柳沼第一中学校の2年2組の教室の隅で、冴木沙菜が複数の女子生徒に囲まれている様を、僕は離れて見ていた。
沙菜とは1年生の時から同じクラスだった。初めて入った中学校の教室でその姿を確認してからずっと、僕は可能な限り彼女を視界に収める様にしていた。
冴木沙菜の右の瞼は機能不全を起こしていた。まともに開く事が出来ずに、眉も巻き込んで常に下向きの三日月を浮かべていた。左目はそれを補うかのようにぱっちりと開き、活力を漲らせて輝いていた。整った顔立ちが右側で崩れている様は自然と人目を集めた。本人の意思に拘わらず不満や皮肉を浮かべるので、繊細な人達には棘になる様だった。
その風貌故か話しかける者も少なく、沙菜は左目も閉じて頬杖をついて机に向かっている事が多かった。席替えでどんな位置になろうと、僕は彼女を見続けた。
1年生の頃は孤独の世界で右の前髪を指で弄んでいるばかりだった沙菜を、目の敵にする女が同じ教室に収まってしまった。春田は沙菜のアシンメトリーな顔が気に入らなかった。それに対して沙菜は左目でも春田を睨み返したために、集団での攻撃を受ける事になってしまった。
授業中に消しゴムの破片や紙くずを投げつけられる。机の横にかけた荷物は蹴落とされる。筆箱の中身は彼女達の共有財産にされる。体操服に着替えようとするところにスマートフォンのカメラを向けられる。今は教室の窓側の隅で、春田達に囲まれながらスカートを捲り上げられ、その下のハーフパンツもずらされて、裾のゴムがたわんだ白いショーツを露わにされていた。
沙菜は抵抗はしつつも真っ向から対立することはしなかった。友人らしき交友関係は確認していないが、教師などの大人を頼ることもしていなかった。彼女の右側が他人を信用させないのだろうか。左側の強い意志が非暴力の抵抗を選んでいるのだろうか。予鈴が鳴ると春田は包囲網を解いた。間もなく教員が入ってきた。あの狡さが断罪の証拠を掴ませないのかもしれない。沙菜は乱れた服を正して席に戻った。
沙菜は泣くことも怒ることもなく登校を続けている。何をされても反撃はせずに、カメラを向けられたら顔を隠す、教科書を隠されても教師に言い訳をしない。その右の瞼を無理矢理持ち上げられても、振り払って睨み返すのみだった。強靭な意志と高潔な精神が沙菜を支えているのかもしれなかった。
初夏のある日に隣のクラスの男子生徒である、高見裕一が教室に入ってきた。その理由など知らないが、丁度春田達が沙菜のシャツを無理矢理引っ張って、白い素肌と灰色のジュニアブラジャーを露出させて、それを映像に収めようとしているところだった。
高見裕一が春田と沙菜の間に割って入った。教室内の全員が虚を付かれた。何をやってるんだと、怒り心頭という感じだった。集団の力でしらばっくれて追い出そうとする春田達だったが、高見裕一は全く退かなかった。沙菜はシャツを直しながら左目で高見を見ていた。
予鈴が鳴っても高見は春田達を解放しなかった。教室に教員が入ってきて、自分のクラスに戻るよう促しても、岩の如く高見は動かなかった。自分が目撃したものをありのまま暴露して沙菜以外の全員の罪悪感を刺激した。面倒な問題を一旦見なかったことにして収める選択肢を頑固な高見に奪われた教員は、隣のクラスの教員まで巻き込んで事情聴取を始めた。
その事件から4ヶ月が経過した。春田達は沙菜に近付けなくなっていた。その動向を厳しく教員達に見張られる様になった。2年2組には常に大人が配備された。それまでの間には匿名の告発書や一人ずつへの聞き取り、PTAを巻き込んでの説明会などが行われた。僕はずっと沙菜を見ていた。最初の頃は本当に居心地が悪そうに頭を抱えていた。顔を青くして少し痩せた様にも見えた。しかしそんな沙菜に毎日の様に高見裕一が関与してきた。教員達の目が届かないところには常に高見と僕の目があった。沙菜への八つ当たりじみた報復は行われなかった。そんな日々が続くにつれ、僕は初めて沙菜の笑顔を見た。高見と話して笑っていた。高見の声は大きいが、沙菜の声は透き通っていて控えめだ。内容はわからなかった。なんだか僕は沙菜じゃない人を見てる様な気分になった。沙菜が笑うところなど見たことがなかった。
2人は登下校の時も一緒にいることが増えた。高見裕一以外に沙菜の交友関係は増えなかったが、春田という病原菌を取り除かれて沙菜は健康になった様だ。左目の輝きが増していた。
ある日の午後に、沙菜が校舎裏の渡り廊下の掃除を1人でしていた。流石の高見も掃除を抜け出すのは咎められたのかもしれない。春田達にそんな自由はもう与えられない。僕は沙菜について行って声をかけた。今まで大変だったみたいだけど、もう大丈夫?
沙菜の左の眉が歪んだ。上手く伝わらなかったのかと思って、もう春田達が近寄らないから安心だよね、と言い直した。
「何?急に。なんで今さらそんな事言ってくるの?あんたずっと私の方見てたけどなんとも思わなかったの?あんたも春田が怖くて何もしなかったんでしょ?人がいじめられてるとこじっと見てただけの癖に今さら善い人ぶらないでよ!1年の頃からずっと思ってたけど、じーっとこっち見てくるの本当に気持ち悪いから!近寄んないで!」
僕は、何が。なんなのか、わからなくなって。いつの間にか、背中と校舎がぶつかった。荒い息を整えた沙菜の左目が、最後に僕を睨んだ。
いつの間にか家のベッドにいた様な。去っていく沙菜の背中を見た様な。思い出すだけで全身の肌の裏を掻き毟られる様な感覚に襲われた。
次の日から僕の体は動かなかった。何を見ても何も見えなかった。母親の声で学校で何かあったのかと聞かれた。あったと思うが、とても説明は出来なかった。どれだけ経ったかわからないが、ようやく体が動いたと思ったら、日曜の夜になっていた。
教室に行った。冴木沙菜が高見裕一と笑い合っている。教壇の横にパイプ椅子を置いて教員が座っていて、窓側の隅で春田達が縮こまって自分達の上履きを睨みつけている。
自分の教室に戻る高見を見送るために、沙菜が扉の方に近付いた。教室に踏み込む前にその様をずっと見ていたが、沙菜はほんの僅かばかりも僕を見なかった。彼女の世界から僕がいなくなってしまった事がはっきりとわかった。
今日は卒業式だった。同じクラスに高見裕一と冴木沙菜がいた事はわかっているが、今日どんな髪型をしているかさえろくに覚えていなかった。
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