部屋からヨシイさんが出て行き、ステンレススチールのドアが勢いよく閉まった。不吉な音があたりに響いた。
部屋に侵入してきた二人の男を僕は眺めた。一人は数日前にヨシイさんが相手をした、スヌープ・ドッグのような男だった。
もう一人は見覚えがない男だ。男の身長は一八五センチメートルくらいで、見事なスキンヘッドだった。
スキンヘッドの男は、服の上からでもはっきりとわかるくらい筋骨隆々で、上半身を包む黒いシーアイランドコットンのニットは隆起した筋肉ではち切れそうだった。下半身はテーパードが効いたトラウザーズを穿き、よく磨かれた黒いストレートチップの革靴を履いていた。フォルムからしてチャーチ・コンサルのように見えた。左腕にはリシャール・ミルらしき腕時計のカーボンケースが鈍く光っている。男はどことなく、ドクター・ドレーに似ていた。
彼らはドアの鍵を回し、チェーンロックをかけ、土足のまま玄関を入ってすぐのダイニングキッチンの中ほどに進んだ。
「あの子のことをつけてたんだ」スキンヘッドの男が言った。「業者じゃあるまいかと睨んでね。案の定だったわけだ」
僕は便宜上、スキンヘッドの男をドレーと呼ぶことにし、もう一人の男をスヌープと呼ぶことにした。
「まあ、一回座ろうか」スヌープは奥の待機部屋に向かって歩き出した。
ドレーも同じ速度で歩いた。そのあとに続くほか、僕には選択肢がなかった。
ドレーとスヌープは待機部屋の奥のソファに腰をかけた。僕は手前のソファに座り、ローテーブルを挟んで向かい合う格好になった。
「安物だな。もっといいソファを買えよ」スヌープは言った。「それなりに稼いでるだろ?」
適切な回答が見当たらず、僕は押し黙った。脇から汗が垂れたのを認めた。
「この曲、なんていうの?」スヌープは髭をさすった。
アート・ブレイキー&ザ・ジャズ・メッセンジャーズが演奏する、『チュニジアの夜』がリピート再生されていた。
「チュニジアの夜という曲です」
なんとか僕は喋ることができた。久しぶりに声を発したような気がした。やっとのことで絞りだした声は、井戸の底に向かって話しかけたように響いた。うまく声を出すことができなかった。
「躍動的で悪くない曲だね。音楽はぜんぜん聴かないんだけど」
ヒップホップも聴かないのか気になったが、そんなことを訊く権利は僕になかった。
黙っていたドレーがおもむろに立ち上がった。
「おまえも立て」ドレーは穏やかに言った。
僕がソファから立ち上がった瞬間、右わき腹を殴打された。鈍く重たい激痛が身体を駆け抜けた。
同じ場所をもう一度殴打された。僕は膝をついてその場に崩れ落ちた。酸っぱいものが込み上げた。かつてビルを解体するときに使用した、前時代的な破砕用の鉄球を身体に叩きこまれたように感じた。右わき腹が吹き飛んでしまったのではないかと思った。思わず左手でさすって右わき腹がまだあることを確認した。呼吸ができなくなった。激痛で意識が遠のいた。
かろうじて『チュニジアの夜』が流れていることを認識できた。ウェイン・ショーターによる、テナーサックスのソロが吹き荒れていた。地獄の業火に身を焼かれているように感じた。
「わかっているとは思うが、今のは軽く撫でたにすぎない。うっかり肋骨が折れてしまわないように、細心の注意を払いながら」ドレーは僕を見下ろして言った。なんの感慨もない目をしていた。
悪い冗談だろうと思いたかった。暴力が支配する環境に彼らは身を置いていることを理解した。
「さて、我々は君に一つ要求をする」ドレーはソファに腰をかけた。「たった一つだけだ」
僕は床にうずくまり、右わき腹を抑えて話の続きを待った。子どものおもちゃにされたダンゴムシのようだ。脂汗が無数の玉となり、額から噴き出しているのを認めた。脇、背中、首筋、身体中がべったりと重たい汗でおおわれていた。
「我々の傘下に入ってほしい。どうやら君はとても丁寧に、それでいて合理的に仕事をしているようだ。たしかな手腕をそなえ、安定的に利益をもたらす者と我々は仕事がしたい」ドレーは言った。
「傘下というと、具体的にはどういうことでしょうか?」僕は声を絞りだした。右わき腹が悲鳴をあげるように痛んだ。
「俺たちは君の後ろ盾になる。こういうことが起こらないようにね」スヌープが言った。「その対価として、君は俺たちに手数料を納める。シンプルな話だ」
つまり、みかじめ料を納めろということだ。
「とは言え、一方的に条件を押し付けることは我々の本意ではない。我々に納める手数料は君が決めてくれ」僕を殴ったときに乱れたニットの裾を伸ばしながらドレーは言った。「君が決めるんだ」
昼下がりに紅茶を飲むときのような目でドレーは僕を見た。どんな感情も伺うことができなかった。
「わかりました」僕は床にひざまづいたまま言った。「少し時間をください」
「いいだろう、時間を与えよう。じっくりと考えるといい。考えがまとまったらここに連絡してくれ」
ドレーは名刺のようなカードを差し出した。カードには電話番号だけが記載されていた。どれくらいの猶予があるのかは告げられなかった。
