おれは常に蠢いていると噂の精神疾患に脅かされた一人の患者への観察的聞き込みを終え、この第三大学附属病院の長い廊下を歩いていた。ここには軽症から重症の患者がとにかく揃う。おれはそんな患者たち、大抵は黄色のソファーに腰掛けている患者たちに握手を求めながら先を進んだ。そしてその中で一人の女児の患者に目が留まった。彼女は顎に滴る唾液から悪臭をまき散らしていた。腐った卵のような臭いだ、わかるだろ? さらに彼女は腰を六十度ほど前に曲げたまま、後退で歩いていた。彼女のような犠牲者はきっと、国境を背にしたまま、国境にゆったりと向かう。
第一大学での奇妙な帝王切開事件からすでに三か月経っているが、あの、ここより大きな大学は機能停止解除をする気配が全く無い。きっと中ではもっと重大で世間や街には晒せない怪物まがいの大事件が発生しているに違いない。
おれは次の予定をメモ帳の中で確認する。白髪の自分の髪を便所の備え付け鏡で確認しながら、右目の動作だけで次の項目を視る。おれの左目はすでに身体の全体を捕えている。
ペンウィー・ドダーとは医学において名手だ。彼は何億もの資金を稼ぐ体験をした後に医学界隈に入り込み、さまざまな分野の手術をこなしてきた。しかし彼が最も得意とする切開は腹の切開だった。彼曰く、『脳を開くよりも、眼球の膜を取り除くよりも、腹を裂くことに興奮を感じる。そして私は医学と一体化する』らしい。だからこそおれの足は至極自然にペンウィー・ドダーの専門の医務室へと向いていた。彼は十五歳の時に発症した特殊な潔癖のために、特別な部屋とその部屋を完全にコントロールできるだけの権限を、この大学では得ている。
おれは、少なくともおれの目には黄色に見えている引き戸の扉を無言で開いた。彼ほどの無重力的人権の持ち主になれば、おそらくおれの存在にはすでに気付いているだろうし、むしろ、そんなおれが扉の前で無意味に入室の挨拶をするかどうか試しているだろう。
「あんたがペンウィー・ドダーかい?」おれは室内に一歩入ってから轟かせる。
「ああ。君は試験の記者だね?」彼は部屋の一番奥に位置する白い机とその椅子に腰かけ、丸い眼鏡を掛けていた。短い外はねの黒い髪だった。衣服に関しては、上は薄青色のワイシャツと黒のネクタイに、白衣、下はネクタイと同色のスラックスだった。
彼は数秒だけ意地の悪そうな顔で、入室して手前の丸椅子に掛けるおれを睨んだ後、右手で持っていたボールペンを捨てるように机に垂らしてから、いかにも数式や薬品での実験が好きそうな高い声で話し始めた。
「旨い珈琲というのは、飲みたがりの人間を引き付ける。故に彼らは無意識に珈琲を飲んでいる。最も苦い珈琲を飲むと、次に喉に流したくなる液体に麦茶が思いつく。そして氷のたくさん入った麦茶をゴクリとやると、次に手持ちのタンブラーに入れたい飲み物に、ただ苦いだけの珈琲を挙げる。しかしここで注目したいのが、珈琲は飲み物として認識しているのに対し、麦茶はそうではない。彼らは麦茶をただの液体として認識し、珈琲を、どんなに苦かろうと甘かろうと、最高の飲み物として認識している。
ならば、これはどうか。とある海外の拷問官兼医学者が開発した、人間の意識を覆す精神実験がある。これは、スパイ的活動をやっていた被験者が主張する嘘の身分にこちらが調子を合わせ、被験者自身に嘘の身分が本当であると錯覚させ、意識をあやふやにさせた後に、違法な薬で本当の身分を聞き出すという実験。この実験では被験者の意識が無くなる一歩手前まで到達し、あやふやになり、もはやこちらの提示する身分に全身全霊で肯定するほどにまで落ちる。本来ならここで被験者に対し、自分は拷問官のなんでも聞くし、なんでも話すし、なんでも肯定するマーシンのような存在だと認識させ、こちらが知りたい情報を話させる。ではこの実験を使い、被験者に自分は重度の珈琲マニアであり、それ以外の液体はたとえどんな薬品であろうとただの無害な液体に過ぎないと思い込ませ、そうした後に致死量の熱湯を飲ませるとどうだろ? ここでいう被験者とは、死刑判決が下されて久しい犯罪者であることを忘れてはいけない。これによって死刑は速やかに執行され、面倒な首吊り後の確認作業や、作業にたどり着くまでの退屈な時間を過ごす必要が無くなるはずだ。
