ワカバはいつもワカバマークの煙草を吸っているから、そう呼ばれているのだと思っていた。しかし実際はそうではなかった。実際には、ワカバの煙草ではなくてハイライトのメンソールを好んで吸っていたし、「ワカバ」という名前は彼女自らが名乗っていたものだった。
身振り手振りが大げさな、話しやすいおばさん。わたしの一回り上だった。肉付きのよい、ぽっちゃりとした中年太りの体型に、どんぐり眼と厚めのくちびるが少し色っぽい。狭めのおでこをみせて、肩下までのワンレングスだった。
彼女とは同じ部屋の、隣同士だった。
「あたし、ワカバよ。よろしくね」
「佐保といいます。よろしくお願いします」
初めて出会ったとき、そう挨拶して、ワカバは右手を差し出した。握ると、柔らかくて厚みがあり、熱のこもった手だった。
___ワカバは激情家だった。
わたしは当時、実家で犬を飼っていた。柴犬のルウ。ルウは小学生からのわたしの最も良き友達であった。わたしはこの赤茶色の友達のことを心から慕っていた。G棟にいて会えない日々も、彼の愛らしい姿を思い出しては、心癒されていた。ある時母からの電話で、ルウの足腰が弱ってきたことを知る。最近になり犬も歳をとり、足が震えてつまづくことがある、と。
わたしよりもあとに来た家族の老い。わたしは、ルウがいつかは、いや近い未来にこの世界からいなくなってしまうことの確実性に恐れおののいた。ルウがいなくなることを思うと、わたしの心はすでに張り裂けんばかりに悲しく、また恐ろしかった。
愛するものとの別れ。わたしの何よりもの苦しみが、それだった。
部屋のベッドに腰掛けて、元気に野山を駆け回っていたルウの姿と、足腰おぼつかなくなっている姿を交互に想像すると、涙が出てくる。その姿が失われる未来を思って、涙が止まらなくなった。
部屋の中で一人泣いていると、カーテンがひかれ、白い衣服の看護師が顔をのぞかせた。
「検温お願いします」
わたしが泣いていることに気付くと、その理由を尋ねた。わたしはこれこれこういう事情で、犬がいなくなってしまうことが悲しくて泣いているのだと伝えた。
隣りのワカバがそれを聞いていたのだろう。看護師がいなくなった途端、ワカバはわたしの部屋のカーテンをシャッと開き、こう叫んだ。
「犬ごときでいつまでも泣いてるな!しょうもない、あんたいくつ?」
わたしは突然のことに、驚きと、「犬ごとき」とルウのことを揶揄された悔しさで、こう言い返した。
「あなたにはわからないよ!柴犬のルウちゃんがわたしにとってどれだけ大切な存在か」
ワカバは止まらない。
「うるさいんだよ、ピーピーと!くだらないことで、泣くな!」
怒鳴り声を聞きつけて看護師数名がやって来た。
「クソガキ!うるさい」
「うるさいのはそっちよ」
看護師はやれやれという表情で、慣れた手つきのもと、わたしの部屋のデスクと荷物を別の部屋に移動させる。わたしも促され、移動する。
ワカバはそれでも文句を叫びながらついてこようとするが、別の看護師に静止させられた。
「クソガキ!」
わたしは泣きながら返し続けた。
「あんたにはわからない!
