古い花弁の一日。

巣居けけ

小説

11,885文字

これは三年ほど前の記録……。彼女はその後どこへ消えた?

鷹覗見殻はいつものように、須加甥女子学園へ通学していました。いつもの道をいつものように歩き、その日は十分程度で学校の校門を目にすることができました。

校門の前に立つ女教師の、嫌というほど聞いた「おはよう」の挨拶を華麗に無視し、見殻は昇降口に進みます。ちょうど生徒がたくさん登校してくる時間帯だったので、周りには様々な高い声が響いていました。

昇降口に入った見殻は自分の上履きがある下駄箱へ向かいます。この辺の動作はもはや体に染み付いていて、今晩のオカズを考えながらでも行えました。

ステンレスなのか鉄なのか、材質がよくわからないクリーム色をした下駄箱。自分の上履きが入っている四角いスペースに目をやった見殻は、そこで今日初めての声を出しました。
「え、なにこれ」

その声は、見殻の口の中ですぐに消えてしまいました。見殻の周り、朝の昇降口周りにはたくさんの生徒が居ますが、その誰もが見殻の不意に出た言葉に注目することなく、自分の朝に勤しんでいたのです。彼ら彼女らには慌ただしい風がひゅうひゅうと吹き続けていますが、見殻だけは、その風に背中を押されることがありませんでした。

見殻が目をやる先。下駄箱の、本来の朝なら自分の履いてきたローファーを入れる場所。そこに、綺麗に仕立てられた一つの封筒が置いてありました。
「え、なにこれ」

見殻はもう一度、ピンク色の封筒を見つめながら言ってみました。やはりこの言葉に反応してくる生徒はおらず、やはり誰もが、自分の朝に勤めていました。

見殻は封筒を手に取りました。封筒は見殻が思っていた以上に分厚く、またズッシリとしていました。見殻はその厚さと重さか、即座にこれは何かしらの物事に対する賄賂だろうと思い浮かべました。封筒の中には札束が入っていると思ったのです。しかし、こんな人目の多い場所に、まるで放置するように置いておくのはおかしいとすぐに思い、見殻は自分の中の賄賂説を簡単に打ち消しました。

見殻は封筒の裏側を見てみました。しかしそこには表と同じで、何かが書いてあることはありませんでした。ピンク色の封筒はただ分厚く、見殻の片手の中に存在しています。

これはなんだ。封筒の全体を凝視しながら、見殻はありとあらゆる考えを脳内で浮かび上がらせます。一つの考えを出したらすぐにそれに対する否定的意見を出して自分が納得できるかを考え、納得ができたらまた別の意見を出し、それに対しても否定的な意見を出す。そうやってどんどん可能性の輪の直径を縮めていき、答えとなる意見のみを輪の中に収めようとしました。

やがて、おでこが赤くなるほど熱くなり、あと少しで頭痛を引き起こしてしまうというところまで来たその時、見殻の頭上で重く高い音が鳴り響きました。

途端、周りの生徒がより一層慌ただしくなります。彼らの背中を押している風は、音が鳴り止んだ時にはすでに突風となっていることを見殻は実感していました。

頭上の音、チャイムを聞いた見殻は流石に急ごうと思いました。自らも突風に身を任せようと思いました。素早くローファーと上履きを履き替え、封筒は鞄に雑に突っ込み、後は周りの生徒と同じように、慌ただしく階段をかけ上がって、教室まで進みます。

結果的に見殻は、朝のホームルームには間に合いました。

見殻は、担任教師が行う朝の出席確認の名前呼びが、まだ自身の苗字の頭文字である『た』よりもだいぶ前であるタイミングで教室に入り、薄ら笑いを浮かべながら自分の席に座りました。担任教師は見殻がしっかりと着席したのを確認すると、出席確認を再開していきます。

やがて担任教師は『そ』の生徒を呼び終えました。次は見殻が呼ばれます。
「鷹覗見殻」

担任教師はいつものように冷たく発しました。見殻はそれに「はい」と答えようと口を動かします。

しかし見殻が声を発するよりも先に、担任教師は言葉を続けました。
「なぜ遅刻した。理由を言え」
「え」

担任教師のその淡々とした口調に、教室に居る生徒は、まるで電池が切れたロボットのようにピタリと止まってしまいました。机の下で六法全書を読んでいた彼も、堂々と化粧をしていた彼女も、みんな、全員が、担任教師の一言によって動作という概念を捨ててしまったのです。これは見殻も同じでした。いつものように「はい」と返事をしつつ、スマートフォンに繫いだイヤフォンを耳につけてエッチな音声作品でも聞こうかなと思っていましたが、そのイヤフォンは未だに親指と人差し指の間に挟まっていました。
「聞こえなかったのですか?」

