今から二〇年ほど前、私はオランダのアムステルダムに二か月間滞在した。観光名所など数日で全て回れるほど国土の小さな国だが、観光以外の目的でバックパッカーたちはオランダに長期滞在する。その目的はソフト・ドラッグだ。アムステルダムのユースホステルに泊まる日本人の実に九割が大麻を吸いに来ていた。当時でさえ、ヨーロッパ諸国では大麻を使用しても大した罪に問われなかったが、旅行者が吸っているところを警察官に見つかると、罰金という名の賄賂を払う必要があった(外国人を捕まえると面倒だというのもあったのだろう)。そんな緩い状況だったが、オランダでは路地裏で何日も風呂に入っていないような饐えた匂いのする売人から買わなくても、コーヒーショップで「カルテを見せてくれ」と言えば、豆にこだわった喫茶店よろしく、店員がアッパーからダウナーまで細かく説明書きされたメニューを見せくれて好みの大麻を買うことができた。無料で水パイプを借りることもできた。当時はMDMAすらソフト・ドラッグ扱いで、コーヒーショップで買うことができた。そんな国だから他の国で肩身の狭い思いをしたソフト・ドラッグの達人たちは、少々物価が高くてもオランダに長期滞在してしまう。因みにハード・ドラッグの達人たちはハマった地に根を下ろして土となる。当時はソフト・ドラッグとハード・ドラッグの線引きが曖昧で、幻覚剤でもLSDはハード・ドラッグ扱いでDMT由来の幻覚剤やシロシビンが含まれたマジック・マッシュルームはソフト・ドラッグという、よくわからない状況だった。アンフェタミンやコカイン、ヘロインは当然ハード・ドラッグに分類されていたので、手に入れるには路地裏で饐えた匂いがする前歯のかけた外斜視の売人から買うしかなかった。
現地で知り合った日本人とユースホステルのロビーで「何処のハシシと、何処のバツを同時にキメるとメッチャ上がる」などと言った情報交換をしていると、一組の日本人カップルがユースホステルに入って来た。ユースホステルにカップルで来るのは珍しいことではない。大きなバッグパックを背負い日焼けしたカップルが来るのはよく見る光景だが、身なりが良く、大きなキャリーバッグを引いているとなると話は別だ。私たちはそのカップルを物珍しく観察した。
受付の女からから「シーツは持っているのか?」と尋ねられ、男は大きなキャリーバッグを開けてシーツを取り出す。私たちは「持っていると言うだけで別に見せなくもいいだろ」などとケラケラ笑いながら二人の様子を観察する。朝起きてから夜寝るまで一日中キマっているので、何を見ても笑えたのだ。
受付でチェックインを済ませた二人は男女別に分かれたドミトリールームに向う。すると直ぐに女がキャリーバッグを引きずりながらロビーに戻ってきた。女はロビーを見渡してから受付近くのソファーに腰を下ろした。それから数分後に男がロビーに戻って来てた。そして二人は口論を始めた。
「こんなところに泊まるのは嫌だからね!」
「なるべく安い宿に泊まろうって言ったのはお前だろ!」
二人の話を纏めるとこうだ。二人は結婚する前から新婚旅行は風車とチューリップの国オランダと決めていた。しかし、ツアーで時間に縛られるのは嫌だし、かといって高級ホテルに泊まって散財したくもない。なるべく安く時間に縛られずに旅をしたいと女に言われ、男はインターネットを駆使し、ユースホステルだと一般的な観光ホテルの数分の一の料金で泊まれことを知った。「大部屋だけどこんな旅もいんじゃないか? 他の国の人とも知り合えるかもしれないし」と知った口で説明する男に「やっぱりあなたは頼りになるわね」と女が言ったかどうか知らないが、いざユースホステルに着いて部屋に向かうと、ブツブツと何語か分からない言葉で精神世界と交信している女や、伸び放題の腕毛の至る所にケロイド状の痣のある白目をむいた女が居た。それで、女がこんなところに泊りたくないと言い出したようだ。
二人の口論を面白く見ていた私の隣でいつ土に帰ってもおかしくないほどガリッガリに痩せた友人が立ち上がり、ツカツカと二人の前に歩いて行った。
「こ、こ、この、ユ、ユースホステルは、あ、安全っすよ! 夜中は、夜中は出入り口が、せ、施錠されるし、ひ、昼間は受付に人がいるから、へ、変な人は入って、入って来ないっすよ!」
友人はガンギマリの血走った眼と、薬剤性ジストニアによって震える体で、言葉を一つ一つ区切りながら、二人を安心させるために、二人に理解できるように、ゆっくりと分かりやすい言葉で言った。
私がその様子を大笑いしながら眺めていると、カップルは一瞬目を見合わせてから脱兎のごとくユースホステルから逃げ出した。
現在アムステルダムにある数件のユースホテルはいずれも小ぎれいに改装され、味気ないホステルになっているらしいので、新婚旅行に使うのもありかもしれない。しらんけど。
(了)
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