息苦しい。喉元に鉄球が挟まっているような感覚がある。深呼吸をしても溶けてくれない。深呼吸をするとむしろ喉元が狭まってゆく感覚がある。息苦しいから文章を書いた。自分を脱ぎ捨てたい。どんな体勢で居ても苦しさが消えない。頭が震えている。顎先が暴れている。視線を上手く合わせることができない。何がおかしいのかわからない。自分の中の感覚のどれが普通ではなく、どれがおかしいのかわからない。生まれた時から背骨が曲がっているから最初からこんな息苦しさだった。最初から頭が震えていた。でも学生時代はそれほど気にならなかった。最近は気になる。夜、部屋の明かりを消して寝転ぶと頭がすごく強く震える。押えることに苦労する。押えようとするとさらに強くなっているような気がする。理由はわからない。唐突に暗くなったから、焦点を強引に合わせようとしているのかもしれない。頭が外れてしまうような気がする。痛みはない。知らない誰かが首の位置で内側から頭を動かしているような気がする。頭を動かされているような気がする。
私は統合失調症なのかもしれない。思考が入り乱れているような気がする。いくつか違うジャンルの映画のワンシーンを切り貼りしたような思考の流れが脳内にある。小説Aのことを考えた数分後に小説Bを考えている。その思考のすぐ近くで(聴きたいな)と思ってる音楽が常に鳴り響いている。スマートフォンで実際にその音楽を聴くと小説のことを考えて視聴は片手間になる。唐突にさっき視た映画の登場人物について頭の中で議論しはじめる。小説を進めなければならないと焦る。
私は自分が強い妄想世界の中で生きているという感覚はない。視えないはずのものがはっきりと視えたことはない。いわゆる飛蚊症ならいくつかある。ただし蚊ではなく壁やパソコンの隅にゴキブリが這っているように思えてびっくりすることがある。
外を歩いている時、どんな時でもすれ違う相手が唐突に刺してくるような気がする。すれ違う人たちは全員違う服装をしている。でもよく視ると全員が通り魔のような恰好をしているような気がする。
電車の中で居合わせた全ての人間が私のことをちらちら視ているような気がする。脳裡でひそひそと連絡を取り合って私のことを馬鹿にしているような気がする。でも違うような気がする。私は自分のこの感覚が妄想なのかただの気の迷いなのかわからない。他人に話せばきっと気の迷いだと思われる。嗤われるのが怖いから誰にも話したくない。病状を打ち明けた時の冷風が怖い。こいつは何を喋っているんだ、という他人からの無言の圧力が怖い。自分だけが間違っているような気がする。私の話す全ての私の感覚も価値観も哲学も作品への感想も間違っているような気がする。先ほど観た映画の登場人物の名前も間違っているような気がする。だから私はレビューサイトに感想文を投稿する時にキャラクターの名前やタイトルを必ず検索する。
世間のあらゆる作家は小説というものを素晴らしい儚いものとして語る。音楽家も漫画家も小説についてひとつ想うところがあるように描いている。しかしそれは嘘である。小説というものは文章の集合体であり、それそのものだったり、それを生み出すことに卓越した技能は必要ない。小説というものに希少価値や重要性はない。小説家に腕前というものはない。小説家とは偏屈で曲がりくねっており、そのくせ音楽を極めたり画力を上げようとしない。文章力というものはこの世に存在していない。しかし世の中の小説家以外の作家はまるで小説に特殊な世界が広がっているかのように語る。私は【非公開固有名詞a】が小説という概念を比喩表現として使用した際にがっかりした。小説にそれほどの価値はない。
文章を書いていると息苦しさが収まった。肺の動きではないものに意識を集中させていると次第に収まるらしい。やはりただの気苦労のような気がする。けれど側弯症による息苦しさという症状を私はインターネットの文書で読んだことがある。曲がった骨が肺や臓器を圧迫し、常に息苦しさが付きまとうのだ。
私は本当に精神疾患を持っているのかわからない。双極性障害ということで通院しているが実感がない。気分の上がり下がりなんて生きていれば誰でもある。主治医の先生は五分ほどの診察をする。それが正しいのかもしれないが物足りない心地がある。何かさばさばと端的な気がする。片手間というか流れ作業の感じがする。主治医は嘘をついているのではないかと私は思う。私が躁鬱と主張するためそれに同調し、それらしく診察をしてそれらしく薬を処方しているだけのような気がする。主治医も受付カウンターのあの女性も、妙に顔がいい学歴のよさそうな薬剤師もきっと私を嗤っている。こいつは別に精神疾患を持っていないのにと嗤っているような気がする。
それくらい誰でもよく妄想するような気がする。当たり前のことのような気がする。でも明らかに異常であるような気がする。病気なんじゃないかって期待してる。
「どうして?」
「それのほうがラクだから」
「病人として生きることが?」
「自分が障害者なのかそうじゃないのか、という議題には飽きた……」