あんたにはわからない!」
なんて嫌な女だろう。わたしの大切な想いを馬鹿にして。ワカバへの収まらない怒りと、ルウへの悲しみの気持ちでごっちゃになったお腹を抱えて、泣きながらその夜を過ごした。
明くる日になった。昼食を終え、新しい部屋に戻ると、なんと隣のベッドに、ワカバが座って待ち構えているではないか。わたしは昨日のケンカの続きをしにきたのかと不快になり、無視して部屋を出ようとした。すると、彼女がおもむろに立ち上がり、わたしに近づいたかと思うと突然大きな声で、
「ゴメンね!」
そう言った。そしてわたしの体に腕をぎゅうっと強く回して抱きついた。
「昨日はゴメン。わたしも犬を飼ってたことあるのよ、だからあんたの気持ち分かる。一緒だね」
と熱量込めて続けた。
「わたし、部屋をここに移動したから。よろしくね」
そう言ってわたしに右手を差し出した。呆然としながらその手を握ると、やはり、柔らかく厚みがあり、熱を帯びていた。
同室のワカバは、何かにつけわたしと似た部分を強調した。
「あたし、昔D大学に通っていたのよ。サホは?」
「わたしはR大学です」
「えっ!それだと姉妹校みたいなもんだわ。すごい偶然ねえ」
「偶然」は徐々に、ワカバに言わせると「運命」の様相を呈してくる。
「サホはいつから体調を崩したの?」
「そうですね…遡ると十二の夏くらいからだから、もう10年になる」
「ええっわたしもそうよ!ちょうどおんなじ。あたしも10年、闘ってんのよ」
偶然の一致はそれだけに留まらず、同じソトハタ先生にかかっていることや、持っているツゲの櫛が似ていることや、使っているノートのブランドにまで至り、ワカバは真剣な表情でわたしを見つめてこう言うのだった。
「あたしとあんたは、すごく共通してる。ここで巡り合ったのは、運命ね」
わたしは内心違和感を持っていたが、その意見に反対してしまうと、またしても彼女の怒りに触れるか分からないので、とりあえず頷いていた。
ある時ワカバはシャツを着替えながら、わたしにブラジャーのホックを後ろで留めてほしいと頼んだ。
ホックを留め金に近づけると、むっちりとした背中の肉にブラジャーの線がくい込む。ワカバの体はエロティックだ。何となく体から目を逸らしつつホックを止め終えると、ワカバがポツリと言った。
「あたし、売春してたことあんのよ」
「え、売春って、嫌じゃなかったですか」
ワカバは振り返って大きく驚いた。
「何で!?お金持ちのおじさんとセックスできる上にお金までもらえんのよ、こんないい話ないじゃない!」
わたしはその意見に圧倒され、黙ってしまった。その時までわたしは、売春とは、万人にとって本来はしたくないものだけど、しなくてはいけない事情があって嫌々するものだと思っていた。彼女に言わせると、そうではなかった。
二人は将来の夢についても話し合った。
「ザ・イエローモンキーってバンド知ってる?あたし大ファンなの。『楽園』って曲があって、あの歌詞___スーツケースとメンソールの煙草をもって 楽園へ行こう 楽園へ行こう」
「あれはまさにあたしの事なのよ。あたしもここへ来たとき、メンソールの煙草とスーツケースだけを持ってた…」
彼女はうっとりとした表情で、次いで目をギラリと光らせてこう言う。
「あたし将来は作家になりたいの。それで、作家名をイエモンにちなんでワカバにしたのよ」
詳しいことは分からないが、そうらしかった。わたしはフンフンと適当に頷く。
「あたしがワカバってペンネームで作家になりたいんです、ってソトハタ先生に言ったら彼、鼻で笑ってたわ。でもあたしは本気。皆なれっこないって言うけれど、あたしは夢を叶えようと思うわ」
彼女は少しの間遠くを見つめるような表情をして、静かになった。それから彼女は、自分の顔をわたしの顔に近づけた。
「サホ、あなたの夢は?」
夢。夢は、あった。少し小さな声でこう答える。
「漫画家になりたかったかな」
ワカバは、大きな目をさらに大きく見開いた。
「すごいじゃない、素敵よ!あたしは作家、あんたは漫画家。がんばりましょうね!」
ソトハタ先生が、フン、と鼻で笑う声がわたしにも聞こえた気がした。
程なくしてワカバがG棟を出ていく日が来た。
わたしよりずっと前からここに居たらしい。
ワカバが
腕をわたしの体に回し、きつく抱擁したのち、あの大きな瞳でわたしの顔をグッとのそき込んだ。息がかかるほど近くに。そうして、二人だけの秘密のように、小声で言った。
「いいこと?あたし達は、ここを出たら必ず幸せになるのよ。苦しんだ10年間の分、誰よりも幸せになるんだ。分かった?約束よ」
わたしは強く頷いて答えた。
「約束ね」
ワカバは扉を出て行った。わたしの体には、ワカバの熱い息の匂い、まだ彼女の熱が残っていた。
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