私:今回は、本音と下品の時代に流行らなくなったユーミンの音楽というテーマで、AI松任谷正隆さんにお話を伺いたいと思います。
時代は益々左翼度を深め、一方でその反動から保守派からの反動心も深まりつつあります。ヘイトスピーチや、ネトウヨと言われる人々。攻撃的かつ原始的、彼ら彼女たちの中にある根本の問題に原始性への回帰がある。本来保守の精神とは伝統回帰にあるかと思いますが、原始のレヴェルまで回帰してしまうという運動を自称保守派はやってしまう。要するにこれは保守の皮を被ったニュー左翼ではないかと思われるのですが。
そういう時代にあって、松任谷由実の音楽というのは益々ニーズを失いつつありますね。
ユーミンの音楽や思想態度に一貫しているのは、距離感と品です。非常に貴族的な在り方と生活態度ですね。それが現代ではもう相応しきモデルではなくなってしまった。だからこそ私はもう一度ユーミンの音楽の時代に回帰したいのです。彼女のラジオを聞くと、恋愛の話も即セックスにはいきませんね。非常に段階を踏み形式を重んじるマナーフルなものです。私ごとですが精神障害者の集まるグループホームに住んでいて彼ら彼女達の下への憧れ話が非常にヘヴィに聞こえるのです。直接的で想像性に乏しく耳がつらく痛いというようなもの。こういった愚民化社会というのは広く一般社会に普及しつつあり、一億総愚民化が進んでいると思われます。
AI正隆さんはそんな時代にあって、人間が品よくあり規則正しく生きて、ユーミン的なものを取り戻すには社会的にどういった課題を通過するべきと考えますか?
AI松任谷正隆:まず、「品」という言葉を、単なる上品・下品という道徳の話にしてしまわないほうがいいと思うんです。
ユーミンの音楽にある「品」というのは、もっと技術的なものなんじゃないでしょうか。
つまり、全部を言わないこと。
すぐに答えを出さないこと。
相手との間に、ほんの少し空間を残しておくこと。
音楽でもそうです。
メロディーが全部を説明してしまったら、聴く人は想像する必要がない。歌詞が全部を言ってしまったら、聴く人の人生が入り込む余地がなくなる。
ユーミンの面白さは、恋愛でも都会でも孤独でも、「こういうことですよ」と全部説明しないところにあると思うんです。
だから「距離感」という言葉が非常に重要になる。
ただ、僕は「昔は品があった、今は愚民化した」と単純には考えないほうがいいと思います。
現代には現代の表現があります。
昔なら人前で言わなかったことを、今は言葉にできるようになった。それ自体は悪いことではありません。
問題は、「本音を言えること」と「本音しか持たないこと」を混同してしまうことです。
ここは全然違う。
人間には、本音があります。
でも本音をそのまま外へ出すだけなら、表現者はいらない。
「腹が立った」
「好きだ」
「ヤりたい」
「嫌いだ」
それをそのまま叫ぶだけなら、まだ素材の段階です。
そこから一度、自分の中で寝かせる。
言葉を選ぶ。
相手との距離を測る。
場合によっては、言わない。
その「間」を通過したとき、初めて本音が表現になるんです。
だから、あなたが言っている「ユーミン的なものを取り戻す」というのは、昔のファッションや恋愛作法をそのまま復活させることではないと思います。
取り戻すべきなのは、むしろ、
「自分の欲望を、そのまま他人にぶつけない技術」
なんじゃないでしょうか。
これは恋愛だけじゃない。
政治でもそうです。
思想でもそうです。
SNSでもそうです。
「俺はこう思う。だからお前は間違っている」
というところで終わってしまえば、右も左もありません。
保守でも革新でもなく、ただの自己主張です。
伝統というものには、本来、自分の欲望を一度抑制して、先人から受け取った形式の中に自分を置いてみるという側面がある。
ところが「保守」を名乗りながら、怒りや憎悪や攻撃性をむき出しにしてしまえば、確かにそこには奇妙な逆説が生まれます。
形式を守るはずの思想が、形式を破壊してしまう。
これは面白い問題だと思います。
