
赤郷依沙は、平成十年八月十日に産まれた。2025年11月15日現在において、身長は157cm。体重41kg。小生はおなごの身長体重如何なるかをしらぬから、はんぜんとしないまでも、小柄であろうことはわかる。
「依沙、朝ごはんよ!」
依沙は、自分で食べるということを知らない。母親に食べさせてもらっている。バターをジュワっと染み込ませたパンは程よくさめていて、依沙の口に向かう。もちろん、依沙は何もしてない。依沙の母が食べやすい形にナイフとフォークで切って食べさせてあげているのだ。依沙は末っ子で、昔から可愛がられてすくすく育った。勉強はそこそこできて、坂口安吾なんかを読んでいる。彼女の思想は未知数だ。というか、彼女に思想はない。ただ、こわしてしまえばいい。それだけだ。伝統がなんだ? 歴史がなんだ。それだけあればいいのさ。
赤郷依沙は宗教を作ろうと思った訳ではない。ただ、ゆうじんが欲しかっただけなのだ。しかし、彼女をゆうじんにするには彼女は可愛すぎた。彼女のまわりの人々は彼女が望むことではないのに、崇め奉り始めた。そこに彼女の意思は介在しない。
ひとりの男がいる。この男は、彼女の周りで巻あがった宇宙を見抜いた。男は思った、これは《城を築けるぞ》と。
男は耕太郎と云う名前だった。彼は教義を考えようと方々に画策した。
彼は書いた。
───
わたしたちは、静かなる光のうちに歩む者として、日々の営みの奥に潜む「見えざる秩序」としての齟齬を敬い、その導きのままに心を悪列にし、道を清めていきます。
ひとつひとつの行いは、やがて大いなる循環へと戻り、わたしたちの内に宿る小さき火は、永遠の息吹と交わり、静かに、しかし確かに、世界へと広がってゆきます。
光は言います。
「乱れに耳をすますことで、心を清めよ。」
影は囁きます。
「恐れを捨てよ。汝の歩みは蒼に見守られている。」
わたしたちは、与えられた時間を聖なる器として扱い、行動を奉納のように捧げ、言葉を祈りのように編み、静寂の中に宿る真意を聴き取ります。
すべての営みは環となり、
環はまた呼吸となって世界を満たします。
──
このように聖書として耕太郎は書いた。そして、赤郷依沙に認められた。
「依沙ちゃーん」
「なによ、そんな、朝から騒々しい。」
「だって、今日俺たち婚約するんだぜ」
「まぁそうね」
耕太郎と依沙は婚約届を市役所に出した。
耕太郎の頭の中では、様々な思惑が渦巻いていた。まずは、この聖書を布教せねばなるまい。そのためには、噂を流せばいい。
赤郷依沙は、口からワインが出せる。
これでいいだろう。
「依沙という女の子は口から赤ワインが出るらしい。」「ほんとか?」「見てみるといい」「……」
「実はな、俺は赤郷依沙のワインを飲んだぞ」と耕太郎は触れ回る。
すると面白いことに、赤郷依沙が赤ワインを口から出せるということになる。
信徒が集まったところで、赤郷依沙は赤ワインを口からコップ移して見せる。
彼女の喉にバラの棘を耕太郎は前もって刺しておいた、ちょうど動脈のところに。
だから信徒たちのコップの中に、赤郷依沙は神妙な顔で、赤ワイン(彼女の血)口から注いでくのだ。信徒たちはそれを飲むと悦びのあまり、「ああああああああぁぁぁ」と声を皆で張り上げた。
その模様がYouTubeで生配信されていたので、それからの日々で信徒は多く集まった。
破壊的な宗教ではないにしても、ひとつの新しい集団であった。それは、どうしても、現行の日本国という体制には相容れないものがあった。
「わたしたちは戦うの?」
依沙が不安そうに耕太郎に尋ねる。
「そうなるかもしれない。」と耕太郎は答える。
「然らば備えねば。」
このようにして、日本国の中で、小国がひとつ誕生した。
赤郷依沙を奉る宗教国《KS》(ケーエス)は長野県の諏訪湖を拠点に置いた。そしてあらゆる問いに答えられるように、互いに問いと答えを繰り返すのだった。
「トイレとは何か?」
「大便、小便をながすところだ」
「なぜ流さなければならないのだ?」
「人間はこれをいい匂いのするものと見なさないからだ」
「いい匂いではないとはどういうことだ」
「害と見なすということだ」
「なぜ排泄物が害なのだ」
「いや、害でないかもしれない」
「どういうことだ」
「これを肥料にして、作物が育つからだ」
「作物が育つと何がいい」
「人間が活動できる」
このような問答を、至る所で繰り返している。もちろん休みはある。この問答修行は朝の9時から12時までだ。
それからあとは、食事のあとシエスタを嗜む。むろん寝たくないものは寝なくていい。散歩などをする。しかし、シエスタの時間である12時から14時の間は、こっそりと静かな声で話さなければならない。むろん議論などではなく、世間話程度の内容でなければない。
赤郷依沙は殆どの時間を眠って過ごす。
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