風が吹くと、山の木々は一斉に身じろぎをする。枝と枝、葉と葉とが触れ合い、そのたびに乾いた、しかしどこか湿りを含んだ音のさざ波を生む。それは人の言葉ではないが、晩秋の日においては確かに歌のように聞こえた。常緑樹は色を失わぬ代わりに、季節の深まりを音で語るのだと、誰に教えられるでもなく、村の者たちは知っていた。
山裾に寄り添うようにしてあるその村では、多くの家の軒先に渋柿が干されていた。縄に吊るされた柿は、昼の光と夜の冷気を往復しながら、少しずつ甘さを内側に溜めていく。木造家屋の壁や柱は新しいものではないが、干し柿の橙色が添えられることで、慎ましく、しかし確かな生活の気配を漂わせていた。
まだ幼い怡兎(いと)という子供が、田畑の間を縫うように伸びる畦道に座っていた。膝を抱えるでもなく、足を投げ出すでもなく、ただそこに置かれたように座り、囀る雀のことばに耳を傾けている。雀が何を語っているのか、怡兎自身にも分かっているわけではない。ただ、その音が意味を持っていることだけは、疑いなく信じていた。
怡兎の目線の先には「亀山」と呼ばれる大きな山があった。亀山は標高一九九四メートル、恰幅の良い山体を持ち、村を覆うようにそこに在っている。村の周囲にある木々が常緑樹を主としているのに対し、亀山の斜面には落葉樹が多い。そのため、秋が深まるにつれて、山肌は赤や黄、褐色の層を重ね、まるで筆で塗り重ねられた立体的な絵画のような様相を呈するのであった。
怡兎はそれをしばらく眺めてから、すく、と立ち上がった。そして何のためらいもなく、その場で立小便をした。空はどこまでも青く、雲一つない快晴で、亀山の頂上のほぼ真上に太陽が南中している。その配置は、偶然にしては出来すぎており、幼い怡兎の目には、山と太陽が向かい合っているように見えた。それはたしかに、壮観であった。
怡兎の住む山村は安行と呼ばれている。安行の人々は、亀山を依り代とする自然信仰を古くから受け継いできた。亀山のふもとには社があり、その名を「ころこる神社」という。ころこる神社は、外から来た人間が見れば、特筆すべき点のない、どこにでもある神明造の本殿と拝殿を持つ社にすぎない。しかし村人の間では「ころこるさん」という愛称で呼ばれ、祭りや寄り合いの際には、自然と人々が集う場所であった。
今より二十年ほど前、一人の青年が学問のために村を出た。彼は都心にある国立大学で建築学を学び、やがてそのまま研究職に就いた。都市の中で、建物と人の流れ、時間の積層を観察する日々が続いた。
彼の名は亀井利之(かめいとしゆき)という。村の長老の息子であり、その長男であった。亀井家は代々、神職に就くことを当然の務めとしてきた家系である。そのため、村を出たとはいえ、利之はいずれ安行に戻る運命にあった。
利之は各地の現場を巡り、都市や建築に関する知見を深めていった。しかし、そうした経験を重ねるほどに、逆説的に、故郷である安行町の行く末が気にかかるようになった。山に囲まれた盆地にある小さな村。人口は減り、若者は出て行き、残るのは年老いた者たちばかり。どこからどう見ても、いつ廃村になってもおかしくない場所であった。
利之はそれを思ったとき、ようやく決心を固めた。都市に留まる理由よりも、帰らねばならない理由の方が、重くなったのである。
利之が安行町に戻ると、長老をはじめとする村民たちは、まるで英雄の凱旋であるかのように、ころこる神社の境内に集まった。焚き木が組まれ、かがり火が焚かれ、その明かりの中で酒が振る舞われた。
利之は、過剰な祝福を受けることに居心地の悪さを覚え、自分からは多くを語らなかった。ただ拝殿の横に置かれたベンチに腰掛け、注がれるままに酒を飲み、薪能の灯りに照らされた境内をぼんやりと眺めていた。村民たちの笑い声と、木が燃える音とが混じり合い、夜はゆっくりと更けていった。
そのとき、怡兎が境内に現れた。
小さな体で、利之を下から覗き込むようにして言った。
「ねえおにいさん、お山と太陽がなかよしなの知ってる?」
思いがけない問いに、利之は思わず口ごもった。
「……?」
「ほら、おしっこするとさ、お山が嬉しくなって、太陽と仲良しになっちゃうの。キレイなの」
利之は少し間を置いてから、短く答えた。
「そうか」
怡兎は満足そうに頷いた。その無邪気さには、説明も反論も入り込む余地がなかった。
「よるにあるのはなんていうの」
今度は、利之の胸の奥に、静かな安心が広がった。
「月というのだよ」
「月……うちはなんでその名前知らなかったの」
利之は答えなかった。焚き火の向こうで、亀山は暗く沈み、やがて昇るはずの月を、黙って待っているように見えた。
利之はすぐには答えなかった。言葉を探していたわけではない。ただ、何かを口に出してしまえば、今この場に漂っている均衡が崩れてしまうような気がしたのである。