静止が支配する教室の教壇に立つ担任教師は、その美しい顔の表情筋をなるべく動かさずに再び口を開きました。
「鷹覗見殻、たかのぞみから。どうして遅刻した。なぜだ。言え」

その氷のような瞳は、見殻の止まった顔に向けられていました。ぶっきらぼうな口調の担任教師は、それから「たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから」と続けた後、少し間を開けてから、「なぜだどうして遅刻した」と叫びました。当然、その顔に表情はありません。

見殻は試しに口を動かしてみました。口は普通に動きました。しかし口以外は全く動きませんでした。

その間にも担任教師は「たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから」と無表情で続けています。「なぜだ何故だ。なぜナゼだ」

見殻は担任教師を無視して、一度空気を吸ってみました。空気は問題なく吸うことができ、これで少なくとも、喋ることはできるということがわかりました。

担任教師は相変わらず見殻の名前を続けています。
「たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから、たかのぞみから」

見殻はここまで自分の名前が連呼される経験をしたことがないので、担任教師のこの行為には苛立ちを感じていました。もう喋れることが判明したので、さっさと理由を答えてしまおうと強く思いました。
「実は、下駄箱に封筒があったのです」宣言をするように、しっかりと示しました。
「たかのぞみから、たかのぞみかっ、え、本当ですか」

するとその瞬間、教室を支配していた静止が一気に亡くなりました。
「はい。本当です」

見殻の手足や見殻の周りの生徒達は、ようやく帰ってきた動作という概念に、今までにはないありがたみを感じていました。

担任教師はそのまま、何事もなかったかのように続けます。
「それなら仕方がありませんわね。おほほほほほっ。では出席確認を続けます」

それから担任教師は終始無表情で出席確認を行いました。見殻にはその様が、動作という概念を捨てているように見えて仕方がありませんでした。

 

見殻が通う須加甥女子学園は、ほかの高校とは様々な部分で違いがある、特殊な高校です。例えば生徒の一日は、朝のホームルーム終了後、そのまま一秒の時間も開けずに授業に入り、一時間目、二時間目、三時間目、四時間目と一切の休み時間が無いままに続き、お昼時に一時間の昼休み、その後は午前と同じく一切の休み時間が無いまま五時間目、六時間目と授業をし、それが終わると一時間の清掃、そしてホームルームを経て解散。放課後には部活動をするか、そのままそそくさと帰宅をするかのどちらかを選択する以外に、生徒たちに権利はありません。

休み時間の無いことに関しての明確な説明は、生徒や生徒保護者には全くされていません。しかし一部では、レズビアンである校長先生の、「何時間もぶっ続けで嫌いな勉強を強制的にやらされている女子高生を見たい」という変態じみた趣味が原因なのではないかと噂されています。

実際、授業中に廊下から教室を窓越しに見る校長先生が度々目撃されているので、この噂は真実なのではないかと、数学の問題を解く見殻は脳の片隅で思っていました。見殻はマルチタスクに長けていました。

やがて『x=4』という答えを導き出した見殻は、そこでシャープペンを置きました。そして計算し終えた数式を眺めて多大なる達成感に舌鼓を打っていると、どこからか視線を感じました。視線を感じた方向に素早く顔を向けると、廊下に居る校長先生が窓越しにこちらを見ていました。校長先生と目が合うと、その瞬間に見殻の両肩はビクッと飛び上がりました。そして体全身を蟲が這いずり回っているような感覚になりました。真冬でもないのに寒気を感じた見殻はすぐに校長先生の顔から目を離し、黒板に両目を付けました。黒板ではすでに、クレヨンのような白いチョークが新しい数学の問題を示していました。担任教師は教壇にある数学の参考書とにらめっこをしていました。もちろんその顔に表情はありませんでした。