この説、および街の刑務所から数人の死刑囚をこちらに寄越すよう進言する書類を学会に提出した時、私は人生で最大の嘲笑を食らったんだ。ある者は靴を投げ、ある者は唾を吐いた。もちろん私に他人の唾を肌で感じる趣味なんてないから、その時ばかりはレインコート・コーポレーションに警備を頼んださ。彼らは医学界隈やそれに属する人間を神のように崇めている節がある。本人らは無自覚で、問いただしても否定するが、前の大学附属病院での帝王切開事件の騒動の時も、あそこまで身を投げ出せるのは崇めている証拠だと私は思うね」
そこでペンウィーは一息ついた後に、手元のペンを改めて空で一回転させた。
「さて、全ての書類を提出し終えた後、私は一人の別の医者と共に手術を行った。もちろん助手連中や麻酔係、その他の技師の連中は私を疑問視していたし、中には明確な殺意を孕んでいた人間もいただろう。しかし私はその日、爽快で明快な心を持って手術に臨むことができたんだ。なんてったって、もう一人の医者というのがブルボカプニンだったからね。精巧な一級医師の彼は歴史でも類を見ない堕胎切開医だ。彼の手に掛かれば、私をメスで刺し殺そうとたくらむ人間の眉間に、本人が私に開けようとしている穴の数倍は大きな穴を開けてこの世から退場させることも容易だろう。だから私は安心して切開の感触を全身で感じ、安心して施術を進めることができたんだ。
医学の道を行く人間は大抵血潮に飢えている。だからこそ手術にて使用する電子機器は最低限でいいんだ。医者どもは患者の血肉を直接刻み、直接揉む感触に飢えている。
しかし問題というものはすぐに発生してしまうものなんだ。だが私はうろたえなかった。なぜならブルボカプニン医師が居たからね。麻酔係が隠しのメスを私に振りかざした瞬間、ニッパーで切開部分を持ち上げていた彼はそれをすっぱり離して、麻酔係にローキックを食らわせた。激痛に歪んだ麻酔係はよたよた歩きで次々とワゴンをがしゃん、がしゃんと倒していった。私は弱っている麻酔係を片目で睨みながら、心のうちではガッツポーズをしていたよ。ええ? この歳でガッツポーズはキツい? いいや、そういう事が許されるのが心のうちであり、妄想の中なんだ。……麻酔係は確実に弱っていた。しかしまだ気力があったんだ。よたよた歩きの先でつかんだ医療用ハサミをこちらに投げてきた。私は今度こそは的中してしまうかと、少しだけひやりとした。しかしブルボカプニンは優秀だ。顔面でそれをキャッチし、首の動きだけで跳ね返して見せた。私は思わず歓喜の声を上げたよ。その反動のせいで施術中だった患者の動脈を傷つけてしまったがね。ははっ。
両目を負傷した麻酔係は捕獲したばかりの野生動物のような呻き声を上げながらようやく倒れた。事切れたことが遠目でもわかった。私は施術を中断してブルボカプニンと手を取り合った。しかし災難とは続くものなんだ。その瞬間に手術室の扉がぐおんと開かれ、医院長が入ってきた。彼は低くも透き通った声でこう言った。『ここで殺害予告、およびそれの実行を受けた人間は?』とね。
こうして我々は手術室を追い払われた。そういえばブルボカプニン一級医師は正式な医者ではなかったし、私も私で真っ当な手術を手掛けた経験が無い。そういう意味では、元に戻ったとも言えるだろう。しかし私には資金が必要だった。だからこそ彼に出会った。ホームレスか、山羊にでもなったつもりで彼を頼った。