母親が、「あんたは障害者じゃないでしょ」と否定してきた日のことを思い出した。電車の中、早退してまで通う病院からの帰りだったと思う。気のせいかもしれない。
「君は狂人のふりをしている」
「どうして?」
「知らない……」
タチバナ診察官は呟くとビル屋上から飛び降りた。私も似たようなことをしたいなと思った。
最近、「【非公開固有名詞b】」というvtuberを知った。統合失調症について動画を投稿している女性のvtuberだ。ハキハキとした声で喋り、時おりその発生が耳障りだと思うこともあるが元気な印象は悪くない。そんな彼女に何か影響されているのかもしれない。でも全ての「気がする」は小さい頃からあったような気がする。これが強い妄想なのかただの気のせいなのか私にはもうわからない。生まれてから他人と状況が違い過ぎて判断ができない。判断ができないことも不快だし、そういうイカれた状態に自分で酔っているような雰囲気も自分の中にあって気持ちが悪い。
小さい頃は母親が怖かった。黒色の巨大な牙を持った角のある目つきの鋭い怪物のように思っていた。怒鳴ることが当たり前で物を投げてくることが当たり前だった。父親は山だった。いつも寝ていてたまに起きた。父親は熊だった。大きな身体だった。薄い白色のシャツに黒色のパンツだった。毛深くて足が太かった。背が高いため顔がよく視えなかった。父親が死んだ時、火葬に私も参加した。冷たい静かな部屋だった。父親の顔は視なかった。白色の装束に身を包む父親は腹が出ていた。
母親のハミングする声が聞こえているような気がする。【非公開固有名詞a】を聴いている時もすぐ遠くで母親が歌っているような気がする。田舎の道を車で走って窓から覗いた時、手前の田んぼと奥と山々の流れてゆく速度が違うみたいに、【非公開固有名詞a】と母親の声が同時に違う速度で違う区画で同時に流れているような気がする。
水面に突っ伏して顔を出して息継ぎをしているような感覚が常にある。
「【非公開固有名詞a】というのは?」
診察室の中でタチバナ診察官が訊ねた。椅子に座った長身の彼女は白衣を着ている。
タチバナ診察官の対面の位置に座る有栖川はタチバナ診察官が白衣を着ていること以外の情報を知らなかった。顔も知らない。視ていなかった。視たくなかった。有栖川は人の顔面を視るという行為が、何か一般的ではない専門的な高度な技術のように感じていた。
「【非公開固有名詞a】はインターネットで活動する女性シンガーですよ。ちょっと変わってるけどいい声で……」
「ああ、つまり推しかい?」
「はい」
有栖川はそれだけは快活に首肯した。そんなものにだけやる気になる自分のことが不快だった。こんな場所で語るべきことではなかったのかもしれない。有栖川は唐突にそのように冷静になった。この診察の中、不要な発言や語り口調が多く含まれているような気がする。有栖川は冷静になった。冷静になったつもりだった。有栖川はよく自分を客観視していると思い込む。しかしそれは冷静な自分や頭のいい自分に酔っているだけのような気がする。別に自分は客観視など少しもできていないような気がする。自分に対する自分の感想や認識が合っているのかさえわからなかった。
「君は他人にどうしてほしいんだ?」タチバナ診察官は明瞭な声で尋ねた。有栖川は明確な証明が欲しいと素早く答えた。
明確は証明とはなんだい、とタチバナ診察官はさらに尋ねた。有栖川は数秒口を閉ざした後に口元を浮かばせた。
「たとえば、僕の脳を調べて、たんぱく質とか、いろんな栄養素の数値を出してもらって、この栄養素の数値がこれくらいあるから、君はこの病気なんだよ、っていうくらいの、ハッキリとした証拠がほしいんです」
それがあれば君は自分に自信が持てるのか、とタチバナ診察官は尋ねた。わかりません、と有栖川は答えた。有栖川はさらに続けた。
「別に病気だけのハナシじゃないんです。よくインターネットで性格診断とかありますけど、あれは信用できない」
「だってネットだから」
「そうです。なので私は医学的にあれをやりたい。専門的な知識をもとに作成された性格診断を行って、私の性格を完璧に分析し、私の何が異質なのか、何が平凡なのか、どの部分がトラウマなのか知りたい」
ついでに私は自分の文章のよさもわからない。桃太郎を読んだ人間は居るのか。居るのなら出てきて、私と語れよ文章を。
沈黙が訪れた。有栖川はその沈黙から意識を逸らすためにどこでもない場所を視た。しかし視線はどこも視ていなかった。有栖川は視線をそこに放置しているだけだった。
やがて有栖川は自らの視界の根本の部分から無数の蝿が湧き上がるような頭の震えをじわじわ近くし、それらを振り払うようにまた適当な位置に視線を投げ直した。
「ええと、それで……」タチバナ診察官が口を開いた。「君は他人にどうしてほしいんだ?」
変わらない語気で続いた。
私のことをちゃんと縛り上げてくれる薬がほしい。
「そんなものはないよ」
「だって都合がいいから」
有栖川の擦り切れた声だけが頭部のように震えていた。
"あたまのなか。"へのコメント 0件