織田作之助が死んだ。七十年前の一月十日、午後七時十分、享年三十三歳であった。オダサクと言えば太宰治・坂口安吾に並ぶ「戦後無頼派」作家であり、代表作は小説『夫婦善哉』、評論『可能性の文学』である。本当にそれで良いのか。
【織田作之助の現在】
『国文学解釈と鑑賞』平成六年九月号は「無頼派とその周辺」という特集を組んでいて、巻頭に「無頼派の文学について」と題された座談会が掲載されているのだが、その中で織田作之助の名前が出てきたのは、なんと一回のみ。これは流石に笑うしかない。ちなみに唯一の出番は早々と冒頭「無頼派」の由来として「「無頼派」という名前を評論家、文学史家が太宰、坂口、織田作之助らに名付けた」とずいぶん寂しく登場するのだが、よくもまぁその口で言えたものである。
それ以降、「スタンダール」や「可能性の文学」といった、オダサクのキーワードとも言える単語は登場するにも関わらず、彼の名は例にも挙がらない。なお、あまりにもあんまりな様子なので試しに数えてみると、太宰治は六十回以上、坂口安吾は八十回くらい登場する。石川淳ですら十回だ。この座談会は、オダサクの現状を知る上で、極めて価値の高い座談会であったと言えるだろう。
また、最近僕は瀬名秀明の『虹の天象儀』というSF小説を読んだ。オダサクが亡くなる直前にタイムスリップして、「月の虹」を見せるという話で、平成十三年の作品である。オダサクが亡くなった時刻はこの作品で知った。オダサクについて書かれた部分に目を向けると、
「私が若い時分には、すでに織田作は過去の作家となりつつあった。大阪の人情噺を綴った、辛気くさい作家ということになっていたように思う。「夫婦善哉」といったなよなよした小説のタイトルがいけなかったのかもしれない。」
「誰に会いたいのか。ふと、ある名前が口から出かかって、私はそれを吞み込んだ。小学生が知っているはずがない。それに説明を終えるまで、きっと酷く時間がかかる。」
「ここへ来る途中で見た太宰治の「トカトントン」は、二一世紀になっても本屋に行けば容易に文庫で手に入る。だが織田がヒロポンで身を削りながら書いた小説は、もう図書館の倉庫の片隅にしか残っていない。」
死亡時刻を載せるほどの執着を見せる割には酷い言い方だ。瀬名秀明はオダサクが好きなのか嫌いなのか。しかしながら、正におっしゃる通り。オダサクは小学生が知るはずのない、図書館の倉庫にしか残っていない過去の作家なのだ。以上をもってしてオダサクを太宰治、坂口安吾と並ぶ「戦後無頼派」作家などと言ってしまうことに、あなたは違和感を抱かないのか。
とは言っても、僕が織田作之助に出会ったのは、実は大学生の時。それまで僕の人生に彼の名前が出てきた事はやはり一度としてなかった。しかし、ゼミで扱った教材の中に、実に堂々とした表情でオダサクは現れたのである。
その教材は、都市をテーマに様々な近代の作品を集めた短編集で、泉鏡花の『夜行巡査』や志賀直哉の『小僧の神様』、あるいは大江健三郎の『人間の羊』といった誰もが知っているような作品の中に紛れ込むように、織田作之助の『木の都』が収録されていた。有名な作品ばかりを集めた短編集のはずだが、僕にとって織田作之助という名前だけは初めて聞く名前だった。
何の前知識もない織田作之助の作品をいったいどんな感じなのだろうかと読んでみると、たちまちこの作品に惹きつけられ、もう他の作品は目に入らない盲信者となり、気付けばいつの間にか当然のように『木の都』を研究題材に選んでいる自分がいた。
もちろん他の有名作家の作品を選んだら他の人と競合してしまうだとか、物珍しさというか未知のものを面白いものだと勝手に思い込んでしまう僕の困った性質のせいもあったかもしれない。しかしそれでも、これほど瞬く間に虜にされてしまったのは自分自身でも驚きであると同時に、とても不思議な感覚であった。
こう書いて見ると、何か騙されているのではないか、と方々から心配されそうであるが、彼の作品には間違いなく他の作家にない、僕を強烈に惹きつける「何か」があったのだ。研究題材に選ぶ理由としては十分過ぎるくらいである。なお「何か」とは何か、と聞かれても僕には上手く答えることが出来ないのであるが、ブラウザバックするのはまだ待って欲しい。