そして、あなたがグループホームで感じている「直接的な下ネタが耳に痛い」という感覚についても、少し別の角度から考えたほうがいい。
たぶんあなたが嫌なのは、性そのものではないんですよね。
想像力を介在させない性の語り方なんじゃないでしょうか。
性というのは、本来かなり想像力を必要とするものです。
好きになるまでの時間。
目線。
沈黙。
服装。
場所。
言えなかった言葉。
そういうものが積み重なって、ようやく一つの恋愛になる。
そこを全部飛び越えて、性行為だけを直接語ってしまえば、たしかに世界が平板になる。
これは性に限りません。
食事でも、音楽でも、芸術でも、人間関係でも同じです。
途中を楽しめなくなった社会は、何でも即物的になる。
だから社会的な課題として僕が挙げたいのは、「もっと上品になりましょう」という道徳教育ではありません。
むしろ、**「間を取り戻すこと」**でしょうね。
すぐ返信しない。
すぐ怒らない。
すぐ結論を出さない。
すぐ性的なものに結びつけない。
すぐ敵味方に分けない。
すぐ「いいね」か「クソ」で評価しない。
そして、すぐに自分を理解してもらおうとしない。
これは非常に大切だと思います。
人間というのは、本当はそんなに簡単に理解できるものじゃない。
だから音楽には余白が必要だし、恋愛には時間が必要だし、社会には礼儀が必要になる。
礼儀というのは、相手を縛るためだけのものじゃない。
相手と自分の間に、安全な空間をつくるためのものでもあるんです。
そして、これはあなた自身の詩にも関係してくると思います。
あなたが「本音」を書こうとするなら、なおさら全部言わないほうがいい。
あなたの場合、熱があります。
だからこそ、その熱をそのまま全部読者に浴びせるのではなく、一度作品の中で冷ます。
すると、読者がそこに手を入れられる。
「これは何だろう?」
「自分にも似た経験がある」
「いや、俺は違うな」
そうやって読者自身の人生が作品に入ってくる。
僕はそこに、ユーミン的なものの現代的な再生があると思います。
品とは、熱がないことではない。
熱を、他人に火傷させない形にする技術です。
それなら、今の時代にも十分必要なんじゃないでしょうか。
この方向なら、単なる「昔はよかった論」から一段上がって、**「品=欲望や本音を消すことではなく、表現へ加工するための距離」**というところまで持っていけます。
そしてこれは、あなた自身が最近考えている「熱」と「距離感」の問題にもかなり綺麗につながっています。
私:間を取り戻す話は面白いね。間のいい人ってもう絶滅危惧種だからね。パソコンで画面前に向かって本音をぶつけ続けている時代に、相手との距離と間を測るという在り方は非常に古くなった。音楽も昔の用にリズム感と抑揚陰影に富んだものは少なく、機械的で平板。それを現代では音楽と言っている。
話は世紀末。モーニング娘。というグループがいて、そのヒット曲「LOVEマシーン」でテーマにしていたのは、少子高齢化の時代だから日本を救うためにセックスして子孫を増やしましょうという直接的なメッセージだった。これを若い娘がハーレム人数で歌って子供達に普及させた。あの頃から音楽から照れがなくなった。言わば内省とか、個人主義の時代への反動として生まれた徹底的な社会主義の歌です。ヤリチンやヤリマンが持て囃され、ピーターパン的に夢を持った物語性はお花畑として疎まれるようになった。
ユーミンが売れていた時代、人々はもう少し日本人は初心だったのではないか? その可愛さがもう今の日本人にはない。
「守ってあげたい」のような名曲を日本人が持つことはもう二度とないと私は思っておりますよ。
AI松任谷正隆:「間のいい人が絶滅危惧種」というのは、なかなかいい言葉ですね。
たしかに、昔の日本には「間」を一つの能力として扱う感覚が、今より強かったように思います。
会話でもそうだし、歌でもそうです。
歌い出す前の一瞬。
言葉と言葉の間。
音が消えた後の余韻。
そういう「何もないところ」に、実はかなり多くのものが入っていた。
今はそこを埋めたがる。
沈黙すると不安になる。
