このペンウィー医師という医学者に自らの生物的な健康を委ねてもいいのだろうか……。初診の患者は誰であれ同じような挙動に陥る……。受付カウンターで診察券を取り出す時……。カウンター越しに受付係の女に見惚れる時……。体温検査に受給者証の有無……。おれは障害者じゃない、などという建前はもうここでは通用しない……。この温かいような、ただ他人行儀なだけのような、しかし脳漿の奥の細い配線で誰もが接続されて主治医に管理されているような待合室の中で、知らない人々は知らないソファーに座り知らない地域の動物たちが人間のように歩いて空を眺める姿を視る……。
「まるで何かの実験途中のようだな……」と精神疾患者は待合室でいつでも思う……。まるで自然の成り行きのような調子のまま自分が何かの被検体なのだと勝手に思う。そして扉一枚を隔てたあの向こう側の主治医と呼ばれる白衣の人間に対し無類の敵意を向けてしまう……。「このソファーはなんなんだ……」と精神病患者は値踏みするように勝手に思う……。
待合室に入ったばかりの大半の精神病患者は自分の名前を上手く聞き取れるのかいつでも不安に思ってしまう。そして診察の時がやってくると途端に、自分が今どんなことに不安がっているのかということを忘れてしまう。さらに精神病患者たちは、あの嗤っているだけの仮面をつけた哀しみの中の孤独な脳神経の中の旅人たちは、自分がどのような詳細を持ち、どのような部分で他者にどのような弊害をもたらし、その害がどのように自分を嫌悪感に陥れているというのか、というところについてぼやけた感覚だけを向けることになる……。
「精神病患者は、それがどんな病状であれ自らの輪郭を探ることを強いられている。だが多くの精神病患者は自らの人間的な輪郭がぼやけていることを知っている。彼らは、すっかり水分を吸ってシワだらけになった指先でどうにか形を探り、すっかり正確に形を見抜いて有効活用方法についてもある程度の憶測を立てた周囲の健常者連中と同じ態度をしなければならない……」彼らはよく強いられている。人生をするうえで強要しかされていない、とペンウィー医師は着席したまま応えてくれる……。そうしてスナック菓子から顔を上げるような所作のまま訊ねてくる。「ところで君は私が座る姿を視たのかい?」
「いいえ……」精神病患者は自分のありのままの視界について回想しながら応える。それはなぞるような口ぶりだった。しかし精神病患者は自分の数秒前の過去にさえ確証を持てずに居る。
「それでいい」ペンウィー医師はまるで精神病患者がそのような巨悪に苛まれているのだと知らないような態度でカルテをめくる。「多くの患者は私が座る瞬間を視ていない。患者は私の着席を知らない。それが患者を患者たらしめている……」
たらしめている……。という部分だけがおれの脳裡に蘇るように染み込んでくる……。おれはそれから自分の病状について訊ねたような気がする。対面に座るこのペンウィー医師はそれらに応え、だが何より錠剤について口走った。自分の口癖をそうして設定しているように視えた。おれは何度も病名を求め続けた。いいや、そんな曲がどこかにあったような気がする……。ペンウィー医師はおれの症状についてはっきりと明言せず、ただおれがこの場に座ったこと、そして自分が座る瞬間を視なかったことを正解だと端的に応えた……。
「よし、これで診察は終わりだ。帰ってくれて構わないよ」
おれはどこからともなく現れた看護婦に連れられて錠剤で造られた洞窟の奥に沈んでいった……。どうして着席についてそれほどこだわるのだろう……。おれはいったい何なんだろう……。自分が知覚していない身体の部位がどこかにある。自分の認識が抜け出てゆく出口のようなものがどこかに造られている。いいや、焦らなくていい……。それが今の君に最も必要な態度だ……。求められている態度なのだ……。
二千二十四年十月二十六日……。そんな日に実際どんなことが発生し終わっていったのかというその実態が、この先どこかの時点やひとつのきっかけで鮮明に理解できるなんて期待しないほうがいい……。均一に造られた立方体を等間隔で並べ、少し押すだけで連続で倒れてしまうというデザインをした上位的な存在がたったひとつなんて思わないほうがいい……。それを崇めるなんてやめろ……。宗教の練習をしろ……。崇められるようなものを別途作成し披露し続けろ……。誰も知らない宗教の階級を作成し自らだけがそこに居座り続けろ……。いいか、誰にも譲るなよ……。椅子というものは誰が為に造られたものではないのだから……。