境内の焚き火がぱちりと音を立て、火の粉が一瞬だけ宙に舞った。亀山の稜線は闇に溶け込み、輪郭だけが、かすかに空と分かたれている。その上にはまだ月はなく、代わりに冷えた星々が、規則も意味も持たぬまま瞬いていた。
「名前はね、誰かが教えるまで、ないこともある」
利之はようやく、そう言った。
怡兎は首を傾げた。理解したとも、していないともつかない表情で、しばらく夜空を見上げている。
「じゃあ、月は、さびしくないの」
「どうだろうな」
利之はそう答えながら、自分でも意外なほど、その問いが胸に残るのを感じていた。都市で見上げる月は、いつも建物の隙間に押し込められていた。名前も、役割も、暦の一部としてしか考えたことがなかった。
しかし今、亀山の上に昇るはずの月は、山と、村と、そしてこの子供にとって、まったく別の意味を持っているのかもしれなかった。
「お山は、ずっとここにいるよね」
怡兎は独り言のように言った。
「ああ」
「太陽も、月も、くるよね」
「ああ」
「じゃあ、いなくなるのは、人だけだね」
その言葉は、あまりにも自然に放たれた。無邪気さの延長にある残酷さのように。
利之は返す言葉を失った。安行町を離れていった人々の顔が、順不同に脳裏をよぎる。自分自身も、その一人であった。
「……だから、戻ってきたんだ」
誰に向けた言葉でもなく、利之は小さくそう呟いた。
怡兎はその意味を問わなかった。ただ、境内の土の上にしゃがみ込み、指で何か分からない線を描き始めた。円にも、山にも、道にも見えるその線は、やがて自分でも分からなくなり、土に溶けた。
そのとき、亀山の向こうから、ゆっくりと月が姿を現した。
白く、欠けのない月だった。山の稜線に触れたかと思うと、静かに持ち上がり、夜空に居場所を定める。その光は、境内の人々や焚き火の明かりとは異なり、何かを照らそうとはせず、ただ在るだけであった。
「……あ」
怡兎が小さく声を漏らした。
「月だ」
利之は頷いた。
月の光は、亀山の斜面を淡く浮かび上がらせ、昼間とはまったく違う、奥行きのない平坦な影を作った。その山は、もはや絵画ではなく、静かな輪郭だけを残した存在になっていた。
怡兎はしばらく月を見上げてから、利之の方を振り返った。
「ねえ、おにいさん」
「なんだ」
「おにいさんも、また、いなくなる?」
利之は即答しなかった。しかし、今度の沈黙は、逃げではなかった。
「……しばらくは、ここにいる」
そう言うと、怡兎は安心したように、何も言わずに頷いた。
夜はさらに深まり、境内の喧騒も少しずつ静まっていった。ころこる神社の社殿は、月光を受けて白く浮かび上がり、まるで山と同じく、そこに在り続けるものの一つのように見えた。
亀山は何も語らず、しかし確かに、すべてを見下ろしていた。
夜はすっかり更け、境内に集っていた村人たちも、ひとり、またひとりと家路についた。焚き火は勢いを失い、赤く燻る薪の奥で、かすかな熱だけが残っている。ころこる神社の拝殿は闇に沈み、屋根の輪郭だけが月明かりに縁取られていた。
怡兎はいつの間にか、利之の隣で眠っていた。小さな体は丸まり、規則正しい寝息が、静かな夜に溶け込んでいる。利之は上着を脱ぎ、それをそっと掛けてやった。
月は高く昇り、亀山の上に揺るぎなく位置していた。昼間、あれほど立体的だった山は、今はただの黒い量塊として、しかし確かな重さをもってそこに在る。太陽と親しかった山は、月ともまた、別の仕方で向かい合っているように見えた。
利之は思った。
建築とは、動かぬものをつくる仕事だと信じてきた。しかし本当に動かぬものは、人の手など借りずとも、すでにここにあった。山は建てられることなく、壊されることもなく、ただ在り続けている。
一方で、人はどうだろうか。
村を出た者、戻らなかった者、戻ってきた自分。すべては流れであり、例外ではない。安行町が消えるかどうかも、もはや重要ではないのかもしれない。ただ、人がどこに立つか、それだけが問われている。
利之はゆっくりと立ち上がり、境内を一周した。玉砂利の音が小さく響く。その音は、昼間に聞いた木々のさざ波と、どこか似ていた。
再びベンチに戻ると、怡兎が目を覚ました。
「……月、いる」
「ああ、いる」
「いかない?」
「いかない」
怡兎はそれだけ聞くと、また安心したように目を閉じた。
利之は月を見上げたまま、胸の奥で静かに決めた。
ここに何かを“つくる”必要はない。壊れかけたものを無理に支える必要もない。ただ、この山の下で、人が人として立ち続けられる場所を、失われないようにする。それだけでいい。
月光の下、亀山は黙して動かない。
しかしその沈黙は、拒絶ではなく、許容であった。
風が吹き、再び木々が音のさざ波を生む。
晩秋の山は、変わらぬ歌を、今日も村に落としていた。
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