【物語のいできはじめのおや】
物語は一体どこからやってくるのか。僕の知る限り、誰であれゼロから物語を作ることはできなかったはずだ。土の中から生えてきたり、空から降りて来たりといったことはなかった。そういった場面を持つ物語はいくつも存在するのだろうが、現実は奇なりと言ってもその実は程度の知れたものである。
かの芥川龍之介や泉鏡花といった天才も、数多くの傑作を昔話や説話を下敷きとして生み出している。それはもちろん1から生まれようと8から生まれようと作品の質を貶めるものではないということ。言ってしまえば、それらはスピンオフとも言えるし、二次創作とも言えるかもしれないが、きっと怒られるだろうから言わないでおこう。
そして時代は進み、小説、漫画、映画等など、無限とも思われる創作物にあふれ返った現代においては、完全オリジナルとしながらも、意図のあるなしに関わらず何かしら過去の作品に似てしまうのは避けられぬ問題でもある。生まれながらにして多くの物語が刷り込まれ、無限の先行作品が存在する以上、ゼロから創作は不可能。
もう一度強調するが、それが作品の質の低下に直結するとは言わない。ラインが非常にデリケートであるし、正直なところ、あまり近づきたくない。もちろん単純な盗作などとは区別しなければいけないが、カバーなりリメイクなりがヒットするところを見ると、我々消費者がそういったもの、再生産されるものを求めている部分もあるだろう。
つまり、どんなに使い古された展開だろうと積み上げてきた章立てが異なれば、あるいはまったく同じでも設定や配役を変えれば人々は感動するのである。
ウラジーミル・プロップの 『昔話の形態学』によるとロシアの魔法物語はたったの三十一種類にしか分類されないとか。日本でも二十余りの話型を外れる昔話はない。この構造分析は現代でも大差ないだろう。シェイクスピア三十六分類なんてのもある。少し情けない気もするが、人間の想像力なんてその程度が限界なのだ。物語に限らず、他の領域でも同じことが言えるのかもしれないが、話が枝葉に逸れているし、そろそろ止めておこう。僕はこの話がしたいわけではない。
ゼロから生まれた小説はあるのか。それがどういうものになるかと想像してみよう。僕の想像力ではできない。あなたはどうか。極端な意見かも知れないが、それは恐らくナンセンスなもの、作者以外には誰も理解できないものになるのではないか。それでは物語としての体を成さない。物語とは物事を語り伝える事である。
ナンセンスの代表『ジャバウォックの詩』も古典イギリス詩があってこそ言葉遊びとして伝わるもの。自分以外誰にも見せることを想定しなかったヘンリー・ダーガーの『非現実の王国で』も、自身の体験と多くの物語を下敷きにしているようだ。新しい神話「クトゥルフ神話」も目的はコズミックホラーの脚色。中身は既存の神話からは逃れられないだろうし、ゼロから生まれた物語など『ネクロノミコン』のように実在しないのである。
先行する物語があり、目的が存在するからこそ、人々は想像力を刺激され新しい創作に走るのだ。確実に存在するであろう人類史上最初の物語には先行作品こそないはずだが、それすらも、太陽、月、星、植物、動物、人間と、モチーフになるものはいくらでも存在する。我々が生まれたのは六日目ではなく、もれなく大晦日の正午過ぎなのだから。
長くなったが、つまるところ物語はゼロから生まれない。言い換えれば、物語には必ず1が存在するということ。あなたの好きな物語も元ネタがある。モチーフがある。ラレがあるのだ。そしてそれは物語を生み出すパワーを持っている。1があり、それを人に伝えようとする時、物語は生まれる。そして物語は二次、三次の創作を生み出す。
事実、文学史に目を向けても、江戸時代に印刷技術が確立し、出版文化が開花。井原西鶴が『好色一代男』を発表すれば、すぐにそのパロディが生まれた。それは好色本という一つのジャンルができてしまうほどであるから、まさに雨後の筍の如し。出版文化が誕生したこの時点において、もはやそこに物語としての純粋な性格は見る影もなく、あるのはすでに商業的な生産であり、ゼロどころか100だろう。しかしこれは出版文化の裾野を広げることに大いに有益であったし、やはり消費者がそれを求めているとも言える。
