vol.5

自分について(第5話)

ryoryoryoryo123

エセー

3,876文字

vol.5です

初めて胸につかえた何ものかを飲み込んだ日、学校から帰る俺は不安だった。今日はいつもの学校と違った。母親に一件を悟られると恐れたかもしれなかった。一件は明らかに俺の恥部だった。また初めて胸に何ものかを飲み込んだ感情に、その全てを包み込むべき存在の母親の前にきて負けてしまうかもしれないという不安だった。「ただいま」笑えた、皮膚の下は青く寒かった。いっそのこと、この抱えきれない感情を母の前晒そうかどうかと迷った。9歳の少年は、9歳なりの面子を守った。9歳なりの、今にも崩れそうな自分の自己像を、そして実際にほとんど崩れてしまったこの自己像を、さも無邪気だった昨日と同じようにごまかした。テレビを見た、アニメを見た。夕食を食べた。それらは自分を励ました、初めての一人で抱え込んだ感情に負けそうな気持ちを忘れさせてくれた。そして夜が来た。布団に入った。テレビは消えた。食べ物も消えた。灯が消えた。一人になった。一件以来胸に沈殿していた何ものかは沈みきっていなかった。胸の中で浮いていた。抱え込んだこの気持ち、持て余しそうなこの気持ち、ごまかせていたこの気持ち。全てを包み込むべき母親は眠った。昼間の光景が脳裏に浮かんだ。なんども何度も浮かべてみた。怒りが湧いた。人の嫌な部分を面白がり、それを広めてさらに楽しんだ彼らが憎らしかった。何度も頭の中で批判した。あいつらが悪いと結論した。それで終われば良かった。目を閉じた。眠ろうとした。しかし昼間の光景は浮かんできた。かき消そうとしてもかき消そうとしても浮かんできた。俺はみんなに馬鹿にされる人間なんだ。俺は笑われた。馬鹿にされた。あんな体験初めてだった。悔しいのだろうか。人間をくじかれて悲しいのだろうか。何か自分が他の人とは違う人間、それもすでに尊厳を踏みにじられて対等に立っていられない人間なのだろうかと不安になった。俺はもう元のように対等には扱われない人間なのだろうか。いやそんなはずはない、いやそういう人間だから昼間のように笑われたのだ。やはり俺はすでにくじかれた、踏みにじられた人間なのだ。奴隷がいるとする。貴族がいるとする。市民がいるとする。市民はその地位によって、奴隷を軽んじ、貴族を仰ぐ。奴隷は人間としては扱わず、貴族にはどうやっても超えられない差を感じる。市民の中にも差はあるだろう。体格の良いもの、貧弱なもの。かっこいいもの、醜いもの。貧弱で醜いものは軽んじられる。屈強でかっこいいものは仰がれる、それも無条件に、本能的に。今にして思えば、あの夜の俺は自分の人間としての地位、軽んじられるのか仰がれるのか、少なくとも対等に扱われるのか、つまりは自分の人間として人から扱われる重みを測っていたのだと思う。今までは対等に扱われていた自覚があった。しかし、一件があった。自分の根元が揺らいだ。踏みにじられたという事実と、昨日までは対等に扱われていたという事実を天秤にかけた。笑われた悲しさ悔しさを、それでも少しは残っていた昨日までの自信で支えた。もろくも自信は崩れた。何もなかった昨日までのことを、そんなはずはない、そんなはずはないんだと目一杯見つめたが、今日笑われたという事実の方が重かったのだ。自分を悟った。もうどうしようもないと悟った。涙が溢れてきた。声を殺して泣いた。声を殺したのは無論そばに母親が寝ているからである。しかし全てを包み込むべき母親にこの初めての経験を、初めて自分の人間としての重さを悟ったこの感情を受け止めて欲しかった。声は殺していなかった。聞こえていればいいと思っていた。母は気付いた。どうしたのかと聞いた。泣いて泣いて答えられなかった。学校で何かあったのかと聞いた。学校で初めてくじかれたと言った。そんなことはないと母は言った。俺は何も答えなかった。そんなことがないならなぜ俺は馬鹿にされたのか。的外れな慰めだと思った。しかし仮にもこの感情を、自分を悟ったこの涙を、母にも見せたのだ。一人で抱えていたのを一度母にも分け与えたのだ。結果的には的外れな慰みで再び自分一人で抱えることになってしまったけれども。今にして思う。初めて人から尊厳を踏みにじられたこの日、俺は泣いたのだと。馬鹿にされたことが悲しく、悔しく、初めて自分を悟ったことに耐えられなくなったあの感情を涙にして流したのだと。そう、俺は泣いたのだ。それから15年以上たった今にして思う、俺はこの日以来、人に踏みにじられ、馬鹿にされ、存在を無視されたとしても一度として泣いていないのだということを。同じことが繰り返された。ハゲと言われた。人間としてどうでもいいと言われた。帰り道集団で暴言を言われた。友達と歩いている時に同級生の女子からハゲと言われた。好きな子の前で別の女の子からハゲと言われた。