見殻は黒板にある新しい数式をすぐにノートに書き写し、計算を始めました。校長先生からの視線は未だに感じますが、見殻は意識の全てを計算に使い、せめてこの問題の答えを導き出すまでは忘れようとしました。校長先生の顔は見殻にとって、それほどに気持ち悪く感じられました。あの時、少しの時間で見た校長先生の顔面は恐怖そのものでした。ひじきのような細い目はグニョリと曲がり、派手な口紅を付けた唇もまたグニョリと曲がっていました。ぷっくりとした頬にはえくぼが出来ていましたが、見殻にはそれがクレーターのように見えて仕方がありませんでした。

新しい数式の答えはあっさり導き出せました。しかし、『x=7』と書き終えた見殻の手は震えていました。計算を終えた、つまり数式から意識を離した見殻の脳は、すでに恐怖の権化である校長先生のことを意識し、囚われていたのです。校長先生からの気持ち悪い視線は依然として感じています。まるで生暖かく無害な光線を照射されているような気分でした。

見殻はそんな光線から逃げています。光線のことをなんとか意識しないようにしていました。光線を意識の外に追いやることをやめてしまえば、見殻は見殻自身の意思を無視して発狂をしてしまいます。全身を這っている蟲はついに首元まで来ていました。

脳内の意識と意識の戦争にて奮闘していると、それまで参考書を読んでいた担任教師が顔を上げて、言いました。
「よし、答え合わせするぞ」

相変わらずの無表情。担任教師はそのままロボットのように、黒板にある数式に途中式と最終的な答えを書いていきました。担任教師は事前に答えを知っているので当たり前なのですが、一度も止まることなく、スラスラと流れるように式を書いていきます。その後ろ姿には『教師ではない先生』の面影が見え、見殻はそんな凛々しい後ろ姿が正直好きでした。

二問の数式に途中式と答えを書き終えた担任教師は、チョークを置き、答え合わせをするように生徒達に促しました。見殻はそれに従い、ノートの中の自分の式と黒板の担任教師の式を見比べました。結果は二問とも正解でした。見殻の書いた式と担任教師が書いた式は答えだけではなく途中式も全て完全に一致していました。

式が正解していたことに、見殻は安堵と達成感と喜びを感じ薄っすらと笑みを浮かべました。しかしその笑みは、誰の目にも留まることなく、溶けるように消えてしまいました。担任教師は次の問題を探して参考書を捲っていましたし、校長先生もすでに、廊下から見殻のことを見てはいませんでした。

 

ようやく昼休みを迎えた教室内には、持参した弁当、登校中に買った又は買ってこさせたパンを貪る生徒達で溢れました。他者のことを無視し、食欲に自ら溺れる様は醜くとも美しくとも見えます。

見殻はというと、弁当もパンも食べてはいませんでした。それは別に、他生徒と同じように醜く美しく食欲に溺れるのが嫌というわけではありません。見殻は幼い頃から、昼に食事をしない環境で育ってきました。見殻自身、そういう生活に対して苦の感情はないので、学校でも何も食べないだけでした。

しかし、そんな見殻の内情を察そうする努力もせずに、身勝手な善意を押し付けてくる人間が居ました。自分の食事を手早く終わらせたその人間、本味粥晶子は、読書をしている見殻に横から近づき、いつものように声を掛けてきます。
「ね、今日も何も食べないの?」

聞くだけで苛立ちがこみ上げてくるその声に、見殻は読書を中断せざるを得ません。文字で出来た世界から嫌々顔をあげると、その人間はニコリと笑みを浮かべていました。見殻にはその笑みが、とても眩しく見えていました。
「お腹、減らないの?」

見殻はその人間からの言葉を無視し、読書に戻ろうとします。しかし晶子は、「ちょ、まてよ」と俳優に疎い見殻でも知っているほど有名な某俳優のモノマネをしてみせました。しかし見殻は頭の中で、この人もモノマネとかするんだ、と少し意外に思っただけで、別に待つこともなく読書を再開しました。
「うそ、無視?!」

晶子は盛大に驚いていましたが、見殻はそれにも構わず読書を続けました。読んでいる小説では、ちょうど主人公がヒロインの姫をロープで縛っているシーンでした。
「ねぇ、無視しないでよ、ほら、これ食べなよ」

