医学たち……。

巣居けけ

小説

18,707文字

誰が医師免許証を持っているのか……。きっと、誰一人として取得していないのだろう。取得しようと動いた経験を過去にしている者が居るかどうかすら疑わしい……。いいや、そもそも、医師免許証などというものは存在しているのだろうか。価値が在るのだろうか。必須なのだろうか……。それを取得している人間は確かに存在しているが、それの存在そのものを証明できる人間などもう存在していないはずだ……。

誰が医師免許証を持っているのか……。きっと、誰一人として取得していないのだろう。取得しようと動いた経験を過去にしている者が居るかどうかすら疑わしい……。いいや、そもそも、医師免許証などというものは存在しているのだろうか。価値が在るのだろうか。必須なのだろうか……。それを取得している人間は確かに存在しているが、それの存在そのものを証明できる人間などもう存在していないはずだ……。

しかし、彼ら、彼女らは医師なのだ。医学の人間なのだ。人体を知り尽くしている。人間工学を趣味としている。そういった人為的な細かい作用の学力をテーブルの上にて広げて珈琲で廻しているのだ。心理学そのものを言語化して対話しているだけなのだ、君たちは……。
「医者とはペテン師のことなのかもしれない」新聞紙を眺めながらそういう思考がよぎってゆく……。文字列……。冷静で医学的な文字列……。どの部分をどのように探したところで何も発掘できない。諦めるように……。まるで逃げるように珈琲をひとつまみする。苦味には慣れてくれないものだ……。

そうしてからマァイケルは極めて電子的なアルゴリズムによる文体を思い出してめくるように確かめてゆく。

著名な医師。曰く――。

患者が息絶えることとは何よりも嬉しいこと。

そして、さらに。曰く――。

患者の血管から勢い良く血が噴き出ることに恍惚を得るのだよ、君……。
「はは、本当かね。まったく。ふざけているような……」マァイケルはそういうまるで賛同しているような調子で空になった珈琲専用カップを落とす。彼は最初の部分からこのテーブルが斜めっていると思い込んでいる……。カップが滑り落ちて床に激突して破片に至る……。「ああそうだとも。僕たちはそうあるはずなのではなく、そうあるべきなのだから」まるで医学者のような指の伸ばし方を独りで演じている……。脳裡にて大学講義中の自分が浮かぶが不安定に消える……。

そしてあのマァイケル・ドピターは寝起きのままの風味の中でいそいそと手順を整えてゆく……。このマァイケルというものは衛生安全局に所属してみたいと強く思っていたが、その彼は、いまだに大学というものを通過したことがないのだ……。故にマァイケルはただそれだけの男として過ごしていた。
「だからこそ、これが届いたのだ……」マァイケルは衛生安全局の手紙をちらりと覗いてから歯磨きに戻る。脳裡にて衛生安全局を褒める。望んでいるものを都合良く与えてくれるだなんてまるで医者みたいだ……。マァイケルは偉そうな口ぶりで思考をしている……。口角から泡立っている白色が垂れていたがマァイケルはブラシでそれを阻止している。衛生安全局の職員に成っている自分を想像する。あの名医の横について偉そうに人体を語る自分を想像して滾る。

それは探偵のような態度だったがマァイケルはそのテの捜査機関を嫌っているのだ……。
「一分で済むさ」

マァイケルは正装のような圧力の装いをしていた。薄灰色のシャツに黒色のズボン、ベルトと靴は革っぽい茶色で光沢はアリ。もちろん白衣もわすれていない……。医学に携わるものにとって白衣とはスーパーヒーローのマントのようなものなのだ……。「でも、僕はこの白衣で誰かを包むことはしないよ……」白衣とは患者の赤色を嗜むための舞台装置……。

そして全ての工程を通過したマァイケルは最後に巨大な鞄に今月の女児掲載雑誌と名刺を投げ入れてから持ち上げる。靴を収納している棚の上の女児の顔写真に向かってまるで父親のような顔を造る……。

曰く――。

なぁ、小児って、いい言葉だよな。

歯科医って最高だよ。聞くだけで興奮するんだもの。

んふんふんふふんふ、勃起。

それじゃあ出動。行ってきます。

そういう提出の中からマァイケルは自分がまるで歯科医に成っているつもりで自宅を飛び出して進む……。過ぎ去る……。抜けてゆく……。街の全ての涙のような粒の音たちが今朝のアラームの音に連結されてマァイケルを脅かす……。山羊とぶつかるが無視をしてスキップを連続で落とす。すぐに桃色の突風が顔面を覆ってマァイケルの呼吸系の意識を潰す……。薄桃色のエネルギー体のような透明な風。マァイケルは振り返りながら白衣を飛ばすように動かして山羊に接近してゆく……。「おい、君はイヤホンをつけているな」マァイケルは山羊のその右側の耳の中にめり込んでいる黒色のイヤホンの突起を親指の腹で擦って摩擦と共に彼の音楽体験を邪魔する……。「やめておけ」中で響いている音楽が皮膚を不快に不敵に微妙に震わせている。マァイケルは便器から顔を上げるように指を離す……。「おい、なんだか馬鹿っぽく視えてしまうぞ、山羊」

山羊はその時点でようやく顔を上げてマァイケルを視認して口を口角の部分から波立たせるように動かす。
「大いなる山羊には大いなる山羊がともなう。あなただって――」
「わかった」マァイケルは人差し指をその山羊の唇の部分に圧し当てる。「もう二度と言うな、いいね?」
「ああ、あんたのためだ」山羊はまるで煙草屋の女のような顔で傾げている。
「それとね、君」マァイケルは医師のような質感のまま山羊の耳元に唇を連結させる素振りを向けて声を垂らす。それは溶けているガラス細工のように不安に至りながらそれでも真っ赤に震えて下方向に垂れてゆく……。それよりも、君、きみ。優しいのなら疑うべきだ……。「善意とは悪意の前触れなのだから」

