縄田涼子は今日も腐っていた。
オフィスの外は降り続く長雨に覆われていて、もう長い間太陽を拝んでいない。六月特有の、じめじめとした、それでいてどこか蒸すような暑さがまとわり付いて来る。ストッキングが蒸れて足に張り付く。髪が湿気でうねり、うなじに薄ら汗が浮かぶ。
不愉快の渦の只中にいる涼子は、時計を確認した。
始業時間を一時間過ぎているのに、同僚の一人がまだ顔を出さない。
「すみません、遅れました」
ドアが勢い良く開いて一人の女が顔を出した。涼子の同僚である板野綾子は申し訳なさそうに周囲の職員に謝っている。
「娘さん、大丈夫?」
「うん。今朝は病院に送っていくだけだったし……また迎えに行かないといけないから、その時は少し時間を貰います」
「大変よねえ、あなたの所も」
何が大変なものか。大変なのは誰だって同じだ。
涼子は思わず口を挟まずにはいられなかった。
「ねえ、娘さんってもういい大人なんでしょ?」
「そうね。もうすぐ三十になるところ」
「病院くらい一人で行けるんじゃないの。別に身体が悪い訳じゃ無いんだから」
この言葉に近くにいた職員は目を細めたが、綾子は苦笑いをするだけに止まった。
「そうなんだけどねえ……まだ目が離せないのよ」
おっとりとした綾子の物言いからは、切羽詰まったような危機感は感じられない。
涼子は内心でため息を吐いた。みんな綾子を甘やかし過ぎなのだ。
涼子と綾子は同期入社の間柄で、入社して暫くは同じ部署にいたのだがやがて涼子が別の部署に移動になり二人は顔を合わせる事も無くなっていた。
一年前の配置換えで、涼子は再び綾子と同じ部署へ移動し、久方ぶりに彼女を話をした。
互いに五十を過ぎた辺り。それなりに苦労を重ねてここまでやって来た。涼子の元々きつかった目元は一段と鋭さを増し、仕事場では薄い唇から激が飛ぶ。
涼子は仕事が好きだった。
子供が出来た時も、仕事を辞めるという選択肢は自分の中には無かった。
幸い、夫である義昭の理解も得られ仕事は続ける事が出来ている。息子の哉太も聞き分けの良い子で、子育てにおいて涼子の手を煩わせる事も無かった。
涼子はいつしか『頑張れば頑張るだけ報われる』と考えるようになっていた。だから、結果が出せない、頑張れないと弱音を吐く後輩や同期には努力が足りないだけだと決まって言うのだった。
そんな彼女の価値観に反する人間が綾子だった。
聞けば涼子の一人娘は学生時代、不登校になって引きこもっていたらしい。今でも月に一回病院へ通っていて、その送迎を綾子が担っているという事だった。
「夫も仕事があるし……どうしても子供と接する時間が長くなるのは母親なんだよね」
温かい缶コーヒーを手に握って、綾子は笑う。
「だけど、旦那さんだって手伝ってくれても良いんじゃないの」
「勿論、休みが合えば送り迎えを代ってくれるし、娘の面倒を見てもくれるの。ただ、男の人って、そんなに強くないんだよね。娘が病気になって初めて知った」
あなたは何も分かっていないと、綾子の横顔が言っていた。少なくとも涼子にはそう感じられた。
涼子は不満だった。
綾子の娘は未だに定職には就かず、家で家事を手伝ったり好きな本を好きなだけ読んだりと気ままに過ごしているらしい。
両親の世話になっているのだから、家事を手伝うのは当たり前だ。だけど仕事を探す事もせず、好き勝手に家で過ごしているというのは涼子にとってはあり得ない事だった。
娘のそんな状態を綾子達夫婦が容認しているのも信じがたかった。
綾子の子供が引きこもるのも当然に思える。親の育て方の問題だ、と涼子はその時はっきりと感じた。甘やかして育てるから、頑張ることに耐えられない子供が育つ。それを綾子は分かっていないのだろう。
それ以来、涼子は綾子に対し軽蔑にも似た感情で接している。
「ここ、ミスしてるから早く直して」
「すみません、今やります」
今年入社した新人は物覚えが悪いらしく、よく仕事でミスをする。
そんな彼を叱るのは涼子で、フォローするのが綾子だった。
