果てていた。その小さい袋を被せられた拳銃の先に、真っ白い弾薬を添えながら。

 前々から不思議に思っていたが、俺は他の女の様に馬鹿みたいに喘げないので、あまり評判がよろしく無い。……何も感じられないのだからしょうがないのだ。だがどうしても不思議だったので、この事を同じ店の女に尋ねた。俺が正確に話すと鼻で笑われたが、ふと言われたのが「フカンショウ」という言葉だった。どうやら俺は男とのセックスで快感を得られないらしい。冗談めいてその女に「女の子とやってみたら?」と言われた。……馬鹿馬鹿しい。同性同士でできない事は俺でも知っている。

 前日の疑問に答えてやるとするなら、俺は正気ではない、が答えだろう。俺は皆ができるようなことが出来ない。皆がやらないことをやる。そして俺は人間ではないのだから。

 まあ、手に入った金はありがたく使わせてもらうとする。

12月7日

 寒さというものは魔物だとつくづく思わされる。時には人の心を壊し、狂わせる。そいつは夏の暑さが薄れるにつれて、徐々に姿を現してゆく。つま先から、ゆっくりと。人間がそいつを認識するのは難しい。ようやく認識する頃には、そいつは既に身体の全身にまとわりつき、虎視眈々と命を刈り取るのを狙っている。そうしてそいつは、人を後悔の中で、哀しい痛みの海に沈めていく。

 どうすればその魔物に対抗できるだろう。……親しい人との接触しかないと思う。近頃の人間どもは、どうやらショッピングモールやスーパーマーケットの暖房の中にいるだけで、自分は満たされていて、幸せだと思っているらしいが、それは大きな間違いだ。

 あまり思い出したくないが……俺が人間だった頃は、当然ヒーターやエアコンなんて便利な物なんてなかった。あの時は東京に行きさえすれば更に便利な物があっただろうが、鍋島幻術堂は江戸からの古い屋敷だったので囲炉裏しかなかった。囲炉裏という名前がつけば響きは良いが、所詮はただのたき火。あんなので今の様に身体を温められる訳がない。…………それでも俺は、師匠と隣で肩を寄せながら囲炉裏の火を眺めていると、暖かった。厳格な男だったが、あの時だけは頬が緩んで、俺の頭を優しく撫でてくれた。

 ……少し脱線した。とにかく、人の孤独を埋める暖かさに温度など関係ないのだ。だから……魔物は体温に関係なく、身体を蝕む。

 だから今の時期、人間たちはどこか乱暴になる。どこか配慮がなくなる。どこか寂しい顔をする。

 誰も悪くない。ただ、今の社会が冷たすぎて、孤独な人間が多いだけだ。

 そうして俺もその一人だ。今日の帰りは、俺はこっそり捨てられていた段ボールと、道端の乾燥している葉っぱをかき集めて、山を作って、ライターで火をつけてたき火をした。吸い終わった煙草を中に入れて。

 ……やはり、俺の仮説は正しかった。師匠がいないと、暖かくない。こんなもんだろう。

12月9日

 昨日は少し警察に追いかけられていた。あの野郎どもは時々俺をトーヨコキッズ?扱いして追いかけて来るのだ。だがあいつらは所詮検挙での評価欲しさにやってるだけだろう?

 ただ、腐れきった東京にも、良い場所はある。古本屋だ。それなりに大きい店で、今日は日曜日なのも相待ってそれなりに人が居た。

 俺はろくな教育を受けておらず、精々人間の頃に習ったのは炊事に洗濯に掃除のやり方と、幻術の扱い方くらいだ。幻術の方は妖怪になったせいで、まあ力さえあればどんなこともできるだろうが、それ以外はもう忘れてしまった。技術もかなり進歩しただろうから、きっと俺が習ったのより苦労しなくなっただろうけれど。

 そんな俺でも、外に出て、周りの看板や、他人の会話を注意深く聞いて、何となくノートにまとめたりすると、文字がある程度読めるようになった。そんな中で俺が好きになったのは本だ。

 本は俺に全てを教えてくれた。基礎的な日本語の用法から発展した、美しい日本語。文化。人間関係のもつれ。恋。十人十色な生き様。

 懐かしい記憶が蘇って俺の周りを闊歩する。百年程前は、俺も古本屋で知り合った書生達に混じって、熱心に活字と戯れていた。時には彼等と小説や哲学について語り合ったものだ。「漱石の心情描写は素晴らしい」だとか、「谷崎とかいう小説家の情けなさはなんだ!」だとか。そして皆好きな哲学者が居た。ニーチェやらショーペンハウエルやら。ただの小説家の好みのことで、時には殴り合いのけんかに発展することもあった。まあ、とにかく皆小説というものが大好きだったのだ。心地良い空間だった。誰かの家に集まって、あぐらをかいて、酒を呑んで馬鹿騒ぎするのだ。俺は酒は呑めなかったが。

 家には時々、お嬢さんが居た。着飾らずに、男と同じ様な格好をして、男と混じって騒ぐ俺を、心配そうな目で見つめていた。時折、世話好きの奥さんに、お古の綺麗な着物を着させられることもあった。その姿を見てあいつらは思わず吹き出して笑っていたが、その内一人が帰り道に急に真面目な顔になって、お前を貰う男がいないなら、俺が貰ってやる、俺の妻になれ、だとか言うのが面白かった。生憎俺は家族も居ないし、お前と一生添い遂げるのはごめんだ、とかわしていたが。

ただあの頃は楽しかった。人には必ず青春時代があるというが、あの頃が俺にとってのそれだったのかもしれない。

 だいぶ脱線したが、俺はそれからずっと本の虫妖怪だった。時代の移り変わりで小説の作風も変わっていくのが、これもまた中々に愉快なのだ。

古本屋で本をまた何冊か買った。積み本が増えていくが、それもまた一興。とにかく俺は本が好きで堪らない。これは一生変わらないだろう。

12月10日

 煙草が切れたのでまた近くのコンビニに行って仕入れてきた。近頃は時代に乗り遅れた親爺がわかばだ、わかばだ、ホープだ、ホープだ、と騒いで一向に番号で言わない能無しの様になっているが、俺はそんな風にマルボロだ、マルボロだ、だとか言わないのだ。ちゃんと百二十番、と番号で伝える様にしている。偉いだろう。ふふん。

 最近までは年齢確認されるのが怖くて道端の古びた煙草屋に通っていたが、生憎その煙草屋が潰れてしまった。店主のおばあさんはこれからどうやって生計を立てるのだろう?

 だからリスクを冒してコンビニに行かなくてはならなくなった。パーカーのフードを深く被って、低い声で頼む様にすると案外ばれないのだが。

 ……先程から俺はおやじやら、おばあさんやら言っていたが、全員俺より年下だった。いや何とも……。

 ……ちょっと前までは、煙草を吸う奴なんて全員馬鹿だと思っていた。人間の寿命は有限なのだから、わざわざ命を削ってニコチンやタールを摂取するなんてキチガイじゃないのかと思っていたが、こうやって吸う様になると、あいつらの気持ちがわかってきた。一度煙草を吸ってしまったら、最初は咳き込んでしまうだろうが、もう二度と離れられないように鎖で繋がれてしまうようなものだ。ヘビースモーカーにとって、煙草を吸うことは即ち呼吸をすることと等しい。俺たちは煙草というフィルターを通さないと、この荒んだ東京の空気を吸い込めないのだ。

 俺が初めて煙草を吸ったのはもう何年も前になる。平成になって、東京に初めて迷い込んだ時、俺は人の変わりようと、誰も妖に無関心だという現実に戸惑って、恐怖してしまった。あの時は本当に辛かった。自分がこれまであがいてきた生というものを否定され、そしてお前はここで死ぬのだ、と最終宣告をされていた。そんな時俺はただ道をがむしゃらに走ることしかできず、最後に辿り着いたのがコンビニだった。そのコンビニの前には、煙草をぶかぶか吸って、幸せそうににやにや笑う男がいた。俺はそれの真似をしようと思った。馬鹿な行為なのはわかっていた。それでも俺はやるしかなかった。店内に駆け込み、ライターを買って、レジ前で目についた赤いパッケージの箱を頼んだ。

 男の横に並び、隣を見ながら同じ様に先に火をつけ、一吸いした。思わず咳き込んでしまったが、その後、不思議とリラックスしてしまったのだ。隣の男は俺を見て、静かに微笑んでいた。

あの時は助けられたと思ったが、あれがまた過ちだったのだ。……俺は、自らの精神力で精神不安を乗り切るという、人間としての責務を放棄し、煙草という安楽椅子に頼ってしまったのだ。