声というものはマァイケルとはまったく違う方向に流れてゆく。何度も破裂をおこなって、縮みながら加速して、周回をして包んで発声をして、それから最後に必死に山羊に向かって主張してゆくのだ……。

そもそも、この山羊が歩道を堂々と歩くなんておかしいはずだ……。それは医者が薬物に溺れてゆくことと同じぐらいおかしなこと……。まるでパーソナルコンピュータのような回路じみた蠢きと対話のための手順……。電源を入力するというきっかけすら不必要な最新型の電力。店員たちは口をそろえてタイプライターの中の爪を取り除く。まるでロボットのように……。いいや、それでも。マァイケルも口をそろえてみる。「山羊山羊!」

マァイケルは自慢の白衣をはためかせながら街で通例の合言葉を演じて歩行をして曲がり角を曲がって衛生安全局を目指す……。マラソンのように走る……。誰かに追われているつもりに至る……。周囲は朝日であり、また、いくつかの医者や山羊が進んでいる……。それは通常状態のこと。この街以外では発生していない極めて普遍的な部分。

マァイケルは独りのトレンチコート姿の小柄で背の低い髭の濃い白髪の刑事の男を指さしてからすぐに去る。突風の色を舌先で嗜めながら嗤う。おいおい、あなたのような警察があるものか。稀に居る警察官だって少しは可笑しい存在なのだ。警察官と目が合う……。警察官はにたりと笑う……。何か賄賂めいた物腰のカタブツそうな男の肩の喜悦。
「きっとヤクをやっている!」

マァイケルは曲がり角を歩く。すぐに黄色い帽子の女児と出会ってマァイケルはさっさとしゃがむ……。
「なんとも!」

自慢の白衣の裾の部分が歩道に触れていた。マァイケルは気にせず女児の両肩を握る。するすると、雫のように、素手を動かして彼女の衣服の上から……。
「ああ、うふん。できれば身体のラインがはっきりとわかる服だけを着てくれないかな」

皮膚の輪郭を確かめてゆく……。びくついている彼女を撫でてゆく……。左右から掌握するような調子……。女児の活発でいたいけな気迫の在る汗腺の風味……。無意識のレベルの中で口が大きく動いてゆく……。「ああ、君の家系図に混ざってみたい……。君と最低一人は娘を造っておきたい。その娘とも娘を造っておきたい。その娘とも娘を、娘は、娘……」マァイケルは大空を仰ぐふりを口ぶりだけで演出する。全員ロリ。マァイケルは女児の頬に唇の唾液だけで激突してゆく。「ああ、僕は君の黄ばんだ歯列が観てみたい……。いいや、それどころか、ああ、そうだな……」マァイケルは自分が額帯鏡に成った心地で彼女の口腔を確認しようと動き出す……。「今すぐに君の歯列を覗くことにしよう……」

なるほど、後方から刑事が迫って来ていることが理解できる……。優秀そうな賢明な真剣な警察官の男。おそらく巡査……。その全ての経歴がマァイケルには理解できる。女児の瞳とは鏡以上に概念を反射をし、鏡以上に真実のみを打ち上げて観ているものを精神的に圧迫する。新米の若い警官がしゃがんでいるマァイケルの尻尾のような白衣を踏んづけながら彼に右手を添えるふりをする。「失礼、お二人はどのような……」

マァイケルは自分の女児を指差して得意げに成る……。「こちら、妻です」そして妻の顔面に痰を吐き捨てて指でその垢とぐっちゃぐちゃに塗ってから走り出す。「女児だけの学校の教卓の上で会おう!」マァイケルは白衣を滾らながらいかにも保健室の教師らしい態度の大股で去ってゆく……。

そもそも、マァイケルはこの街以外の場所がどうなっているかなど知らないし、知りたくもないし、知ったところで何もないのだけれど、少なくとも、この街という概念において医者とは性別のようなものなのだ……。

つまりこの街という場所というものにおいて医者とは、医者の人間か、医者以外の人間か、山羊か、というだけの話なのだ……。

 

マァイケルは自分がどれだけ格好良く白衣をぱたぱたと落として廻すことができるのかという妄想を続けながら公園に入った。何か重要な施設か待ち合わせか面談に向かう前、とりあえずの心地で公園に入るという行為はこの街でもマァイケルしか持っていないのだ。

マァイケルは、受け取ったばかりの書類の内容を確認する……。まるで慎重そうな態度。和紙のようなせんべいのようなあるいは女児の皮膚をぺりぺりと剥がした後のような古い柔らかい湿った質感の書類たち……。内容とは衛生安全局の場所と室内の番号の羅列たち……。

なぜ衛生安全局がこの僕の自宅の住所を知っているのか。それは当然のことだった。衛生安全局はなんでもお見通し。

そもそも、この衛生安全局というものは街の中でも不明な場所に在る建物だった。明確な住所は非公開で、しかし街の医学における中心的部分だった。
「街の中で最も重要な組織の建物なんだ。隠すのは当然だろ?」

マァイケルが対面した医学マニアの男は丸い背中を誇張するように肩甲骨や鎖骨のあたりを浮き上がらせながら微熱っぽく語っていた……。

そしてマァイケルはこの公園の独りきりベンチの上であのペンウィー医師についてを想起させてゆく……。

僕はあのペンウィー医師の苗字を知らない……。知っていたとしてもどうでもいい。どこかに売るようなこともしないだろう。僕は、最低限。あの人間というものがどのような家のもとに生まれたかなど気にならないし、気にしたところで正解が降りてくるわけでもない……。とにかく僕は二か月前にあのペンウィー医師の特別診察室に入ったことがある。それは見学だった。迷惑そうにしゃがんでいるペンウィー医師は僕に尻の方向を当てていた。僕は軽い口調でペンウィー医師を呼んでみた。まるで小鳥が死に際に母親を想うような声だったと思う……。