「どこがいけなかったの?」
綾子は新人の元へ向かうと、彼から事情を聞き取って優しく指導し始めた。
「ほっとけば良いのに」
涼子は隣のデスクに座る同僚に話を振った。
「あの子が努力してないだけなんだから、板野さんがフォローする必要もないでしょ? 彼女、年下は甘やかしてばっかりよね」
「だけど、辛く当たっても直らないものは直らないわよ」
「頑張る気が無いだけ。やれば出来るんだから」
鼻息荒く新人と綾子を批判して、涼子はパソコンの画面に向かった。同僚がやれやれといった風に静かに、息を吐く。
糸を引くように雨は降り続ける。ねっとりとした湿気が漂う蒸し暑いオフィスで、涼子は首を伝う汗を乱暴に拭った。
「それで、また遅刻して来たのよ、板野さんは」
夕食の席。涼子は義昭を相手に会社での出来事を話していた。
化粧を落とした彼女には仕事場での覇気は無く、どこにでもいる五十代の女性になっていた。象牙色を帯び始めた頬に浮かんだシミが、歳を重ねるごとに濃くなっていく事を涼子は密かに気にしていた。
「大変だな、板野さんも娘さんも。三十歳なんて人生で一番楽しい年頃だろう」
義昭はテレビの画面を眺めながらそう返した。野球の中継が流れている。
「年頃の娘さんが家で一人っていうのも不憫だよな」
「どうだか。板野さんの口ぶりだと娘はそういう生活で満足しているみたいで、親は仕事をさせる気は無いらしいの。まだそれ所じゃ無いって。最近、鬱とか何とか精神的な病気が取り上げられるけれど、結局は本人の努力が足りないだけだったり親の育て方が悪かったりするだけなのよね」
白米をかき込みながら涼子は喋る。
家の中も酷く湿っぽい。一軒家の屋根を叩く雨音が物悲しい。
「ごちそうさま」
哉太が席を立つ。彼はあまり食事に手を付けていなかった。
「哉太、具合悪いの?」
「うん、ちょっとね」
どこか意味ありげに哉太が笑った。弱々しい笑い。涼子は突然やって来た梅雨のせいでバテたのだろうと考えた。
「ちゃんとご飯食べなきゃ駄目でしょ。もうすぐテストなのに、体調を崩したらどうするの」
「うん、分かってる」
「受験生なんだから、しっかりしなさい」
「うん」
哉太はゆっくりと風呂場へ向かって行った。
涼子はため息を吐く。
「哉太も身体が弱いわよね。私は梅雨バテなんてしなかったのに」
「今と昔じゃ、事情が違うよ。あいつだって、俺達が知らない苦労を経験しているだろうし」
「子供の苦労なんてたかが知れてるわよ。大人の苦労に比べたらね」
かん、と心地良い音がテレビから聞こえた。ボールが高く舞い上がり、バックスクリーンへと吸い込まれていく。
義昭と涼子は声を上げて喜んだ。
そんな両親の姿を、哉太はずっと見ていた。
ずっと後になってから、涼子は『あのホームランは、天啓だったのかもしれない』と思うようになった。
その日、涼子は朝から苛立っていた。
まず、通勤途中にストッキングが電線した。
電車で隣り合った若い女性の香水が鼻についた。
会社へ駆け足で向かっている最中に、年配の男性がぶつかって来た。
朝からついていない。涼子は苛立つ心を必死に抑えながらパソコンの電源を付けて、他の支社から届いているはずのメールを確認しようとメールボックスを開いた。メールは届いていなかった。
「昨日言ってた資料、出来たの?」
声を張り上げて新人に向かって問うと、彼は急いで紙を手にやって来た。
「これで大丈夫だと思います」
「だと思います、じゃ困るのよ。もういい大人なんだからしっかりして。ここは学校じゃないんだから」
「すみません」
謝るだけなら簡単だ。心の中で悪態を吐きながら資料を確認する。一行だけ、文字が抜けている箇所があった。涼子はすかさずそのミスを指摘する。
「ここ、一文字抜けてるんだけど」
「すみません、今すぐ直しますから」
「もう良い」
深いため息と共に涼子が相手を睨み据える。眉間の間に深い皺が寄る。
