魔王は僕の友達

幾島溫

小説

38,673文字

親友が魔王になって、すべての「豆」という文字が「クリトリス」に変換される世界を作ってくれた話。舞台は廃ショッピングモール。岐阜県大垣市。中2の夏休み。2014年に書きました。

(3)ミルクシティ
自転車を漕いでだいたい10分、ぼくと春日井はミルクシティの前に着いたけど、入口は「山鳩建設」と書いてある鉄の板で封鎖されていて敷地の中には入れない。「あ〜これは無理やな」諦めさせようとぼくは言うが「へへ〜ん。甘いよ、岡田くん。入る場所は既に調査済みなのだ」と春日井が得意気な顔で笑って、ぼくはもう「えー」げんなりした表情を隠せない。
ドヤ顔の春日井についてミルクシティの裏手に回ると、この廃モールが現役だった頃からある鉄柵の途切れ目があってそこからぼくと春日井は自転車で敷地に入る。これはぼくがいつも悠一郎に会いに行く時に使っている場所だ。
廃墟になった店舗の前に自転車を止めると、ぼくと春日井はコンビ二のビニール袋を手に提げて土埃で淀んだミルクシティの元・自動ドアの前に立つ。
「さー、問題はこっからだよね」
春日井はガラスのドアの隙間に指先を突っ込んで開こうとするが、開かない。
「鍵掛かっとるやろ。無理やて」
「だよね〜。なので、こんなこともあろうかと、用意してきました!」
春日井はハート型のカバンの中から、バールのようなものを出す。
「アタシは……っ、このホールケーキが失われた……っ、穢れきった世界を……っ!」
バールのようなものを握った春日井が腕をぐるんぐるんと超高速で回し出す。
「ちょっ、やめろて」
「食らえ、秘技……チェリーブレイクーッ!」
とガラスめがけてバールのようなものが振り下ろされそうになるところで、ぼくは叫んじゃう。
「待てて! 春日井! 入口あるで!」
破壊させる訳にはいかない。ここは今、ぼくの友達の住処だ。
「えっ、ほんと?」
ごちっ。バールのようなものがガラス扉に一度当たった。けれどヒビ一つ入らなくて、やっぱり女子中学生の力じゃここを破壊するのは無理だった。こんなことなら気が済むまでバールのようなもので遊ばせて諦めさせて帰ればよかったと、ぼくは溜息を吐く。けれど時既に遅しだ。
春日井がバールのようなものをカバンにしまうと、ぼくは裏手にある「従業員専用」と書かれた小さな扉の前に案内する。「ここやで」扉を指すと「それじゃっ!」と春日井は一瞬のためらいもなく扉を開いた。
「うわー魔界っぽ〜い!」
春日井が肩を竦める。
扉の向こうは薄暗く、漏れ出した冷気が肌を撫でる。
「やろ? 怖いやろ? 帰るんやったら今のうちやで」
ぼくは言うが、
「何言っとんの。こっからが面白い所やん」
春日井は無邪気そうな笑顔を見せると、そこからは振り返りもせず、ずんずん中を進んで行った。
「待ちーやー……」
仕方が無いからぼくは扉を閉めて白黒ロリータに着いていく。
が、すぐに春日井は立ち止まって、スマホを出して画面の明かりで辺りを照らした。くたびれたロッカーが壁面いっぱいに並んでいるのが見える。明かりは辺りをぐるりと半周して通路や壁を照らすと、またカバンの中に戻った。
「あっち、真っ直ぐ行ったら広いところに出られそうやね」
「そーやな」
ぼくと春日井は並んで歩く。
「なー、岡田くんさー、ここ入ったことあるの?」
「あ……えっ、一応……」
「そうなんや! すごいやん。何で教えてくれんかった?」
「ん〜いや、まぁ……。あ、ほら春日井、ドアあるで!」
目の前に現れた薄っぺらいドアをぼくは指す。
「あ、ほんとや」
「行こ、行こ」