ペンウィー医師はマァイケルの声によってしゃがみ状態を解除する。それでも医師はまだ背を彼に向けたままで、彼は、医師が着込んでいる白衣の裾の部分が赤色のカーペットの床に触れているのかどうかについてだけを議論していた。

するとペンウィー医師はまるでワルツを披露するような心地と風の方向まま彼に向かって振り返る……。いいや、私の脳に音楽的な教養は一切無い。

マァイケルは医師の様相をみつめた後に身体をのけ反らせて退場しようとする……。しかし扉は施錠済み。マァイケルはこのペンウィー医師専用診察室の出入り口扉の前で立つ。すると脳裡にて、あのペンウィー医師の独特な乾いたペースト状の声が反響してこびり付いて震える……。おいおい君、診察途中に他の患者や医師や看護師が入ってきたらそれは恥ずかしいことだろう? 診察とは医師にとってオナニーと同じなのだよ、君……。
「たしかに、そうかも」
「おや」ペンウィー医師の実際のホログラムのような声がマァイケルの声に届く。「ふふ、どうしたのかな」
「いいえ、ただ……」マァイケルは指で頁の合間を摩るように声を漏らしている。深い位置に思考を落として脳内の声に到達してゆく。ペンウィー医師の独特な波紋のようなぬつるいた口調がマァイケルの鼓膜のすぐ横の部分で流れてとろけてゆく……。
「ああ、わかりましたよ、先生」

マァイケルはそういう観念したような顔でペンウィー医師に向き直る。そして彼の白衣の中をそこでようやく視認する……。

ミントのような色の上に黄色いニコニコ・マークが乗っているシャツ……。桃色の上に葉緑体のような色の斑点が乗っているパンツ……。床に向かって生えている細い足に群がる体毛……。膝のすぐ下からは白色の靴下で隠れている。そして便所に向かうためだけの臭い焦げ茶のサンダル……。
「嘘。あなたがそんな服装だったなんて!」
「ふふふふふっふ、ふ……」ペンウィー医師は唐突に肩の部分を揺らしていた。何か身体の内側から溢れ出る種のようなものを必死に抑え込んでいるようにしか視えなかった。

それからペンウィー医師は幼稚園にて行うサンタクロースのバイトのことを思い出しながら痩せている腹を突き出して咳きこむ。
「あれ、大丈夫ですか?」声はゴム製の血飛沫のようにあちこちに広がりながら最終的にペンウィー医師のもとに届く。
「なぁ君、わたしがとうしてこのような装いに有るのか知っているかい?」ペンウィー医師はまるで男の子のような声を唇の小さい紙幣のような隙間から出す。「ああ、そうだ。それで、それというものは、つまり父のせいなのだよ、君」ペンウィー医師はまるで女の子のような声を唇の角の硬貨のような部分から出す。それからさらに保母のような情緒で右手を上げて指差しをしながら椅子に着席する。ペンウィー医師がかつて保母に憧れていたという逸話を知るものはほぼ居ない。そして、はたしていつから出現した椅子なのだろうか……。
「ええと、先生……」

ペンウィー医師は医学者のような口ぶりで室内の輪郭を押し広げたり縮めたりしている。「子供とは父親から性癖以外のありとあらゆる概念を継承して去ってゆく。もちろん遺伝的な要因ではあるのだが、それは男性という生物をただひとつの方向から覗いた時にのみ成立する議論でしかないのだよ」マァイケルは医師の声を聞いていた。マァイケルは医師の声の中の文言が視えていた。「ところで、君は山羊差別に関する学術的な見解を読んだことがあるかね。おっと、もちろん紙媒体で」
「ええと、あの、あれですか、あの、修理の、やつ? へへ」
「ふむ……」ペンウィー医師の興味関心が物理的な概念として再現されると同時にマァイケルの中から遠ざかってゆく。
「あ、あの、いや、知ってますよ。ただその、まぁ、思い出せないだけで」
「人間は思い出しというものをしない……。記憶を想起することなんてありえない。人間は常に全ての記憶を脳の細胞の中にしまっている。認識している。意識しているのだが、それでは脳がパンクを起こす。故に、脳は、つまり、人間としての人間的な人格は、知らないふりをしているだけ……」ペンウィー医師の眼球の光彩がマァイケルの瞳の奥の脳の入り口のような小さい部分に迫りゆく……。マァイケルは患者のように必死に丸椅子を探すがどこにも発見できない……。
「はは、椅子を探しているのかね。蟻のように、まったく、必死に」ペンウィー医師の素手が固いものと成ってマァイケルの皮膚に触れて流れる。「可愛い子だね、君」ペンウィー医師はマァイケルの存在感を舐めるように撫でながら自身の吐息を部屋じゅうに引き伸ばして散布している……。
「待ってください、先生。僕はあんたどどうにか成るつもりなんて無い」

マァイケルが宣言をしていると、ペンウィー医師は足を動かす気配を落とさずに椅子に座り直していた……。
「わかったよ。わかった。君はどうやら主任ではなく看護師連中に夢中らしいな。いいだろう。それもよいことだ。ああ、健全じゃあないか。うん。それじゃあ、同性愛について話すのはもうやめにしよう。なら……」

それからペンウィー医師は胡坐をかきながらバネを外すようにしてしゃべりだすが、その粉末のような声たちはすぐに枯れてしまう。室内の一部分にのみ落下して漂うだけの埃たち。ペンウィー医師が眼鏡を拾い上げるふりをしてからマァイケルを睨む。「おや、まってくれ」ペンウィー医師の声の質は、一旦、老人のような貫禄とシワをこしらえたものへ回帰してゆく……。「え、ところで、君は誰だ? 統合失調症の患者のリストに君のような男は居なかったはずだが……」ペンウィー医師は胸元にある眼鏡を探ったがそこには何もぶらさがっていない……。「いや、はは。すまない。こちらとしても、昔からの会計のルールに何か幻想的なものを描くつもりはない。本当だ。だってそれというものは、つまり、裏切りに該当するだろう?」
「ええと、先生、僕はマ」
「ああっ、まったく!」ペンウィー医師はアンガーマネジメントというものを無視して貶して程度の低いものとして認識している。発熱している声だけが室内に轟く。「今日は妙なことばかりが起こるな……」
「仕方がない……」とマァイケルが呟いた後、全ての医学的なシーンの流れが壁画として脳裡に表れて隅の部分で通り抜けて肋骨の隙間のような箇所から逃げてゆく……。

