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夜に融ける(前編その2)

浅谷童夏

長いのでいくつかに分けて投稿します。今回は、前作に登場していない新たな登場人物の視点で書いています。

タグ: #純文学

小説

6,529文字

昼休みに入って十五分経つのに、頼んだ出前がまだ届いていないことに苛々しながら、久保智司は月始めのレセプトチェックをしていた。院長室のドアがノックされてから小さく開き、顔をのぞかせた田村ゆき江が「ちょっと、先生」と妙に声をひそめたので嫌な予感がした。出前が到着したのではなさそうだった。

「何?」

「警察の方が来られました」

マジか、と小さくため息をついた。

「じゃ、会議室にお通しして」

五分後、久保は椅子から立ち上がった。年に一、二回ある例のやつ。白衣の裾をパンパンと叩いて皺を伸ばし、院長室の外に出た。廊下の端の会議室のドアが開いていて、中のパイプ椅子に二人の制服の警官が並んで腰かけているのが見えた。事務局に引っ込んだゆき江の背中に向かって言う。

「出前はまだなの? 俺、腹減ってるんだけど」

「もうちょっとで届くって連絡がありました」

「食べる前にあれかよ。最悪だよ。マジ勘弁してほしいわ」

くそ、と小声で呟きながら、久保は会議室に入った。

「先生、どうもお忙しいところをすみません」

二人の警官が椅子から立ち上がって頭を下げた。一人は三十代半ばくらい。自分と同じくらいの年齢だろうか。もう一人はそれよりもやや若い。この二人とはこれまでにも何度か顔を合わせたことがある。久保も頭を下げながら言った。

「今は休憩中なんで。大丈夫です」

「食事中でした?」

「いや、これからですが」

「それは本当に申し訳ありません。タイミング悪くて」

「まあ、大丈夫ですよ。もう何度目かですし」

「ありがとうございます。では、すみませんがご協力お願いします。先生の患者さんと思われる方の確認なんですが、お願いできますか?」

「はい。いいですよ」

「それじゃ、早速これを。すみません」

若い方の警官が、テーブルの上に写真を数枚並べた。監察医の作成したカルテも添えられている。腐乱して黒ずんだ顔写真。口をぽかんと開け、白濁した目を見開いている。顔面の皮膚はまだ残っていて全体の輪郭も崩れてはいないから性別、それにおおよその年齢もわかる。おそらく湧いていたはずの蛆は、きれいに取り除かれている。変わり果ててはいるが知っている男の顔だった。あのじじいだ。無意識に生前との比較をして気分が悪くなった。閲覧注意。ただただ醜く、おぞましく、グロテスク。透明なビニール袋に入った、黴で黒ずんだ部分入れ歯もテーブルの上に置かれた。自分が作ったものではないが、これにも見覚えがある。監察医のカルテと、院内カルテに記載されている口腔内の所見も一致している。

「ええと、阿曽浩二さんです」

「間違いないですか?」

「はい。間違いないです。この患者さんは何というか、ちょっと変わった人だったんでよく覚えています。数年前は月に何度かはうちに来てましたけど、この一年くらいは来てなかったんじゃないかな」

「ありがとうございました。助かりました。じゃ、先生、すみませんがこちらにサインをお願いします」

捜査極力の謝礼がほんの雀の涙ほど出るはずだが、そんなものは別にどうでもいい。だが、あの面倒臭くて忌々しい阿曽浩二が死んだのは、大いに憂さが晴れる出来事だった。警察官たちの目の前で、ざまあ、と思わず久保は口に出しそうになった。差し出された書類にサインをし、警察官が帰ったのと入れ替わりに、出前の配達人が医局の裏口に現れた。