ドレーとスヌープはソファから立ち上がった。スヌープが僕の前にやってきて、俊敏な動作でかがみ込んだ。
「前祝いをしようか?」スヌープは分厚い唇をめくりあげ、歯をむき出しにして破顔した。
スヌープは僕を立ちあがらせると肩を組んできた。そのまま僕を引きずるようにして、シンクの横に置いてある冷蔵庫のほうに歩いた。冷蔵庫の隣に置いてあった、ハイネケンの瓶ビールを二ダースぶん取り出した。
スヌープはハイネケンを片っぱしから栓抜きで開け、丁寧にシンクの作業台の上に並べた。床にハイネケンの蓋が飛び散った。それからシンクの栓を閉めた。一連の動作を僕は黙って眺めた。
「こういうのは勢いが大事だからよ」スヌープは僕の後頭部の髪の毛を無造作に掴んだ。
そのまま勢いよく頭をシンクに叩きつけられた。薄っぺらいステンレススチールと頭蓋骨が力任せに衝突した。けたたましい金属音が耳をつんざき、額に痛みが走った。目の前でフラッシュが炸裂したように感じた。目の奥まで痛んだ。
シンクに額を押さえつけられたまま、頭からぬるいハイネケンをかけられた。
「出会いに感謝するぜ」スヌープは言った。
ハイネケンの瓶は次々と空になり、床に投げ捨てられた。シンクにみるみるハイネケンが溜まり、次第に僕は呼吸をすることが困難になった。酸素を求めていたが、誤ってハイネケンを飲んでしまった。気道に入り激しくむせた。その瞬間、後頭部を瓶が鋭く打ちつけた。
「味わえよ」後ろからスヌープの声がした。
奥の部屋でリピートされ続けている、『チュニジアの夜』がうっすらと聴こえた。アート・ブレイキーが怒涛のドラムソロを爆発させていた。ナイアガラ・ロールが暴力的な渦を生み出している。体内から急速に酸素が欠乏していくのがわかり、気が遠くなった。溺れる――。
意識が飛びかけたそのとき、後頭部を押さえつけていた手が離れた。僕はシンクに溜まったハイネケンの池から勢いよく顔をあげ、またもや膝から地面に崩れ落ちた。
身体中の細胞の力を合わせて、必死で体内に酸素を取り込もうとした。うまくできずに不気味な風切り音のような音が鳴った。
僕が少し落ち着いたのを見計らって、スヌープは口を開いた。「気に入ってもらえたかい? 俺たちの前途を祝したビールかけを」
「いい返事を期待している」ドレーはドアに向かって歩き出した。
スヌープもそのあとに続きながら、僕の目を覗き込んだ。スヌープの目が『おまえの動きのすべて、おまえの歩みのすべてを、俺は見ているぞ。』と言った気がした。
彼らは来たときと同じように鍵を回し、チェーンロックを外して部屋を出て行った。ドアが閉まると鈍い音が響き渡った。
僕は『チュニジアの夜』の再生を止めた。床に転がった二ダースぶんのハイネケンの瓶と蓋を拾い集めた。痛めつけられた身体をなめくじのように引きずりながら、彼らが土足で歩きまわり汚れた床と、シンクのまわりを簡単に掃除した。
ハイネケンまみれになった全身を綺麗にする気力はなかった。服を着たまま、バスタオルで身体を拭いた。着ていた古着のゴーストバスターズのTシャツと、リーバイス501からはひどい臭いがした。身体中がべたついて、樹液に群がる虫のような気分になった。
しばらくの間、片膝を立てて壁にもたれ、ダイニングキッチンの床に座っていた。冷静になるにつれて、次第に恐怖が身体を支配し始めた。ヨシイさんに連絡する気にはならなかった。
そのままの格好で、ビーチサンダルをつっかけてマンションを出た。マンションの東隣の一階にある、炭火焼きダイニングに行くことにした。部屋に一人でいることに耐えられなかった。
「いったいどうしたのですか?」
店の女はビールに濡れた僕を見て驚いた。ひょっとして店に入れてもらえないのではないかと思ったが、いつも通り右側の手前の席に案内してくれた。女の見事な金髪と、両耳にびっしりとつけられたピアスが蛍光灯に照らされて目に刺さった。目の奥が痛んだ。
「輩にでも襲われたんですか?」店主は少しおどけたように言った。
「セ・リーグの優勝記念でビールかけがありまして」
店主によく冷えたハートランドを出してもらった。店主の短髪も見事な金髪だ。遠慮のない金髪、耳にびっしりとつけられたピアス、おまけに鼻につけたピアスが鋭く光った。頭が痛んだ。
七輪で肉を焼いて食べた。ハートランドを瓶のまま飲んだ。何人かの常連がやって来て、店主と店の女も交えてダーツに興じた。カウントアップで負けた人がテキーラを飲んだ。手が震えて満足にダーツを投げることができなかった僕は、負けに負けた。テキーラを何杯飲んだかわからなくなり、ひどく酩酊して店を出た。
部屋に戻ると、着ていた服をすべて脱いで洗濯機に放り込んだ。やっとのことで熱いシャワーを浴びると、身体の震えがようやく少し落ち着いた。歯を磨いてからベッドに入った。
時刻は二時をまわっていた。長い一日だった。屈強なアメリカンフットボール選手に力いっぱいハンマーで頭を殴られたように、深い眠りに落ちていった。夢はなにもみなかった。
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