サンタさん、鬼畜眼鏡男子をください

幾島溫

小説

12,574文字

クリスマスプレゼントに鬼畜眼鏡男子をもらう女性の話。中野駅南口が舞台です。

12月13日★。

 

この歳になれば、いちいち告らなくなって、ダメなもんはダメだと分かる。
失恋して残った体力で出来る事と言えば、ネットサーフィンくらいのもので、泣き腫らした目で私はぐるぐる気がつけば四時間くらいネットの海を彷徨っていた。
占いサイトで良い結果が出るまでクリックしたり、性格診断サイトで出た長所を読んで褒められた気になったりして。
だけど現実は何も変わらない。
私じゃダメなんだ。
選ばれなかった。見捨てられた。だからクリック、クリック、リンクの果てにたどり着いたのは「サンタクロースにお願い」というサイトで、ほしいモノを送信すれば、クリスマスにサンタさんが叶えてくれるかも☆ というやつだった。あーあれだ、長引く不況で明日が見えない日本人に蔓延る、願掛け・おまじない・スピリチュアル・ポジティブ・言霊・病は気から!! 的な。……そーいう感じね! ハイハイ。と頬杖付いて私は画面を見るけど、自分だってみんなと同じだ。未来への明るさなんて幻想の中でしか見たことがなく、頼れるものは現実逃避しかない。
だから私は入力エリアの「サンタさんにプレゼントを頼もう!」の言葉に従って、素直に欲しい物を考える。
えーとえーと何だっけ。指が動かない。欲しい物。折角だし。何頼んでもいいのよ、ねぇ、花菜子!? 私は自分を煽るけど、もう何もかも嫌だということにしか思考が行かない。欲しかったはずのカバンも靴も、化粧品もボディーバターもすべてはあの人に会うためのものだったし、かわいくなりたいのもあの人のためだったし、でも私を見ないあの人なんてもうウンザリだし、あの人に見られない私も嫌いだ。
もういっそ、すべて無くなって仕舞えば良い。
視界の隅で何かがチカチカ動いている。
視線を移すとブラウザの右隅で、イケメン眼鏡男子が大人しそうな女の子を壁ドンしているイラストが目に入る。しばらく見ていると、イケメン眼鏡男子がアップになって「俺のモノになれよ」と言ってそしてその後は、「史上最強の鬼畜眼鏡男子!?」という文字がチカチカして、そしてまたイケメン眼鏡男子が壁ドンする流れに戻るという……。つまり漫画の広告バナーだった。
あーもういいなあ。なんかもういいなあ。私も鬼畜眼鏡男子に壁ドンされて腹パンされてその他諸々鬼畜的行為でもって、そのまま土に還りたい。
泣き疲れた目で私は入力欄に「史上最強の鬼畜眼鏡男子」と打ち込んで、死んだ目で「おねがい♡」ボタンを押した。
鬼畜眼鏡の男子が来たりて、すべてを壊してくれたら良いのに。
そう思いながら眠りに就いた。

 

 

12月24日18時☆。

 