「私が直すから、あなたは他の事をやってくれる? このままじゃいつまで経っても終わりそうに無いから」
彼女の圧に押されて、新人職員はすっかりやる気を失ってしまったようだった。すみません、と最後に一言残して自分のデスクに戻って行った。
「おはようございます」
綾子だ。今日もまた遅れてやって来た彼女は、自分のデスクに向かうと荷物を置いて仕事を始める。その、いつもなら見逃せるはずの動作が今日の涼子には気に食わなかった。
「板野さん」
「何?」
「今日も娘さんは病院なの?」
綾子は何故そんな事を訊くのだろうという風に、
「そうだけど……どうしたの?」
と返して来た。
外で降っている雨が、どんどん激しくなっていく。
「そんなに頻繁に行く必要があるの?」
涼子は尋ね返した。
「家にいるだけならストレスなんて感じないと思うんだけど。何をそんなに悩んでるわけ?」
「……縄田さんには分からないかもしれないけど、うちにはうちの事情があるの」
「あなたには分からない、みたいな言い方をしないでよ。女学生じゃあるまいし」
綾子はそれきり黙ってしまった。黙って、静かにキーボードを叩いている。
その姿が妙に気に障って、涼子は乱暴に首筋の汗を拭った。暑い、冷房はきちんと利いているのか。擦った皮膚が汗によって滲みて痛む。だから余計に苛立ちが募っていく。
それでも何とか仕事に専念しようとした時だった。
携帯のバイブ音が鞄の中から聞こえて来る。時計を見やるとまだ午前十時を回るか回らないかといった頃だった。
こんな時間に一体誰が。携帯を取り出してディスプレイに表示された名前を見た。
哉太。
「……もしもし、どうしたの」
『母さん、少し話せる?』
「何かあったの? あなた学校は?」
『学校は、これから行く所で』
「何で今頃行こうとしてるの? 朝、家を出てからどこに行ってたの」
息子は黙っている。涼子は矢継ぎ早に彼に言葉を浴びせた。
「こんな時間にどこで油を売ってるの。早く学校に行きなさい。お母さんだって仕事で忙しいんだから、あなたばかりに構っていられないのよ」
深く、深くため息を吐く。暫し通話口の向こうが沈黙したかと思ったら、哉太がぼそり、呟いた。
『……ごめん、今から行くから。仕事頑張って』
ぷつん、と通話が切れた。
涼子は少し呆気に取られながらも携帯をしまった。哉太は一体、何を話そうとしたのだろう。涼子には想像も付かなかった。
きっと、受験を前に不安になっているだけだろう。涼子も受験生だった時、今の哉太と同じように不安に襲われていたから気持ちが分かった。
学校に行けば友達もいるし、少しは気分も晴れるはずだ。
特段気に病む事も無く、涼子はパソコンに齧り付いていた。ディスプレイには黒い文字が小蝿のように密集している。老眼が入って来た目には辛い作業だ。それでも引き受けてしまったからには仕方がない。
自分を励ましながらキーボードを叩く事、一時間。誰かが自分の名前を呼んだ。
「何?」
「息子さんの学校から。何だか酷く焦ってるみたい」
まさか哉太が何か問題を起こしたのだろうか。不安よりも怒りの方が勝る。
涼子が電話口に出て応答すると、哉太の担任だというその男性は狼狽を隠さず彼女に告げた。
「哉太君が屋上から飛び降りました」
瞬間、雨音が綺麗に聞こえなくなった。雨が上がった。
それからの出来事を、涼子はあまりよく覚えていない。
哉太が運び込まれたという病院へ向かうと、既に夫と学校の関係者がいた。
「哉太君、苛められていたんです」
同席していた校医が教えてくれた。初耳だった。
「よく授業を休んで、保健室で過ごしていて……私がご両親に相談するように言っても嫌だって。親には分からない問題だからって。確かに、今時の苛めは理由が本当に些細なものだったりして、大人にはあまり理解出来なかったりするんですよ」
今回哉太が苛められていた理由も、受験を理由に遊びの誘いを断った事に端を発しているらしい。
「勉強を優先させるのは当たり前じゃないですか……!」
涼子の言葉に若い校医は頷いて応えた。