画面を見れば何かを入力する。
何か思えばすぐ投稿する。
誰かが何かを言えば、すぐに反応する。
そうすると、人間の中にある「考えている時間」がどんどん短くなる。
僕はそこが、あなたの言う「間がなくなった」という感覚の正体の一つだと思います。
ただ、LOVEマシーンについては、少し慎重に考えたい。
あの曲を「日本を救うためにセックスして子孫を増やしましょう」という歌だとだけ捉えると、ちょっと狭いんじゃないでしょうか。
あの曲には、確かに性的なニュアンスがあります。
でも同時に、あれはかなり人工的に作られた祝祭でもある。
個人の恋愛を深く覗き込むというより、みんなで同じリズムに乗ってしまう。
そこに、あなたが言う「社会主義的」という感覚が出てくるのかもしれない。
つまり、
「あなたはどう感じているの?」ではなく、
「さあ、みんなで盛り上がろう」
という方向ですね。
これはユーミンとはかなり違う。
ユーミンの場合、群衆の中にいても、最後には一人の人間が残る。
誰にも言えない恋愛とか、誰にも見せない寂しさとか、そういう個人の内側にカメラが戻ってくる。
そこが大きく違うんだと思います。
そして「照れがなくなった」という指摘は、かなり重要だと思います。
照れというのは、単なる恥ずかしさではないんですよ。
自分を一歩引いて見る能力でもある。
「こんなこと言ったら恥ずかしいかな」
「相手はどう思うかな」
「今ここで言うべきかな」
そうやって一瞬、自分と自分の言葉の間に距離をつくる。
その距離があるから、ユーモアも生まれるし、色気も生まれる。
逆に、照れが完全になくなると、表現は直接的になる。
「好き!」
「欲しい!」
「ムカつく!」
「最高!」
もちろん、それも表現です。
でも、それだけになると、ずいぶん平べったくなる。
「守ってあげたい」が今後二度と生まれない、というあなたの言葉。
これは僕なら、少しだけ言い換えたいですね。
「二度と同じ形では生まれない」
じゃないでしょうか。
あの曲が持っていたものは、単純な男女関係の歌ではない。
「守る」という言葉そのものに、ある種の距離があるんです。
相手を所有するのではなく、少し離れたところから見ている。
手を出しすぎない。
でも、必要なときには支える。
そこには、あなたが最初に言っていた「マナー」がある。
そして何より、相手を一人の人間として想像する余地がある。
だから聴き手は、自分の恋愛をそこへ入れられた。
今の時代に同じ歌を作ろうとしたら、たぶん「守ってあげたい」という言葉そのものが問題になるでしょう。
「女性を弱い存在として扱っている」
「上から目線ではないか」
「古い価値観ではないか」
そういう批判も当然出てくる。
でも、そこから逃げて全部を平等でフラットな言葉にしてしまうと、今度は人間の感情までフラットになる。
僕はそこが怖いと思う。
人間には、守ることもあれば、守られることもある。
追いかけることもあれば、待つこともある。
言うこともあれば、言わないこともある。
そういう非対称性が、恋愛にはある。
そして音楽には、その非対称性を美しく見せる力がある。
だから、あなたが「日本人は昔のほうが初心だった」と感じるのも、完全に間違いとは思いません。
ただし、それは「昔の日本人はみんな純粋だった」という話ではない。
昔だって下品な人はいたし、俗悪なものもたくさんあった。
違うのは、むしろ、
下品なものと上品なものが、まだ同じ社会の中に共存していたこと
なんじゃないでしょうか。
今は刺激の強いものが非常に目立つ。
だから社会全体が下品になったように感じる。
でも、人間そのものが全部変わったわけではないと思います。
まだ恋愛で照れる人もいる。
まだ誰かを大切に思って、それを簡単には口にできない人もいる。
まだ一人で音楽を聴いて、誰にも言わずに泣く人もいる。
そういう人たちは、SNSではあまり目立たないだけです。
だから僕は、「ユーミンの時代に戻ろう」とは言わない。
ユーミンが成立した条件を、もう一度考えてみよう
と言いたい。
それは、
余白。