毎年12月24日は明石家サンタを見るって決めているから今年もそれに従うことにする。
会社を出ると午後六時過ぎで、駅に向かって歩くにつれて、すれ違うカップルの数が増えていく。普段の水曜はこんな風じゃないのに。駅前のイルミネーションはとてもきらびやかで、その灯は私の心にシングルヘルの烙印を押す。……じゃなくて今日は明石家サンタの日。年に一度、さんま師匠が生電話をする日なのーっ!!
心が焦げないように私は頭をぶんぶん振るけれど、そんなことは無駄だってことを山手線の中で知る。私よりも年若い高校生や推定大学生のカップル、それから地味目のオタク系カップル、大人しそうな会社員カップル、あらゆる男女が二人組で互いに見詰め合う場面に遭遇してしまう。
車内には勿論そうではない人々もいたけれど、そのうちの半分はやたらに綺麗な格好で、グロスを塗り直したりしてたから、きっとこれからデートへ行くだろうことは察しがつく。気にしたくなくても、見たくなくても、彼らの息遣いに蝕まれて、私はじわじわ正気を奪われそうになるけど、嫌だこんなの、負けたくない! 思考を変えよう。一人だから寂しいのなら、一人でも寂しくなくなればいいんだ。私は負けない、お前らに。私だってクリスマスを楽しみきってやるんだぞ! と決意して開いた扉を降りたら渋谷だった。ホームに降りた人たちは、大きなうねりとなって一斉に公園口へ流れ出す。背が低い私は、その波に抗えずに何となく公園口から出てしまって、これがまたいけなかった。公園口は待ち合わせをするカップルでいっぱいだった。
手を繋ぐカップル、抱き合って再会を喜ぶカップル、幸せそうな笑顔で街に繰り出すカップル。動機が乱れる。目眩がしそう。身の危険を感じた私は、地下へと続く階段を駆け下りて逃げるようにデパ地下へ向かった。
デパ地下も混雑していたけれど、地上よりはマシだった。恋人同士で居るものは少なく、大半が上品なマダムや羽振りの良さそうなおじさま、それから若いママさんで、どちらかというと家族のために買い物をして帰る人が多かった。
そこで私は、チキンの丸焼き、チーズの盛り合わせ、合鴨のパテ、イタリア産のクラッカー、フライドポテト、シーザーサラダ、ムール貝のトマト煮、シーフードリゾット、それから5000円もする赤ワインを買ってしまった。ショーケースの中にはデリという名のお総菜だけじゃなく、きらびやかなケーキも沢山あって、こちらに向けて色目を使って来たけれど、私は敢えてそれはスルー。ホールケーキは一人の身には余りに多いし、かといって一人分のケーキを買って店員さんにシングルヘル宣言するのも嫌だから、今年のパーティーはスイーツ無しだ。それならチキンの丸焼きはどうなんだって話だけど、生憎チキンとポテトは私にとって別腹で、特にワインがあれば幾らでもイケる。可愛くない自分が憎くなる。
気の向くままに買ったから、合計幾らになったかちょっと良く判らない。考えない。今宵は私のパーティーだから無礼講さ。
ボトルワインとご馳走を引っ提げて、私は地元・中野駅の改札を出る。
この街も毎時もよりはそこそこクリスマスで色めきだっているけど、渋谷とか恵比寿に比べたら平日のようなものだし、もし私が中目黒や吉祥に住んでいたらきっと地元に着いても地獄だったと思うから、中野に住んでいて本当に良かったと思う。
冷たい風が頬を刺す。
今年のダウンコートは当たりで、身体はまったく寒くないのが救いだ。
南口を出てしばらく行くと、明かりが減って、人影も少なくなる。それに伴って、両手の荷物の重みが指に食い込んで、何でこんな思いをしなくちゃならないんだろうと思い始める。
重たすぎるご馳走は、冷静に考えると一人で食べる量じゃないし、5000円のワインだってつい紹介文に惹かれて買っちゃったけど、私の舌は千円ワインでも充分満足出来る程度のモノなのだ。
あぁ。クリスマスを一人ででも楽しんでやる! ってリア充どもに戦いを挑んだ気分で沢山買い込んだけど、こんなの完全に一人相撲だ。だって、リア充たちは誰一人として私のことなんて、眼中に無いのだから。
そう気がつくと途端に虚しくなった。
身体の右半分にチキンやムール貝の重量が、左半分にワインやリゾットなんかの重量が、どっしりのしかかる。
足取りは途端に重たくなる。
今日は明石家サンタを見なくちゃいけないけれど、開始までまだ時間があるから、すたすた歩いて帰れない。
街灯を頼りに閑静な住宅街の中を歩いて行くと、やがて公園の前に出る。
そこに拡がるものは殆ど闇で、いつもなら少し怖くて避けて通る所だ。
公園の中に一つだけ立つ街灯がベンチを照らし、すべり台とブランコとパンダのスプリング遊具に影を作っていた。その他、植木やこの前まで綺麗だった銀杏の枯れ木はただの闇になっていた。
何かいつもと違うことをしないと、やってられない気がした。ここである程度、ううん、出来るだけ全部ご飯を腹に収めて家に帰ろう。クリスマスイヴに、公園で一人パーティーしただなんて、後の自分の笑いを誘うだろう。
クリスマスで疲弊した身体を引き摺って、私は公園に入る。

 

 

12月24日20時☆。

 

 