 人間は、禁煙する理由として金銭問題と健康問題がある。金銭上の問題に関しては、煙草が健康に何も害がないと仮定して……湯水の様に湧き出る収入があるなら、そいつはきっと煙草を続けるはずだ。だから最もな理由は健康上の問題からだろう。けれど妖怪の俺は何十年と喫煙を続けて、多少見た目は汚らしくなったかもしれないが、歯は抜けていないし、別に肺炎になったということはない。言ってしまえば俺の身体はほぼ死体のようなのであり、健康になったりも病気になったりもしないのだ。金も、俺は別に生活の質を上げたいという欲はない。つまり、俺には煙草を止める理由がない。

 きっと俺はこれからもずっと煙草を吸い続けるだろう。世のスモーカーたちは俺の身体の都合を見て羨ましいと思うかもしれない。けれど俺の苦しみは俺にしかわからない。死体のような身体を持ちながら、永遠にニコチンとタールに狂わされる俺の人生の苦しみは。

 だが、今日も赤マルは美味い。悔しいが。

12月11日

 今朝は新宿駅に行った。相変わらず人の波は絶えず、皆何かを追い求めて通路を彷徨っている。人間には血管が流れているというが、まさしくあの流れはそれと同じだ。皆が周りに流されている。その流れに皆が流される。

 俺もあの流れの一人だったかもしれない。けれど、その方が幸せだったろう。何も考えずに、ただ無気力、無抵抗に流されればいいだけなのだから。

 コンビニバイトで接客していると、客の見た目からそいつがどんな事を普段していて、どんな性格なのかわかるようになってくる。フリーターは大抵虚ろな目つきで、口が半開きで締まりがない。逆にエリートそうなサラリーマンは、口がきゅっと閉まっていて、背筋を伸ばしてはきはきと返事をする。俺もそういう奴の方が好きだ。何事も一生懸命なのは良いことだと思う。俺が言えたことではないが。

 いつの時代も、この世を作っているのは偉そうな政治家や芸能人じゃない。日の目を浴びずに、日々黙々と仕事に励んでいる人々が、この世を良くしてくれている。俺は一八七四年に生まれたが、この丁度百五十年でそれを誰よりも理解した。人間の素晴らしさって、つまりそういうことなんじゃないかと思うのだ。

12月12日

 コンビニで働くのは俺にとって正解だったと思う。俺はこの仕事を通して今の社会を学んだ。優秀な者と馬鹿な者に二極化される格差社会。俺はそのどちらでもない立場に立ち、この様に書き起こすのだ。ただ東京のコンビニには後者しか来ないような気がする。今日も煙草を番号で言わない奴が居た。愚かにも程がある。俺は番号を言うまでは棚から取ってやらない。番号で言え馬鹿野郎と言ってやるのみ。お陰で店長から説教を喰らったが、まあ良いのだ。俺は俺の思う正しいことをやるのみなのだから。

 にしても、最近後輩の俺を見る目つきがヤラシイ気がする。具体的に言えば、俺の顔をジロジロ見ては顔を真っ赤にして俺の傍から離れていくのだ。挙動不審である。こんな貧相な身体に欲情するとは大したものだと言いたいところだが、俺は仕事以外でそういったことはやりたくない。まあ、俺の気分とあいつの男気次第で話は変わるが。やれやれ、もっと他の女に目を向ければいいものを。ロリコンめ。

12月13日

 年末が近付いて、日本中、気が緩んでいくと、来年の予定が顔を出し始める。どうやら来年はまた大阪で万国博覧会をやるらしく、遠く離れた東京でも広告を見かける。にしても、前の大阪万博からもう五四年も経ってしまったのか。時の流れは俺をどんどん突き放していく。俺も、中だけは入らなかったが、お祭り騒ぎの万博と、それが終わった後、一人残された太陽の塔の影は記憶にある。まあそれから愛知万博もあったのだが。モリゾーとキッコロ? だとかいうふざけた名前のキャラクターがいたはず。

 今回はミャクミャク? とかいうキャラクターがいるらしいが……駅前で着ぐるみのそいつに目をつけられて、目の前に来られた時の第一印象は、気持ち悪くて仕方がなかった……。なんであいつは身体が溶けているんだ?

 まあそんなことはどうだっていい。今日俺はそれに関して、興味深い出来事を目撃した。万博反対派の抗議活動だ。

 大体、メンバーは時代に取り残されている老人達なのだが、その一部には若いやつが何人かいた。誰も彼も拡声器を手に万博反対、と叫んでいる。若いやつの内一人は熱心な左派らしく、この国は勝ち組の為だけに存在している、なぞ、根拠のないことをほざいていた。

 あいつらは最もらしく、自分の思想を持ち合わせていて、それを主張しているかのように叫ぶが、俺に言わせてみれば、そんなのはただ行動に目的が付随しただけにすぎない。世の中にはこの世の全てに反対しないと気が済まない人種がいるのだ。俺にはわかる。

前俺は昔、まあ六十年以上前か……身分を隠して、ゲバルト……今で言うと学生運動か……に参加したことがある。別にご立派な思想を持ち合わせていた訳じゃない。ただ、あそこの中に入れば、楽しいかもしれない、情熱が湧いてくるかもしれない、力を得られるかもしれない、と思っただけだ。あいつらはヘルメットを被り、ただの棍棒をゲバ棒、だとか称して自らを正義のヒーローのように仕立て上げていた。俺もその一員だった。

だが先程の通り、俺はあの運動の目的や理念なんぞこれっぽっちも理解していなかった。そんな奴はきっと俺だけじゃなかったはずだ。先頭を突っ走る奴らが、精々目的は理解していて、その後ろについてくる俺達が、無知ながら突っ込んでいったのだ。あんな大集団の全員が、どうして思想や理念を理解できると言えるのだ?

 今の万博反対だと叫ぶ若者を見ていると、あいつらも昔の俺達とやってることは同じなんじゃないかと思う。きっとあいつらも……退屈で窮屈で陰鬱な毎日に嫌気がさして、集団に加わり、悪の組織に立ち向かうヒーローのようになりたいのだろう。まあその調子なら、いつかは目が覚めるはずだ。きっとあいつらも理解するだろう。

自分が立ち向かっていたのは万博でも、社会でもなく……情けない自分自身なのだと。

12月14日

 風俗で接待する俺が言えたことではないが、男の性欲というものは無尽蔵なのである。一応俺は店の中で人気最下位の扱いだが、一部のロリコン共に人気があるおかげで首を切られずに済んでいる。六日のおやじもその一人だ。

 あいつらは性懲りもせずに俺についてくる。俺があいつらになびかないことを知っていながら。ああ、あはれあはれ。

 あいつらは俺に何を求めているのだろう。よく変わったサービスを要求される。その分、金は頂いているが。

 メイド服は大人気で、あのぶかぶか具合がいいのだろうか、よくオーダーされる。こらっ、僕がご主人様だぞっ、ご主人様の命令に従えっ、だの言われる。ああ、笑える。情けない奴ら!

 ええと後は……そうだ、煙草もよく要求される。俺としては仕事中に吸えてこれ以上に好都合なことはないのだが、あいつらの画面に副流煙を吹きかけるのは気が引ける。俺の赤マルはだいぶ臭いがきつい部類の煙草だと聞いたことがあるが……。肺癌で早死にして欲しくはない。稼ぎ所が無くなる。

 後は、シンプルに踏んでくれだとか……俺がサド側だったり、ロリキャラを活かしたものが多い。同じ店の嬢やらオーナーからも「化ちゃんはサドロリキャラ」と言われる。あいつらは俺が本当にロリだということも知らない……。そうだ、人間は目に見える特徴が全てとは限らない。

世の中には夜の仕事で病む女達もいるらしい。気の毒だと思うが、俺にとっては天職だ。俺は愛を欲しているのだと、最近気付いた。どうしようもないくらいの愛、だ。

 俺のお客サマが、俺に向かって喘いだり、キスをしたり、ペニスを突っ込んでくると、快楽は無くとも、俺は不思議と満たされる。説明が難しい。何だろうか……存在する理由をくれるのだ。あいつらは甘い蜜を俺にくれる。それがあるから、俺は何とか電車に飛び込まずに済んでいる。俺は求められているのだ、俺は存在していいのだ、と……不思議に思ってしまう。あいつらは、俺がいなくなって仕舞えばまた別の女で肉欲を満たすだけなのに。俺は不思議とあいつらに求められるのを欲する。俺はきっと存在理由が欲しいのだ。何でもいいから理由が欲しいのだ。それがどんなに汚かろうと。

 俺の愛の形は歪んでしまった。もう手遅れなのだ。

 ……にしても、着替えておけば良かったか。メイド服姿で煙草を吸うのは滑稽過ぎる。渋谷の病み系メイドみたいだ。

12月15日

 今日ばかりは、特定の人物について語らなければならないだろう。十二日に書いたあの後輩についてだ。

 今日俺は早々にシフトを終えて、どこか散歩でもしようと計画していた。何とか迷惑な客も居なかったので、心穏やかに仕事を終えようとしていた。だが、俺が休憩室に入ったタイミングで、その時表でレジに居るはずのあの後輩が部屋に入ってきた。何してるんだ、表に居なきゃ駄目じゃないか、と言おうとした瞬間に、俺はあいつに腕を掴まれて、壁の方に押さえ込まれた。とは言っても、貧弱だったので抜け出すこともできたが、あえて抵抗しなかった。そっちの方が面白そうだったからだ。