確かに正直に白状すると、初めて『木の都』を読んだときの感想は、面白いどころか、いや、面白いのか面白くないのかさえ良く分からなかった。この作品は読者に何を伝えたいのだろうか、そもそも何か伝える気があるのだろうか、一見なんということのない出来事の記述にまさか深い意味が隠されているのではないか、と迷推理を飛ばしてしまうほどに、大した感想を持つことができなかった。
さて、オダサクとの出会いはそんなところで、ゼミでの発表は無事に終えたのだが、引っかかる部分は残った。それまで出会うことがなかったのはなぜなのか。さらにまた、そんな作家に途端に魅せられてしまったのも実に腑に落ちない。これは納得いくまで調べる必要がある、という僕の単純な興味が本論の出発点である。
【織田作之助の戦中と戦後と現在】
織田作之助とは果たしてどういう作家なのか、と調べてみるとこれがまた分かりづらい。一般的な織田作之助像として、ドナルド・キーン氏の『日本文学の歴史』を見てみると「太宰治と無頼派」という項で、
「一九四五年(昭和二十年)に戦争が終わると間もなく、いずれも戦前から既に多少は名を知られていた一群の作家たちが、いわゆる戦後文学の作家とは一線を画した独自の作風の小説作品を発表し始めた。この一派に属すると思われる作家は、はっきりと一つにくくることは出来ないが、太宰治、坂口安吾、織田作之助の三人は明らかにこの一派に属し・・・」
とあるように、やはり織田作之助は太宰治や坂口安吾と並んで「戦後無頼派」の一人らしい。「戯作派」と呼ばれることもあるようだが、とりあえずそういった諸派がどういったものかは置いておくとしても、僕の中で織田作之助と「戦後無頼派」という言葉が一致するのには、かなり時間が必要だった。
「戦後」の、太宰治や坂口安吾と並ぶ「無頼派」、というイメージが、織田作之助からなかなか浮かび上がってこないのだ。第一、『木の都』が昭和十九年の作品で、内容も「無頼」なんて言葉とは程遠いものだったのだから、それも当然のことかもしれない。
【太宰と坂口と織田】
織田作之助は大正二年十月二十六日に生まれた。彼の作家としての生活が始まったのは、昭和七年十二月、評論『シング劇に関する雑稿』を「獄水会雑誌」に発表した時であろうか、あるいは昭和十三年六月、処女小説『ひとりすまう』を「海風」に発表した時か。はたまた、昭和十五年六月に『夫婦善哉』が「第一回改造社「文藝」推薦作品」になった時か。いずれにせよ織田作之助の作家生活は戦後よりも戦中の方がはるかに長く、戦後の作家生活は一年半にも満たないという極めて短い期間でありながら、「戦後」作家。普通なら戦中の作家に分類されそうなものだが不思議である。
さらに、教科書に作品が載るような、日本でもトップクラスに有名な作家であろう太宰治や、『桜の森の満開の下』や『堕落論』、『白痴』の坂口安吾。そして、織田作之助。この三人をして「戦後無頼派」の代表格とは、なんとも不思議である。
わざとらしく例を挙げてみたが、おそらく一般的にその名を知られていると思われる二人の作家と同列に語られている織田作之助という人物。もしや、名前を知らなかったのは僕だけなのではないか。いやそんなはずはない。僕は織田作之助と出会って、まずは少しでも彼の情報を得ようと、高校時代に愛用していた国語便覧をとりあえず引いてみたのだが、そこには彼に関する項目は一切無かった。
少なくとも高校卒業の段階では、いや敢えてここで妄言を吐く機会を頂くならば、現代社会に生きる人間にとって、織田作之助に出会う機会は「一部の例外」を除き偶然以外にありえないと言ってしまおう。冒頭に挙げたように無頼派座談会で話題にならない無頼派作家をいったい誰が自ら進んで知る事ができるというのか。
もちろん、太宰、坂口という二人は、オダサクの先輩でありながら戦後の活動期間がオダサクよりも長く、例を挙げたように極めて著名ないわゆる「戦後無頼派」作家であり、オダサクよりも「戦後」という部分では語られることにふさわしい作家だ。そんな二人のオマケとして、「現代小説を語る」、「歡楽極まりて哀情多し」と題し、昭和二十一年に雑誌の企画として開かれた無頼派座談会の仲間ということで、オダサクも仕方なくセットにされているのだ、と考えることもできるだろう。