ドアを開けてフロアに出ると、春日井はまたスマホを取り出して何やら操作を始める。画面の明かりを点けて、彼女は周囲をぐるりと映しながら「ついに来たわ……ここが魔王の居城……。アタシはこの穢れきった世界を、必ず救って見せる……」などと呟いてる。見ると彼女は動画の撮影を始めているらしく、スマホを空っぽになったテナントや散乱する什器に向けていた。「おれ喋らんほうがえぇ?」怒られたら嫌だから、一応春日井に訊いてみると「後で編集するで平気やよ」と言うことだったので、ぼくは気にしないことにした。
さて、これからどうしよう。春日井が辺りのレポートをしている間、ぼくは考える。
ここから向かって右手に行くと悠一郎こと魔王のいる場所まで何の障害物もなく最短距離で辿り着ける。
一見壁にしか見えないあの場所は実はからくり扉になっていて、コツさえ分かれば簡単に開くのだ。
からくり扉を使わない通常ルートはとんでもないことになってるって言って、悠一郎は悲しそうな楽しそうな顔で笑っていた。「誰か来られるもんなら来ればいい。ていうか、無理だろうけど」なんて。
「なー、春日井、魔王のいるところ、あっちやと思うで」
ぼくはからくり扉に背を向けて「通常ルート」を指差した。
「わかったわ。それじゃ、行きましょっ☆」
春日井が目元にピースサインを作る。その視線の先はスマホの画面。春日井は本気だ、本気で広告収入を狙っている。とぼくは感じる。
ぼくたち二人は並んで歩く。「通常ルート」側に来るのは初めてで、こっから先はぼくも彼女と同じく先のことは何もわからない。悠一郎の本気がどの程度か予測出来ないぼくは、おっかなびっくり慎重に、出来るだけ真ん中を選んで歩く。通路のど真ん中には、未だにベンチやゴミ箱が残っているのだ。
店内が薄明るいのは、ところどころに小さなろうそくが置いてあるからだった。オレンジ色の灯火は情緒があるけど、そのメランコリックな色合いで去年のままで朽ちていく値下げの札やポスターを照らし出すものだから、ぼくの毛穴はきゅっと締まる。テンション高めの文字と写真が、幸せになれなかった今を際立たせていて、生理的に何だか怖い。ここに豆乳のポスターがあればいいのに。色んなものが「クリトリス」に変わる様を見てきたけれど、今の所ぼくのベストは「豆乳」だ。
「春日井さー、怖くないんかて?」
「何で? あ、岡田くん、魔王が怖いんや!」
「ちげーし、怖くねーわ」
嘘はついていない。ぼくが怖れているのは、自称魔王の悠一郎ではないからだ。
去年のままで朽ちていくこの景色は妙に不安を煽られた。ぼくはミルクシティが特別好きだったわけでもないのに。この場所の持つ悲しみがぼくの中の何かと呼応しているのだろうか。
点在する灯りは、侵入者を通常ルートへ誘う。
足音を響かせて歩いているうち、景色は徐々に変わる。床に黒いシミが沢山あるなぁと思っていると、それは次第に大きくなって曲線を描いた。
目だった。
黒く大きな瞳でとてもリアルな絵だった。
ぎょっとしたぼくは思わず隣の春日井を見るけれど、彼女は正面をカメラで写し続けることに夢中みたいで床の上には気付いてない。まぁいいか、とぼくはそのまま下を向いて歩くことを続行。正面はお前に任せた、春日井、と運命の半分を彼女に託して。
大きな瞳はウンザリするほど大きくて、ぼくはずっとうつろな視線に射貫かれ続けている気分になる。二重まぶたのラインが立体的で下睫毛がくるんとカーブしていて美しい。この細かいディティールはさすが悠一郎だよな、と思う。あいつ早く絵描きだか漫画家だかになっちゃえばいいのに。こんなところで個展開いても誰も見にこねーよ、ばか。