 はあはあと息を荒あげながら、弱い力を必死に行使しながら俺の優位にあいつは立とうとしている。だが俺が手加減してやっている時点で、既に俺の方があいつより上に位置しているのだ。俺は冷静に、どうした?発情期か?と皮肉混じりに言ってやる。するとあいつは、もう我慢できないですと漏らした。やはりそうだ。恋愛的に俺のことが好きなら、こんな手荒なことはせずにもっとアプローチしてくるはずだ。所詮こいつもペドフィリアなのだ。

 だがこの調子なら、いつあいつがズボンを下ろすか分からなかったので、俺はとりあえず、ゴムは持ってるか、と聞いた。するとあいつは、はっと何かを思い出したかのような声を出して、俺から少し離れた。なんだ、こんなことをして、てっきりここで性行為でもするのかと思ったが……計画無しに突っ込んだだけだったらしい。

俺は少し乱れた髪をがしがし掴みながら、気まずそうな顔をするあいつに言ってやった。

そんなに俺とやりたいなら、明日の夜に近くのラブホで集まろうじゃないか。ただ、がっかりするなよ?と。あいつは小さく、ありがとうございます、ごめんなさいと呟くと、またそそくさと表のレジの方に歩いていった。

 前に三島の不道徳教育講座を読んだ。そこには、「男達の童貞をすぐに奪ってくれる、性経験のプロの女性が必要である」といった趣旨が記されてあった。今こうやって整理しながら思うと、俺とあいつの状況はまさしくこれじゃないか。俺はわざわざ、へなちょこの後輩君の童貞を卒業させてあげようというのだ。全く、感謝状の一つでも送ってほしい。

 にしても、あいつは最初は大人しくゴムを付けてやるだろうが、あそこまでお熱なのなら、きっと最後には生でやってくるだろう。そんな事をしても意味がないというのに。俺の身体は既に死体状態だ。九歳で成長が止まっている。九歳は当然妊娠など不可能だ。俺の膣に精液を流し込んだ所で……ただ死体に向かって射精しているに過ぎないのだ。

12月16日

 全ては予定通りだった。今は朝の九時くらい。

あいつは言っておいたホテルの部屋に十時きっかりやって来た。

俺の方は、少し余裕を持って、九時半にチェックインして、煙草を吸って待っていた。無意味にちくたく鳴る時計を眺めながら。

 煙草を灰皿に置いて、少し加齢臭のするベッドに寝転がると、自らの虚しさを思い知らされる。俺はこうやって、寝転がって怠惰に過ごしながら、これまで一四一年間生きてきた訳だ。自分でも、よく正気でいられたと思う。……いや、俺もずっと、完璧に孤独だった訳じゃない。誰かの家に居候したり、住み込みで働いたり……誰かと路上でライブしたり……まあ、今が倦怠期なだけなのだ。

 少し寝ぼけていたら、後輩が入って来た。しどろもどろに、どうも、と答えるだけだった。取り敢えず、先にシャワー浴びろと伝えて、またしばらく喫煙タイムにさせてもらった。何だがあいつとやるのが馬鹿馬鹿しくなったのだ。せめて男気を見せてもらわなければ、さっさと帰るつもりでもいた。

 しばらくしてあいつが出たので、俺も交代でシャワーを浴びて、丁度バスローブが置いてあったので、それを羽織った。やっぱりぶかぶかだったが。

 あいつの方は下着だけを履いて、ベッドの端に座っていた。俺の姿を見た瞬間、スイッチが入ったように目を見開いた。それから、二人でベッドに乗って、俺も、まあ仕事の態勢になった訳だ。

 バスローブを脱がせてくれ、と言うと、そいつはおずおずと手を伸ばして、少しずつはだけさせる。仕事だと、全員性欲で満たされているので、待つ暇も無く脱がされたり、そもそも着なかったりするので何だか新鮮だった。数分程かけて、ようやく俺の方は一糸まとわぬ姿となった。ふと下を見てみると、相変わらず視界を邪魔する物はなく、ただ細い太ももとベッドシーツが見えた。

 男が胸の大きい女の方が好きなのはこの世の当然の真理だ。そもそも、こいつの初めてにはもっと似合いのイイ女が居ると思っていた程だ。こいつも諦めるだろうか、と思って、がっかりしただろ?と言った。……だがそいつは、下着越しに小山を作って……綺麗です、と呟くだけだ。変な人間もいるものだ。

 俺もあいつの下着を脱がしてやった。まあ、サイズの方は十分じゃなかろうか。顔も悪くないし、こいつが童貞なのは、風俗で捨ててこない男気の無さと、口下手が原因なのだろう。それから、時折サポートしてやりながら、ゴムを付けた。動画でも見てきたのか、ここで詰まることはなかった。

 そいつは早速、言葉を詰まらせながら、キスしていいですか、と聞いてきた。軽く了承すると、そいつは俺の背中側に手を回して、接吻してきた。ネットで調べでもしたのか、しっかりとディープキスをしてきたので、俺も何とかそれに応えてやった。俺の方が断然背が低いので、あいつが背中を丸めて、押さえ込まれるような形だった。俺の方はやっぱり、気持ち良くなかったが、あいつの方は、はあはあと息を荒げ、顔を赤くしていたので、満足は満足だった。

 最初は俺の方がリードしてやった。体勢や行為を指示してやるのだ。まあ要は騎乗位をしたのだ。

 だが最後辺りは、あいつの方が俺の了承も聞かずに、獣みたいになって、性器を股にぶつけてきた。俺の方も、演技が大変だった。久々にあんなに汗をかいた気がする。

 ……全て終わって、裸でベッドに二人横たわると、あいつは背中を向ける俺を抱きしめてきた。一回抱いたくらいで、彼氏面するなよ、とだけ言ってやった。ただあいつは、先輩大好きですと返してきたので……少し面倒になった、と感じた。

 まあ俺の方としては、あいつの男気が見れたから満足なのだ。……にしても、かわいそうな事をした。

 初体験の相手はずっと記憶に残る、と聞いたことがある。こんな可愛げのない、貧相な身体の女に童貞を奪われて、気の毒なものだ。それに俺が上手くやれれば……あいつは今後も俺と付き合う見込みがない。俺の方は次のシフトも普段通りあいつと接せる自信があるが……あいつの方はどうだろう。乱れた(ふりの……)俺の姿が記憶に焼き付いているはずだ。それを思うと、やっぱり申し訳ない思いだ。あいつが今後も、健全に風俗に通って、胸の大きい女とやって性欲を満たし……変な趣味に目覚めないように祈るばかりだ。……全く、俺も慈悲深いものだな。

12月17日

 ホテルから帰った後、少し疲労で寝てしまって、気付いたら昼を過ぎていた。これからやることもなし、仕方なく俺はギターを手に取って、意味もなくコードを弾いて歌ったりした。

 このギターは、いつか俺が歩いていると、目の前にケースと、その中の様々な機材と置き去りにされていた。ギターが嫌になった誰かが捨てたのか、もったいないから俺はそれを持ち帰り、これまでなんだかんだ共に放浪を続けている。

 最初は何も分からずに、ただむちゃくちゃに弾くことしかできなかったが……道行くギタリスト達が、駅前でギターに悪戦苦闘する俺を見かねて、弾き方を教えてくれた。何年とかけて、ようやく人並みに弾けるようにはなった。

 にしても、今はこんなに手軽に音楽に触れることができて、とても良い時代だと思う。……俺が初めて音楽というものを意識し始めたのは、戦争が終わった頃だ。街がボロボロになり、皆が復興を始めている時、俺は街中で、リンゴかわいや、かわいやリンゴ、という歌声を耳にした。初めて音楽というものを認識して、好きになったのはこの時のはずだ。

 戦後、絶望して心が荒んでいる時に、俺も皆も、この曲のおかげで少し気が楽になったのだ。一部の時代遅れは嫌いだったらしいが……俺はあの曲を街で聴くたび、スキップして、少し明るくなれたものだ。

 それから三十年して、やあやあやあと、ビートルズがやって来た。今までの堅苦しい日本を打ち破るように、イングランドからの若者四人は革命を起こしていた。俺はビートルズのレコードを発売日に買う、ということは到底できなかったが、何年後かには、熱心に彼らのレコードを聴いていた。レコードショップの店長と顔馴染みになり、なんとか交渉してプレーヤーを使わせてもらっていた。今思うと、俺の音楽への情熱は凄まじかったのだな、と冷静に考察できる。……結局、ジョンは殺されたし、ジョージも病気で死んでしまったのだが。