がしかし、それならば、なぜこの座談会でオダサクが太宰治、坂口安吾と同席しているのか、と考える方が先だ。そこで、この三人がどういった関係であったのかを手っ取り早く知るためには、織田作之助の死に際して、太宰と坂口が即座に書きあげた追悼文を見るのが良い。
太宰治は、昭和二十二年一月十三日付けの『東京新聞』紙上に寄せた、「織田君の死」と題した追悼文において、
「織田君は死ぬ氣でゐたのである。私は織田君の短編小説を二つ通読した事があるきりで、また、逢つたのも、二度、それもつい一箇月ほど前に、はじめて逢つたばかりで、かくべつ深い附合ひがあつたわけではない。
しかし、織田君の哀しさを、私はたいていの人よりも、はるかに深く感知してゐたつもりであつた。(中略)死ぬ氣でものを書き飛ばしてゐる男。それは、いまのこの時代に、もつともつとたくさんあつて当然のやうに私には感ぜられるのだが、しかし、案外、見当たらない。いよいよ、くだらない世の中である。」
と、太宰は織田の後を追ったのではないかと思わせるほど強い同情と哀悼の意を表し、最後は「織田君!君は、よくやつた。」と締めくくっている。
遅れて坂口も『改造』昭和二十二年四月号に掲載された「大阪の反逆」で、
「織田が革のジャンパーを着て、額に毛をたらして、人前で腕をまくりあげてヒロポンの注射をする、客席の火を消して一人スポットライトの中で二流文学を論ずる、これを称して人々はハッタリと称するけれども、かういふことをハッタリの一語で片づけて小さなカラの中に自ら正義深刻めかさうとする日本的生活の在り方、その卑小さが私はむしろ侘びしく、哀れ、悲しむべき俗物的潔癖症であると思ふが如何。」
と、これはまるで織田作之助の存在そのものを、坂口がそのまま活字にしたような追悼文で、オダサクの死については全く触れていないのも、まだ信じられない、といった様子を感じさせる。
冒頭の座談会で地を這う姿を確認された、いや、ほとんど行方不明の織田作之助だが、続く総論「無頼派の文学-昭和二十一、二年-」では、
「織田の死を悼んで、太宰は「織田君の死」を書き、安吾は「大阪の反逆」を書いた。(中略)彼等三人、交わりは淡かったが、文学上は深く許し合っていた、ということであろう。彼等三人は、主張においても、作風においても、極めて個性的であったが、<無頼派><デカダンス><戯作者>等の概念の交感によって、一つの共通の傾向を持つかのようであった。彼等三人の鼎談が、昭和二十一年の終りに立続けに行れたのも、故なしとしない。」
と、なんとか話題になっているように、やはり追悼文を見れば、曲がりなりにも織田作之助が「戦後無頼派」として、太宰、坂口と並んで語られる資格のあったことは揺るぎない事実として確認できる。
さて、「彼等三人の鼎談が、昭和二十一年の終りに立続けに行われたのも、故なしとしない」ということなので、その座談会に目を向ける必要があるだろう。
織田作之助は参加メンバー中最年少でありながら、「現代小説を語る」では、大部分を占める女性に関する話題の合間に、当時の様々な小説から互いの作品に至るまで、気兼ねなく批評しあっており、さらに「歡楽極まりて哀情多し」で、酒を飲みながらくだらない話を延々と続ける様子は、数年来の仲間のようで、遠慮や違和感なんてものは微塵も感じない。
後世にまで名前が残る作家と、これほどフランクに座談会で語り合うなど凡百のありふれた作家には、なかなか出来るものではない。つまり織田作之助は凡百の作家ではなく、例え現在置かれている状況が不遇であったとしても、少なくともこの時の彼は坂口、太宰と実力を認め合い、肩を並べる事に何の異論も無い人物だったことは、否定出来るものではないだろう。
では、実際に織田作之助はどれほどの作家だったのか。次はそれを見ていくことにする。
"Natural Born Fairies ~織田作之助について①~"へのコメント 0件