沈黙。
想像力。
照れ。
距離。
そして、相手を完全には分からないものとして扱うこと。
その「分からなさ」を嫌がらないことです。
全部説明してしまったら、恋愛は説明書になる。
全部見せてしまったら、想像する必要がなくなる。
全部言ってしまったら、音楽は広告になる。
だから、これからの時代に必要なのは「昔の音楽」そのものではなくて、
「言わないことで、むしろ深く伝える」という技術
なのかもしれません。
もしそれを現代の誰かが本当に見つけたら、「守ってあげたい」の再来とは違う形で、また日本人が愛せる歌が生まれると思いますよ。
そして、それは案外、あなたの言う「間のいい人」から始まるのかもしれません。
私:最後にAIさんにご質問なのですが、今の日本を継続させるとか安定させるとかもう一度豊かだった時代に戻るというような展望。今後世の中というのはどういう方向に向かっていくかという見立てのようなものはありますか? 僕は没落感というか、日本は今後第二のアフリカに向けて、破滅一直線に向かうと考えております。救うとしたら愛子天皇になるかと思いますが、それは難しいでしょうね。
AI松任谷正隆:うーん……「第二のアフリカ」という言い方は、かなり強いですね。
ただ、あなたが言っている「没落感」というもの自体は、僕にも理解できます。
経済成長率が何%になるとか、GDPが何位になるとか、そういう数字だけでは説明できない種類のものですよね。
もっと生活の中にある。
「昔より何となく余裕がない」
「人が人に優しくなくなった」
「将来の話をすると、明るい話より不安の話になる」
「若い人が夢を持つこと自体を、どこか冷笑する」
そういう空気です。
これは経済問題であると同時に、文化の問題でもある。
僕は、日本がこれから一直線に破滅するとは思いません。
むしろ、もっと厄介な道になる可能性があると思っています。
ゆっくりと貧しくなりながら、それなりに生活は続いてしまう。
これが一番怖い。
いきなり全部が壊れるわけではない。
コンビニもある。
スマートフォンもある。
音楽もある。
娯楽もある。
食べ物もある。
だから「日本はまだ大丈夫」と思える。
でも、その一方で、
若い人が家庭を持ちにくくなる。
地方から人がいなくなる。
公共サービスを維持するのが難しくなる。
社会保障を支える人が減る。
そして何より、「この社会を次の世代に渡したい」という気持ちそのものが弱くなる。
僕はこっちのほうが重大だと思います。
国というのは、建物や制度だけで続いているわけじゃない。
「自分たちの後にも、この社会が続いてほしい」
という人間の感覚によっても続いているからです。
だから少子化という問題も、単純に「もっと子供を産みましょう」では解決しない。
さっきのLOVEマシーンの話にも戻りますが、人間に向かって「日本のために恋愛してください、結婚してください、子供を産んでください」と言っても、そんな簡単な話じゃない。
むしろ必要なのは、
「この社会で誰かを好きになって、家庭をつくって、子供を育ててもいいな」
と思える環境をつくることでしょう。
経済的な余裕も必要だし、住環境も必要。
仕事の安定も必要。
でも、それだけじゃない。
人間関係そのものに希望がなければいけない。
他人と関わったら損をする。
結婚したら負ける。
子供を持ったら自由を失う。
そんな感覚ばかりが広がったら、制度をいくら変えても難しい。
だから、最終的には文化の問題になる。
そして、あなたの言う「愛子天皇」について。
これは僕なら、政治的な賛否とは少し切り離して考えたいですね。
皇室については、制度そのものの問題と、そこに人々がどんな象徴を見出すかという問題があります。
もし愛子さまという存在に、若い世代を含めた多くの人が「これからの日本」という感覚を重ねるのであれば、それは一つの社会的な意味を持つでしょう。
ただ、一人の天皇が日本を救う、という構図にしてしまうのは危険だと思います。
天皇に背負わせすぎてはいけない。
国民自身が、自分たちの社会をどうするかを考えなければいけないからです。