 ビートルズが解散して十年後くらいに、俺はレコードショップで興味深いレコードを見つけた。今でも記憶に残っている。A LONG VACATION、EIICHI OHTAKI。なんとなくジャケットの雰囲気が好きだったから、買って聴いてみたのだが……。俺は度肝を抜かれた。……俺に初恋の相手がいるとするならば、きっとそれは彼だ。……君は天然色を初めて聴いた時、俺は何かが身体中を吹き抜ける感覚を覚えた。……こんなに凄いアーティストは、今後も現れないんじゃないかと、当時本気で思ったが……今でもそれは変わらない。

 大滝詠一の衝撃とほぼ同じようなタイミングで、俺は村下孝蔵もよく聴いていた。どの曲も好きだったが、特に初恋だけは何とか弾けるようになりたいとずっと思っていた。だからギターを拾ってすぐに練習を始めたのも、初恋だ。……俺はあんな切ない青春など送れなかったが……彼がレコードの中から歌い始めると、俺は何故か、存在しない高校生時代の初恋を思い出すのだ。

 彼が逝った頃には、もうとっくにレコードからCDに置き換わっていたので、店長の世話になることもなくなってしまった。もう、あのレコードショップも潰れてしまって、今店長がどうしているかも分からない。ただ、俺はあの店長には感謝しても仕切れない。音楽がなければ、俺はとっくに生きることを諦めていただろうから。

 ……どうでもいいことだが、最近は配信限定で、要はインターネットでしか聴けないシングルを出すアーティストが多い。当然、俺はそんなの聴けないので困り果てている。藤井風もそうらしく、アルバムしか持っていない俺は、次のアルバムが出るのを待つしかない。

 時代は本当に早く変わるものだ。そして、アーティストは俺が気を抜いていたら死んでいる……。それだけは、少し寂しい。

12月18日

 冬は日の出が遅い。表の方が騒がしくなって俺も目を覚ますのだが、そういう時はまだ外は真っ暗だ。皆、日の出に合わせて生活すればいいのに。太陽に支配されていた人間は、今や時間に支配されている。これもまた人類の進化なのかもしれない。

12月19日

 今日は渋谷近くの古着屋に用があって、駅に居た。相変わらず沢山の人々がすれ違ったりぶつかったりを繰り返しているが、俺はその中で何か声を聞いた。声の高い泣き声だ。ふと右側を見ると、キャラクターグッズを身につけた女児が一人で立ちながら、何かが原因で泣いていた。察するに、迷子なのだろう。周りの人間達はその子に構う暇などなく、スマホを片手に通り過ぎていく。俺もその内の一人になる予定だったのだが……。ずっと泣いていたのか顔を真っ赤にして、しかも周りはそれに気付かない。あまりに不憫だったし、あの子の様子が……妖怪になってすぐ、家を追い出され、どうしようもできずに道端でずっと泣いていたかつての自分に重なってしまった。

 俺は子供の対応の仕方が分からなかった。ただ、そいつに目線を合わせるように少し屈んで、おい、と声をかけた。その子は俺に気付いて、少し泣き止んだ。

 お前どうしたんだ、迷子か?と言ってやると、その子は首を縦にぶんぶん振った。やはり迷子らしい。……改めて顔を見てみると、本当に少し俺と似ている気がした。

 分かった、俺と一緒に親を探そう、だからもう泣くんじゃない、と言って、取り敢えず鼻水やらでぐちゃぐちゃになっていた顔をポケットティッシュで拭いてやると、俺は歩き出した。……だがその子は動こうとしない。何だと思って振り返ると、小さな手を俺に向かって差し出していた。……手を繋ぐなんて何年振りだろうか、と思ったが、仕方なく手を握ってやった。

 歩幅を合わせるようにして、俺は注意深く周りを見渡しながらも、その子に気を配りつつ共に歩く。中々骨の折れる作業だった。……ある程度探す目星は付いていた。この子が付けているグッズのキャラクターのショップが近くにあったのを思い出したからだ。

 この子と歩くと少し遠い道のりには、興味本位で俺達二人を見つめる人間達がいる。そいつらからこの子を守るようにして、その道のりを進んだ。……上着のポケットの中の赤マルとライターを隠しながら。

 しばらくすると、今まで全く喋らなかった女の子が、唐突に口を開いた。……お兄さんの手、あったかい……と聞こえたのだ。上着を着ていてスカートが見えなかった上に、フードで髪が隠れていたので、どうやら勘違いしたらしい。多分、大人から見れば、俺はちゃんと女性に見えるだろうが……。だが、それを訂正する前に……俺の手が温かいという言葉に衝撃を受けていた。

 俺は妖怪で、死体同然の身体ならきっと身体も冷たいだろうと思っていた。風俗客も言わないだけで、きっとそうだろうと思っていたが……。そうか、温かいのか……とその言葉を噛み締めていた。

 俺はその言葉にただ、そうか、と返事をするしかできなかった。……俺は女だぞ、ということと、お前の手も温かいよ、ということを伝えられずに。

 やがてショップに着くと、女の子の姿を見た女性が、その子の名前を叫びながら駆け寄ってきた。女の子もそれに気付いて、俺の手をばっと離すと、その女性に抱きついた。先程まで泣き止んでいたのに、また泣き出してしまった。

 女性は俺に気付くと、頭を必死に下げて、ありがとうございます、と伝えていた。てめえのガキくらいてめえで面倒見やがれ、と言おうとしたが……あまりにもかわいそうだったので、心の中に留めた。

 ……こういう出来事があって、今俺が手に持っているのが、その女の子がわざわざ俺にくれたうさぎのキャラクターのカードだ。お前の大事なものなんだろ?と遠慮したが聞かないので、貰わざるを得なかった。……全く、迷惑な話だ。……古着屋に行く用事もすっかり記憶から消し飛んでしまった。……ただ、本当に俺と似ていて……そして俺なんかより何倍も可愛い子だったのだが。

12月20日

 今日はコンビニでまたアルバイトをした。件の後輩は、時折俺のことを愛する思い……憎む思い……蔑む思い……簡単に言えば、愛憎混じった目で見つめてくることはするが……それ以外は平常だと思っていたが……今日は少し出来事が起きた。

 店長曰く、今日から新しくまたバイトの子が入るから、鍋島君が指導してあげてね、とのことだ。高校生らしく、派手ではないが、かといって地味でもない、丁度いい塩梅の顔の良さを持った女の子(俺からすれば……)だ。相変わらず俺の背は力が弱まってるのが原因で百四十後半くらいしかないので何とも言えないが、背もそれなりに大きく、俺が顔を上に向けないとその新人の顔が見えないほど。

 なに、この日記でそいつが無能だったとか書くつもりはない。ただ今日は一つ、情けない事件があったのだ。

 いつも通り客は来るので、俺がレジに立って、新人はその隣で俺の仕事をメモしては、仕事を覚えていくという手法を取ることにした。俺が作業をすると、新人はその都度熱心にメモを取ってくれるので、感心していたが……。ある時、ツナギを着た男が、メビウスを頼んだ。ちゃんと番号で言っていたのでそれは良いのだ。

 問題は俺の方。普段なら台を使って、上の方にある、若い番号のメビウスを取るのだが……今日だけは偶然にも、その台が置いていなかった。……俺の背では、ジャンプをしても手は届かない。今から断りを入れて、台を探すしかないと思った。

 だが、その時に新人は、メビウスに手を伸ばす俺の背後にぴったり張り付いて、ひょいと客の希望の煙草を取り出してしまった。彼女は、はい先輩、どうぞ、と言って、煙草を渡してくれた。

 客が帰ってから、俺は彼女に、さっきはありがとう、と声をかけた。すると彼女は少し屈んで俺と目が真っ直ぐ合うようにしてから、私、新人ですけど、鍋島先輩のことちゃんと助けられますから! ……と言った。彼女の方にそんな気持ちは微塵も無かっただろうが……昨日の件も相まって、妙に小さい女の子に向かって話すような口調に聞こえて、恥ずかしいと同時に情けなかった……。

 新人には迷惑をかけずにいようと思ったのに、まさかこんな形で助けられてしまうとは。俺には自らの身長を呪うことしかできない……。虚しい……。

 ……ただ、彼女は良い子だ。今日はそれが分かっただけの話だ。別に、俺は子供じゃないんだから。

12月21日

 俺が放浪を始めて、来年で一四二年になるわけだが……俺がその一四二年間で、どうやってあの泣き虫な化ちゃんから今の俺に変貌したのか、今となっては全く分からない。……あまり思い出したくもないのだが。確か、俺の身体が死体同然になったと気付いたのは一二歳辺りだった。今で言う、第二次性徴が来なかったからだ。それまでは、ずっと道端でわめいて泣きながら、三年を過ごしていた気がする。それから、段々と放浪の覚悟が固まった。まだ九歳の身体だった俺は成人くらいの身体になる術を身につけて、住み込みで働いて……服も新調した。修行していた時の着物から、一足早く、普通の大人が着るような立派な服に変わった。その時から俺は、師匠の道場を捨てた。

