昨日、神田の古本屋で本を二冊かいました。 ソル・ユーリックの情報論とドイツロマン派の画集です。僭越ながら僕にも、僕なりの神保町の歩き方というのがあります。まず「ランチョン」で昼食を取り、お腹を満たしてから、すずらん通りに向かいます。てんぷら屋のおもてに掲げてある江戸川乱歩の写った写真を見るためです。それは、なにかの出版記念のパーティーで大勢の作家とともに写っている楽しそうな写真です。飽きたら踵を帰して靖国通りの美術書店へ向かい、半二階の上の方に飾ってある澁澤龍彦の白黒写真を眺めます。草花が生い茂る自宅の庭で、エスニックな民族衣装を纏い、パイプを片手にポーズを取っている写真です。そして最後は隣の日本書房へ。狭く軋む階段を登った先に、素晴らしい絵画が掛けてあります。ビアズリーの『月の女』です。それは、白と黒の隙間に、永遠に吸い込まれそうなほど美しい。そうやって街を巡りながら、合間に通った古本屋で気ままに本を買うわけです。僕にとって神田は、古本を買い漁るだけの街ではなく、愛する写真や絵画を眺めにいく街でもありました。
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山手線はゴムの香りがする。黄色いゴムの香りが。しかしだとすれば、メルカトルの部屋で毎日死んでいる青白い幽霊は、一体どこにルーツがあるのだろう。自分の頭にドリルで穴を開けたオランダの医学博士は、隔離病棟の109号室で今も、来なかった近未来を歌っている。1+2の魔術に囚われて地球を割ろうとした科学者と一緒になって。彼らの人生は映画のようなものだった?あるいは彼らもまた、一つのニューロンに過ぎなかった?どちらにせよ人間は自我の触走性と戦う必要がある。つまりこれが、詩が他の芸術より優れている理由だ。あのドイツロマン派の詩人が言うように、詩とは「論理を武器に論理を破壊しようとする衝動」だから。
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大学は哲学科でした。昔からそのような本を読むのが好きだったのと、優柔不断な自分には、なぜだか合っているような気がしたからです。はじめに読まされたのは、デカルト、カント、アウグスティヌス、プラトン、アリストテレス等々々…どんな哲学専攻者でも必ず読むであろう人々です。
プラトンやアウグスティヌスはあまり好みではありませんでした。僕にとって彼らは哲学者ではなく窮屈な思想家に見えたし、事実、彼らは世界に対して実践的ではなく、装飾的であったと感じます。ライヘンバッハ流に言うのなら、「絵画的文章」です。彼はプラトンを哲学者ではなく詩人だと揶揄しましたが、そこまでではないにしても、どちらかと言うと自分もライヘンバッハ側の人間のようです。反対に、僕が惹きつけられたのはデカルトを起点にした近代哲学でした。だから僕が一番面白く学んだのが現代論理学であったことも、当然の成り行きだったと言えるでしょう。
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反歴史は、例えば神話と合理主義、復興的メシアニズムと黙示的なメシアニズム、参加と疎外、に寄り添って定義される。「真の半実在主義的理念」は水槽の下にぶら下がっており、常に我々の生活の中を漂っている。しかし残念なことに、道の向こうの未来派たちは皆夕日のように沈んだあと、二度と昇っては来なかった。解かれてまた縛られる。男でも女でもない男が、病室の前でレモネードを飲んでいる。意識の中心はいつもチューブの中に保存されている。単純な二元論に紛れて、「赤」といえば「赤」の「青」といえば「青」のイデアを満月に向かって照射している。だからMさんは私の文章が嫌いだった。彼女はそれを見るたびに、「私には少し神秘論が過ぎます」と言っていた。
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せっかく東京に来たからと、沢山美術館に行きました。 例えば覚えているのは、東京近代美術館で見たMOMATコレクションです。目当てはベルメール、マグリットなどのシュルレアリストの展示でしたが、それよりも心に残ったのは谷中安規の版画でした。なにか妖しげでアルカイックな魔術的な雰囲気と、モダンで都会的な雰囲気とが見事に融合した彼の幻想版画は、あらゆるモチーフを飛び越えた白黒の天体でありました。
そのあと、取り付けておいた本を買うために田村書店へ。2階の洋書棚でラテン語の本を漁っていたら14時まで昼休憩だからと追い出されます。