ラレ元の井原西鶴にしたって町人文学と言われるほどに、そのモチーフは明確だ。言うまでもなく『好色一代男』は『源氏物語』のパロディである。そしてその古典中の古典、千年前の『源氏物語』だって、紫式部の身の回り、当時の貴族社会が下敷きとなっているのは当然のこと。とはいえ、先行作品は大きく減ったと言えるだろう。
さて、それでは遡るほどに物語は純粋さを取り戻し、ゼロに近づくと言えようか。いったいどこまで遡ることができようか。残念ながら、それもここまで。日本最古の物語は『竹取物語』である。
【限りなくゼロに近い『竹取物語』の確認】
『竹取物語』が日本最古の物語であることを、どうやって証明するのか。それは『源氏物語』「絵合」において「物語のいできはじめのおやなる竹取の翁」と書かれているからである、とは少し心もとないのではないかと思う一方で、たいそう相応しい証明のような気もする。
行を進めれば「火鼠」、「蓬莱」といったおなじみの単語とともに帝も登場するようなので、ここでの『竹取物語』は我々が知っているものとほぼ相違ないのだろう。それはすなわち、かぐや姫の誕生と成長、五人の貴公子と五つの難題、帝の登場とかぐや姫の昇天、大きく分けて三章によって構成されている、あなたも良く知るそれである。ここにはどんな1があるのか。僕はそれが知りたいのである。まずは物語の確認から。
第一章「かぐや姫の誕生と成長」。ここだけで区切ると文章としては非常に短いのだが、その短い中に、異常出生譚、小さ子譚、致富長者譚といった昔物語の類型が見られる。それぞれ『桃太郎』、『一寸法師』、『花咲かじいさん』といった話を思い浮かべてもらえれば、その類型がお分かり頂けるだろう。
決まり文句である「今は昔」の書き出しは、当たり前だが『竹取物語』が初出。まさに「物語の祖」と呼ぶに相応しい。内容もいかにもお伽話らしくあり、それはいつも昔々ある所のお爺さんとお婆さんから生まれる。
そもそも、この物語は『かぐや姫の物語』ではなく『竹取物語』。もちろん、作者不詳であり、ちゃんとしたタイトルが付けられているわけではないが、「竹取の翁の物語」として伝わってきたことは間違いない。竹取の翁の身の回りで起こった不思議なこと、その繁栄。これだけでも、一つのお伽話として成立している。
また、「竹」というのも不思議な生き物だ。地上部分は葉であるが、その中身は空洞。宇宙の膨張と同じように、先端だけでなくそれぞれの節がそれぞれに成長し、一日に最大1メートル以上も成長すると、二、三ヶ月で成長を止め、そのままの姿で何十年も生き続ける。これは当然、かぐや姫の成長と重ねられているはず。
また、竹林全体で一つの生命であり、数十年に一度一斉に開花し、その後、竹林全体が枯死するとか。さらに知ってか知らずか、後の世ではエジソンの手で光を生み出すことにもなる。
とはいえ、「竹」が出てくるのはこの章だけなのだ。竹取の翁が竹の中からかぐや姫を発見したこと、竹の中から黄金が見つかること、これで竹の役割は終わりだ。この点からも、第一章の部分は単独のエピソードとして成立していた可能性が高い。おそらくは『竹取物語』の成立よりもかなり早い段階で、この章は存在したのではないだろうか。
実は「竹取の翁」は『竹取物語』に先立って『万葉集』の中にも登場し、天女に出会うエピソードが残っている。一般に「竹取の翁」は「野山にまじりて」の部分から、身分が低く、貧しい暮らしをしていた人物と解釈されるのだが、この『万葉集』の「竹取の翁」は裕福な暮らしをしていたようである。
同一人物として考えて良いかは分からないが、僕としてはどちらでも構わない。異なる像を持った「竹取の翁」が確認でき、物語を生み出していること。これは手塚治虫の「スターシステム」のようなものと考えられないだろうか。つまり「竹取の翁」の存在自体が物語を生み出す上での一つの装置であり、それが『竹取物語』の始まりの1である。そこから発展的に物語が生み出され、追加されていったのではないか。第一章は「竹取の翁」という人物、その周りで起こった出来事、その繁栄といったモチーフから単独で先行して成立した物語ではないか、と考えられる。
次に第二章「五人の貴公子と五つの難題」。ここでは、難題求婚譚、語源譚といった昔物語の類型が見られる。一般的にはこの部分が『竹取物語』の語られる場面においてメインとなる部分だろうか。