 ある時から俺は勉学に興味を持ち、色々な職を転々としながら、稼いだ金で本を買って、哲学やら、国文学を学んだ。暇だったので、すぐに色々な学識を身に付けた。その知識があって、書生の青年達と話すことができたのだが。そのツテで、心優しい家の人が、他の書生と共に俺を住まわせてくれた。他の書生が着るようなマントや、着物もくれた。……良い時代だった。くだらない事で馬鹿騒ぎして、作家について語り合って……。当然周りの人からは、結婚やらを心配されたが、それもまた楽しかった。……なんだかんだ、綺麗な顔をしてるだの言われると嬉しかったのだ。

 その書生達は、しばらくして家を出て行き……俺も放浪を再開し、更に学問を深めつつ、経験を積んだ。……そうやっていると、第二次世界大戦が始まった。俺も何度か空襲に巻き込まれ……頭のおかしい男達に殴られたものだ。果たして俺の敵は鬼畜米英か……それとも戦争に狂わされた日本人か、分からなかった。

 戦争が終わって……天皇陛下が、始めて俺達に、日本が負けた事をお伝えになった。皆泣き崩れ、皇居の方に向かって土下座をした。俺も、まあ形だけはやっていたが……悲しみよりも、怒りの方が強かった。……俺は、日本が勝つのを信じて、着たい服を我慢して、ださい服を着て、暴力に耐えてきたのだ。きっと怒りを覚えていたのは俺だけじゃない。むしろ俺の怒りは大したものじゃなかっただろう。俺は妖怪になって飯の必要が無くなったが……人間はずっと腹を空かせていたのだ。俺達の希望は、あの時に打ち砕かれたのだ。あの涙は天皇陛下への謝罪だけでなく……この理不尽への悔し涙でもあったはずだ。少なくとも俺はそうだ。

 街には何も残っていなかった。しばらくして、焼け野原にあの鬼畜米兵がやって来て、俺達は食べ物をねだった。情けないものだ。天皇陛下は現人神でなくなり……まさに俺達から神が消えた。

 ……今、世の中は悲惨なムードに包まれている。日本は終わりだと叫んで、左翼的思想をぶつける奴もいる。……けれど、俺は思うのだ。この百四十年間、人間の様子を見て、関わってきた俺の確かな証拠だ。人間は、大戦が終わった後の焼け野原から……阪神淡路大震災から……東日本大震災から……何とか復興してきたのだ。日本は何度も外的圧力によって挫けてきた。けれどその度に元の状態に戻してきた。豊かな文化が生まれた。そんな状況からすれば今の不況なんざ、大したことはない。俺は何度も人間を嫌いになったが……良い人間も沢山いた。……ああ、ちょうどいい言葉を思い出した。「いい奴ばかりじゃないけど、悪い奴ばかりでもない」。……今の皆が思う以上に、俺が見てきた人間は強かった。今もきっと同じだと信じている。

 何とか、今まで俺が何を着てきたかまとめてみた。

 修行着……俺が師匠から貰った着物だ。足が出ていて動きやすかった覚えがある。

 着物……自我に目覚めて、働いて、金を貯めて買った。派手ではなかったが、素敵な藍鼠色の着物だった。

 書生の着こなし……友達の書生のツテで同じ家に住まわせてもらった時、主人に貰った服だ。マントに、黒いズボンに服のスタイルだった。……実は、この主人は数少ない俺の正体を知っている人間だ。俺が仮病を使って、部屋で猫耳と尻尾を出して羽を伸ばしていたら偶然発見された。研究者気質の人で、その尻尾はどうなっているのかとか、どうやって動かしているのか聞かれて大変だったが、何なく俺の居候を了承してくれた。俺の耳と尻尾の観察と研究を条件に。いつかあのノートは見つかるのだろうか……。ただの創作だと思われて、捨てられているかもしれない。居候をやめた後もしばらく前の着物を着ている。

 モンペ……大戦の時に、モンペ普及運動という物があって、俺も強制的に着させられた。逆に言えば、着ないと目立ってしまうのだ。とにかくこの服は嫌いだった。

 洋服……街が復興していって、皆洋服を着始めたので俺も買った。……あの頃の女性服は派手なワンピースしか無かったが、それを着るのはどうしても嫌だったので……少し乗り遅れたが、ネクタイとシャツとスラックス、ジャケットに中折れ帽の一式を買った。だいぶ高くついた。その分長持ちしたし、気に入っていたのだが。その後はようやく今のように服が増えてきたので、古着屋でTシャツを買ったり、もうちょっとカジュアルな服装に変えていった。

 パーカー……買ったのは五年くらい前だ。このパーカーを一目で気に入り、スパッツも動きやすいと思って買った。スパッツだけでは物足りないのでスカートも買ったのだが……いつか転んでしまった拍子に穴が空いてしまった。安物だったのだ。それを、当時、バイトをしていた時に同僚だった女の子に気付かれて……逆に全く四角い穴があちらこちらに空いている、スカートの意味を成さない物に改造されてしまった。見せスパッツだとか言っていたか。今となっては味があって気に入っている。

 服はどんどん変わっていったが……ずっと変わらないのが下駄だ。俺にとっては、靴よりも下駄の方が走りやすいのだ。最初履いていたのが、師匠が俺にくれた鼻緒の黒い駒下駄だ。何年も使って、鼻緒も切れる度すげ替えていたが……とうとう、歯が完全にすり減って草履みたいになってしまった。これではどうにもならないので泣く泣く買い換えた。……今の下駄は何代目か、もう数えていないが……師匠のくれた、履き潰した下駄と、最初の黒い鼻緒は今でも持っている。……辛い時にこれを見ると、元気を貰えるのだ。

12月22日

 最近は全く人に触れていない。……前の後輩とのあれとは違う。俺が言っているのは、暖かい人との触れ合いだ。あんな物は暖かくない。ただぬるいだけだ。今日も風俗の仕事で色んな奴と肉体的接触をしたが……それも俺にとっては違う。

 唯一そういった話で思い出せるのは……書生時代に、同じように住まわせてもらっていた奴と、同じ部屋で薄暗い石油ランプの灯りを頼りに、あいつは勉強、俺は読書に夢中になっていた時間。あいつの方は集中していて、眠気などなかったのだろうが……俺の方は活字を追っていく内に段々と眠くなってきてしまった。その時は俺とあいつで背中合わせに座っていたのだが、俺の欠伸であいつは手を止めて、俺の方を見た。眠そうな顔をしていたのか、そいつは俺に向かって優しく微笑むと、おやおや、眠くなってしまったかい。全く、お子様は早く寝た方が良いね……。などと少し俺をからかうようにして、立ち上がった。

 俺の方は、馬鹿にされたくないし、それにまだ寝たくなかったので、それなりに反論したが、あいつが、女中さんに頼んで布団は敷いてもらっている。本はまた明日読めばいいだろう。今日はもう寝ておいた方がいい、と言って……俺を抱きかかえた。……普段なら、降ろせ降ろせと喚く所だっただろうが……その時の俺は妙にあいつの腕に抱かれるのが気持ちよくて、なすがままにされていた。それはランプの柔らかな灯のせいなのか、秋の夜の涼しさのせいだったのか、あいつが机に向かう時だけ付ける丸眼鏡のせいだったのか……それは分からない。ただおれは微睡みながら、床の軋む音を聞いていた。

 やがて俺の部屋に着くと、あいつは俺を敷布団の上に寝かせ、掛け布団を掛けると、おやすみなさい、鍋島君、と言い残して……俺の頭を少し撫でると、部屋を去った。普段のあいつは、インテリながらも俺のことを子供扱いしたり、馬鹿にしたりしては笑うような奴で……あまり好きではなかった。まだあの研究熱心の主人の方がましだと思っていたほどだ。……けれどその時のあいつは嫌味さがなくなっていて、まるで年の離れた妹をあやすような感じだった。凄く暖かい夜だった。

俺の言う人との触れ合いは、あれが最後だったかもしれない。……俺はなんだかんだ言ってあいつのことをリスペクトしていたし、あいつの方も俺のことを良い友人だと思っていたのだと、あの一件で気付いたのだ。……俺はまだあの夜ほど気持ち良く寝れていない。

12月23日

 クリスマスシーズンが近付いて、コンビニにも、風俗にも何かを求める奴が増えた。ただ、人種は全く逆だ。コンビニには、疲れたような見た目をしながらも、にこやかにクリスマスケーキの予約をするサラリーマン……恐らく父親なのだろう……や、子供を連れて注文をする母親。到底妻帯しているようには見えないが、それでも自分へのご褒美へか、小さなケーキを頼む若者。多種多様だが……あいつらはきっと、世の中に数少ない幸せな瞬間を味わっているのだ。確かにこの世は辛いことしかないが……その中の些細な蜜を目当てに生きている。健全な生き方だ。人間の大多数はこうやって生きている。