好きな子にハゲと言われた。毎回毎回視界が歪んだ。縁が黒くなる、焦点が定まらなくなる、景色が黄色くなる、赤や青の水彩が飛び散る。そんな時俺はきっと笑っている。平気な顔をしている。一幕が過ぎ去るのをじっと待っている。一幕が過ぎても何もなかったように振る舞う。踏みにじられるたびに俺は死ぬ。人間として死ぬ、尊厳が死ぬのだ。一つ、また一つと胸の中に何かが沈殿していく。胸の真ん中少しした。場所はなんとなくわかる。そこに何かわからないものが胸の上につかえてから沈んでいく、飲み込んでいく、そして沈殿していく。中学1年生の部活、3年生の引退試合、同級生含めて何か一体感のような、先輩を応援することの正義を共有し、自分は良い人間なんだ、選ばれた人間なんだというなんとなくの興奮がみなぎっていた。3年生の引退後、3年生一人一人が全員の前で一人ずつ喋っていく。最後の時間、当然大切な時間だ。俺はもう一人の同級生と少しふざけていた。二人でふざけていたのだ。最後の一言が終わり帰りの支度に向かう階段の途中、「お前いつになったら部活やめるの」2年3年生とその後何度も帰り道に言われるこのセリフを中学1年の夏休み、まだ中学に入学してから3ヶ月のこの日に言われた。俺だけが責められた。もう一人はなんとなく責められないのだ。こういうことは何度もあった。同じ悪いことをしたのに、確かに迷惑をかけることをした自分が悪のだが、俺だけが責められる。それも徹底的に責められる。罵倒される。消えればいいと言われる。人格を踏みにじられる。俺のことは人間としてどうでもいいんだなと思う。奴隷を軽んずるが如く、つばを吐きかけられる。小学校の頃こどもセンターでふざけて外国人の名前を書いていた。書いたのは俺だけじゃなかった。それぞれの家に電話が行った。同級生は全て俺がやったとなすりつけた。俺になすりつけておいても、俺は何も言わないし、全てが丸く収まるからちょうど良かったのだろう。いわゆる袖にされたのだ。小学校の頃から、俺はなんとなく、いわゆる奴隷の気持ち、人間を踏みにじられ、人間を軽んじられる気持ちを何度か経験してきた。中学入学間もなく、部活の朝練の前に近くの公園で集合してから学校まで歩いていた。よく遅刻する奴がいた。10分15分、20分遅れることもあった。遅れてやってきた彼に「もう遅いよー」と笑いかける周りの人たち。待っている間も「本当よく遅れるね」「遅すぎ」と言葉では責めるものの、その顔は笑っていた。しぜん口調も柔らかかった。たまに俺も遅刻した。果たして公園には誰もいなかった。俺はすぐ横に続く長い商店街を探した。遠い先に見慣れた色とりどりのエナメルバッグが歩いていた。怒りを噛み締めて歩いた。人によって態度を変える彼らを軽蔑もした。自分は全ての人に平等に接すると決めた。被害者だった、怒りがあった。その怒りはどこに行ったのだろう。自分も彼らと同じ弱い人間だったのだ。もちろん当時は怒りに震える被害者、自分の弱さには気づかなかった。しかし当時の自分には、己を強くし、周囲を助ける、自分と同じ思いは周りにさせたくないというような思いがあったことは確かである。「なんで部活やめないの」そんな言葉を投げかけられたばかりの時、まだ人と自分の違い、人間として扱われる重さの差への意識が薄かった頃、中学校1年の初めの頃のこと、このような自分を踏みにじるような言葉を浴びた後、一人になると、えも言われぬ気持ちに襲われた。悲しみもある、逆に悔しさの反発もある。中学入学の頃、新しい友達、新しい先輩関係、今まで通りの友達関係、まだどこかに無邪気さが残っていた。確かに小学校3年生以来、晴れやかな空の中に所々の濁点が垂らされることはあったが、確かに日常が晴れやかであった。無邪気であった。人に踏みにじられることが増えてくる。徐々に人間としての区別がついてくる、それも奴隷と使用人と言ってもいいような区別がついてくる。徐々に空に雲がかかった。一つ一つの出来事が影を与えた。一つ胸につかえた感情を飲みこみ、一つ何ものとも言えない感情が沈殿していくごとに空を空と思えなくなっていった。空は見えなくなった。そこに空はあったのだろうか。外で人間を踏みにじられる、家で母親に尊厳を馬鹿にされる。あの時人間として確かに列島である俺をそれでも人間として尊重してくれていたら、あの時俺の人間が、俺の尊厳が大丈夫だと言ってくれていたら、何も知らなかった頃の無邪気さをなくさなかったんじゃないだろうか。見えなくなった空を感じることができたんじゃないだろうか。こう考えるのは早合点なのだろうか。

2020年11月3日公開

作品集『自分について』第5話 (全15話)

© 2020 ryoryoryoryo123

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