「こんにちは。寿庵です。すみません、遅くなっちゃって」

「はい、ご苦労様です」田村ゆき江が受け取って料金を支払った。

「こういうときに限ってづけ丼とか最悪」

久保はぼやいた。ゆき江は黙って院長室のテーブルの上に丼を置いた。

「ゆき江さん何頼んだの?」

「のり弁です」

「交換してくれない? こっちのが高いんだよ。差額はいいからさ」

「私、今日のり弁の気分なんですけど」

「じゃあいい」

久保はゆき江に向かって、顎をしゃくって院長室から出ていけと示した。自分より十五歳年上のこの女に強く出られない自分に腹が立った。

丼の蓋をあけると、飯の上に載った黒ずんだマグロのづけが思い切り食欲を減退させた。頭を振って先刻の記憶を頭から追い出す。

阿曽浩二のことは鮮明に覚えている。自己負担金なしの生活保護受給者のくせに、問診票の職業欄には作家と書いていた。

何が作家だ。無職と正直に書け。

ふだんから生活保護の患者が久保は大嫌いだった。彼らは無断キャンセルや遅刻が多いし、歯もろくに磨けていないやつらが多い。生活保護だからそんな連中が多いというより、そんな連中だからだらしなく無計画に生きて、その果てに生活保護になるんだろう。あいつらは努力をしない人間の成れの果てだ。社会の寄生虫だ。努力をしてきちんと高い税金を納めて生活している人間と対等に扱われる資格など無いやつらだ。

一年浪人して偏差値低めの、その分学費バカ高い私立の歯科大に入学し、二年留年、卒業してから国家試験浪人を一年して歯科医師国家試験に受かった。歯科医師になってからは三年間勤務医として働き、三十歳でクボ・デンタルオフィスを開業した。皮膚科の開業医である父親に開業資金の大部分を出してもらったとはいえ、開業したのは同期の中でも早い方だった。苦労や挫折も多かったが、頑張って乗り越えてきた。払った努力の当然の対価として今がある。立派じゃんオレ。親孝行じゃん。

そういえば阿曽浩二は開業した翌月、初診の患者としてうちに来たんだった。全く、ろくな患者ではなかった。いつも混んでいる時間帯に急患で来院するくせに、痛みがなくなると自己判断で勝手に治療を中断して来なくなった。そのため生保の赤スタンプを押したカルテに、更に、(要注意患者)という意味の黄色のシールを貼っていた。親から歯磨きを全く教わらないで育ったんです、小さい頃から歯がボロボロで、と哀れっぽい顔をして言っていた。親知らずを含まない標準的な成人の歯数は上下合わせて二十八本だが、阿曽の歯は初診の時点で十八本しか残っていなかった。部分入れ歯も合わなくなっているのを、無理して義歯安定剤でべたべたにしてくっつけて使っていた。あれではまともに食事をとれていなかっただろう。自業自得ってことだ。

一年くらい前に彼が急患で来た時は、右上の奥歯が完全に崩壊し、炎症を起こして化膿していた。結局、その日は崩壊していた右上の奥歯を抜いてやった。阿曽浩二は極端な痛がり屋で、ちょっと麻酔をしただけでも痛っ、と大声を出し、ビクンビクンと大げさに身体を動かすのですこぶるやりにくかった。思わず頭にきて、麻酔は半分の量に減らして、さらに歯を抜く時にわざと痛みが強くなるように、ことさらゆっくりと鉗子をかけた。抜けた瞬間など阿曽は子供のように大きな泣き声を上げたので、笑いを押し殺した。

「あいつ麻酔のときに文句言うし餓鬼みたいにびくつくから、むかついて麻酔減らして、わざと痛くしてやったわ。でもまさかあんな泣くとは思わなかったな」

治療が終わったあと、衛生士の小田綾香にそう言うと、彼女は「可哀そう。先生、いじわるです」といって眉をひそめた。その表情にぐっときた。美人ですらりと背が高く、スタイルが良い。

綾香を久保は気に入っていた。

「あの状態では、阿曽さん、あと五年もしたら総入れ歯かも」

もう一人の歯科衛生士の三浦真由が横から言った。こちらは生真面目すぎるし、やや太り気味なので、全く異性としての興味は持てなかった。

「その前に死ぬんじゃねえか。あのおっさん、歯もだけど体もボロボロそうだしさ。典型的なセルフネグレクトじゃん」

俺の予言は見事に的中したわけだ。小田綾香があの時のままの姿で、今でも変わらず勤めていたら、まだ彼女との関係があんなことにならなかったら、これは格好の話題になっただろうに。今頃あの女はどうせ俺から巻き上げた金でガキにブランドの子供服とか着せてやがるんだろう、と久保は悔しいとも虚しいともつかない気分になった。