晶子は無視する見殻に負けじと、制服の内ポケットからスニッカーズを取り出して見殻の机に置きました。しかし見殻はスニッカーズが嫌いでした。数年前、サクサクするタイプのお菓子だと思って食べたら全然そんなことはなく、むしろ中はネチョネチョとしていたことにひどく驚き、以降それがトラウマとなり、スニッカーズを見るのも嫌なくらいでした。
「スニッカーズ、美味しいよ」

見殻がスニッカーズを睨んでいると、晶子はやはり笑顔で言いました。その笑顔も、スニッカーズの存在も嫌な見殻は低い声で言ってやりました。
「これが? 美味しいわけないでしょ」

そして見殻は本に目を戻しました。

晶子は見殻の低い声に驚きましたが、めげることはありませんでした。晶子の中にも、見殻に食事をしてもらいたいという強い思いがあったのです。

だから晶子は、あらためて見殻に訊ねました。
「ねぇ、どうして何も食べないの?」

近くにあった誰も座っていない椅子を見殻の横に持ってきて、それに座りながら言います。
「お腹、減らない?」
「はい。昼食をとらなくても、空腹にはなりません」

その時の見殻の声は、機械音声のように透き通った声でした。
「でも……ほら、頭、回らなくならない? この学校、勉強の時間長いし」
「なりません」
「うぅん……」もう、コイツに昼食をとらせるのは無理かもしれない。晶子はそう思いました。そう思った瞬間に、晶子の脳みそは新たな方法を思いつきました。

しかしその方法をためそうとしたその瞬間、とある出来事が起こってしまいました。

教室の出入り口がガラガラガラと開け放たれ、一人の教師が教室内に入ってきます。その教師はホコリの付いたセーターを一年中着ていて、生徒の間ではいじられキャラでした。

教師は教室中を見渡して、晶子を見つけると言いました。
「鷹覗見殻さん、ちょっと良いですか」
「先生、なんでしょうか」

それを聞いた見殻は、最近では一番の喜びに包まれました。よっしゃ、これで今日は、もうこいつに絡まれなくて済むぞ。無表情の仮面の下で、見殻はそう考えていました。

しかし晶子は、真逆の感情に身を置いていました。ふざけるな、このクソ教師が。そんな思いを笑みの仮面の下で作ってはいたものの、生徒会長である晶子は、それを表に出すことは絶対にしません。

教師はセーターを片手で触れながら、目の前の二人の仮面生徒のことなど露知らず、見殻に続けます。今日着ているセーターは青色でした。
「ええ。実は校長先生がお呼びでして、今から校長室に行ってもらっても、良いですか」

教師は訊ねます。本来訊ねるということは、訊ねられた側はどんな解答をしても良いということなのですが、この学校でまともに生活したい者において、教師の訪ね事に反対することは許されません。
「良いですよ」

なので見殻は、考えることもせずにそう言いました。同時に後ろの晶子に、あくまでも顔は無表情で、しかし心の中で、へへ、もうあんたのおせっかいの相手しなくて済むぜ、このクソおせっ会長がっ。と念を送ってみせました。しかし晶子に念を受け取る能力は無いので、それはただの『見殻の内心』で終わりました。
「本味粥さん、それでは」

見殻は勝ち誇った顔で晶子に手を降ると、すぐに教室を後にして教師を無視して校長室に向かいました。
「ああ、残念だなあ……」

残された晶子はため息とともに肩を下ろして沈んだ顔をしていました。そうしていると見殻の机にある本が目についたので、それをなんとなく持ち上げて、さらに読んでみました。

黒いブックカバーがされた小説。見殻が読んでいたと思われるシーンは、ちょうど主人公が蕎麦を打っていました。輝いている包丁が細かい蕎麦を作っていく様が、主人公の蕎麦にかけている思いと共に気持ち悪いくらいに細かく描写されていました。

一連のシーンを読み切った昌子は、小説を机に戻すと思っていたことが口からこぼれてしまいました。
「え、なにこれ」

 

「え、なにこれ」

校長室の重たい扉を開き、校長室内を見渡した見殻が最初に放った言葉は、残酷な殺人現場と化していた校長室内に哀しく響いて消えました。

おそらく後ろから不意を付かれて刺されたのでしょう。校長机に座らされている校長先生のその胸元からは、赤く濡れた刀が飛び出していました。
「校長先生、そんな」

見殻はそう言ってみました。そして言いながら、校長先生の死に驚愕している自身に酔いしれながら室内に入り、校長先生の死体に近づきます。近くで見ていると、刀が飛び出ている部分の周辺はひどく赤く濡れていることがわかりました。
「誰が、こんなことを……」見殻は心の底からそう思って言いました。すると見殻の後ろの方から、「私だよん」という低めの女性声が聞こえてきました。
「誰だっ」見殻は声を荒げて振り返りました。校長先生を殺した人間のことが許せなかったので、もし声の主が本当に校長先生を殺した犯人であるのなら、この場で殺してしまおうという意気込みでした。