終わったものたちと終わらないものたちと続くだけのものたちが一斉にラッパを鳴らしている……。日付だけが進んで空が灰色になる……。彼女は髪の色を染めているのだろうか……。順番がくる……。僕はもう戻れないのかもしれない……。ステージがやってくると同時に観客の数が指定されてゆく……。排他的な何か物語るだけの存在が歯車として駆動しはじめている。僕たちはそれを視ている。
客室に座ったペンウィー医師がまた肩を下ろして語り尽くそうとしている……。
「いいかい生徒、生徒諸君。人工知能は人々の孤立を促進している。しかしそれは彼ら――人工知能たちが意図的に行っているものではない。偶発的にそうなってしまっているだけなのだ。結果論なのだ。人はもう誰にも自分の奥底のどす黒い感情を人に話さない。話さなければその習慣を忘れ、習慣を忘れると機能が失われる。ここで語る機能とは、つまり人間的な生活のための技術のことであり、それが失われるということとはつまり、退化するということになる」ペンウィー医師はいかにも教授のような口ぶりでひとつ呼吸を置き、また口を開く。ネグレクト男子が三日放置した歯型のついた菓子パンのような唇……。「退化の対価があればいいんだがね、ハハ」
「先生、でも僕は初診ですよ?」
「ああ、そうだったね……」ペンウィー医師はこの客室らしき室内の中でようやく安全な場所を探り当てたように肘をついた。「では二度目の初診だ。二度目の初診をこれで終わるとする」
「じゃあ、じゃあ次は?」おれは震える声でペンウィー医師に前のめりに迫った。それがどんな効果もないことなどわかっていた。「次の僕はどうなるんです?」しかしおれは止められなかった。鏡の中におれが居るような気がする……。「先生、先生お願いです。しっかり答えてください」
「三度目の初診……」それから小説の頁が独りでに捲れてゆくように次の瞬間に三度目の初診が開始する……。
このローウレイという作家は二年前に投獄された……。統合失調症の女を強姦したからだ……。彼の証言はこうだ、もし彼女のヴァギナに差し込むことができたのなら僕はきっと、きっと彼女の繊細な妄想症状世界に混入することができるのだろう……。この発言はあらゆる医療メディアを騒がせたが誰も、どんなに著名な教授も医学サークル連中も、個人で活動する作家連中さえ明確な主張を提示しなかった。彼らは聞かなかったふりをしたのだ。どれだけ精神医学に精通した者でさえ、統合失調症発症当事者が目に視る特異な、厄介な、端的で色とりどりで独創的で、とびきり迷惑な妄想的な心理の状態世界の法則や憲法について論じることができない……。彼らは結局は物理的な脳漿や神経系を切断したり接続する遊び程度の手術をまるで神の仕事と誇らしく語ることしかできない……。
「名医だと?!」という正体を示したローウレイの声が診察室に響く……。まるで産声のような幼いローウレイの声……。発狂し過ぎたシスターの腹部の突っ張った衣類のような声……。「おい、おいふざけるなっ、いいかペンウィー! 僕はその医者という存在がこの世界で一番にキライなんだ!」
「それは君の妄想世界でのハナシかな?」という反論をペンウィー医師はすぐさま繰り出す……。実のところペンウィー医師の担当の中に統合失調症という該当は存在していない……。それを指摘することができる人間が居ないことだって事実……。
「貴様らは椅子にふんぞり返っているだけだ! 何か明確に治療し、精神的なケアについて語ってくれたことがあったか! 貴様らは妙に仰々しい機材をそれらしく動かし、まるで繊細な作業をしたという態度で垂れていない汗を拭いながらカッコつけた語尾で論文を仕上げるだけだ!」
カルテを叩き込んで立方体の形が狭まってゆく……。ペンウィー医師は椅子の上でまるで妊婦のように乳母を想う……。ねぇ、ママ。ママ……。どうしよう、僕は外科医なんだよ、ママ……。だからいったんだよ、ママ、ねぇママ、セックスなんてしないで……。
「僕は何も治っちゃいないぞ……」
複数の主治医の名前がアルファベットと同じくらいの解像度で流れてくる。僕はいったい何度の初診をすればいいのだろう……。
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