 だがその大多数でない……一部の人間が風俗に流れつく。コンビニと風俗、表と裏。光と闇。極端な世界で仕事をしていると、色々な違いが見えて面白い。風俗の客層はだいぶ限定的だ。コンビニは多様すぎて推測出来ないが、風俗はおおよそ代の男で、妻帯していない奴(たまにしている奴もいる……追い返したいが)に限定される。人生は結局顔で決まるだとか言う奴も居たが、来る奴には割と顔の良い奴も居る。聞いたら、ジャニーズのオーディションに二次で落ちたとか言っていた。それで心が荒んだらしく、こうして風俗通いをするのだという。あいつもシブガキ隊候補だった訳だ。……時代が違うか。

 容姿が良いなら、彼女くらい作って、セックスくらいできるだろうと思っていたが……俺は何となく、こいつが短小なのに加えて、救いようのない程性根が腐っていることを察した。いやサイズなんて些細な問題だろう。喜多川を満足させられないだけで。こいつはきっと一次面接で運良く見逃された性格の悪さを、二次で優秀な面接官に見抜かれただけなのだ。あいつはずっとジャニーズ候補だった話をする。その時点でお察しだ。

 とにかく、風俗みたいな所に来るやつが何を求めているのか……俺は知っている。それは、クリスマスに親しくなるカップルへの嫉妬を埋める為だ。あいつらは、クリスマスだから君に会いに来ただの格好付けるが、結局あいつが求めているものは嬢の外見とヴァギナだけなのだ。自分には誰か構ってもらえる相手がいるのだと自己認識する為に必死になっている。

 そうやって必死になるのは客だけじゃない。嬢の方も、誰かに愛してもらいたくて必死になる奴がいる。逆に言えば、そういうマインドの奴程長くやっていたりするのだが……。

 俺の方は、人に構ってもらう必要なんて無い。強がりに聞こえるかもしれないが……。俺の方は、好きな本を読んで、ギターを弾いて、時折、人間観察をしていれば十分に楽しく生きられる。

俺の人生には、俺を愛してくれる物好きも何人かいたが……俺は常に受け身だ。愛してくれるなら愛される。俺もその分は愛してやる。それだけだ。

12月24日

 今日はコンビニのバイトだった。新人も仕事に慣れてきて、後輩も特に異常ない。だから何も変わりない仕事だった。それはいい。

 店を抜けるとすっかり空が暗くなっていて、冬らしい空にうんざりしながらも俺は隠れ家に急ぐ。……その時に、何か音が聞こえてきた。その音を辿ると正体がすぐに分かった。ハンドベルだ。

 そういえば明日がクリスマス・イブか、と納得した。クリスマスらしい、キリスト教の教えに支配された音色が響く。俺はその演奏を、ふと立ち止まって聴いていた。まあ、焦っても仕方ないと思ったのだ。何の曲かは知らないが、ハンドベルの安らかな、祝福されるような音色が俺の胸に響き渡る。

 すると俺の視界がぶれた。……何だと思って、俺は一瞬戸惑ったが……。俺は泣いていたのだ。認めたくないが。歳を取ってしまったのか、涙腺が緩くなったのだろうか。……いや、原因はきっとそれじゃない。

 俺だけがあの空間にいた訳じゃない。あの中には、楽しそうに演奏の様子を見る子供を連れた家族連れが居たのだ。……俺はその様子を無意識に頭に刻んでいたのだ。俺と、あの家族連れを比べると、俺の存在は何とも虚しくて情けないのだろう。

 俺は何故泣いている? 理由はそれだけじゃないはずだ。……俺は孤独を恐れているのか?いや違う。孤独を恐れているとすれば、今までの何十年をどうやって生きてきたのだ。

 ……あの時は分からなかったが……日記を書いてこうやって頭を整理すると、その理由が分かった。俺は確かに孤独を恐れてはいないが、どうしようもなく愛を求めているのだ。

 それは俺が風俗仕事をして受けるような、性欲的愛じゃない。……イエスはかつて、汝の隣人を愛せよ、と言った。俺の求める愛は、その隣人に向ける愛と似ている。それは、何者にも奪われず、支配されない究極的な愛だ。

 人間は普通に社会で生きていればそんな愛を受けられる。……だが俺はまともに社会で生きていない。だからそういった愛を受けられないのだ。俺はそういった究極的愛を、煙草や性行為で補完しようとしてきた。だがそれは結局、俺が最も嫌いな行為の……強がり、でしかなかった。ようやく俺は気付けたのだ。……いや、俺は本当はそれを知っていたが、認めたくないから認識しようとしなかっただけなのだろう。

 俺は妖怪になった。……だが、人間を辞めた訳じゃない。俺は人の身体を捨てたが、人間的精神を捨てきれていない。

 俺は泣きながら、時々嗚咽して、ずっとハンドベルの演奏を聴いていた。……あの時流した涙はどうすれば良かったのだろう?

 ああ、弱音を吐いてしまおう。……俺は誰かに愛されたい。俺は誰かに認めてもらいたい。俺は誰かに肯定されたい。俺は誰かに抱き締めてもらいたい。

12月25日

 今日はクリスマス・イブだ。より一層、街は賑やか、お祭り騒ぎ。

 俺の方はと言えば、今日も変わらずコンビニのバイトをしていた。暇だから沢山シフトに入れて店長には毎回感謝されているが、俺にとっては無価値な礼だ。そんな暇があるなら給料を上げて欲しい。

 普段ならしないことを、今日は皆する日でもある。コンビニも例外ではなく、今日はサンタ帽を被って接客させられた。経費で賄われて良かった。こんなものを被るなんて、本部の自己満足でしかないと思っていたが……どうやら俺の姿を見ると、客は滑稽なのか微笑ましいのか、少し口角を上げるので驚いた。そして何より、あの新人がサンタ帽を被るとえらく楽しそうにしていたので、俺にとってはそれが何よりだ。

 コンビニでクリスマス関連のスイーツを買う奴も多くいて、きっとこれからクリスマスパーティーなのだろうな、と予想できる。……良い子にしていた子供には、枕元にプレゼントが置かれるのだとか。俺が人間だった頃には、まだあまりクリスマス文化は定着していなかった。確かそれから何十年か後に常識になっていった気がする。だから俺はクリスマスプレゼントなんか貰った事がない。この調子じゃ、この先も貰えることはなさそうだ。俺はもうとっくに子供ではないのだから。

 ……そう思っていたのだが……シフトを終えて、コンビニの前で煙草を吸っていた時だ。寒くて手が悴んでいて、煙草一本を手に持つのが精一杯だった。すると、入口から例の新人がコンビニの制服姿で出てきた。もう終わったのか、と声をかけたら、返事をそこそこに、俺に一つ袋を渡してきた。よく見ると、そこには明らかに市販品ではないクッキーが三枚入ってあった。俺は驚いて言葉も出なかった。その代わりに新人が口を開く。今日はクリスマス・イブですから……先輩には煙草かライターがで迷いましたけど……クッキーを作ったので、どうか受け取ってください、と。こんなことは何十年となかったので、俺は気が動転して大した礼が言えなかった。ぶっきらぼうに、ああ、ありがとう、と言ったのみ。冷たく思われてしまっただろうか。

 彼女の判断は賢明だっただろう。……高校生に煙草やらライターやらを買わせる訳にはいかない。きっと他の奴らにも配っているだろうから、誰もが喜ぶ物と言えばお菓子が鉄板だろう。……ただとにかく、こんなに心躍るクリスマスは久しぶりだ。隠れ家に戻って、クッキーを食べてみると、手作りとは思えないほど良く出来ていて美味しかった。……今日は大したことが言えなかった。明日はちゃんとお返しをしようと思う。……Merry Christmas 、鍋島化。楽しい夜更けだ。

12月26日

 そろそろ金が貯まって、使い所に困っていた頃だった。俺は昼に大丸に寄った。今どきの女子高校生が何を欲しがるのか俺にはよく分からないが……。いつの時代も、若い女は化粧品を欲しがるものだ。そう思って、俺は二階の化粧品の売り場に行った。

 人はそんなに居なかった。洒落た英語やらフランス語やらの看板で一杯だったが、俺はその中でただ目についた店に入った。

 店に入ってすぐ、店員が話しかけてきた。よっぽど暇だったのか、それとも俺が無理してこの店に来たように思ったのかは知らないが。何をお探しですか、と聞かれたので、職場のアルバイトの女子高生にクリスマスプレゼントを、と素直に言った。特に店員は怪しがる様子もなく、俺に色々と提案してきた。他の客はこんなのを買っていただの、これがおすすめだの、まあ何十年前から変わらない手法だ。ありがたい話なのだが。何個か店員が勧めてくる中で、俺は結局三千円強くらいの、ハンドクリームが何個か入っていて、ハンカチと入浴剤がセットになっているギフトボックスを買った。一番無難な選択だと思った。