しかしその意気込みは、声の主であろう女の顔を見てすぐに消えてしまいました。まるで水を掛けられた炎のように、あっさりと。

意気込みが消えた見殻の中には、それの替わりに恐怖がじわりと湧き上がりました。「なんでアナタが、先生がここに居るの……」という台詞も、恐怖のせいでプルプルと震えた声になってしまいました。

声の主である見殻のクラスの担任教師は、それまで一切動かさなかった表情筋を簡単に動かして、ニヤリとして答えます。「そりゃあ、それを見たあなたの反応を、楽しむためだよん」

見殻にはその顔が、恐ろしいものに見えました。氷のように冷たい美しさは健在でしたが、その顔面はひどく歪み、まさに極悪人のそれでした。見殻はそれが担任教師の本当の顔であることが直感で理解できてしまいました。生き生きとしている眼光や不規則に出てくる笑い声がそれをよく表していました。
「さて、反応も見たことだし、さっさと始末させてもらうわ」

担任教師だった殺人犯はスーツからナイフを取り出して見殻に歩みよってきます。明らかな絶体絶命に見殻は自身の生命の危機を肌で感じていましたが、同時にこの室内から得体の知れない異様な雰囲気を感じ取っていました。この殺人犯の手から逃れる以前に、まずこの部屋から離れなくてはならないと心の底から思い、同時に足が動き出しました。

見殻は一目散に、部屋から出ようと殺人犯の横を素早く通り抜けて出入り口のドアノブを捻り、重たい扉を音もなく開けて、そのまま自分でも驚くほどの速さで廊下を走り出しました。それは恐怖による馬鹿力で、凄まじい速さで廊下の風景が進んでいくのを目の当たりにし見殻は、自分は今廊下を走っている! やばいやばいやばい! と強く思いました。しかしそんな思いとは裏腹に、恐怖に侵された見殻の体は全力で脚を動かし、あっという間に教室にたどり着きました。

教室の扉を開け、見殻は中に入ります。時刻はまだ昼休みの真っ只中なので、室内は生徒らの声で溢れていました。見殻は素早く自身の机に綺麗な姿勢で座り、教室を出る際に中断した読書を再開しました。

するとすぐに、「鷹覗見殻さん」と声を掛けられました。それは晶子の声でした。見殻はとても面倒くさそうな態度ではあるものの、しっかりと晶子の声に反応して本から目を離し、晶子のことを見上げました。
「なに」
「いやぁ、ちょっとさ」晶子は言いながら、近くの誰も使っていない椅子を見殻の横に持っていき、それに腰を落としました。「校長室で、なにがあったのかなって」

晶子の言葉を聞いていた見殻は、あくまでも無表情を貫いているつもりでしたが、実際はとても怯えていて、表情筋はひどくビクビクと震えていました。

そんな見殻を見た晶子は、適当な声で言ってみます。
「なに、校長とヤッた?」
「なっ!」

その瞬間、見殻は勢いよく晶子の後頭部を殴りつけました。強い衝撃を受けた晶子は、痛みよりも脳みそがグワングワンと揺れる奇妙な感覚を味わい、一瞬、誰に何をされたのかがわかりませんでした。

見殻は目玉をあちこちにぐるりと回す晶子を、激昂した眼差しで睨みつけていました。
「そんなわけねぇだろ」

見殻は言いました。それはヤクザのように凄みを利かせた声でしたが、その尖った威勢の裏側には弱い自分が居て、それをなんとかして隠そうとしているという心理を一瞬で見抜いた晶子には全く通用しませんでした。
「じゃあ、どうしたの」

後頭部の痛みと脳みその揺れが収まってきた晶子は、改めて見殻に訊きました。すると見殻はうつむき、少し考えてから晶子の方を見て言います。
「あのっ、ここじゃ少し話しにくいから、廊」
「廊下で話そうってか」

