中学校の頃、それは胸から昇ってくる感情をいくつも幾つも飲み込んでいた時期だった。悲しい気持ちでもない、悔しい気持ちでもない、なんていうのだろう、自分の尊厳が踏みにじられた感覚、「え、、」とか「あ、、」とか言葉にならないような気持ち、そういうこと言うのかと言う気持ち、グサリととどめを刺される気持ち、そんな気持ちを幾つも飲み込んだ時期だった。もちろん悔しいこともあった。悔しい気持ちも昇ってきた。しかし胸から上がり、口は通り過ぎ、頭の中で自由になった。悔しい気持ち、時には頭の中で反論し、頭の中で相手の弱点を突き、お前に言われる筋合いはないと処理し、またある時にはそれが怒りになった。悲しい気持ちも昇ってきた。帰り道、昔の友達がみんなで帰っていく。俺は置いて行かれないように、授業が終わると、部活が終わると彼らを常に視線から外さないように追っていた。彼らがのそのそと話しながら裏門の方へ歩いていく。俺は黙ってその後ろをついていく。気がついたら彼ら全員がいなくなっていたこともあった。部活終わり、用具の片付けの当番の後など、不安な気持ちのままバッグを置いている溜まりに走っていくと、彼らのバッグもろとも姿がなかった。ガラリとしていた。いつも帰るのが遅い残り者の部員たちが置いて行かれた俺を悲しそうに見ていた。いたたまれない気持ちに尾を引きながら急いで後を追った。裏門まで急いだ。果たして通学路の先に彼ら集団を見つけた。のそのそのそのそ歩いていた。にくいと思った。こんな奴らとも思った。しかし俺は急ぎ足で彼らの後を追った。俺を置いていった彼らの人間性への怒り、悔しさを噛みしめる。俺は早足で歩く。足の一歩一歩が風をきる。一歩一歩足の先に力が入る。いや一歩一歩が震えている。のそのそのそのそ歩いている。必然早歩きの俺はすぐに追いつく。集団のうちの一人が俺に気づいた。「おお」と小さい声で、追いついたんだねと気にかけてくれる。しかしその声や仕草のどこかが萎縮している。俺を置いていった大多数の手前、置いて行かれた俺に大々的に同情するわけにもいかないのだ。彼の態度には少し安心させられる。俺は彼に感謝している。しかしそれ以外の奴らへは憎しみを持つ。先頭切ってということはないが、やはり口に出さないが俺を置いていくことにある種の優越感、安心感、それも人踏みにじることによって得られる満足を感じながら、俺の存在を無視したやつ、それに賛成しながら自分も同様の満足を感じてるやつ。どっちつかずではあるが、見て見ぬ振りをしてなおかつやはり多少の満足を感じているやつ。どいつもこいつも偽物だ。まともなふりをして人を踏みにじる。なにも悪いことをしていない体で悪に加担する。もちろん立場が変われば俺も同じことをしただろう。しかし当時の俺は被害者だった。ただただ恨みばかりが頭に昇った。頭の中で彼らの人間性を責めた。時には追いついた後で袋叩きにされることもあった。無論言葉の袋叩きである。ただただ無念だった。怒りや悲しみは感じたであろうか。ただただ言葉にならない、それこそ「え、、」とか「あ、、」にしかならない気持ち、無念さが胸につかえた。飲み込むしかなかった。たくさんの無念が沈殿した。悲しくて泣いたことがあったろうか。悔しくて泣いたことがあったろうか。思えばもう何年も泣いた覚えがなかったと思う。感動した、尊敬した、何てこの子はかわいそうなのだろう、俺が泣くのはこんな時ばかりだった。自分のことでは泣いた覚えがないかもしれない。初めて胸につかえた感情を飲み込んだのはいつだったろう。何とも言えない気持ちが沈殿したのはいつだったろう。思い出すのは小学校3年生の時である。どちらかというと快活な子供だったかもしれない。感情を素直に出せる子供だったかもしれない。ある日の給食の時だった。「このクラスで一番のハゲって誰かわかる。」無邪気な、あまりにも無邪気な俺は、坊主頭の室井くんだと言った。「知ってるよ、室井でしょ」単なる笑い話の一つとして、いつもの通り意気揚々と話に乗った。あまりにも無邪気だった。「上から見ればわかるよ」左隣の男の子が言った。右隣の男の子が意味ありげに俺の方を向き、首を持ち上げた。罪の意識がないことは時に残酷である。彼は動物園で目当ての動物が前の人だかりで見えないときのように、ぐうっと首を持ち上げ、どれどれ見えないなと、そしてしげしげと俺の方を見た。俺は彼の顔を見ていた。嘘でしょ、何かの冗談でしょ。まだ無邪気さを保っていた俺は半分不安な気持ちはありながらも、やはり笑いながら、「え、俺じゃないでしょ。そんなはずないでしょ」と彼の顔を見つめた。目を見つめていた。何かを乞うような、願うような目つきだったろう。悲しいかな、彼の視線は俺の目と合うことはなく、無念にも何か上の方を、楽しげに、観覧客のように眺めていた。俺は願った、そんなはずはないでしょう。表面半分笑っていた。皮膚の裏面半分、筋肉はこわばっていた。怯えていた。幼い願いは聞き入れられず、冷酷な裁判官は判決を下した。彼は笑った。ただ笑ったのではなかった。人の弱みを見つけたような笑い、例えば授業中に前の席のこの肩にフケが載っていたときのように笑った。笑うのはしょうがないことだった。この時初めて何かを飲み込んだ。この時胸につかえた感情は何だったんだろう。悲しみでもない、悔しさでもない。笑われた時の俺は、もしかすると笑っていたかもしれない、気にしていない体を装っていたかもしれない。自分自身には全く自覚がないが、それから先、何回も同じことでからかわれていた経験から省みると、きっと周りの人は俺が自分にもわからない感情が胸につかえ、それを静かに飲み込んでいたことなど気づきもしなかったのだろう。向かいの席の女の子が「ええ誰、どういうこと」ときいた。「嘘だろ、それだけはやめてくれ」女子からも同じ辱めを受け、馬鹿にされるのが耐えられなかった。「上から見えばわかるよ」左の男の子が言った。果たしてその通りに、向かいの女の子も首を持ち上げた。ニヤニヤした笑みを含みながら、どれどれと見物した。さっきの無邪気な観覧客と違い、明らかに何か馬鹿にしたい、その馬鹿にできる種を確かめたいという忌むべき好奇心が感じられた。嫌な気分がした。怒りが湧いた。人の嫌がることを、嫌がると知っていながら見物しにくる根性が憎かった。それでもどこかに、何かの間違いだろうと期待していた俺は、やはり同じ懇願するような目で、向かいの女の子の目を見つめていた。「ああー」期待したものが見物できて満足したようだった。うんうん笑いながら頷いていた。また何かが胸の中に沈殿していった。何かの間違いだという期待も切り捨てられた。その一幕の間、首を持ち上げて見物され笑われたとき、俺は自分の目の前の机の模様を焦点を合わせずに見ていた。その後もいつもそうだった。胸で何かを飲込むときはいつも目の前にあるものを焦点も合わさずに見つめていた。視界の縁に黒い幕ができている。中心の色彩が歪む。黒茶の土は黄色がかり、またあるときは赤と青の水彩インクが筆で画用紙に振ったときのようにまばらに散っていた。
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