その日、阿曽について彼女と交わした会話は、記憶に鮮明だ。

「でもあの阿曽さん、ちょっと意外だったんですけど」

「え、なにが?」

「全然話が通じない変な人って思っていたんですけど」

「まあ、実際そんな感じだよな。あの人変だよ。確かに」

「私がさっき、待合室に呼びにいったとき、あの人、本を読んでたんですよ」

「へえ」

「しかも、なんかすごく熱心に読んでて、私が何回も名前呼んでるのに、聞こえなかったみたいで。それで、私、すぐ近くまで行って、耳元で阿曽さんって呼んだんですよ」

「ふん」

「そしたらやっと気がついて。それで、すみません、熱中して読んでいたから気がつきませんでした、とか謝られて」

「そういえばあいつ、問診票の職業欄に、作家だって書いててさ、あれ絶対冗談だろって」

「まあ……それで、阿曽さん、読んでた本の表紙を見せてくれて」

「へえ。どんなタイトルだったの?」

「いや、それがなんか、すごくボロボロの本で、タイトルが、確か《百年の孤独》とかいう本でした」

「何だそれ」

「阿曽さん、何回も読み返してるとか言ってました」

「へえ。本は知らんけど、そういえばそんな名前の酒が、確かあったよな。九州の酒だったよう気がする」

「あ、それなら私も知ってます。大分かな、いやそれとも宮崎じゃなかったかな。なんか有名なお酒ですよ」

次の予約患者がキャンセルになって空き時間ができていたこともあって、そこから久保と小田綾香は、診療室内でひとしきり酒の話題で盛り上がった。久保は最近自宅の最寄り駅近くで見つけた、新潟の地酒をたくさん置いている店について、上質の酒を安く飲めて料理も美味しいのだということを綾香に話した。

「へえ、今度行ってみようかな」

行ってみようかな、じゃなくて、ここは素直に、連れて行ってください、だろ。でもそう言わないプライドの高さも悪くないんだよな、と思った。あの時こちらに向けていた綾香の上目遣いの視線には、確かに媚びが滲んでいた。

それなのに、食事や飲みに誘う度に、小田綾香は用事があるだの、体の調子が悪いだのとのらりくらりかわした。その挙句、新潟の地酒の店の話をしてから半年もしないうちに、実は結婚するので、あと二か月で辞めたい、と急に言ってきたのだった。既に妊娠十二週だという。辞められて迷惑というのはもちろんあるが、それよりも自分が口説いていたこの女が、別の男とよろしくやって、結婚もしないで妊娠していたということが許せなかった。腹立たしさのあまり思わず「そういうのすっげえ迷惑だから、遅くとも半年前には言えって、スタッフミーティングでも言ってきたよな、お前何聞いてたの」と怒鳴ってしまった。綾香が唇を噛みしめながら黙っているので、腹立ちまぎれにさらにいくつか罵声を浴びせてしまった。頭に血が上るとつい余計なことを言ってしまうのが自分の悪い癖だ。綾香は二か月どころか翌日からいきなり来なくなった。それが悪夢の発端だった。予想外に大変なことになってしまった。辞めたのが綾香一人だったらまだ良かったのだが、その翌週に、小田綾香と仲の良かった三浦真由まで辞めてしまった。しかも三浦真由の退職願いに書かれていた退職理由は、院長のパワハラに我慢に我慢を重ねてきたがもう耐えられなくなった、というものだった。頭に血が上って、ふざけんな馬鹿野郎、と怒鳴った。三浦真由は怯まなかった。こちらを挑戦的な目で睨み返してきて、彼女は言った。

「綾香ちゃんと私とで、先生訴えますから」

いったいこいつは脈絡なくいきなり何を言い出すのだ、と思った。

「もう弁護士にも相談してますので」

「はあ、何わけわかんないこと言ってんの。頭おかしくなったの?」

「先生があんなひどいことを綾香に言わなければ、綾香だって先生を訴えるなんて言いださなかったと思いますよ。でも先生のことは二人とも大嫌いでした。私だって、ずっと前から辞めたいと思ってました」

「はあ? ふざけんのも大概にせえよ、おい」

「先生、阿曽浩二さんって患者さん憶えてますよね?」

「あ? あの生保の、口ん中ぼろぼろのおっさんか。あいつがどうした」

「この前阿曽さんに酷いことをして笑ってた先生を見て、ああもうこんな人間にはついて行けないって思いました。それで決心がつきました。やめるタイミングを待っていたんです」