晶子は見殻の震えている声を遮ると、素早く立ち上がり、座ったままの見殻の手を取りました。
「行こうじゃあねぇか。俺たちの『楽園』ってやつにさ」

精一杯格好つけた顔と声で決め台詞を吐くと、晶子はそのまま見殻の手を引いて歩き出しました。見殻は止める意味もないなと思い、されるがままでいました。

やがて二人は教室を出て、廊下を歩き、廊下の曲がり角のちょっとしたスペースにやってきました。そこはよく教師同士が情報交換に使っている場てしたが、幸いなことに今日は誰も居ませんでした。
「ここなら問題無いでしょ」

二人はスペースの壁に背中を付けて、小さな声で話し始めました。
「ありがと。……それで、校長先生の部屋に入った後の話なんだけど……」

それから見殻は、晶子と手を繫いだまま、校長先生が殺されていて、それの犯人があの、学校一の美人だった担任教師であることを話しました。
「っていうことなんだけど」
「なるほど、なるほど」

話を全て聞き終えた晶子は、そのまま見殻の手を握っている手に見殻の汗を感じながら頷きます。
「サスペンスってやつか」

晶子の人差し指を立てながらの発言に、見殻はぽかんとした顔をしました。
「え、なにそれ」
「知らないなら良いよ。気にすんな」

晶子が適当に払うと、見殻は少し不思議そうな顔をしていましたが、晶子はその少し魅力的に見える困惑顔を無視して続けます。
「まぁ、別に貴女が何かしてしまったわけじゃないし、そんなの関わるのも面倒だから、このままで良いと思うよ」

見殻の手を両手で握る、いや包む晶子は、見殻の目を見て言いました。
「そう、でしょうか……」

見殻はすっかり弱気になっていましたが、晶子が言うように無視をするしかないなと納得している所もありました。なのでこれ以上、この事柄に対しては何も言わずにいました。

それから二人は、二人きりのスペースで、校長先生や担任教師とは全く関係のない雑談をしてから教室に戻りました。教室に戻った後も、午後の授業が開始するまで二人は手を繋いでいました。

二人は授業が開始した時に流石に手は離しましたが、晶子は自分の右手に付着していた見殻の手汗が異常にいやらしいものに思えてしまい、授業が開始して五分も経たずにトイレに行き、見殻の手汗が付着した手で自慰行為をしました。その自慰は今までのどんな自慰よりも気持ちよく、そこで晶子は自分は見殻の事が好きなんだと気づきました。

見殻はというと、晶子の手汗が付いていても特に何とも思わずに授業を受けていました。トイレから戻った晶子は見殻が自分の手汗が付いた手で自慰をしないかをずっと監視していましが、そんな奇跡みたいなことは起こらず、結局晶子は六時間目の終了を告げるチャイムが学校中にけたたましく鳴り響くまで見殻の横顔を見ていました。

 

授業を終えた後の、一時間の清掃がやってきました。

見殻は清掃においては、教室のありとあらゆる机を拭く係をやっています。今日も変わらず、チャイムが鳴ると同時に席を立ち、ロッカーの中のバケツと雑巾を取り出すと、まずトイレに向かいました。そこにある水道でバケツに水を溜め、教室に戻る。教室内の他の生徒はその頃にようやく清掃に向けて動きだしていて、見殻が持ってきた水入りのバケツを勝手に使います。見殻はこれに少しだけ苛立ちを感じてはいましたが、別に害は無いので、自分のおかげでわざわざトイレまで行かなくて済んでいるんだぞ、ありがたく思え、と心の中で思うことでやりすごしていました。

バケツに溜まっている水を使って、見殻は雑巾を濡らします。雑巾をバケツに落とすと、雑巾はすぐに水を吸収し、灰だった色も黒くなり、そうしてバケツの底の方に落ちていきます。それを見てすぐに取り上げると、雑巾は水滴をボタボタと落としながら、水の冷たさを見殻の両手に伝えます。しっとりとした冷たさに見殻はとっくに慣れていて、顔色一つ変えずに雑巾を絞りました。絞るとさらに水分を落とし、やがて、しわくちゃになった冷たい雑巾が完成しました。