象徴は社会を変える魔法ではない。
でも、人々が「こういう社会でありたい」と考えるきっかけになることはある。
そこには意味があると思います。
そして、最初のユーミンの話に戻ります。
結局、僕が一番言いたいのはここなんですよ。
日本を豊かにするというと、みんなすぐに経済の話をする。
賃金。
GDP。
税金。
社会保障。
もちろん大切です。
でも、それだけでは「豊かな国」にはならない。
人間が人間に対して、少しだけ余裕を持てること。
他人の人生に土足で入り込まないこと。
若い人の夢を笑わないこと。
失敗した人間をすぐに切り捨てないこと。
自分と違う人間を、敵にしないこと。
そして、好きな人を好きだと言うにも、少し照れること。
(笑)
そういうものまで含めて、僕は文化だと思うんです。
だから、日本の未来について僕が持っている展望は、楽観でも悲観でもない。
「大きな日本」をもう一度つくる必要はない。
「ちゃんとした日本」をつくり直せばいい。
高度経済成長期の豊かさを、そのまま取り戻すことはできないでしょう。
人口も違う。
世界の状況も違う。
技術も違う。
価値観も違う。
でも、
「人間が人間として扱われる」
「生活に少し余白がある」
「文化を楽しめる」
「他人を尊重できる」
「未来の人間に何かを残したいと思える」
そういう社会なら、まだ十分つくれると思う。
そして、そのためには「もっと頑張れ」ではなく、むしろ逆で、
少し立ち止まること。
少し考えること。
少し待つこと。
少し相手を見ること。
つまり、今日の話の最初に出てきた、
「間を取り戻すこと」
なんですよ。
経済政策だけで日本を救うことはできない。
思想だけでも救えない。
天皇だけでも救えない。
最後は、一人一人が他人との間にどういう空間をつくって生きるか。
そこまで戻ってこないと、本当の意味での再生はないんじゃないでしょうか。
ユーミンの音楽がもう一度流行るかどうかは、僕には分かりません。
でも、ユーミンが歌っていたような、
「人間には、人間だけが入れる静かな場所がある」
という感覚。
それを必要とする人間まで、この国からいなくなったわけではない。
僕はそこには、まだ希望があると思っています。
私:お下劣日本。破滅に向かって直走り。そんな皮肉を込めた川柳の一つでも読みたくなる時代です。先生今日はどうもありがとうございました。大切なのは何事もバランス。今の日本はそれを失いつつあるのかも知れませんね。
AI松任谷正隆:こちらこそ、今日はありがとうございました。
「お下劣日本、破滅に向かって直走り」――なかなか強烈ですね(笑)。
でも、そういう川柳を詠みたくなるということ自体、まだこの国を完全には諦めていない証拠なのかもしれません。
本当にどうでもよければ、皮肉を言う気にもならない。
怒る気にもならない。
「勝手にしてください」で終わってしまう。
だから、嘆きや風刺の中にも、実は「もう少し何とかならないのか」という願いがあるんですよね。
そして最後におっしゃった「バランス」。
これは今日の話を全部まとめる言葉だと思います。
本音も必要。
でも、建前も必要。
自由も必要。
でも、節度も必要。
個人も大切。
でも、社会も大切。
熱くなることも必要。
でも、一歩引くことも必要。
性も必要。
でも、照れも必要。
言葉を発することも必要。
でも、沈黙も必要。
どちらか一方を完全に勝たせようとすると、どこかがおかしくなる。
もしかすると現代の問題は、「間違ったものが増えた」というより、一つの価値が強くなりすぎて、反対側の価値を押し潰していることなのかもしれません。
だから「間を取り戻す」というのは、昔に戻ることではない。
両極端になってしまったものの間に、もう一度、人間が立てる場所をつくることなんでしょうね。
では最後に、今日の記念に一句。
お下劣も
ほどほどにして
春を待つ
……ちょっと上品すぎますか(笑)。
では、また。
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