黒い目のまなじりはすーっとのびて、ぐちゃぐちゃのとげとげのノイズのような線に変わった。けれどそれは長く続かず、次に現れたのは大きな頭だった。頭髪はなく年齢性別不詳で眼球が抉られている。その下には「見えなければ幸せなのに」という殴り書き。空の眼窩から血らしき黒い液体を垂れ流すその頭は、ぼくから見て左側つまり進行方向に向かってぎゅいいいんっと七本の曲線を生やしている。モノクロームの虹だ。虹の周りには首のない小鳥たちが飛び回っていて「届かない囀りには意味が無い、価値もない」という殴り書きが添えられていた。嫌いじゃないセンス。だからあいつ早く漫画描けよ、ってぼくは少しだけ苛立つ。
「なー、春日井さー、お前将来の夢とかあるー?」
ふとぼくは、他人のことが気になり出す。
「んー、私?」「そやで」「そやねー、何やろ……。うーん、とりあえずライブとかいっぱい行くことかなー」「あー」共感。わかる。ぼくと春日井の好きなバンドはこんな田舎町でライブをすることは絶対ないし、快速電車で約三十分の最寄りの大都会名古屋ですらスキップすることもある。そもそもお金のないぼくたちは、ライブというものに非常に飢えている。
「でもさー、そのためにはお金稼がなアカンやん?」「そうなんやて、そこやて!」「私、制服とか嫌いやで、OLとかになったら多分死ぬし」「そやな」ぼくも春日井がOLになってるところなんて想像出来ない。「やでさ、やっぱユーチューブとかの広告収入で生きてくのが一番ラクやないかなーって思っとる」「なるほどな〜」春日井は春日井なりに将来のことを考えてるってことなのか? ユルい気がしなくもないけど。けれどそれでもぼくよりは余程マシだ。
「岡田くんは何かある?」
「おれ? うーん、何やろ……。そやなぁ、とりあえず18歳になったら、堂々とAV見ようと思うわー。あとエロ漫画も買いたいし!」
「そんなんばっかやん。ほんとあほやな」
春日井の声音に笑いが混じる。表情はよく見えないけれど、どんな感じかは想像がつく。だからこいつと仲良くしてるんだよなーと思う。
空のテナントには特に何もないようで、歯抜けの景色が続いた。
いつの間にか足下がざらついている。
砂かゴミか思って気にしていなかったけれど、それは次第に無視出来ない量になって足取りを重くさせる。
「何か砂っぽいな」
「でも白いで」
春日井に言われてぼくは下を見る。たしかに白い。行く手を見ると、その白は通路全体に拡がっていてだいぶ先まで続いていた。
「これ何やろ」「塩やない?」「何で分かった?」「サラサラやもん。砂糖やともっとしっとりしとるやろ?」「う〜ん」などと会話している間に塩らしきものの量が増えていく。足下が柔らかくて不安定に傾いた。足を踏み出そうとするたびに塩に力を奪われるから鬱陶しい。
ぎゅっぎゅと足下を踏みしめて歩いていると「イベント広場」の前に出る。
「わっ、ちょっと、あれ見やぁ」
春日井は壁に掛かる巨大なモニターを差した。
「求めることは不幸の始まり」「ぬるま湯はいつか冷めるんだ」「このまま死んだって救われないから絶対に死なない。僕は暖かく死にたいのに」「つりあうことが両思い」「この僕が死んだら誰が哀しんでくれるの?」「わらって、笑って」「8月31日までの運命」「手に入れる前から失うことを恐れている莫迦」「ツネツネツネツネツネ!!」
真っ黒の画面に白い筆文字でこんな言葉が書き殴られていて、その周りを無数の首のない人形たちが手を繋いで囲んでいる。少女の服を着た人形や、裸の人形、和装の人形、動物らしきぬいぐるみも含めて、種類も大きさもバラバラだ。
「ねぇ、やっぱ魔王ってここにいるんだよ! あの文字間違いないよね!?」
「あぁ、うん、そやな……」
「けどさぁ、魔王って何なんやろ。寂しいんやろか?」
「あぁ、うん、そうやなぁ……」
「言ってるコトが中二っぽいっていうか。……ま、気持ち、分からんこともあらへんけど」
「うーん。そやなぁ……」
「魔王ってさ、もしかして子供なんやない?」
「うーん、そうやなぁ……」