彼は大食らいだった。五つほど重ねたスペアリブに素手で食らいつくくらいの食事マニアで、いつでも片手に綿あめを握っていた。私は彼の砂糖でべとべとになっている右手をしっかりと握り、その食生活を金に変えるようにと懇願した。彼は食には興味津々だったが、金銭には興味を向けていなかった。だから彼に頼めば、全ての資金が自分の懐に来ると私は読んだ。ボロボロの白衣を着ている私のことが完璧なホームレスであると見誤った彼は、その日の全ての大食い大会で最優秀賞を手にした。そして私の元には、この大学で教室をかまえるほどの権力を一括で購入できる大金が転がってきたってわけだ。
全く愉快な話だろう? 私はそうしてここのこの椅子を手にした。全ては彼のおかげだが、彼もまた、私の美しい医学の山の一部になってもらったよ」
するとペンウィーは右手のボールペンを三度ほどくるりとやった。すると彼の右隣に天井から下がっていたカーテンが退け、囲っていたベッドがおれの目に顕になった。
「さぁ見たまえ」ペンウィーはベッドの上のでぶを指さした。「これが大金の次に私が欲したものさ」
おれはベッドの上のでぶの男に近づいた。彼はベッドの下から伸びている黒い拘束具に全身が縛られていた。
「こいつをどうするっていうんだ? 先生」おれはペンウィーの方を視た。
「おいおい、先生って呼ぶのはよしてくれ」ペンウィーは右手で払うようにしていたが、彼のその言葉が真意ではないことをおれは彼の目から見抜いた。
「彼を終わらせるのは君だよ。私には未来予知の真似事ができるけどね、君がこの部屋へとやってくるのを脳裡で見た時、君がナイフを持っている姿を連想できたんだ」そしてペンウィーは机の引き出しからサバイバルナイフを持ち出し、おれの背後に気化した足で無音で近づき、おれの右手にそっと握らせた。
「これで終わらせるんだ……。君は必ずそうする……」
おれの足はペンウィーの囁きの呼気に乗ってゆっくりとベッドへ近づいている。おれはそんなおれをどうしてか他人の目線で視ていた。これもペンウィーの術が何かなのか。医学者とは誰もがこんな奇妙なことができるのか。
そしてベッドに近づき終えたおれはサバイバルナイフを逆手で持ち、その先端をでぶのよく出た腹に向けた。でぶの肌がぷるりと震えるのが見えたが、おれは気にせずナイフを下ろした。白色の半そで衣服を簡単に貫通し、でぶの肌をナイフの刃が貫いた。柔らかいような硬いような、不思議な感覚がおれの腕から全身に伝わり、脳で火炎として宿った。おれは順調にナイフをでぶの腹に入れていった。でぶは泣いていたが、首すら動かせないでぶは涙の飛沫を演出することができなかった。やがてナイフの刃の全てがでぶの腹の中に入ると、おれは安堵感と共に達成感を噛みしめた。
「全く。こんなにも早く肉塊になるのなら、さっさと処理すればよかった」
ペンウィーが後ろで苛ついている……。おれはナイフを抜きながら、目の前の血がどんな味なのかを確かめたい欲で一杯になっていく脳を感じた……。
それからペンウィーは、いつの間にか室内に存在し直立している受付女に向かって、「おい! このでぶの死体をさっさとここから運んでくれ! 他のまだ生きている患者たちにとって、死の象徴である死体はいい迷惑だ!」と怒鳴りつけた。受付女は短く返事をした後に、やはりおれの目では観測ができない気化した胡乱な足取りでベッドへ近づき、でぶの身体をひょいと持ち上げて退室した。
「それでいい。君たちは本当に優秀だ……」
彼女がパタンと扉を閉めてから数秒後、おれは彼女がいったいどうやってでぶの身体を縛っていた拘束具を解いたのかを考えたが、秘伝の隠し油を高速で使ったという回答以外は思いつかなかった。
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