「何言ってんだ馬鹿。お前らだってあんとき笑って見てただろうが。ふざけんな」

「先生が怖いから調子合わせてただけです。いつも我慢してました。先生の態度、ほんとに、心の底から不愉快でした」

唖然として立っている久保に向かって真由はそう言い捨てて、ロッカーの中の私物をかき集めて診療所を出て行った。

クボ・デンタルオフィスのスタッフは院長の他は、衛生士は小田綾香と三浦真由の二人、それに受付兼助手の田村ゆき江の四人だけだった。衛生士が二人ともいきなり辞めてしまっては診療が回せない。こちらこそ二人を契約不履行で訴えてやろうかと思いながらも、さしあたってはやむなく診療を縮小して対応しなくてはならなかった。予約患者に平謝りして、こちらからキャンセルしたり予約日時を組み直したりしてもらった。その業務を一手に引き受けてくれた田村ゆき江がいなければしばらく休診にせざるを得なかっただろう。幸い新しい衛生士を何とか一人雇うことができて診療の継続は何とかなったが、以来、久保はゆき江に頭が上がらなくなった。新しい衛生士は五十過ぎのババアで色気もクソもないが、背に腹は代えられなった。

訴えるというのは脅しではなかった。翌週、二人の弁護士という人物から診療所に封書が届いた。小田綾香に対するパワハラ、セクハラ、三浦真由に対するパワハラ、それによって二人を退職に追い込んだ行為に対する慰謝料として合計三百万を請求されていた。全く身に覚えが無いことで、まさに青天の霹靂だった。だが、裁判所から訴状が届き、出頭を命じられた。弁護士からの手紙には、訴えの根拠となる証拠もあると書かれていた。綾香と真由に完全に嵌められた、と思った。裁判所に提出するセクハラの証拠として、自分が綾香を何度か繰り返し誘ったLINEのやり取りのスクリーンショットが、またパワハラの証拠としては退職を申し出てきた綾香と真由を怒鳴った時の音声の録音があるという。

これはまずい。まさか録音されていたなんて思いもしなかった。致命的だったのは真由に「クソ女」「このブス」「殺すぞお前」と怒鳴ってしまったことだ。それに、行きつけのバーで酔っている時に、衝動的に綾香のLINEに、抱かせてぇ、という一文に、投げキスをする男のエフェクトを添えて送ったことがあった。

久保は慌てて知り合いの弁護士に相談したが、相手を契約不履行で訴え返しても裁判は長くかかるし、証拠を出されては間違いなくこちらが不利になるから、さっさと和解に応じた方がいいと言われた。結局、裁判所の和解勧告に応じ、二人にそれぞれ七十五万ずつ、合計百五十万を払った。

診療所を出て行く時、三浦真由は最後にこう言った。

「先生がさんざん馬鹿にしてるあの阿曽さんは、人として先生よりもずっと立派ですよ」

これまで女性からそこまでの侮辱を受けたことはなかった。あの言葉は一生許せない。その阿曽浩二が孤独死して腐乱死体で発見されたとは。天罰だ。俺のプライドを傷つけた罰だ。

クボ・デンタルオフィス経営は開院以来何の問題もなく順調にいっていたというのに、阿曽、お前のせいでごたごたして、こっちは胃が痛くなる思いをした。いい気味だよ、ざまあみろ。お似合いの姿だったじゃねえか。何が百年の孤独だ。今夜はいつものバーで祝杯をあげてやる。

久保智司は歪んだ笑みを浮かべた。だがふと思った。あの男が幽霊になって俺のところに現れたらどうしよう。久保は小さい頃から、幽霊だの心霊現象だのといった類の話が極端に苦手だった。遊園地のお化け屋敷も大嫌いだ。再び脳裏に浮かんだどす黒い写真の顔を、首を振って追い払った。いい年した大人が何を怯えてんだ。自分に腹が立った。そうだ、これからは枕の下に抜歯鉗子を置いて寝よう。もし奴が化けて出てきたらそれをカチカチ言わせてやる。ひいひい泣いた自分を思い出しやがれ。

© 2026 浅谷童夏 ( 2026年1月2日公開

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