仕方がないので二つ隣の澤口書店へいきました。店先の日本書の安売りコーナーにはカー、クイーン、ポー、ドイルの分厚い函入り本が秋風にさらされて寂しそうにしていました。
二階でコーヒーを飲んで煙草を吸います。辞典コーナーで羅辞典を探すも見つかりません。窓際に積み上げられた洋書を漁るとFrancesco Clemente なる画家の画集を見つけました。イタリアの画家で存命らしく、人物画が多め。どの絵も大きな目と異様に長い首が特徴的です。シュルレアリスティックで好みの画家であったので、その画集も買いました。
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ソル・ユーリックは電子共産主義の到来を預言していた。それはフィクショナルな生の人工的否定と、情報のアンレファレンスな部分に関する問題である。資本主義と宗教の同一化は古代から秘密裏に行われてきた。人はみな、諜報員なのである。
感知装置(眼、耳、皮膚、作家、タイピスト、望遠鏡、顕微鏡、あらゆる種類の電子センサーなど・・・・・)は、運動の記号を、言語がそれらの記号に作用しうるある種のストックに向けて、 “読み”、伝達し、入力しなくてはならない(これは、回路の中や、多岐にわたる論理装置、タイマー、記憶装置の中や外での、途方もなく複雑、微細で高速度の運動が起こることを意味している)。反対に、言語的に動機づけられた一組の出力手段があれば、理論的には、宇宙の空間配列をエネルギー化し、変化させることもできるわけだ(量子論においては、演算志向の物理学、たんに思考とその手段のみがまだ測定できない方法によって宇宙に作用するという干渉論的な考え方が暗黙に認められている。広げて言えば、ただ思考だけが宇宙にはたらきかけるのであるが、その方法はまだ測定しえないということである)。この欲望は古い時代の強迫観念を反映している。たとえば、最小限のエネルギー支出によって巨大な塊を動かそうとするアルキメデスの夢、アンドロメダ大星雲をもっとよい軌道に移してやるといったことである。
ソルが語った未来に対するこうした振る舞いは、同様に我々の過去に対してもなされている。あらゆる歴史は根拠、意思決定のための道具にされる。歴史は修正され、更新される。データベースに入れられて、平均化、合理的、数値化される。論理そのものが一つの態度に過ぎないにも関わらず。
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ある日、授業でグループワークがあったとき、同じ班になった一人がいきなり「先に言っておくが、俺は功利主義者だ」と堂々たる宣言をしました。周りは困惑していましたが、僕はそれを見て思わず笑ってしまいました。なぜなら彼が、昨日ピーター・シンガーを読む授業に出ているのを僕は知っていたからです。この男は明日マルクスの授業に出たら、共産主義者になるのでしょうか。パースの授業に出たら論理実証主義者に?はたまたカントを読めばカンティアンに?しかしこれは、僕の悪い見下し癖です。きっと彼と僕は広い目で見れば同じジャンルに属す人間に違いない。哲学的思索と現実世界を混合している人間です。恐らく社会では受け付けられない人間です。そうしてまた僕は、友人を作る機会を失ってしまいました。
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強迫観念から来るノイローゼと心的作用の関係は、批判的で懐疑的で冷笑的な人々によって常に迫害されてきた。しかしこのノイローゼの自我に対する攻撃性は明らかに、ある種の人々(特に若者)にとって致命的な問題である。つまりここから導き出されるアナグラムはこうなる。
「太陽神経症の病院」
もしくは
「これは最悪だ!」
しかし幸運なことにこのゲームで死人が出ることはない。というのもこれは一つのマゾヒスティックな妄想でしかないからである。一般にこのゲームには規則が99までしかなく、100以降はないものと考えられている。
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ある日バイト先の店長に、「君は社会生活に向いていないねえ」と笑いながら言われました。僕はなんとも思わなかったが。渋谷駅のA3出口のすぐ下に仙人みたいに長い白い髭をたくわえて、ビニール傘を杖のようにして座っているホームレスがいつもいました。たまに見る彼は、カバーの外れた岩波文庫をいつも熱心に読んでいました。彼は一体何を読んでいたのか、もう私にはわかりません。
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