では一つ小噺を。
えぇ、これは神保町の、歴史ある古本屋で起きた一幕に御座います―
眩しい5月だった。
麻のトートバッグを片手に、僕は電車を乗り継いで神保町にやって来ていた。
汗が額を、目を、鼻を流れてアスファルトへ落ちる。背中にシャツが張り付いて居心地がほんの少し悪い。
日光が包丁のように地面へ突き刺さる中、僕は肩に食い込むバックの手持ちを、指先で肩との隙間を開けながら、もう少し歩みを進める。
まだ5月だといいながら、その日差しは命すら嘲笑うように奪いさり、秘密を解き明かしてしまうように真っ白に照らす。野蛮な日だった。
古本探しと散歩の日を間違えたか、そんなことを薄ら薄らその暑さに焼かれる脳で考えながら、目的の古本屋の前へ辿り着く。
ガラリ。
昔ながらの引き戸を開け、ざらりとした地面の店内へ足を踏み入れる。
冷房が聞いているのだろう、足元から風が入り、上がっていた体温を絡めて奪い取っていく。店内は本に配慮しているのか、若干薄暗い。それでも外が明る過ぎたのか、少しだけ瞼を閉じて、その仄暗さに目を慣れさせて進む。
指先でシャツを仰ぎつつ、並ぶ本棚の前へ歩いては彼らの表紙を眺める。
ふと、指先をかけた背表紙。
―冷たい
手がいつの間にか離れていた。
冷たいというより、水を吸っている。
今度は手に取って、その表紙の面を指先でそっと撫でる。表紙は掠れ、本自体も相当古いのであろう欠けも見られ、乾燥してしまった古本。
それでもその奥に冷たさと水を指先が感じ取る。
ぱらりと捲れば、やはり紙の一枚、濡れてはいない、それでも中に湿っぽさを感じる。
店内の冷たさが原因だろうかと思いつつ他の本を手に取るも、この本のみが水分を含んでいる、否、ただの湿っぽいとは違うことが増すばかり。
ポタリと。
本から水滴が落ちた。
あぁついに。
見ているのを気が付かなかった。
手が冷たかった事に。
指先が沈む事に。
その指が押し付けられている事に。
指は膨れ上がる。徐々に。
スポンジ。
声は、喉から出ていなかった。
誰にも聞かれることはなかった。
大きく揺れた。
窓の外を眩しい世界が、フィルムの様に流れていく。乗り過ごしてしまったのだろうか、目が滑っているだけだろうか。
真っ白に照らされた眩い世界に目を細め、薄暗い車内で僕は、本を開いては、その頭を壁にもたれかける。
流れる景色は静止画に近づいて行く。
僕は隣に置いていたトートバッグを、肩にかける。
手持ちは肩に食い込むことは無かった。
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