確かに各エピソードにちゃんとオチがついており、実にエンタメしている。千年前にグランドホテル方式とは恐れ入る。しかし、それゆえに不純な部分であると言えるし、かつ政治的である。江戸時代にはすでに五人の貴公子のモデルが指摘されており、そこにはいずれも壬申の乱の勝軍で活躍し、権力を得た人物が当てられている。
例えば、「蓬莱の珠の枝」をでっち上げた「庫持の皇子」のモデルは藤原不比等であるとか。つまり敗軍の立場から、五人の貴公子をこき下ろして、その溜飲を下げるために作られたのだろうと容易に想像できてしまう部分なのだ。話の構成力においては、只者ではなかろうと眼を見張るが、一方で作者の技巧を強く感じてしまう。
このように余りにも綺麗に切り取ってしまえるようでは、物語は輝きを失ってしまう。月は丸く、あらゆる多角形を内包し、光の当たり方でその姿を変えるのだから。
また、『今昔物語集』に収められている、『竹取物語』の古い形であろうといわれる説話では難題が三つ。「空に鳴る雷」、「優曇華の花」、「打たぬに鳴る鼓」と、かすってすらいない。さらに鎌倉時代に成立の『海道記』に収められた説話では難題自体が出てこない。
以上のことから、やはりこの部分は、第一章とは別の生み出され方をした部分であり、作者が技巧を凝らした後付け感の強い部分と考えられる。また、一章から続いてどれもこれも無くても良いような語源譚が話のオチとなっているのも、恐らくは本来の意図を隠すために、しょうもないオヤジギャグで煙に巻いているのだろう。
話は変わるが、この章において最も価値があるものと言えば、かぐや姫のヒロイン像ではないか。当時の常識からは考えられぬ人智を超えた思考、それは前述の『源氏物語』の場面でも指摘されている。さらに神秘的かつ冷酷とも言える存在感と端々から見える素直な心の動き。返しの歌などは実に知的でユーモアもあり、可愛らしくもある。この歌の作者が高確率でおじさんであるとは考えたくもない。
会話のやりとりが多いこの章をして、かぐや姫はヒロインとしての姿を手に入れることができたと言える。日本にはプリンセスがいないと、これは夢の国の人々からよく聞かれる意見のようだが、シャルル・ペローの「シンデレラ」は千七百年頃成立、『グリム童話』の「白雪姫」は千八百年頃成立である。何を嘆くか、歴史が違うぞ。五人の貴公子とのやりとりは世界初のラブコメである。毅然として対抗する姿は世界初の戦うヒロインである。と、断言するには神話の世界に後れを取るだろうし、得意な人に任せた方が良いだろう。
クライマックスは第三章「帝の登場とかぐや姫の昇天」。実は第一章における「竹」と同じように、「月」が登場するのはこの章だけである。「竹」と「月」は『竹取物語』の縁語と言って良いほど強烈な印象を残すのに、登場する章は限られているのだ。やはり成立過程が異なる証拠と言えよう。
月の見かけの大きさは太陽と同じで、日食、月食、潮の満ち引きなどを引き起こす。地球からは常にウサギのいる表側しか見ることができず、球体でありながらその反射率により平面に見え、まるで空にポッカリと開いた穴。そしてその穴は閉じたり開いたりする。なんとも不思議な存在であり、たいそう多くの物語を生み出したであろう無慈悲な夜の女王だ。
星新一が分析をするほどに『竹取物語』はSF視点から取り上げられることも多いのだが、言うまでもなく千年以上前の物語であり東宝制作ではない。しかし、かぐや姫が宇宙人であるという解釈は当然ありえるだろう。
五つの難題も「仏の御石の鉢」はダイヤモンドであるとか、「火鼠の皮衣」はアスベストであるとか、それを知っているかぐや姫は未来人なのだ。とは、なんともロマンあふれる発想である。
個人的には面白いので支持したいが、発展性はなさそうだ。何でもかんでも宇宙人だの未来人だのでは、なんでもありになってしまい、ただの思考停止とも言える。とはいえ、そのレベルの発想力をもってしてでないと、この物語は説明できないということか。とりあえずSF視点で『竹取物語』を論ずることは、市川崑監督による1987年公開の映画「竹取物語」を結論としたい。