マァイケルはその一切を即興で改変しながらメモに落として無視をした後、この衛生安全局の敷地からさっさと引き取る……。

その日は一杯やった。もちろん山羊の馬乳酒……。もちろん、僕があの施設に職員として雇用されたいという意思を固めた祝福として。後に公園で二日を過ごし、後に、論文を書いていた。医者なのだから執筆をするのは当然だ。

たいていの医学者の場合は自分が執筆した論文のその執筆した瞬間を知らない。

たいていは、完成したものを後から読んで可笑しく成ったり関心したりする。誰も驚かない。誰も気にしない。誰も続きを愉しもうとしない。誰も、医学者の論文をわざわざ読み込んで頷くやつなんて。この街には居ない……。

提出した文言の中には五百回ほどあの医師の名前を登場させたが、正式な名前を記しているシーンは一つもないよ……。

マァイケルは意識を公園の中で取り戻していた。空は青色だったがコミュニケーションのように不気味で不安定で流れ続けている様相だった。マァイケルはそこに在った。まるで電源を入れられたような心地だった。頭蓋骨の表面にはまだスイッチの衝撃が余韻として残っていた。

マァイケルはベンチから立ち上がった。上空の部分がその腰の動きに連動するように移り変わっていた。マァイケルはその内部に目をやった。まさにキャンディーのようにつるりとしていて、蓋のような、空間のような、縦に広がっているような、横向きに斜めっているような、雲すら無く、しかし、揺蕩う神経質な心地の大空であった。
「お前、歯科医だな?」という岩塩のような声が唐突にマァイケルを公園の部分から追放してゆく……。「歯科医というものは常にあの器具のドリルの回転のようなニオイをだすものだ」
「あんた、刑事?」

マァイケルは振り返りながら彼の太い腕が握っている革のような黒色の権利を疑心で覗いた……。
「へへ、刑事にはこういうイカツイ感じが必要なのだよ、君……」

刑事のボルデインは逆さまに成っていた警察手帳を右手から左手に打ち返しながら改めて提示する。マァイケルはその上下逆さまの文字を読み取る行為に数分を使用した……。

 

この医師は僕を殺そうとしている……。間違いない。明確な殺意と熱意と硬い精神力を感じる。感じてしまう哀れなマァイケル……。彼は医師ではないが医師たちの心がよくわかる。わかってしまう繊細なマァイケル……。彼は歯科医ではなく保育士ではなく精神科医、つまりカウンセラー向きの男。適材適所のマァイケル……。

ボルデイン警部がやってくる。彼は猟犬のような男……。淫らで下品で誠実な男。仕事をこなすが仕事だけの人間ではない刑事……。衛生安全局の安全性を確かめて明らかにしてゆく唯一の観測者的な態度でマァイケルと共に硝子の扉を押し開いてゆく……。マァイケルたちはまるで魔法使いのような素手の動きのまま施設の内部に侵入してゆく……。硝子製の扉というものは多かれ少なかれ自動で動く性質を持っている。

そもそも、衛生安全局は安全なのか。そういう内容の論文はこん日までただのひとつも存在していない。まったく執筆されていないのだ。それは医師たちが面倒臭がっているというわけではない。衛生安全局という建物は他の箇所から覗いてみるともはや、ただの学会という評価を与えることこそが妥当だとしか思えなくなる。

そういう手順というか洗脳というか、認識の歪曲的な装置の開発を行ったのはもちろんペンウィー医師だった。

彼――いいや、ペンウィー医師に明確な性別は無いだろう。おれはあの医師がまるで学長のような風体をしているところも、きな臭い女のマッド・サイエンティスト的な服装と髪型に身を浸しているところも視てきたのだから。そもそもあの医師は医師ということ以外のプロフィールが無いのだ――という医師はこの街に在る医学の一人で、孤独を好んで集団で動く。鮮明であるような、大らかな思考の癖を持つような、数少ない人間で、金属的。そしてペンウィー医師の周囲に居る人間は、あの医師を人間以外の別の生命体で比喩的に表現することに夢中になっている。
「クレープ、というもの……」ペンウィー医師は自分が首から下げている職員証の中の名前をなぞるように口ぶりを整える。「あれをカップル二人で分ける時、はて、どうすればいいのだろう」

ペンウィー医師はまるで自分が著名な数式技能者に成ったつもりで自分の名前の羅列の部分の解読を進めている。
「意味とは時代の流れとともに変化するのだ……」ペンウィー医師は自分の股間に栄えている体毛の調子を衣類の擦れてゆく心地で婉曲的に確かめようと試みている。もはや草原だけで笑みを表現できる滑走の現代なのだから……。
「ペンウィー医師! どうかおやめください!」
「まてよあんた。この僕がここでどうにかしようと、それは僕自身の勝手だろう?」
「けれど、あの」看護師は瞳の中にそれぞれビー玉を入れて転がしているような調子で左右を叩いている。「あのお客様が……」
「なんだって!」ペンウィー医師は自分の職員証を投げて立ち上がった。「いち大事じゃあないかっ。まったく、濁流が、くる……」