「……てか岡田くん、私の話、聞いとる!?」
「おお、聞いとるて」ただどう答えていいのか分からないだけで。
「そんなことより、先進むで」
「あっ、ちょぉ、待って。これも動画撮る」
と言うと春日井は慌てて、スマホのカメラを巨大モニターへ向け、レンズで文字を舐め回すように撮影をする。「魔王……貴方一体何者なの……?」芝居がかった独り言がぼくの耳に届く。
春日井が撮影を終えると、再び探索は続く。塩らしきものの中を真っ直ぐに突き進んで歩くけど、いつの間にか塩が深くて一度足を踏み出すと、足首の深さまでハマるようになってきた。スニーカーの中に、さらさらと塩が入って来る。足取りは確実に重さを増していて、もう本当にだるい。
「春日井、歩くの疲れへん?」
「少し」
「そろそろ帰らん?」
「まだ大丈夫やて! こんな時のために、食べ物いっぱい買って来たんやから」
厚底の大半を塩に埋めて、春日井が笑う。
「てか、岡田くんが疲れたんやったら、そろそろおやつにしてもえぇけど?」
「あーうん、そうやなぁ……」
作戦失敗、ここでHPを回復されたらまたまた先へ進まれてしまうではないか。悠一郎、何やってんだよ。こんなぬるいトラップじゃ、二階に上がられちまうだろ。
とぼくが春日井に返事を出しあぐねていると「ゴゴ……ゴゴゴゴ……」遠くから地響きのような音が聞こえる。
「ゴゴゴゴ……ゴロゴロ……ゴロゴロ……」振り返ると巨大な球体がこちらに向かって転がって来るのが見えた。
「うわっ、ちょっと! あれ!」
ぼくは春日井の肩をばしっと叩く。
「痛いやん! ってわあああ! 何あれ!」
「わからん! 多分魔王や!」
「うそ! 魔王!? あれが!?」
薄暗いフロアでは球体の正体は正確には分からないけれど、表面は綺麗な球体ではなく何か色んなものがくっついているようだった。しかも意外と速い。
「あかん、逃げるで!」
ぼくは全力で駆け出した。
でも塩に力を奪われていつものように走れない。足音も吸い込まれていく。
「ちょっ、待ってよー!」
振り返ると春日井も走りにくそうにしていた。
球体は徐々にこちらへ近付いてその姿をぼくらの前に晒す。直径3メートルほどの球体はボディに服やマフラー、ネックレス、ピンクのウサギのぬいぐるみ、それから大量のチラシを巻き付けていた。
「魔王が来るよ−! 岡田くん! 魔王が!!」
春日井の半泣きの声が聞こえてぼくは、彼女が本当は魔王を怖れていたことを知る。何だ意外とかわいいじゃん。なんてほっこりしてる暇なんかなくて、迫り来る「ぐぉろんぐぉろん」にこのままじゃいかんと思ってぼくは辺りをきょろきょろきょろ、すると閃いた。
「あっちや!」
前方向への移動はやめて、立ち並ぶ空きテナントへ駆け出す。
「おっけー!」
威勢良く春日井は答えるけれど、すぐに「あっ!」厚底じゃ上手く方向転換出来なくてずっこけよろめく。「ちょっ」ぼくは彼女の手首を掴んで引き上げて「ありがと」「行くで!」そのまま靴屋の跡地へなだれ込む。セーフ。春日井の呼吸が乱れて、ぼくの心臓はめちゃくちゃなリズムを刻む。
「ここまで来れば安心かな」
「多分な」
「えへへへへへ」
緊張と緩和がぼくらに妙なエクスタシーを与える。
よかった。
足下が軋む。
床板が観音開きでぱかっと開いた。
「うわっ」
「あーっ」
ぼくらは穴の底へ吸い込まれる。
同時に訪れる落下と浮遊。
びっくりしすぎてぼくも春日井も叫び声が止まらないけど、実はちょっと気持ち良い。
なんて思ってたらもうお尻が地面に触れた。
エアクッションが効いていて痛くはなかったけれど、ぼくの上に春日井が降ってきてそれが少し痛い。「ごめん」と言いながら春日井は身体を浮かせて態勢を買えようとするが、穴の中は狭くて、多分これは一人用の落とし穴で、ぼくらはこうして重なっているより他にない。