 夕方からのバイトで、新人と店番を交代する事になっていたので、俺は少し早めに店に入った。ちょうど新人は休憩室に入っていたようで、俺を見てお疲れ様ですと声をかけた。取り敢えず懐に忍ばせたプレゼントを後ろ手に回して……こんなのは俺の自己満足なのだから、さっと渡してしまおうと思い、俺は新人に近付くと、昨日はありがとう。これはお返しだ、と言葉を添えて、プレゼントを強引に渡した。新人は一瞬きょとんとしていたが、どういうものか気付くと、目を輝かせながら俺を見つめていた。これ、良いんですか、と確認されたので、頷いた。……段々気恥ずかしくなってきて、さっさと制服を着てレジに行こうと背を向けたら……後ろから抱きつかれた。当然あいつの方がでかいので、俺は身動き出来なり暴れた。めちゃくちゃ嬉しいです! 鍋島先輩ありがとうございます! とぐりぐり身体を押し付けられながら言われ、たしなめるので精一杯だった。

 ……今振り返ると、あんなものであいつがそんなに喜ぶのが謎だ。俺が普段人前で笑ったりせず、大して深入りもしないからだろうか。所謂ギャップというやつだ。あれで喜んでくれるなら、いくらでも買ってやるのに。全く、最近の高校生はどいつもいけ好かないと思っていたが……彼女のように可愛い奴もいるもんだ。

12月27日

 昔から昼寝が好きだ。昔と言っても、俺が妖怪になってからなのだが。人間の頃はとにかく強くなる為に奔走していた覚えがある。ただ妖怪になってから、否応にも時間が有り余ってしまったので、暇な時に時間を潰せる趣味を見つける必要があった。だから金の無い時、俺は昼寝する。

 最近は難しいが、昼寝するならやはり日向が一番だ。暖かい太陽の光を肌に浴びながら、自分がまだ生きていることを実感するのだ。眩しさに目を細めて、そのまま目をつぶると、いつのまにか眠りに落ちている。

 書生時代も、同居人の同じ書生が休日に隣の部屋で本を読んでいる時、俺は障子越しに昼寝をする。大概、俺も本を読もうとするのだが、縁側の方から降り注ぐ日光に昼寝を誘われて、本を片隅に置いて寝てしまう。ふとあいつが俺に尋ねようと声をかけると返事がないので、また寝たのか、と思われて、床に放ってある本を片付けるのが恒例だったらしい。

 まあとにかく俺は何も出来なくなったら寝るのが癖だ。アルバムを仲の良いレコード店の奥で聞いていたら、針を上げるのを忘れて寝落ちすることもあった。

 店主にも、あの同居人にも、化はよく寝るね、と言われていた。同時に夜眠れなくなるぞ、と注意されてもいたが……眠れない夜もまた楽しいのだから、仕方ない。

12月28日

 今日はまた古本屋に行っていた。俺の行く店は、本棚に本を乱雑に放置するスタイルで、特にあいうえお順で並んでいるだとか、そういうことがない。だから目当ての本がある場合は、とかく根気良く目を凝らしながら本棚を巡らなければいけない。そんなことは滅多にないが。一日一日、どんな本に出会えるかわからない。

 そんな店で、ふと俺は三島の憂国を見つけた。一度読んだことはあるが、久々に読んでみたくなって、買ってしまった。確か、二二六事件で前に仲間だった奴を……まあつまり反乱軍を殺さなきゃいけなくなったので、妻を巻き込んで心中する話じゃなかっただろうか。いかにもあの男らしい話だ。いや、正確に言えば、死ぬ直前の三島らしい話なのだが。

 本の作者紹介のページを見ると、一九七〇年、市ヶ谷駐屯地で自決、と書いてある。もうあれから五十年以上経ってしまったのか。実を言うと、俺は三島を見たことがある。……あそこまで行くと、知り合いだったとまで言ってもいいかもしれないな。ゲバルトに参加していた時、俺はその大学の、ある生徒と知り合った。どこを見て俺と仲良くなろうと思ったのか……時代にそぐわない下駄やら、意味も分からずゲバに参加していたから、そういう甘い所を見抜かれたのか……。そいつは、俺は楯の会に入ってんだ、と言った。俺が楯の会について聞くと、三島先生の作った、祖国防衛隊なんだと。どうやらあいつは俺を左翼だと知ってて(本当は違うのだが)俺を右の方に誘おうとした訳だ。

 俺はその時、何か血が湧くような、肉が弾け飛ぶような、残虐なものを欲していた。だから、隊、という言葉にどうしても惹かれてしまって……俺はそいつのツテで楯の会に入会してしまったのだ。女ということを隠しながらだが。

 そこで、三島と対面した訳だ。といっても、他の入会したての会員達となのだが。何か、勝手なことを言ってさっさと行ってしまったような感じだった。まあ後は自衛隊の訓練で、時たま一緒になることがあったくらい。一対一で話しただとか、そういったことはない。というより、女だということがこの男にばれたら一番大変なことになると思ったので、そもそもあまり目立たないようにしていたのだ。

 楯の会の訓練はだいぶきつかったが……まあ楽しかった記憶はある。皆一生懸命にはやっていたから。共に飯を食って、共に走って、共に寝る生活は、ずっと孤独だった俺にとって、素晴らしいことこの上なかったのだ。

 今、三島由紀夫という男を振り返ってみると……本当に馬鹿な男だったが、同時に小説家としてはとてつもない才があり……しかしあの頃の社会不安に狂わされた男だった。三島のあの行動は、本当に自らの意志でやったことなのだろうか?俺にはどうしても、三島が何かに触発されてやったとしか思えない。……だが三島ほど、日本のことを考えていたやつもいなかっただろう。あれほどの愛国者は、未だ出てきていないし。ただ、もうあの男の小説が読めないのが、本当に惜しかった記憶がある。

 楯の会は三島が自決してから解散した。俺はその時例会にはいなかった。というより、参加するのを避けていたのだ。あの頃、会全体にもやもやした不安定な空気が漂っていた。それで俺は、ああこいつらは自決しようとしているんだな、と勘付いてしまったのだ。こんな人生、自決で終わらせたら華があったかもしれない。ただ俺はこの通り人間の身体ではないので、仮に首が飛んで、それで死ねたらいいが、それで変に生き残ってしまったら大変なことになる。……それより大きかったのは、自決なんかしたかない、という気持ちだったのだが。

 三島は自決し、俺は偶然他の隊のメンバー……俺を誘った奴を除く……で会ってカフェで談笑していたので、そのニュースを知った時は皆驚いていた。顔面蒼白して、倒れ込む奴もいた。俺は、ついにやったのか、という気分だったのだが。

当時俺を誘ったあいつの家に居候させてもらっていたが、事件を知ってすぐに出て行った。これから面倒なことになるだろうからだ。それで、この話は終わりだ。

 三島の愛した日本は、今このような有り様だが……彼がまだ生きていたら、どう檄を飛ばすだろうか。……今はただ、ゆっくりと眠ってくださいとしか、俺は彼にかける言葉がない。

12月29日

 人間だろうとそうでなかろうと、やはりこの世の中、生きるのには金が要る。自らの身体を動かして、代償に金を得る必要がある。だから俺はコンビニでバイトをして、風俗で男の相手をしてやるのだ。ただ俺の場合は、どうしても肉体を動かしてでの作業しかできないが。

 思えば、何故俺は風俗なんかで働き始めたのだろう。……いや、確かあの時はとにかくそうだ、性的体験の興味から応募したのだ。百年程生きてきて、ようやく性に興味が湧いたのだ。逆に言えば、目の前にあるもので、興味があるものが無くなった。結局、極限まで生きていくとそういう風に本能に従うようになるのだ。……まあ、性的体験の興味は……不感症のせいで打ち砕かれてしまったのだが。

 当然男を相手にするなら、ある程度化粧やらいい服を揃えなければいけない。化粧のやり方も知らなかった俺に、ある店の嬢は、風俗嬢というだけでなく、女性としての最低限のルールを教えてきた。今思えば、何故あんなに俺なんかに親切にしてくれたのか分からない。いつかぽつりと、妹に似ているから、だとか言っていたような気がするが。

 勿論、外見は化粧をして何とかなるが、やはり中身……まあ男を誘惑する術……は経験を積むしかない。最初は全く金が入らなかったが、今となってはそれなりに固定客ができて安定はしている。自由出勤でいいから、気楽な仕事だ。……俺の場合は。男に身を捧げて、性病に怯えなければいけない仕事だ。向いてない奴は圧倒的に向いていない。逆にそれなりに向いている奴はずっとこの仕事をやっている。