昔物語の類型としては、羽衣譚、昇天譚、地名語源譚が見られる。前述のとおり、『竹取物語』のストーリーが紹介されるにあたっては、第二章がメインとして語られる場合が多く、第三章を詳しく知らないということが多いようである。例えば、地名語源譚は言わずもがなの富士山についてだが、不死の薬を焼いたから不死の山ではない。本文は、「士どもあまた具して山へのぼりけるよりなむ、その山を富士の山とは名づけける」と、武士がたくさん山に登ったから士に富む山である。もちろんどちらの説もあるのだが、『竹取物語』の本文にあるのは後者であり、勘違いしている人も多いだろう。これは作者が裏を書いたということらしい。
この章に見られる昔物語の類型、羽衣譚と昇天譚はセットのようなもので、羽衣昇天譚とまとめて言う場合もあり、各地に残る有名な伝承の一つ。これは後述する。
【『竹取物語』のいできはじめのおや】
『竹取物語』研究の中心は、作者は誰なのか、成立はいつなのか、舞台はどこなのか。確かにそれは重要だが、文学史のテキストに載せるための研究だろう。僕が知りたいのは、「物語のいできはじめのおや」である『竹取物語』がどのようにして誕生したのか。竹の中から生まれたり、月からやって来たりといったことではない。
以上で見てきたように『竹取物語』には昔話の類型が数多く取り込まれており、一般的にはそれらをまとめあげて物語として成立した、とされる。もちろんそれはそうだろう。しかし、物語はゼロからは生まれない。物語を生み出すパワーを持った1がなければ物語は生まれないのだ。
まず注目しなければならない点は、かぐや姫は実在の人物として記録が残っていること。それも『古事記』、十一代垂仁天皇の妃として迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)が登場するのである。
もちろん偶然の一致ではないか、名前を借りただけではないか、といった意見もあるだろう。しかし、父親の名は大筒木垂根王(おおつつきたりねのみこ)であり、「大筒木」の字面を見れば竹との繋がりを思わせる。さらにその弟、迦具夜比売命の叔父にあたる人物の名が、讃岐垂根王(さぬきたりねのみこ)であり、「さぬきのみやつこまろ」を連想させる。さらにその兄弟の祖母、迦具夜比売命の曾祖母にあたる人物の名が九代開化天皇の妃、竹野比売(たかのひめ)なのである。
ここまで来るとでき過ぎではないかと思われるほどの関連性だ。名前を挙げていくだけで、第一章の内容は完成してしまうのではないか。
例えば、実際に大筒木垂根王が竹に関係する人物ならば、帝の妃となるような世にも美しい娘が生まれた時に、あの娘はきっと竹から生まれたのだろうと話を作る人が居てもおかしくはない。そうでなくとも竹野比売の子孫である以上、竹から生まれたと言われることは何も間違っていない。さらに竹野比売と瓜二つ、生まれ変わりだ、と言った形容もあったかもしれない。この一族の発展とともに生まれた1が、第一章の部分へと発展していったと考えれば腑に落ちる。
では第二章はどうか。作者の恨み節というだけなのか。いや、それだけが目的ならば他に書きようがあるだろう。考えられることとしては、やはり何か元になる事件があったのではないか、ということ。迦具夜比売命は名前だけでなく、その時に何か事件があったのではないか。
実際のところ、垂仁天皇の時代において、『古事記』の具体的な記述が増えるのだ。例えば娘の倭比売命(やまとひめ)が三種の神器の一つである「八咫の鏡」を、現在の伊勢神宮に祀ったという記述。「八咫の鏡」自体曰く付きの代物であるし、月と鏡は関連しないだろうか。伊勢神宮といえば天照大神と豊受大神。すぐ近くには「月夜見宮」もある。豊受大神は日本最古の羽衣譚『丹後風土記「奈具の社」』との関連もある。
次に、嫁いだ四姉妹のうち二人が醜いとして国に帰されてしまい、そのうちの一人が恥じて木の枝に首を吊って自殺を図ったため、その場所は懸木(さがりき)と名付けられ現在は相楽と呼ばれている。結局その娘は深い淵に落ちて死んでしまい、その場所は堕国(おちくに)と名付けられ現在は乙訓(おとくに)となっている、という内容。これは語源譚である。この部分、『日本書紀』では五人姉妹になっており、国に帰されたのは迦具夜比売命の曾祖母と同名の竹野媛(たかのひめ)になっている。いずれも迦具夜比売命の従姉妹にあたる人物だ。
