少しずつ、少しずつ、あの忌まわしい幻影から解き放たれていった。かっこつけない自分、人を見下さなくても安心していられる自分。横浜の塾は週に2回行った。毎回が新鮮な気持ちだった。髪型を気にしなくても良いのだ。憑き物が落ち、体が軽くなった。最初は少し怖かった。何も髪を整えない自分を人前に晒すことに抵抗を感じた。小学生の頃、初めてあった子と友達になろうと話しかけるときのような気持ちだった。不安と好奇心がともにあった。徐々に徐々に慣らしていった。ありのままの髪型で教室に入る。ドキドキする。席に座る。しばらくして心が休まる。確かに誰も俺に視線を向けなくなった。今まで感じていた高揚感はなくなってしまった。それでも俺はこれでいいんだと、進んでる道は正しいのだと心で納得していた。去年の冬は寒すぎたのだ。あまりにも孤独が長すぎた。一人で歩いて塾を見つけた。そこのアットホームな雰囲気が無足を思い出させた。胸の琴線に触れ、昔に戻りたいと思わせてくれた。俺は昔の自分に戻ろうとしていた。中学3年の塾での自分。自分の性格を存分に生かせた。自分の存在が、背伸びなしで受け入れられていた。教室内で反響する笑い声は、身体に伝わった、胸を震わせた、心の底まで行き届いた。俺はそこに戻りたかった。受け入れられた快感、自分そのままが伝わり、教室全員に反響して返ってくるあの感覚。文字通り声は教室を震わせた。体も震わせた。その振動とともに喜びびが心を震わせた。一言二言、言葉を話すようになった。塾では化学が面白かった。それは学校では習わない範囲だが、根本的で感動的なものだった。席替えで俺の前に座った男の子がいた。勉強が好きな子だった。ある日彼と話す機会があった。勉強の内容や塾についての話もした。この塾に通っているのは学校で俺一人だった。彼はその名前を聞いたことがあるようだった。前から気になっていたようだった。俺はそこの授業があまりに面白いことを熱弁した。ちょうど先週習ったばかりのところの話を言って聞かせた。先週の感動をそのまま気持ちに乗せて伝えた。彼は感動していた。もっと話が聞きたいと言った。俺はますます話を続けた。化学の資料集を出して、周期表を見せた。俺は塾で習ったばかりの周期表の成り立ちと、仕組みを根本から教えた。熱を帯びていた。俺がこんなに話をする人間なのかと周りは驚いていた。びっくりした目でチラリと見つめ、なるほど勉強の話はいかにもあいつらしいと納得して視線を戻した。教室に先生が入ってきた。一番驚いていたのが先生だった。口を開けてこっちを見た。続いて俺の話し相手を見た。しばらく呆然としているようだった。何が何だかわからないようだった。天地がひっくり返ったのかと言わんばかりだった。確かにそうだろう。昨日まで、今日の朝まで一言も口を聞いたことのない生徒が、昼には異様に熱心に喋っていたのだから。歪んだ理想に凍らされた自我は溶け、やがて体温は周囲に伝わっていった。同級生はなんとなく納得したらしかった。今まで気を使ってくれていただけに、緊張が解けた安心感が俺にも伝わってきた。相手の感じた安心感で俺は更に安心した。昼休みの教室は静かたっだ。宴の後のような寂しさだった。俺とは関係なく昔から俺のクラスの男の子たちに会いに来ていた女の子は、今日もいつもの席で弁当を食べていた。「どうしてさ、かっこよかったりかっこよくなかったりするんだろ」俺のことを言っていた。男の子たちは「うん」と言ったなり話題に乗らなかった。かっこよくないと言われた。かっこよくなくなったことを不思議がっていた。きっとみんなが感じてるだろうことを、代表して伝えてくれた。これでいいんだ。俺は胸の中でつぶやいた。誰も俺をかっこいいと思わなくなっていた。誰からも視線を向けられなくなっていた。それでも俺は納得していた。これでいいんだ。少しずつ氷は溶けた。自我がありのままで溶け出し始めていた。美醜への執着は消えていた。極限まで熱し尽くした勉強への鉄芯も、根本が溶けてぐらつき始めていた。動画をたくさん見た。携帯を触る時間が増えてきた。それでも塾には通っていた。音楽を聴き始めた。好きな歌手ができた。熱狂的なファンにまでなった。音楽がますます心を溶かした。踏み出していく背中を押した。俺はまたしゃべり始めた口からはふざけた言葉が幾つも飛び出た。飛び出た言葉は床で踊った。床につくたびに空間が反響した。大きなうねりを伴って俺に帰ってきた。振動は胸に共振し、心を震わせた。心に残っていた昔の記憶が呼び覚まされた。あの時と同じ感動だった。俺は理想から解き放たれた。必死にこしらえた鎧を脱いだ。何も背負わない自由は楽だった。しかし鎧は脱いでいた。確かに俺は思いつくままに喋った。何も考えずにとにかく話した。しかし現実はやはり俺を傷つけた。
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