それからペンウィー医師は波に自由に乗っているような調子で適当に周囲を迷いながら前傾姿勢で二時間かけて自室からエントランスホールまで下ってゆく……。
「いいもんだな。私もお前みたいに、おもしろおかしく、天才に生きてみたいものだよ」警部は椅子から少しだけ腰を浮かせて、医師の方向に両腕を伸ばし、白衣を肉体ごと食んで確かめている。「……よし、確かに、うん。新品だな」
「そうかい」ペンウィー医師は自分の両肩にかかってきたふけのような火の粉を口からの空気だけで完璧にはらった。
「おいおい。なんだよ名医。なぁ、悪いとは思っているさ、名医。へへ、へ。でもそれだけ。たった、それだけ……」一階のカフェテリアの中で対面しているそのボルデイン警部はまるで変質者のような様子でにたにたと口を忙しくさせている……。「あんたの、あれだ、ええ、なんだっけか? ペンウィー医学研究所、だったか? へっ、ん? あれをぶっ壊してから、どれくらいだ? へへ。そうだな、ああ、もう半年だな。……こんな場所に居たとはな」

警部は、最後の部分の文言を何かおもねるような態度で精いっぱい引き伸ばしながら発音して、顔を廻して、この衛生安全局の外壁を確認していた。
「まぁ、あそこはそれなりに気に入っていたさ。けれど、ねぇ」ペンウィー医師は何も空間が無い部分に肘を置いて頬を乗せた。「居場所とは移り変わるものなのだよ。警部殿。ここも、いい場所だ。清潔だ。ほら、白衣だって」

医師はまるでみせびらかすように白衣をぱたぱたと騒がせる。医師をやっている人間なら白衣など余るほど所持しているはずなのに……。
「それならよかったさ。名医」白衣を視ていない警部は、山頂に居るような態度と吐息の要領で椅子に座り直してから医師の視界に介入してゆく。「で、なんだ。お前、園未加はどうした」
「その?」

医師は身体を回転させながら警部の素手を受け入れて対話する。
「――どうせお前ら、二人でまた何か企んでいるのだろう? おい、出てこい! さっさと! はやく! ほら!」
「おいおい警部、なんだって? その、そのそのソノ、そのお……」ペンウィー医師は何かに引っかかっているように口と喉の動作を繰り返していた。「その、ええと、その園未加だって? いやいや、あんなやつ迷惑なだけだよ。だいたい、臭いし」ペンウィー医師の手術室のような窮屈で冷たい独特な個室の脳の中に園未加の長身がよぎる……。彼女の懸命な刃と鋭い目つきがペンウィー医師の政治的な神経の繊細な部分で邪魔な位置を簡単に貫く。血管がそのままその形で電子回路に至る。

遠目のマァイケルは大人を視ている女児の真似をして頬杖をついたりテーブルをこつこつとやったりして過ごしていたが、ついに何かが切れて去ってしまったような調子で肩を尖らせて喉を起動してゆく。「なぁ、あんたがボスらしいな」
「へぇ、わかるのかい? 僕が……」

椅子に戻った医師は眼球の中の小さな粒をその内部で転がすように首を揺らしていた。
「ああ、フォロワーなんだよ。あんたの」いいや、施設の中でおやめくださいなどと言われるのはボス以外にありえない……。「なぁ、おれのことを医者と呼んでくれないか? 名医……」
「そうか、ううん。ところで、君は……」ペンウィー医師は眼鏡のふちを摘まんで揺さぶりながらマァイケルに迫る。テーブルの肘の位置から雫のようなものが垂れているように視える……。「おや、君は誰だ?」粉もののような音質が一か所にのみ響く。
「マァイケル、です。ドクター」

恐れ多いような身ぶりだけで医師の厳格な顔の輪郭、たとえば頬の膨らみ加減などに上から訂正を与える……。
「マイケルだって? それは――」
「はい。マァイケル、マァ、イケル。というのが生活ですよ。先生」
「ま、ま、マ……」医師は味のしなくなったガムを膜のように伸ばして舌の上に乗せる動作で名前を連呼しようと力んでいた。「クソ、すまない、目を合わせてもらっても良いだろうか」そしてペンウィー医師は勢い良く空気を吸う。「ああ、マァ、マァァイケル……」

ペンウィー医師は自分の舌そのものを引き伸ばして滑らかにするような手つきの口遣いでマァイケルの名称をさすった。「ああ。君の名前は発音がしづらいな、まったく……」
「すみません。へへ」

そしてマァイケルはいま確かに遠心分離器が欲しかった……。おれが発熱型分度器を欲しいと思ったのは何も今回がはじめてというわけではない。
「ふうむ。一理ある」
「そうだ。だからこそ、安全とは危うい概念だ」気付くと警部が何かの議論をテーブルの上に打ち上げていた。「皆が安全と垂れているうちにその認識は滑ってゆき、やがて本来の、つまり民衆の大半が認めて国がハンコを押すような安全的概念とはかけ離れた倫理観の欠落の存在へと至ってしまう可能性があるのだ」
「ふうむ。一理ある」

ペンウィー医師はテーブルの上の黒色カップの珈琲を嗜んでいた。珈琲などというものがどこにあるというのだろう。マァイケルは周囲を確認していったがそれらしい看板は無かった。おれに珈琲を視認する資格などあるのだろうか。「認識とは曖昧なものだ。集団の全ての人間が偏った認識を持っている場合、それを修正する人間は誰なのか。それは君のような存在だ。つまり、集団には居ない人間。集団は、常に集団のすぐ近く人間が居ないことを日常的に危険視して対策を取るべきだ。それこそ、他国に渡ってしまった血液検査を取り返す方法を論じるよりも、側弯症を治してあげることよりも大切だ。組織としては、だがね。ふふん。まぁ、我々は幸運だろう。……うん? 医学的な人間が幸運という言葉を使用することに疑問かね? ふう。まぁいいだろう。すぐに理解するさ。それは軽蔑なんかじゃあない。これは軽蔑的な態度ではない。ふふ、警部。軽蔑なんてしないさ。少なくともこの組織としては、だがね」
「おれは医者ではないのかもしれないな」あんたが何をしゃべっているのか、おれはよくわからないよ……。ペンウィー医師が議論を展開しなおす。「とにかく、君のような横向きの矢印が定期的に介入し、検査をし、調査をして選定することは貴重だ。……さて、すぐに取りかかりたまえ」ペンウィー医師は硝子の向こう側の景色を貫くように自慢の指を差す……。「これはすべて我々のためだ」施設内の全ての医者の指の隙間に注射器の形と硬さとめり込んでゆく感触がよぎって通り抜ける……。「この局とは常に、道具じみてなくてはいけないのだよ……」彼の言葉そのものが驚異的な侮辱の彼方からやってくる……。