さらに、垂仁天皇は不老不死の薬である非時香木実(ときじくのかくのこのみ)を求めて常世の国に使いを送るが、間に合わずに崩御している。これは難題と失敗。その陵は宝来山古墳と呼ばれている。
直接的な繋がりを持つエピソードではないが、いくらでもキーワードを見つけて妄想を膨らませることができてしまうのだ。しかし、なんと言っても迦具夜比売命に関するエピソードが、袁邪弁王(おなべのみこ)を産んだこと以外にないので、所詮妄想の域を出ないのが心苦しい。また、二人の「たかのひめ」の存在や、「記紀」で記録が異なる辺り、記録に誤りがあるような気がしないでもない。決め手はないが、少なくとも話を作るための1が迦具夜比売命の周りにいくらでも存在するのは間違いない。1さえあればそれで十分。この章は作者の意図が多く反映されているのだから、1さえあれば物語はいくらでも付け足せるだろう。
そして第三章である。話の類型としては前述の通り、羽衣譚、昇天譚としてまとめても良いとは思うが、問題はその描写である。これほど美しく幻想的に描かれた羽衣昇天譚が、他にあるのだろうか。
帝の目の前で姿を消すかぐや姫、まばゆい光とともに現れ兵士たちの力を奪う天人、開け放たれる塗籠の戸、心を失う天の羽衣。高畑勲監督による2013年公開の映画「かぐや姫の物語」で、一番ぞっとしたシーンは天の羽衣だ。かぐや姫が抵抗しようとする正にその瞬間、あまりにも無慈悲に天の羽衣を着せられ一変してしまう。一体これは何なんだろう。天の羽衣としか形容する言葉がないだけで、別の何かなのではないかと、やはりSF的な発想でないと説明がつかない。
『竹取物語』の魅力はなんといってもこの章。その魅力といったら、上手く説明できない程なのだから困る。問題としたいのは、千年以上も昔に如何にしてこれほどの創作ができたのかということの一点。ファンタジーのファの字もない時代にどうやってこれほどまで生き生きとした描写ができたのか。まさしくこれは文学史上におけるオーパーツである。
同時代の作品を比べなければいけないのであるが、例えば『源氏物語』にも幽霊は出てくるにしろ、SF視点で語られることはないだろう。『浦島太郎』などはSF的魅力もあり、『竹取物語』に先行する可能性もあるので調べてみる価値はあろうが、海の向こうへ行って帰って来たら老人になっているのはなんだか普通のことのように思えるし、竜宮城や玉手箱のほか、鶴となって昇天する場面もあるものの、その描写は特筆すべきほど美しく幻想的とは言えない。
作れるはずがないのであれば、もうそれは目の前で起こったこと、現実にあったことの記述でなければこのような描写は考えられないと思うのだが、如何。つまりこの章は現実に起こった事件である。と、冗談めかしておくのだが、第一章で現実に存在したであろう人物が当てはめられ、第二章でも関連するエピソードがある以上、第三章でも何かあったのではないか、と考えるのは正気の沙汰ではないか。人間の想像力には限界があり、ゼロから物語は生まれないのだから。
理由はどうあれ、少なくとも帰ってしまった姫は存在する。死ぬ、すなわち昇天してしまった姫もいる。あともう一手。美しく幻想的で、SF的な描写を生み出すような事件があったとしか考えられないのだが、それが何なのかは今のところ不明なのだ。探しているのはそれなのだ。
さて、ページの半分程度の殴り書きも、そろそろ結論となる行が近づいてきた。もっと言いたいことはあったはずなのに。
紫式部曰く、「巡り逢ひて見しやそれとも分かぬ間に雲隠れにし夜半の月かな。」それもまた良し。よく分からぬからこそ趣深い。僕はこの歌が好きである。『竹取物語』は本来あるべきはずの1が良く分からないからこそ、千年も生き続けてきたと言える。あるいは神話のように、そもそも良く分からぬ事柄に対して物語を作ったのか。となると、それが分かってしまったら、この物語は輝きを失ってしまうかもしれない。千年生きた姫はその神秘性を失い、消えてしまうのではないかと。それならば、仮に分かってしまっても言わぬほうが良い。長々と書き連ねた『竹取物語』の魅力も、結局は分からないということになってしまうが、現状はそれで良しとしたい。輝く夜を探しても、永遠の姫を殺したくはないのだから。
"輝く夜を探して―『竹取物語』考察"へのコメント 0件