「その、当たり前の事を当たり前にやる子供が気に入らない子もいるんです。哉太君は学校の話をご両親にはしていましたか?」
「いえ」
「実は……私も今知ったんです」
哉太の担任が悲痛な面持ちで病室の戸を見つめている。
四階から飛び降りた哉太は駐輪場の屋根に落ち、地上へ落下した。それが幸いしたのか、軽い骨折で済んだという。
しかし、ここへ運ばれる間、救急車の中で彼は非常に錯乱した状態だったらしく、今は薬で眠らせているとの事だった。
医師の了解が無ければ、面会は難しいという。
「あなた、担任でしょう。どうして気付いてくれなかったんですか」
涼子の声は震えていた。義昭は先ほどから一言も声を発していない。
「ねえ、あなたもどうして気が付かなかったの。男親でしょう、私よりあの子の事を分かっていると思っていたのに」
夫の肩を掴んで揺さぶる。骨張った肩が掌に食い込む。義昭はそれでも何も言わなかった。
涼子は顔を両手で覆った。
どうしてこんな事になったのだろう。どこで間違えたのだろう。自分の育て方が悪かったのだろうか。そんな問いばかりが頭の中を駆け巡っていく。
何がいけなかったのだろう、どこがいけなかったのだろう。
考えれば考えるほどに答えが見出せなくなっていく。
「縄田さんですか」
そこへ看護師と医師がやって来た。医師は外科の人間だという。
「幸い右足首の骨折だけで済みました」
診察室に通された涼子と義昭は医師の説明を受けていた。
「ただ、私としては骨折よりも息子さんの状態の方が心配です」
「と、言いますと……」
「ここへ運び込まれた時、息子さんは非常に興奮した状態でした。看護師が押さえ付けなければ病室を飛び出しそうな勢いでして」
そこで、と医師はある提案を持ちかける。
「私としては、当院の精神科医を紹介させて頂ければと」
夫妻は一瞬、何を言われたのかが飲み込めなかった。段々と、医師の言葉が理解出来るにつれ、涼子は声を荒げずにはいられなかった。
「うちの息子を精神病患者と一緒にするんですか!」
「落ち着けって!」
義昭が宥めにかかる。
お母さん、と医師は穏やかな口調で言った。
「鬱を始めとする精神疾患は、最早珍しいものではありません。誰だってなり得るものなんです。息子さんは明らかに傷付いています。身体では無くて心が」
「だから何だって言うんですか。わざわざ心の治療が必要だとでも? そんなもの、私達で何とかしますし、息子だって頑張れます」
「その結果がこれなんです」
医師はやや強い口調でそう断言した。
「私は精神科が専門ではありませんが、自死しようと飛び降りたり手首を切った子を沢山診て来ました」
涼子は息を呑んだ。そういう子供がいるとは知っていたが、どこか遠い国の話だと思っていた。
しかし、眼前にいる男はそういった子供を大勢診て来たと言うのだ。
「そういった子供達は、誰も信じられなくなっています。頑張って頑張って、自分を責め続けて来た。だけどその頑張りは誰にも分かって貰えない。頑張る事は当たり前の事だという環境の中で育って来たのなら、それも当然なのかもしれません。そして、また頑張ってしまう。死のうと思うまで」
二人に言い聞かせるように、医師は言葉を紡いでいく。
言の葉が降り積もって、涼子の肩に重く伸し掛かる。
「息子さんのような、真面目で優しくて手のかからない子ほど、こういった傾向にあります。もう今までのような接し方では駄目だと考えていて下さい。しっかりと、彼の傷と向き合ってあげて下さい」
廊下へ出た涼子と義昭は、互いに黙ったまま息子の眠る病室へ向かった。
二人を待っていた校医と担任が駆け寄って来る。
「哉太君、目が覚めたそうです。ご両親が来ていると伝えると、会いたいと」
二人は急いで病室へ入って行った。
ベッドに横たわる哉太は、足に包帯を巻いている以外は至って普通に見えた。息子の様子に、涼子はほっと息を吐いた。
校医達も医者も、大袈裟に言い過ぎだ。自分達を脅かすつもりだったのだろうが、哉太はどこもおかしくなんてなっていないではないか。