見殻は雑巾を折りたたむと、それで机を拭いていきます。拭いた所は水分によって色が濃くなり、机の全体を濃い色にするのが楽しくて、つい夢中になってしまいます。清掃の時間とは、見殻にとっては学校で一番気楽な時間でした。何時間もある授業の時間は全て退屈でつまらなく、雑談ができるような友人も居ない見殻は授業中におしゃべりをしてその時間を潰すこともできません。更に見殻は本来あまり読書が好きではないので、昼休みにしている読書は結構苦痛の時間です。なので何も考えずにただ机を拭いているだけで良い清掃の時間は、まさに至福の一時と言える時間帯でした。

 

見殻の『お楽しみタイム』を終え、ありきたりなホームルームもさっさと終えると、学校はすぐに放課後に突入しました。

放課後とは生徒の自由の時間。それはこの須加甥女子学園でも同じで、基本的に部活ではない限り教師の介入は禁止とされています。

放課後が始まって数十分。見殻と晶子は教室から自分達以外の人が居なくなるのを待ちました。理由は単純で、二人だけで雑談がしたかったのです。晶子はすでに見殻に対して友情以上のものを感じていて、もっと鷹覗見殻という人物の内面を知りたくてしょうがなかったのです。見殻はというと、晶子に対してそういう感情は持っていませんが、それでもあんなことを相談してくれたことで強い友情を感じていて、晶子ともっと話したいと思っていました。

生徒は徐々に退室していきますが、それでも居なくならない生徒には晶子が金を握らせて消えてもらいました。最後に担任教師が、「戸締まりよろしく」と端的に言いながら去っていくのを皮切りに、二人は一つの机を挟むように椅子を設置し、向かい合って座りました。それから最初に声を発したのは晶子でした。
「それで、見殻ちゃんの好みのお」

晶子がそこまで発した瞬間、見殻が無表情で立ち上がりました。晶子は感情の無い顔面でまっすぐ黒板を見つめている見殻を見上げ、「え、どうしたの」と訊ねるというよりは呟くように言いました。

見殻は思い出していたのです。今朝、下駄箱にて見つけ、そのまま鞄の中に入れっぱなしにしたあのピンク色の封筒のことを。
「ああ、そういやあったね。うんうん」

見殻は至極冷静に自分の席に戻り、横のフックに引っ掛けてある鞄から封筒を取り出すと、余計な事思い出しちゃったなぁ、と後悔している感情を押し殺すように「うんうん。あったあった。うんうんうん」と一人でブツブツ言いながら晶子の向かい席に戻ります。
「それ、何?」
「え、ああ……。えっと、プレゼント!」

見殻は平然と言いながら、その桃色封筒を昌子に突き出しました。
「え、ホント? 良いの?」
「うん。めっちゃいいよ」
「今、開けていいの?」
「うん。めっちゃいいよ」

見殻に了承を得た昌子は封筒の封をビリビリと開けました。ピンク色に簡単に亀裂が入り、五センチほどの厚みがある長方形の中身が見えてきます。
「うわぁ! 何これ!」

封筒の中身を見た昌子はそれを持ち上げながら、歓喜の声を上げます。その顔には純然な笑顔が浮かんでおり、昌子がとてもとても喜んでいることがわかります。
「喜んでくれたなら、良かった……」

封筒の中身とは、見殻の写真でした。何枚もの写真が重なり、分厚さを作っていたのです。

昌子は喜びのあまり、見殻に抱き着きました。昌子の身体の衝動を全身で感じながら腕を背に回す見殻は、これが本当の幸せなんだと実感しながら、昌子の唇に自身の唇を重ねました。

舌の粘膜の感触が、互いの口に広がっていきました。

2022年9月7日公開

© 2022 巣居けけ

読み終えたらレビューしてください

この作品のタグ

著者

リストに追加する

リスト機能とは、気になる作品をまとめておける機能です。公開と非公開が選べますので、 短編集として公開したり、お気に入りのリストとしてこっそり楽しむこともできます。


リスト機能を利用するにはログインする必要があります。

あなたの反応

ログインすると、星の数によって冷酷な評価を突きつけることができます。

作品の知性

作品の完成度

作品の構成

作品から得た感情

作品を読んで

作者の印象


この作品にはまだレビューがありません。ぜひレビューを残してください。

破滅チャートとは

"古い花弁の一日。"へのコメント 0

コメントがありません。 寂しいので、ぜひコメントを残してください。

コメントを残してください

コメントをするにはユーザー登録をした上で ログインする必要があります。

作品に戻る