 

マァイケルは唐突に自分の方向に流れて来た湿っぽいか細さを誤魔化すために男児を演じていた。すでに入力されていたかのようなプログラム的な介入の強引な心地……。介入直前の融合の心地。医師と警部の眼光が急回転をしているような調子で僕の脛骨に入ってゆく。まるで二人から摩られているような調子。ペンウィー医師がその中でさらに激しく加速して精神的な部分のマァイケルに接近する。「君にこの子が処理できるかね?」
「彼女を? 僕が――」マァイケルは手術台の上の女児を眺めていた。意識は希薄で、白いシャツは桃色の斑点模様。ジーパンで、膝が出ていて、薄緑色の靴を履いている。愛しの彼女。愛すべき彼女。小さな彼女。マァイケルはその彼女を眺めた途端に自分がまるでたった独りであるような錯覚に至る。周囲の人間の気配や機材の調子の電子的な空間把握の心地がすっかり消失していたのだ……。意図的にそれらの感覚が休息を取っているようだった。

マァイケルはペンウィー医師を無視して医療的メスを握ったがそれすらも無視してゆく。まるで空気の上に置いて去るような心地の後、自分の鞄から専用の器具を取り出してみせつける……。それは手錠を歪曲させたような見ためであり、観察していたボルデイン警部はまるで映画を観ているような調子を胸部で造っていた。

マァイケルは無視をして女児に器具を挿入した。彼女の二つの唇を退けるように器具を押し込むと、鉄の銀色はすぐに歯列をむき出しにさせた。女児が悲鳴のような声を上げていた。それは悲鳴を出すことができない恐怖心からくる悲鳴だった。
「おい、悲しんでいるのではないか?」

精神的な心理的な科学的な立体的な行使によって対面している患者の秘密の部分にすら介入している医者にとっての及第点のサイン……。
「これは……」マァイケルは女児の顔を眺めた。女児の丸っこい顔の中には水滴のように涙や汗が溜まっていた。玄関先に放置する植物の鉢植えの下に置くあの皿に似ていた。「君、痛かったら右腕を上げてみて。すぐにスーパーヒーローが飛んでくるから!」

マァイケルは右腕がない女児に向かって誘う……。女児の顔が湿って潰れて小さく成ったように視える。実際は同じ面積。女児に表情というものは少しも無い……。顔で感情を造ったところで、女児は垢によって何も伝えることができない。そういう素晴らしさや尊さを無影灯だけが均等に表現している。
「どうしてわたしだけなの? どうしてわたしには医者がいるのよ!」
「でも医者は助けてくれるでしょう?」マァイケルは女児を誘う……。
「あなたが? 笑わせないで」
「どうして? ギャグは愉快でしょう? それに必要」
「き、器具がはまっているのよ……。き、器具が」
「へ、そりゃひどい!」

マァイケルは納得した調子だったがそれでも彼女の唇の肉を切開して千切る。ペンウィー医師とボルデイン警部がその様を上の方向から見守る。上下から流れてゆく鮮血は臭いを散らしながら彼女の口の中に入る。ペンウィー医師とボルデイン警部が胸部を海老ぞりのように浮つかせるようにして空気っぽい声を一瞬で漏らす。彼女が出血している。歯列を強固に閉じたとしても、腹の部分を力んだとしても、拒絶をしても、その小さな隙間や大きな穴の部分のふちを赤色の染めながら入ってゆく……。
「ぐげっ」

やがて女児の足が停止する……。素手が停止する……。瞳の中の色彩が深海のように至る……。生物的な沈黙に至る。腹が数回へこんだり膨らんだりして鳴く……。マァイケルの鼻孔が彼女の膀胱の内部の臭いをこの手術室の中で確認する。彼女の股間を確認するマァイケル……。
「先生、どうですか?」
「漏らしているな」

マァイケルは自分の監視から離れた素手を彼女の方向に落とす。切り口から血が垂れ、勢い良く彼女の口に流れる。彼女の腹の部分がさらに起伏する。それは起伏ではなく体躯そのものが上の方向に飛び上がっている。マァイケルは慌てているふりをしながら彼女の肩の部分にメスを刺し込む。彼女の飛翔が過酷に至る。まるで手術台の上から追放を受けているような機械的な痴態。ついに彼女の大きく開かれた口から薄赤色の液体が打ち上がってこの手術室が女児の胃の内部によく似た卑猥な臭いに到達する。
「先生、これは?」ペンウィー医師が助手執刀医のふりをして覗き込んでくる……。
「ふむ、これはおそらく」マァイケルは首を摩る。その顔の部分から飛び出てきたボルデイン警部は女児の口を眺めた後に彼女の瞳を観察する。眼球は、それこそその部分だけが上方向に起伏したように突っ張っており、瞳が、そういう弾頭に成っていた。
「ああ、わかった。これは自分の血の臭いで嘔吐しているのだろう」マァイケルが女児のまだどろりと重たい口元にキッスを圧す……。

それからマァイケルとペンウィー医師とボルデイン警部の三名はその場の全てを無視してカフェテリアに逃げ戻る……。それは駅から眺める発進した車両のように……。席についてすぐに医学に関する議論が展開される。まるでつい先ほどの記憶や記録や事実を埋めるように後から、後から新しい事実や考え方を。ひしゃげているような脳の部分に適当に挿入して誤魔化してゆく……。
「いいかい、医学というものには味があるのだ」ペンウィー医師が司書のような指の動きを再現する。「手術の味、切開の味、診察の味、カウンセラーとカウンセリングの味。そして、医療的なそのものに対する魅了の味。医師とは、そういう多様な味を繊細に感じ取りながら事柄を進めているものなのだ」ペンウィー医師は睾丸の動き、というよりはシワの一つ一つの伸縮自在な態度を何もせずに感知し尽くしていた……。