「しょーがないで」
ぼくが体育座りで作った隙間に彼女が腰を下ろそうとすると、ざぱあっ。白い粘液が降って来て、春日井のお尻がつるーんと滑る。
「なに……これ……」
白濁液まみれの春日井がすっころんだ。真っ白なドロワーズが丸見えだけど、ハーフパンツみたいなものだからまったく面白味がない。
「大丈夫か?」
同じく粘液をかぶったぼくは春日井に手を差し伸べるけどやっぱり助けにはならなくて、ぼくらの手と手はにゅるりんっとすれ違い彼女は前のめりに倒れてぼくの背後の壁に両手を付いた。
「きゃー♡ 壁ドン! 壁ドン!」
ぼくははしゃぐ。
「違うわ!」
春日井は白い液の飛び散った顔を上げてぼくを睨むけど、そこでまた態勢を崩したらしくて「あぁっ!」と言いながらぼくの肩を掴んで胸元に顔面からダイブ。
「あーもう……」
ぼくの上に跨がったまま、春日井は顔を上げない。
降って来た粘液は大量だったようで、穴の中はぬるぬる天国になっていた。ん? 地獄? どっちでもいいか。液体は糊やスライムよりも水っぽくて、無臭なのが救いだと思う。
ぼくは春日井が滑らないように背中にそっと手を添える。白いブラウスはべとべとに濡れていて、ピンクのブラ線が浮かんでいた。……女子だもんな。
穴の中は蛍光灯が付いているような明るさで、壁一面を埋め尽くす絵や文字の殴り書きがはっきり見えた。悠一郎の思いを読むのは後回しにして、次にぼくは地上を見遣る。結構高い。ここから向こうまでの距離はおそらく3メートル弱で、ぼくは割と長いこと落下していたことを知る。
「ごめんな、岡田くん。変なことに巻き込んでまって……」
春日井がぼくにぎゅっと抱きつくと「むにゅっ」とするのが当たって、うわあああこれって絶対おっぱいだよね、生おっぱい! ブラ越しだけどリアルおっぱい! so softly!!
「……別に、大丈夫やて」この感触を絶対に忘れない。
「ほんと? 岡田くん、何回も帰ろうって言っとったのにね」
春日井が顔を上げた。胸元を盗み見るとピンク色のブラジャーに包まれたオレンジ(カリフォルニア産)大のおっぱいがブラウス越しに透けていた。
「まぁ、そやな」意外と大きいじゃないか。ていうか春日井のくせに何いいおっぱい持ってんだよ、あほ! 興奮するやろ!
「ほんとごめん。やっぱ魔王は魔王やんな。ナメとったわ、私。こんな所に落ちてまってさー」春日井はスマホを出して画面を確認する。
「やっぱ電波も圏外やし、助けも呼べへん。……どうしたらえぇんやろ」
消え入りそうな声で彼女が言う。
「そやなぁ……」
確かに春日井の言う通り。こんな所に落ちてしまっては、脱出の目処は立たない。だけどぼくは不安を感じていなかった。何でだろう。
ぐぉろんっ、ぐぉろんっ、ぐぉとんっ、ぐぉとっ、ぐぉろんぐぉろん。
遙か遠くの頭上から轟音が近付いて、また遠ざかる。
「魔王……まだぐるぐる回っとるんやな……」
春日井の言葉の意味がちょっと良くわかんなくて、ぼくは「は?」と素っ頓狂な声を出してしまう。
「さっきうちらを追っかけてきたやつ。大っきいボールみたいな」「え?」「あれが魔王なんやろ?」「えっ、違うやろ」「うそおぉ! 岡田くん、さっき魔王って言っとったやん!」「言ったか!?」「言ったわ〜。だから私、あれが魔王なんやと思ってでら怖くて、そんで上手く走れんかったのに!」「マジかて。あんなもん、魔王なわけねーやろ。どう見ても球やろ」と話しているうちに、球体はフロアの端まで行ったようで「どーん!」と衝撃音を響かせて「ごろん、ごろん、ぐぉろんっぐぉろんっ」とこちらへ近付いてくる。
「あの球、ループしとるんやろか」
「そうやな」
「えー、ヤバいて。マジどうしよ……」