当分学校を休ませて、苛めた相手を訴えればまた元通りの生活が送れる。
涼子は哉太に話しかけた。
「大丈夫? 気分は悪くない?」
「母さん」
哉太は静かに、母に問うた。
「どうして電話で話を聞いてくれなかったの」
彼の問いかけに、涼子は静かに息を止めた。あの時。会社にいる涼子へ電話をかけて来た時、哉太は止めて欲しかったのだ。死のうとしている自分を。
彼は全てを話して、母親に言いたかったのだ。助けて、と。そして、自分は息子の叫びを聞こうともしなかった。
天井を見つめる哉太を見て、涼子は全てを悟った。
もう元の生活には戻れない事を。
そこから先は地獄だった。
退院した息子は一日中家の中に閉じこもっている。学校へ行くという選択肢は、もう彼の中には無いらしかった。
哉太は暴れるようになった。部屋の物を投げる、壁に頭を打ちつける、涼子に掴み掛かる。以前の大人しい息子の面影が消えていく事に、涼子は戸惑いを覚えると同時に、緩やかに絶望していった。
義昭も変わった。
暴れる息子とそれに対峙する妻を、ただ困り果てたように眺めるだけで、以前のように積極的に哉太達と関わろうとはしなくなった。口数も減り、外食の回数が増えていった。
どうして息子と向き合ってくれないのか、どうして自分ばかり哉太と向き合わないといけないのか。
哉太をやっとの思いで寝かし付け、義昭も寝室へ引き払ったリビングで涼子は煩悶する。風呂上がりの重たい身体を引き摺って一人皿を洗う自分が惨めだった。
会社の人間の態度も変わっていった。
涼子は自分の息子に何があったのか一言も口にはしなかったが、何故か同じ部署の人間は哉太が引き起こした事件について知っていた。
皆が皆、気の毒そうなそれでいて腫れ物を触るような目で涼子を見て扱う。
あの、自分より出来が悪かった新人が新規の契約を取って来た日ほど、涼子にとって屈辱的だった日は無い。
世界中の全てが自分を嘲笑っているような気がした。
パソコンの前に座ってキーボードを叩きながら、涼子は必死に心の中で繰り返す。
哉太はおかしくなんかなっていない。自分もおかしくなんかなっていない。
繰り返し自分に言い聞かせてみるけれど、最後には『どうしてこうなってしまったのだろう』という問いに戻るのが常だった。
「縄田さん、大丈夫?」
ある日、綾子が声をかけて来た。
心配そうに眉根を寄せているその姿が、涼子には憐れみの情に塗れているように見えて気分が悪かった。
「何だか疲れてるみたいだけど」
「大丈夫。寝不足なだけ」
素っ気なく言い放つと、綾子はそう、とだけ返して席に戻って行った。
先週、初めて精神科へと赴いた涼子と哉太は医師の問診に答えて、病名を聞いた。
哉太は週に一回の通院と薬の服用を余儀なくされ、場合によっては入院もあり得ると宣告された。
涼子は思わずその場で安堵のため息を吐いた記憶がある。薬を飲めば哉太はすぐに良くなるだろうと思ったのだ。精神的な病と言えども、病は病だ。病気は薬を飲めば治るものだからと、そう考えていた。
現実は違った。哉太の言動は日に日に激しさを増していったのである。
荒れて荒んで腐った花のような臭いの言葉を吐き続ける息子。そんな彼に向き合えない夫婦は段々と神経を摩耗させていく。
ある日、義昭が呟いた。
「俺が哉太と死のうか」
涼子は馬鹿な事を言うなと彼を叱ったけれど、それは自分に対しての言葉でもあった。
一度や二度では無い。涼子だって哉太を殺してしまおうかと思った事が何度もある。こんなに彼は死にたい死にたいと叫んでいるのだから、いっそ、殺してやる方が息子の為になるのでは無いだろうか。
そうして楽にしてやるのが親として出来る最善の方法なのではないかと、暴れ疲れて眠る哉太の寝息を聞きながら思うのだ。
けれど未だに眠る彼の首に手をかける事が叶わずにいるのは、やはり自分が母親だからなのだろう。
