私の母は何かを信仰していた。
いつも何かのお陰で幸せになれると。
何か嫌なことがあると、凄く喜ぶ。
母が言うには、
不幸せがあるぶん幸せが舞い込むから喜ばしいことだ、と。
でも私は母に幸せが訪れるのを見たことはない。
少なくとも私の見える範囲では。
いつも不幸にあって
「これで幸せになれる!」
と喜んでいるのを見ているだけだ。
なのに幸せはやってこない。
そんな母を、私は憐れに思う。
そして、とても、辛い。
私はずっと母を見ている。
ずっと辛い。
幸せのトリガーはどこにある?
母の言う何かを信仰すること?
もし……いつか母に、
母の手にも私の手にも負えないほどの不幸が起きたとしたら。
その時に私が信仰し始めたら、不幸が幸福になるだろうか?
信仰前の不幸はカウントされないのか?
もし、信仰をし始めた後カウントされるのだとしたら。
いつも母は、不幸せが来た瞬間に幸せがくると喜んでいる。
その喜びが幸せと判断されて、消費されているんだろうか?
ずっとそんなことをグルグルと考えていた。
母が死んだ。
特にこれといった幸福はやってこなかった。
私はもう母の不幸を見なくてすむ。
不幸を代償にした幸せって、たったこれだけなの?
母はもういないから『何か』が何かわからないけど。
きっと母は幸せだった。
私もいつか幸せになるんだろう。
だってこんなにも今、不幸だから。
ありがとうお母さん。
"幸せ"へのコメント 0件