うなだれた春日井が可愛そうに見えたから、ぼくは軽く背中を撫でてやる。猫が毛玉を吐いてる時に撫でてやりたくなるのと同じような感覚だ。
そうしてぼくは改めて、もう一度この状況を確認する。
穴の中はやっぱり狭くて、ぼくと春日井と春日井の荷物でぎゅうぎゅうだった。周りを囲む壁は白いけど、文字とイラストで埋め尽くされていて黒々としている。ぼくは悠一郎の作品に目を通した。
「仲間外れなんじゃなくて、最初から仲間ではなかった」
「すぐに息の仕方を忘れてしまう。歌おう、歌えば呼吸が出来るから」
「温もりに惑わされてたまるかと思った水曜日」
「傷を埋めて塞いでもう見ない様にして、そうしてる間に忘却の彼方」
「拠り所はこの自分。弱々しくて頼りない自分」
「携帯電話の電源をずっと入れてるのって、期待してるみたいでみっともない」
「思考も期待も手放した僕は夏の日に埋葬される」
等等の尽きない言葉の上を、天使と悪魔の殴り書きのイラストが手を取り合って覆っている。乱暴な筆致の美しい顔。やっぱり悠一郎は絵が上手い。改めて感心する。
あいつが悩んでいることは知っているけど、こうして正面から突きつけられると、さすがにぼくの心も軋んでしまう。
何とかしてやりたいとも思うけど、これはあいつ自身の問題で他人のぼくが干渉すべきことじゃない。あいつが自分で解決しなくちゃ意味がないんだ。
それが本当に正しいのかどうかわからないけど。
悠一郎の言葉からは他人への攻撃が感じられない。どちらかというと他者を求め、己れを拒絶している。そんな風に感じた。あいつは人の死を願ったり企んだりするようなやつではない。実際「死ね」とは思っているようだけど、それは多分「もう嫌だ」って言う代わりの「死ね」で殺害したいとか絶命させたいとか、そういうことではないのだ。それにあいつは「もしここまで来るやつがいたら、そいつは神」なんて言ってたし、悠一郎はきっと人を困らせたいだけなんだと思う。だからぼくは、あいつならきっと何か脱出する方法を作っているに違いないと考える。
「なー、春日井。大丈夫やて」
「何で?」
鼻の頭に白い液を付けてぼくを見る。
「うーん、何となくやけど。魔王って多分、ここに来る人のことを殺そうとは思っとらんくて、ただ面倒臭くさせたいだけやろ」「そうやろか?」「そうやって。多分」「うーん、たしかに。魔王ってちょっと構ってちゃんっぽいもんなあ……。書いてある言葉とか見とるとさ」「そうなんやて。だからな、多分どっかに出る方法あると思う」「そっか……!」
春日井の表情が明るくなった。髪や顎に白濁液が残っていて、やっぱり精液をぶっかけられた感は否めない。
「すごいな。岡田くんは冷静なんやね。私、もう終わった、と思って泣きそうやったのに」「いや、そんなことないで。ふつーやで」「ううん、スゴイ。エロいこと考えてるだけやなかったんやね」「当たり前やろ」うん、もう勃起しかけたものも収まってる。「あ−、ちょっと元気出た。えへへへ。ありがとね」春日井が微笑んだ。こんなに間近で彼女の顔を視るのは初めてで、ぼくは睫毛が長くてくるんとしてることや、下唇がぷるっとしてて形が良いことを知る。これ以上見ていると、見ていることがバレそうで恥ずかしいからぼくは目を反らす。すると濡れてたブラウスに透けるピンクのブラジャー(おっぱい込み)が目に入った。
「いやや、もう見んといてよ! 恥ずかしいんやで」
と、春日井は肌に張り付いた服をひっぺがして隙間を作るけど、濡れた衣服とピンクの下着はぼく的には相性抜群で、白の向こうにブラジャーは依然透けて見えている。一方ぼくの服はというと黒いTシャツだから、ノーブラだけど乳首も何も透けてない。ぼくの可愛い乳首が見られないなんて、可愛そうな春日井!