そうして、三人は学徒に至る。また、二階の手術室にて雄の山羊の精液採取に従事している……。
「ほほうっ。この山羊というものは立派だな、まるで怪物だ。人間ですら扱うことに困難を意識するのでは?」ペンウィー医師は隣に立っているらしい助手のような女に下の方向から窺うような口ぶりをみせつけて無害を主張していた。
「いいえ、名医。じつのところ、それほど手厳しいわけではないのです。ほら、私たちはプロフェッショナルですから」
「君たちだって、独特の鼻があるのだもの……」ペンウィー医師はひとまず最初の一匹の山羊の精液採取を終了する。山羊が自分の股の間に首を伸ばしてペンウィー医師の部分までやってきて礼を述べる。
「いいや、かまわないよ。さっさといきたまえ」

山羊はさっそうと手術台から降りて退室してゆく……。
「さあ次の山羊だ。はやくしないとあの二人に尻を殴られる。それに、昼飯代も……」
「はい名医」おれがどうして彼のことを名医と呼んでいるのか気になるかい……。それは趣味だ。ここと同じ……。

ペンウィー医師は次に入って来た山羊の陰茎を掴む。途端に臭いが伝わってくる……。「む?」ペンウィー医師は山羊の股の部分に顔を突っ込んで観察しながら鼻で呼吸をやる。「何だねこれは……」鼻から感じる臭いだけが自分の脳や身体の中の電子的な回路を太く硬く長くしてくれているのが理解できる……。「水族館の非常用階の空間によく似た臭いだ……」
「医師、はやく処置を」
「焦るな。シコりはゆったりと、素早いのは射精の時だけ」

ペンウィー医師は彼を丁寧にしごいて射精へ至るが、ここだけのはなしとして、ペンウィー医師自身も密かに射精のような快楽――正確には射精に相当する快感を――味わっているのだ。故に白衣は染みて色が濃く成り、重たくなってゆく影響で裾の位置が少し伸びている。ペンウィー医師は今しがた自分が吐き出させた山羊の精液を眺める。そこの中には五十セント硬貨がひとつ……。
「ば、ばかめっ! こいつ、隠していやがった!」という声たちが手術台を震わせてゆく。硬貨の内部の横顔すら驚いている。ペンウィー医師は精液の中から精液ごと硬貨を取り出して自分の白衣の内ポケットに押し込んで上から叩く。「ぬくいぞ、お前」

そうしてペンウィー医師は全ての山羊の精液採取を完了する……。廊下に出てから白衣のずれを整えると一匹に山羊に出くわす……。
「あん、何かね」
「すみません名医。先生。僕はどうしても性倒錯でして、あと、理科室も、やっぱりはじめてであるようでして、古来から僕の一族は立体的な概念に添って成長していましたが、僕は違うようでした。まるで朝日なのです。僕につけられた名前も違います。僕には血が無いのです。在ったとしてもそれは冷たいのです。はじめてで」
「そうか」ペンウィー医師は山羊の額を撫でてやる。そして山羊の両耳に何か黒いものがはまっていることに気付く。「それは、イヤホンかい?」
「ええ。そうです。これのせいで、今朝、医者にひどく言われて……」
「医者……」

山羊は喪失感を具現化してペンウィー医師の脳の周囲を取り囲む。ペンウィー医師は山羊から手を離して立ち上がって首を傾げて熟考の中に居るというアピールを存分に楽しんでから見下ろして口を開く。山羊の飽きれているような瞳が映る。
「ひとまずそのインターネットというものをやめるというのはどうだい?」
「えっと、たとえば?」
「大半の投稿者や配信者は自身のサムネイルやタイトルに気を配って、まるで数学者のような勢いで数字を少しでも伸ばそうとしているが、その大抵のファンはサムネイルや動画タイトルを確認していないのだよ」

ペンウィー医師のサーフィン的な思考や価値観が一斉に山羊の脳の中を満たして潤う……。それは彼ら彼女ら山羊たちが暇をしている存在であるという事実から成されている考察で、対人関係や人間心理学に精通している医者連中も同様の声を出しているが、本当に生計をたてている医学の人間たち、つまり私たちのような存在は、そもそも、インターネットというものを使用したり考察することは一切せずに、執刀だけを続けている……。

ペンウィー医師は山羊の首の部分を摩っている。すると素手の中の山羊がまるで自分の身体を極小の山羊に変換しているような動きで跳ねてみせる。「ああ、そうかも!」山羊は、何か、晴れ渡っているような調子で唐突に両耳のイヤホンを抜き、「こうして音楽を聴くよりも、イヤホンの内側を確かめたほうがよっぽど効率的だ! そおれっ!」という呪文のような判別不可能な態度と共にイヤホンの柔らかいあの部分を鼻に押し付けて呼吸しながら廊下のあるべき姿へと進んでいった……。
「ところでなんだか」ボルデインは自分の声がおそろしく小さく、故にこのペンウィー医師の右肩に顎を乗せなくてはいけないと思い込みながら会話をしていた。「学生鞄を買い与えてやることが、そんなに親として誇らしいことなのかい?」
「もちろん。誇らしいとも。その親の中のみで完結するみじめで無意味な誇らしさ」