 俺はいつになったら、性交渉で快感を得られるようになるのだろう。……いつか同じ店の嬢が言っていた通り、本当に男性とのそれでは感じられず……女性との性交渉で、俺は快感を得られる身体になっているのだろうか。本当にそうなら……実に馬鹿げている。そもそも男性側が射精することでセックスが終了するのに、どうやって女性同士で区切りを付けるのだ?どちらかがくたばるまでやるのだろうか。……それは冗談として、もし俺が1人、今までに出会った女と性交渉をしなくてはならなくなったとしたら……やはり俺は、あの色々とルールを教えてくれた嬢に抱かれてみたい。豊満な胸に抱かれて、優しく愛撫される……いや、意外と悪くないな。それ以上はもう想像がつかないが。

12月30日

 コンビニに来る客も、もうこの時期にはだいぶ減ると思っていたが……変わらず人手は絶えない。大晦日まで頑張る働き者が大勢いた。だがそれに反して、俺達店員は非常に心穏やかだ。あの後輩は、どうやら大晦日まで休みらしい。店長もあまり店に居ない。家族の用事で忙しいのだとか。つまり、店に居るのは俺と新人の二人。意外とこれでも客は捌ける。俺が優秀だから。

 店長が戻って来たので俺と新人はシフト交代をした。俺の方は、仕事終わりに一服したかったので、店の前で吸っていた。すると、新人が俺の隣に立ってきた。話しかけるのも面倒臭かったので無視していたら、彼女の方から、煙草って美味しいんですか、と聞いてきた。俺は一言、不味い、と返した。間髪入れずに、じゃあ何で吸ってるんですか、と聞いてくる。この時俺は少しイライラしていた。何故かと言うと、年末で皆が忙しそうにしていて、それを見ての焦燥感や……バイトの疲労など……まあ色々原因はあった。それにまだこの時はニコチンが大して効いていなかったのだ。だから俺は、吸っていた煙草を新人に突き出して、じゃあ吸ってみろよ、吸えば全部分かるだろ、と言ってしまった。あいつは煙草を受け取って、だいぶ困った様な顔をしていた。この時俺がどんなににやにや笑っていたことだろうか……。

 だが、彼女の方が一枚上手だった。恐る恐る口に煙草を近付けると、本当に吸ってしまった。だが肺に煙が入って、ごほごほ咳き込んでいた。俺もそれで目が覚めて、慌ててあいつから煙草を取り返した。俺が、馬鹿、本当に吸う奴があるか、と慌てて言ったら、あいつは涙目になりながらも、不味かったです、と消え入りそうな声で呟いたのだった。にしても、高校生に煙草を吸わせてしまった。俺が何か言われないか心配なのもあるが、一番は……これがきっかけであいつまで煙草を始めないか心配だった。不幸になるのは俺だけでいい。

 少し冷静になってから、俺は奪い返した煙草を吸って、あいつと話をしていた。どうやら彼女は別に、家が貧乏だからこんなにシフトを入れているのではなく、単純に自分の欲しい物の為に働いているらしい。健全だと思った。俺よりは、ずっと。年が明けたら、初詣に一緒に行かないかとも誘われたが、丁重に断った。年が明けてそうそう、活発に動けるか分からない。

 新人や店長は勿論、あの後輩にも、きっと家族は居て……思い思い、大晦日を過ごすだろう。出来るなら、そう幸せにやってて欲しい。俺の方も、大晦日何もしないのもつまらないから、築地本願寺に行って、除夜の鐘を突いてこようと思う。知り合いに会わなければいいのだが……。

12月31日

 妖怪の身体になってから、滅多に食事をしなくなった。別に、飯を食えない訳じゃない。食おうと思えば食えるが……腹が空かないのだ。腹が空かないのだから、飯を食べたいとも思わない。飯の代わりに、煙草を吸って身体の中を煙で満たして誤魔化している。

 だがこうやって年明けが近付くと、どうしても何も年越しらしいことをしていない自分が惨めになる。だからせめて何かしようと思って、今日は昼にそば屋に行って、何年振りに飯を食べた。

変わらず腹は減っていなかったが、いざ目の前に、出汁の良い香りがするそばを目の前に出されると、思わず食いたくなってしまった。やはり俺はまだ人間だ。美味いものを食うと、何だかんだ幸せだし、何かに乗らないと落ち着かない。居候していた時は、毎日誰かと飯を食っていた。食う必要も無いのに面倒臭いなとも思っていたが……あの日々が一番幸せだった気がする。少なくとも、今の煙草だけ口にして生きる生活よりはマシだった。いつの間にか、身体が化け物みたいになってしまっていた。

 だから今日、そばを啜って久々に人間の身体を取り戻した訳だ。人間としての身体を持っているからこそ、それを失っていく煙草も美味く感じる。何とか年が明けるまでに、それを思い出せて良かった。俺は妖怪だが、やはり人間でもあるのだ。たまにはこういうこともしなければ、本当に気を病んでしまうだろう。文化を大切にしなくては。俺はこうして文化に触れながら、百五十年を生きてきたのだから。

1月1日

 夜になって、築地本願寺の方に向かった。既に遠くから鐘の音がごおんごおんと聞こえていて、賑やかだった。ここには何回か来たことがあるが、相変わらず真宗寺とは思えない、印度や西蔵風の建物である。

 列に並んで待っていると、手が悴んで震えた。カイロでも買って来れば良かったか、後悔の中、手に息を吹きかけながら列が進むのを待っていた。

 やがて自分の番になり、できるだけ他に遅れないように、さっさと鐘を鳴らした。ぼーんと鐘が鈍く響いて、寒さで震えていた身体が更に震えを増した。だがこれで俺の煩悩が消えるというなら……まあ嬉しいのだが。急かされるように、さっさと鐘の前を去った。それからも、続々と鐘の音は聞こえていた。

 取り敢えず戻って、煙草の吸える所に行こうかと思って、足早に歩いていた。下駄がもうそろそろ寿命なのか、少し歩きにくかった。中の方へ進む参拝客達を横目に過ぎていく。構成される人種は、カップルや、家族連れなど……こんな寒い中、見たいテレビも無視して、よく来れるなあと思ってしまう。だが皆幸せそうだった。何人か、知らない顔を見て進んでいくのだが……その時に、誰か一人、俺に向けて手を振る人物が居た。背が低い女の子だ。一体俺なんかに手を振って、誰かと勘違いしてるんじゃないかと思ったが……月の光が差し込んで、ようやく理解した。十九日に、何となく道案内をしたあの女の子だ。母親に手を繋がれて、マフラーをしていた。母親の方は俺に気付いていない。気付かれるとまた面倒だった。今度こそしっかり話をさせられるはず。だからその子が何か俺に向かって叫ばない内に、控えめに手を振り返してやって、さっさとその場を去った。再会が嬉しかったのは、まあ本当だが……それよりも、あの子の母親に鍋島化という馬の骨の本性が知られては困るのだ。

 喫煙所に入っていつもの赤マルを吸いながら、道ゆく人々を眺めていた。今年は特に不安定な年だったが……皆が幸せそうに歩くのを見ると、今年もなんだかんだ悪くない年だったんじゃないのかと思う。人々に向かって革命を呼びかけたり、人民団結を呼びかけたりするやつらがいた。けれど年の瀬の空気の前には、皆が酒を呑んで、美味い飯を食って、この雰囲気に乗っかって楽しむ。この時間だけは皆が平等なのだ。俺はこの時間が好きだ。そして皆が歳を取って、腰が曲がって、くたばっていく。人間達は幸せじゃないか。

 そうしてみると俺は……来年一五一歳になり……。いつまでこの生活を続けなければならないのだろうか。二百、三百、四百……妖怪の寿命など俺も知らない。伝説上では、千年以上生きるような大妖怪も居るのだとか。実は俺は妖怪としてはまだまだひよっこだ。人間としてはクソババアだが……。終わりがあるからこそ今が輝く。人間達はそれを理解せずとも、自然と終わりを意識して生きる。だから節目節目に祭事を設ける。俺の願いはただ一つ、皆に幸せに生きて欲しいということだけだ。俺を傷つけた者も、俺を愛した者も隔てなく。

 こうして、十二月四日から、二十八日間日記を書いてきた訳だ。少しは俺の生きていた証が残せただろうか。これからも日記は続けていくつもりだ。また新しい日記帳を買わなければならない。シャープペンシルの芯も。我慢強く日記を書いてきたが、やはり自分のことについて書くのは楽しい。

 ……先程、年が明けた。俺もまた一つ歳を取り……こうして日記も、俺の人生も果てしなく続いていく。皆が歓声を上げ……新しい年の始まりと、新しい歳の始まりを祝う。俺もサイダーを飲んで乾杯しよう。

 ……師匠、私は何だかんだ生きてます。無事です。楽しくはないですが、幸せです。ですから私のことは心配しないでください。きっと上手く生きていきますから。

 新年、あけましておめでとう。そして、俺にも、皆にも乾杯。これで大丈夫だ。皆大丈夫だから。

2025年1月1日公開

© 2025 山雪翔太

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