「何か安心したらお腹減ってきたわ。とりあえず先におやつ食べん?」
と言う春日井の提案に従って、ぼくたちはローソンで手に入れた食料でエネルギーを補給することにした。春日井はまだぼくの上にまたがっている。対面座位ってこんな感じなのかな、と思うけど、思うだけで言わない。
ぼくがコーラを飲んでいる間、春日井はミルクティーを飲んで鮭おにぎりを食べて次にシュークリームのカスタードクリームだけを先にぺろぺろ舐めると、最後に皮だけをむしゃむしゃ食べる。彼女いわく「シュークリームはカスタードクリームのためだけに買っている」のだそうだ。人の食べ方というものは様々である。
「あーお腹いっぱい」と春日井はウーロン茶を二、三口飲むと「なー」とぼくに話しかける。
「何?」「岡田君って下の名前なんやったっけ?」「京輔」「ふーん。意外とかっこいい名前なんやね」「そっか?」「京輔くんって呼んでえぇ?」「えぇよ」「私のこともさー千晴でえぇで」「あ、うん。わかった」
と答えたところで沈黙。春日井はペットボトルで煽るようにお茶を飲む。千晴かー。ぼくのコーラはもう空っぽで、なんとなく手持ち無沙汰な気持ちになったから、仕方なく枝豆のパックを開けて消費を始める。
緑のさやを咥えて、押して、豆が出る。ほんのり塩味が効いていて美味しい。殻はビニール袋へ入れて、またさやを咥えて押して豆を出して噛んで飲み込む。「枝クリトリス」の文字を眺めながらぼくは淡々と豆を口の中に放り込む。
「京輔くんってさー、今、好きな子とかおる?」「いや、別におらんけど」「ふーん、そっか」
と、ここでまた沈黙。対面座位は距離が近すぎて、普通にしているだけで見詰め合わなくちゃならない。何となくこの沈黙が重い。何なんだ、この空気は。ぼくは春日井改め千晴に何かを言うべきだったのだろうか?
そんなもん知るか〜!
「まぁ、お前も食えて。枝クリ」
「枝豆な。ありがと、頂くわ」
枝豆の消費活動に取り込まれた千晴は、ぼくと同じく、ぱくっ・むにゅっ・ごっくんのルーチン作業に入る。
同じ動きを繰り返してると、思考が空白になって、壁一面を埋め尽くす悠一郎の叫びが嫌でも目に入った。
「なー、『本当の幸せは何も考えないこと』って、どう思う?」
ぼくは壁に書かれた言葉の一節を抜き出して彼女に訊く。
「ん〜、そうやなぁ……」
枝豆をむしゃむしゃ食べながら千晴は視線を斜め上に固定して真剣な顔を見せた。
「うーん、難しい話やけど、私はそんなことはないと思うで」
「何で?」
「だってさ、何も考えんかったら自分がどうなりたいかとか、どうなったら幸せかとかわかへんやろ?」
「まぁ、そやな」
「思考停止したらさー、本当に好きなものに出会えへんと思うんやて。だって私は、いっぱいいっぱい、自分で考えて……って程でもないけど、一生懸命自分の好きを突き詰めて来たから、大好きな音楽に出会えたんやよ。もし何も考えとらへんかったら、多分、好きでも嫌いでもない音楽を聴いて、音楽ってそんなに面白くないなーって思っとったと思う。そりゃ周りの子らみたいな音楽聴いてたら、みんなと話しが合うし、カラオケ行ってもラクだから幸せかもだけど、やっぱさー「うぉぉぉぉ!!!」ってなるやつとか聴いとる時ってめっちゃくちゃ幸せやんか。周りの子たちも「音楽好き」って言っとるけど、多分、私の方がずっと好きやよ。だって好きな曲聴いて自転車漕いでたら興奮しすぎて15分のところが5分で着いたとか、ベッドで枕を抱きしめながらごろんごろんするって話したら、みんな『あり得ん』って言うもん。何も考えないと幸せっぽいのがすぐ来るかもしれんけど、でもやっぱ本当の幸せは、ちゃんと考えた先にあると思うんやて」
「確かにそやな」
ぼくは彼女の長口上にKOされる。
「魔王もさー、もっとちゃんと色々考えなアカンと思うで」
「まーでもあいつなりに頑張っとるんやない?」
「うそやん! ケーキ壊しまくりのくせに!? 頑張りの方向、間違えとるで!」
たしかに。それはぼくも否定しない。
ぼくは悠一郎が自分で何かを納得するまで、出来るだけ近くで待っていようと思っているけど、そんな日は本当に来るのだろうか。
ぼくは友達の心が知りたくて、また壁の文字を読む。すると他の言葉たちと少し雰囲気の違うものがあることに気付く。
