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浸水

八雲鬱邦

その出来事は、神保町のある歴史深い古本屋にて起こりました。
それはそれは、陽射しにやかれて浮いては流れる汗のようにじわり、じわりと嫌な感覚の残る、透明で奇妙な話に御座います。

タグ: #幻想怪奇 #怪奇 #掌編小説

小説

1,052文字

では一つ小噺を。

えぇ、これは神保町の、歴史ある古本屋で起きた一幕に御座います―

 

 

眩しい5月だった。

麻のトートバッグを片手に、僕は電車を乗り継いで神保町にやって来ていた。

汗が額を、目を、鼻を流れてアスファルトへ落ちる。背中にシャツが張り付いて居心地がほんの少し悪い。

日光が包丁のように地面へ突き刺さる中、僕は肩に食い込むバックの手持ちを、指先で肩との隙間を開けながら、もう少し歩みを進める。

まだ5月だといいながら、その日差しは命すら嘲笑うように奪いさり、秘密を解き明かしてしまうように真っ白に照らす。野蛮な日だった。

 

古本探しと散歩の日を間違えたか、そんなことを薄ら薄らその暑さに焼かれる脳で考えながら、目的の古本屋の前へ辿り着く。

ガラリ。

昔ながらの引き戸を開け、ざらりとした地面の店内へ足を踏み入れる。

冷房が聞いているのだろう、足元から風が入り、上がっていた体温を絡めて奪い取っていく。店内は本に配慮しているのか、若干薄暗い。それでも外が明る過ぎたのか、少しだけ瞼を閉じて、その仄暗さに目を慣れさせて進む。

指先でシャツを仰ぎつつ、並ぶ本棚の前へ歩いては彼らの表紙を眺める。

ふと、指先をかけた背表紙。

―冷たい

手がいつの間にか離れていた。

冷たいというより、水を吸っている。

今度は手に取って、その表紙の面を指先でそっと撫でる。表紙は掠れ、本自体も相当古いのであろう欠けも見られ、乾燥してしまった古本。

それでもその奥に冷たさと水を指先が感じ取る。

ぱらりと捲れば、やはり紙の一枚、濡れてはいない、それでも中に湿っぽさを感じる。

店内の冷たさが原因だろうかと思いつつ他の本を手に取るも、この本のみが水分を含んでいる、否、ただの湿っぽいとは違うことが増すばかり。

 

ポタリと。

本から水滴が落ちた。

あぁついに。

 

 

見ているのを気が付かなかった。

手が冷たかった事に。

指先が沈む事に。

その指が押し付けられている事に。

指は膨れ上がる。徐々に。

スポンジ。

声は、喉から出ていなかった。

誰にも聞かれることはなかった。

 

 

大きく揺れた。

窓の外を眩しい世界が、フィルムの様に流れていく。乗り過ごしてしまったのだろうか、目が滑っているだけだろうか。

真っ白に照らされた眩い世界に目を細め、薄暗い車内で僕は、本を開いては、その頭を壁にもたれかける。

流れる景色は静止画に近づいて行く。

僕は隣に置いていたトートバッグを、肩にかける。

手持ちは肩に食い込むことは無かった。

© 2026 八雲鬱邦 ( 2026年4月20日公開

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