父親である義昭も同じように苦しんでいるのだと知って、涼子はそっと彼の背を撫でた。
幾分か痩せた、骨が目立って来た肉の感触が印象的だった。
「縄田さん?」
あくる日の土曜日。
休日の病院はそれなりに人気がある。それは精神科の周辺でも変わりは無く、平日には見ないような人影がちらほら散見された。
会社員のような男性、まだ小学生と思しき子供を連れた家族、じっと一点を見つめて微動だにしない高校生くらいの少女。
その、様々な年代の患者が入り乱れる待合で、涼子は綾子と相対した。
綾子は哉太を伴った涼子に気が付くと、文庫本から視線を上げて彼女に声をかけて来た。涼子も、そこで初めて彼女の存在に気付いた。
「縄田さんもここに通ってるの?」
「……ええ、そう」
躊躇いがちに答える。哉太は一人、奥のソファに座って音楽を聴き始めた。すると、涼子は自然、綾子と話し始めなければならなくなる。
静かに、二人は並んでソファに腰かけていた。
「息子さん、どう?」
口火を切ったのは綾子だった。
綾子は哉太にほんの少しだけ視線を注いで、
「うちの娘も、あんな感じだったな」
と懐かしむように言った。
「娘さんも?」
「うん。ちょっと目を離した隙にどこかで飛び降りるんじゃないかって心配になるくらいだった」
それを聞いた瞬間、涼子は堰を切ったように自分の現状を話し始めた。
哉太が起こした事件も、義昭の態度も、自分が背負っている苦労も、全部吐き出した。
「何が間違っていたんだろうって、今でも思うの」
涼子は言う。
「私は今まで、頑張って生きて来たつもりだったの。頑張って頑張って、間違いなんて犯さずに生きて来たって。だけど、自分の子供がああなって、初めて分かった。頑張っても報われない事の方が多いって、幾ら頑張っても間違いを犯す事はあるんだって。私、心を病む人って頑張っていない人達だって……どこかで何か間違いを犯した人達だって思っていたけど、それは違ったんだわ。だって、哉太は十分頑張ったんだから。あのこの頑張りが間違いだったなんて思えない」
彼女は続けた。
「心を病んだ子の親は間違いを犯したんだって、子育てに置いて何かをどこかで間違えたんだって、軽蔑してた。今度は私がみんなから……息子から軽蔑される番なんだわ」
堪らず顔を覆う涼子。
そんな彼女の肩に、綾子がそっと手を置いた。
「縄田さん」
綾子は優しく言った。
「これで、私達は一緒ね」
涼子は顔を上げた。そこにあったのは優しく慈悲深い綾子の微笑みだった。
「お母さん、終わったよ」
診察室が開いて、足取りも軽やかに一人の少女が出て来た。
彼女は綾子の目の前で立ち止まると、涼子に軽く会釈する。
「次もまた土曜日だって」
「そう、ならお母さんが送ってあげられるね」
ならば、この子が綾子の娘か。涼子は驚いた。
三十歳を目前に控えた病気の娘と聞いていたからもっと病人らしい子を想像していたが、ここにいる彼女はあどけなく快活に喋っている。
うちの哉太の方がもっと辛い思いをしているのに、この子は病院に罹る必要があるのだろうか。涼子は憤慨した。
ふと、彼女の左腕が目に入った。
青白い腕。その皮膚にはびっしりと、刃物で切り刻んだ傷跡が残っている。一生消えない傷跡であろう事は明白だった。
ぞっとした。今、目の前に立つ娘のあどけない笑みの底にある、闇を垣間見た気がした。
「それじゃあ、縄田さん。また会社でね」
綾子は娘と共にゆっくり去って行く。
二人の後ろ姿を見ながら涼子はじっとソファに座っていた。
自分もあの道を行くのだ。綾子がかつて通った道、子供の持つ闇と自身が抱える闇へ向かう道を哉太と二人で行くのだ。
綾子は闇から戻って来た。
果たして自分は戻って来られるだろうか。
「呼ばれた」
気付けば哉太が目の前に立っていた。
彼の腕に縋って、涼子は繰り返す。
「大丈夫、大丈夫だからね」
そんな母に息子は一言、素っ気なく返した。
「それ、自分に言い聞かせてるんだろ」
親子は一緒に診察室への道を行く。
"いっしょ"へのコメント 0件