「振り返るな、振り返っても何もない」「穴の底にある救い。もしもあるならば」「偽りの、まやかしの、それでも希望があるのなら、それは最後の場所に」「何度でも、何度でも会いに来れば良い。失われた拒絶と融合」
もしかしてこれは、ヒントではないだろうか。脱出の。
「振り返っても何もない」ぼくは壁をぐるりと見回してみる。書き殴られた絵と文字以外に目立ったものは特にない。確かに何もないよなぁ。
「穴の底にある救い」「希望があるのなら最後の場所に」もしかしてこれは、とぼくは自分のお尻の下に手を入れてごそごそ探る。
「何しとんの?」「いや、もしかしてこの下に脱出の何かがあるんじゃないかって思って」とぼくは件の文言を説明しながら粘液まみれの床を手で探るけど、触れる範囲には何もない。
「あと残り、千晴の股の下だけなんやけど……」
ぼくは断りを入れて、彼女のスカートの下を探ろうとスタンバイするが、「あ、ごめんね」と言って彼女は自分でスカートの下に手を入れて、床を探る。「うーん、あるかなー」ぬるぬるの液で手が滑って、ぼくの内股に時々触れるのがなんとなくじれったい。股間に触られたらどうしようと期待が先走るけど「あ、なんかあった!」千晴が手を止めてその手のモヤモヤはさっぱり消える。「何?」「何かボタンっぽい」「お〜!  押してみ?」「うんっ」
ぽちっ。
千晴が自分の股の下あたりにあるボタンを押すと、頭上でぽんっと何かが弾ける音がした。反射で顔を上げるとぱらぱらと黄金の紙吹雪が舞い落ちて、垂れ幕がどぅるるるるるるっとこの地下3メートルくらいの場所まで降りて来る。
「GAME OVERXXX お帰りは地下倉庫からどうぞ♥♣♦♠」
その文字を読み終える前に、背後の壁がうぃーんと開いて、すっかり身体を預けていたぼくは「うわっ」と後ろに倒れてそのまま軽く頭を打つ。
「京輔くん、だいじょーぶ!?」
乗っかったままの千晴がぼくを見下ろす。騎乗位ってこんな感じなのかな、と思うけど言わない。
「うん、平気や。やったな、千晴。こっから帰れそうやで」
ぼくは地下通路を手で差した。
「ほんとやな。はぁ……よかった。本当によかったわぁ……」
千晴の目が潤んでいる。
ぼくが先に行くよう促すと彼女は素直に従って、ぼくから降りるとにゅるんっと滑って転ばないように慎重に這って地下倉庫へと出た。最後にぼくの腕と彼女の太腿が擦れて滑って妙に気持ち良い。
ぼくも千晴に続いて、地下倉庫の方へ出る。
しばらく歩いて階段を上って外へ出ると、裏口の駐車場の前だった。空は鮮やかな茜に染まっている。
ぼくたちは正面入口に戻って自転車に乗ると、ぬるぬるでべたべたに濡れた服のまま家路についた。

2024年7月19日公開 (初出 2014/9/2 個人ブログ(現存せず))

© 2024 幾島溫

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"魔王は僕の友達"へのコメント 2

  • 投稿者 | 2024-07-28 11:11

    めちゃくちゃ面白かったです。中2でこれ書くとは凄すぎる。キャラ立ちもいいし、読後感も爽やかで最高。
    ところで、もうだいぶ昔「笑っていいとも」という昼の生放送バラエティ番組で、クリスマスゲストの徳田ホキが、タモリに向かって「メリークリトリス」ってはっきり言ったの、リアルタイムで観てました。
    「今すごいこと言いましたね」と小堺一機が固まってたの思い出しました。

    • 投稿者 | 2024-07-29 15:08

      めちゃくちゃ嬉しいコメントありがとうございます!当時、確か3週間位で書いたので、その頃の頑張りが報われます…!
      そして自分の説明文が悪かったのですが、「中2の夏休みの物語」という意味で、中2で書いた訳じゃなかったです。すみません。しっかり大人になってから書きました笑

      いいとものメリークリトリス事件は知らなかったですが、すごいですね。そんなことがあったとは。小堺さんも災難でしたね笑

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