互いの指がやはり学士のような繊細な動きで円を描く……。

それから二人は廊下の中心の位置で居酒屋のように叫んで笑う。二分後に置くの室内からマァイケルが飛び出してくる……。「ひどいところだった!」
「どうした親友。医者よ……。まるで、何かひどいものでも観たような……」ペンウィー医師はマァイケルの白衣を上の方からぺたぺたと触ってゆく。「よし、白衣は新品」
「やめてくれ名医。まるで不快なのだよ。僕は。僕はぁ」
「はは、そうかい」ペンウィー医師はそこらに存在している焦げ茶色の椅子に座り込んで右脚を上に乗せていた。「なぁ、君は山羊の腹にメスを入れることができるかい?」

まるで女将のような様相……。「無茶を言うなよ先生、おれは歯科医だ。あんただっていっただろう? おれは医者だぞ」

マァイケルの唇の周囲に煙のような熱気が舞う……。
「今は極めて医学的な話をしているのだがね」
「へ、へえ? じゃああんた、何。おれに山羊を解剖しろと?」

ペンウィー医師は何もしゃべらずに頷いた。この医師が何か人間らしい概念を口にしていると誰が照明できるだろうか……。
「いいや、君は……」ペンウィー医師の声の圧力だけがマァイケルの周囲に迫ってより圧迫してくる。「君は、山羊差別主義だね?」

ペンウィー医師がまるで教授のように見抜いてゆくと、途端にマァイケルは何かに懇願するような調子で目元を湿らせる。
「別に何かを決定しているつもりはないよ。ただ、君の中身を視ているだけだ。なぁ、君の問題は――」
「先生、待ってくれ。先生。僕は先生を信じている。いいや、医者は差別にも平等であるべきだ。少なくとも、そう。仕事としては。ねぇ?」マァイケルの媚びているような女々しい声だけが施設の全ての壁に流れてゆく。
「君の問題は」というペンウィー医師の校内放送のような音質が極限まで引き伸ばされた調子で耳に迫る。「問題は、差別的思想を持っていることではなく、差別的思想をもとに活動を行ってしまったことにあるのだ」それからペンウィー医師はマァイケルの言い分を無視して検事のように議論を展開してゆく。「私はね、マァイケル。山羊の射精に携わると、その山羊の記憶を読むことができるのだよ」
「嘘だ」
「いいえ……」

弛緩に至ったマァイケルは、もはや、自分のほうでも察知できないぐらいの次元の速度のような流れによって、ペンウィー医師のことだけをただ指差ししていた……。
「山羊差別的活動には厳重な罰が設定されている。それは憲法だの法律だのといったものとは無関係に進む事柄だが、それらよりも誠実で強制力に富んだひとつの命令の完成形だ。たとえば窃盗で事情聴取を受けている中で山羊差別的発言が認められれば射殺は可能に成る。たいていの警察官は射殺を狙っているため面倒な容疑者には山羊差別的発言を誘発させたがるものだ。……なぁ警部」
「警察学校でそのテの授業があったのはそういうことか。特別授業料として取られたけど」
「そういうことだ。つまり、山羊差別的活動とは秘密裏に進行しなくてはならない。ばれてはいけない。悟られることこそが命取りなのだ。彼らはすでに賢明なふうに教育されているし、今後もそういう態度で向かうべきだ。山羊差別的活動を誘うあまり、自身が山羊差別的発言をしてしまっては意味がないのだからね」
「まったくふざけた話だ」マァイケルはあっという間の時間の流れと、それらによる膨張を憐れむ心地で立ち上がった。「安全という話はどこに行ったのだ? ここは? この施設は道具に成るべきじゃあないのか? なぁ、医者ども」
「安全はどうなった。それなら、今、確かめているじゃあないか。なぁ、警部」

するとボルデイン警部が警察官のようなホリの深い顔に至ってマァイケルを刺す……。「君は児童性愛者なのだろう?」

インターネットに女児の画像を投稿するなど絶対に駄目だ……。その行為は政治的活動と同等の愚行なのだから。
「わかった」マァイケルはテーブルの上を叩いて肌を鳴らす。「なら僕はもう行くよ。今日はひとまず冷静になることにする。僕は歯科医に成らなくてはいけないのだ。医学に努めるということだ。わかるか」
「わかんないっ。でも、過去と未来は一緒なのかも」

ペンウィー医師は女児のような声を空間の全域に響かせていた。そのタオルケットのような流動体じみた室温が一斉に鋭く至ってマァイケルの耳に届く……。「ふふ、ふっ、小児性愛者の諸君よ……。医師は嘘をつくことはあっても裏切るようなことはしないものなのだよ、小児性愛者の諸君……」ペンウィー医師はまるで民衆に投げかけるような大儀そうな肩幅だった。
「ああ、おれは今まさに裏切られた気分だよ。ペンウィー・ドダー」

マァイケルの慟哭が急速に後方の一点に向かって終息するように……。飛んでゆく……。薄暗さの中に漂って薄まる……。まるで科学者のような歩行。最後まで突き進むような意思のような勢いのようなそういう過激……。廊下を渡ってゆく心地。カウンセリングのように無限に続く廊下たち……。最後まで鼓膜のふちの部分に絡みつている……。
「衛生安全局は君のような非安全を衛生的に排除する」ペンウィー医師とボルデイン警部の左右の声が重なって宣言に至る。途端に衛生安全局の外壁が真新しいゴム製の桃色に至る。マァイケルは性的な部分でそれらを内側からしっかりと観察する。
「いいえ、先生」マァイケルは男性同性愛者の図書館司書のように呟く。「争いは何も生まない……」煙草を吸っているような唇で息を慎重に吹いてゆく。「安全は何も生まない」ペンウィー医者よ、女児の肉体を表現することこそが、この世で最も難しい文学的活動なのだよ……。
「なるほど、真面目だ。君は」ペンウィー医師の唾液の玉のような喘ぎ声が肩の部分からペテン師のように鳴り響く……。「マァイケル。マァァァイ、ケル……」響いて、響いて、マァイケルの脳や血管の仕組みたちが電子的な回路と同一に成ってゆく……。「だから死ぬのだ。君は」

2024年6月20日公開

© 2024 巣居けけ

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