ベンチの真ん中に座って買い物袋からご馳走を出して両脇を固めれば、クリスマスパーティーの始まりだ。
12月の夜はとても寒くて、風が吹くたびに冷たさが鋭く肌を突き刺す。
良質な羽毛のガードすらかいくぐるなんて、北風は恐ろしい。
思い付くままに買ったごちそうは、改めて見ると本当にどれもこれも美味しそうで、どれから行くべきか私は中々決められない。
最初からチキンにかぶりつくワイルドさは無く、かといってサラダを食べると一層身体が冷えそうだし、けれどフライドポテトから始めるのはパーティー感がなくて侘しいから、私はひとまずワインから飲むことにした。
アルミのキャップをパチン、パチンと音を立てて開けると、瓶の口から芳醇な香りが立ち上る。グラスの類いは何もないから、直接ボトルに口付ける。ごくり。一口飲んで口を離す。砂を踏む足音が聞こえた。入口の方を見ると、サンタクロースの格好をした、痩せた眼鏡男子がこちらに向かって歩いて来る。ごくり。もう一度ワインを飲む。果実の瑞々しさが口の中に拡がって、濃厚な味わいが喉を落ちて行く。さすがに五千円のワインは美味しいし、足音は徐々にこちらへ近付いて、そして私の前で止まった。
サンタの服を着た眼鏡男子は私の顔と、手元のスマホの画面を何度も見比べて「兎山花菜子さん?」と言ってにっこり笑うと、「あ……そうです」私の返事を待たずにスマホに向かって「いました。了解、モイモイ!」と言うと、端末をサッとポケットにしまって、また満面の笑みをこちらに向ける。
「お望み通り来てやったぜ、花菜子。メニークリトリス!」
「はい?」
わたしはぽかーんとする。下ネタがどうとかじゃなくて、このボケに対する模範解答を知らないのだ。
「あ、悪い。間違えた。メニークンニします! こっちだろ?」
彼はしたり顔で笑う。
「何ですかそれ……。しなくていいですよ」
二発も下ネタでボケる人を私は知らないし、初対面だから一応マジレスしといた。
「いや、花菜子、イエスキリシタンじゃねーだろ?」
「はぁ……」
「俺、ノーキリシタンの女の子にはこうやって挨拶するって決めてんだよ」
「あの、セクハラって言われませんか?」
「花菜子はどう思う?」
「うーん。……私は平気ですけど」
彼の眼鏡は黒縁で、私が割と好きなタイプの形だった。
「そう。じゃあ、エロいの慣れてるんだ?」
「そういうわけじゃないですけど……」
「ウソつくんじゃねーよ。俺の前では素直になれよな!」
と、唐突に彼は私の肩の向こうに壁ドンならぬ、ベンチの背もたれドンを決める。眼鏡の奥の目は、一重瞼が涼しくて、イケメンというわけじゃないけれど、私の好きなタイプの顔だった。嫌だなあ、私はこういう顔立ちに弱い。あの子も同じタイプの顔だった。少し冷ややかな気持ちになる。
「ほら、言いな? どうして欲しいんだ?」
「てか、あの、誰ですか……?」
「何言ってんだよ。花菜子だろ? クリスマスに『史上最強の鬼畜眼鏡男子』が欲しいって言ったのは」
「えっ……?」
「忘れんなよ。サイトから頼んだだろ?」
「あっ……!!」
思い出した。泣きながらほとんどやけくそで『史上最強の鬼畜眼鏡男子』を入力したことを。
「ほら、俺にどうして欲しいんだ? 言えよ」
「えーと……そうだね……」
私はあの時の事を思いだそうとする。何でこんな発注をしてしまったんだろう。だけどすぐに思い出した。そうだった。現実が嫌すぎたんだ。
何だ、今日の気分にぴったりじゃん。
「何かもうめちゃくちゃにして欲しい……」
私は俯く。
「ふうん。花菜子って案外欲張りなんだね。欲しがり屋さん」
「えっ、何で!?」
驚いた私は顔を上げた。彼は唇の端を釣り上げて鬼畜的スマイルを浮かべている。
「俺にお任せってことだろ? それってつまり……」
鬼畜眼鏡のサンタクロースが私の顎を軽く持って、唇を重ねようとするけど
「だめーっ!」
私は彼を突き飛ばした。
「おっと……」
背もたれドンを続行している彼は、転ぶことなく態勢をキープ。だけど私とは物理的な距離が出来た。
「ダメだよ。私は付き合ってもない人とキスはしないのっ!」
「そう。悪くないと思うよ。花菜子は自分を大事にしているんだね」
「……わかんないけど」
そう、私はただ暗記した公式で解を出しているだけのようなものだ。
あの子との関係がそれ以上動かなかったのは、付き合ってもいないのに身体を許してしまったからなのだ。私は好きだから許したのに、それがどうにもならない状況を生んだ。
「じゃぁ、花菜子の言う『めちゃくちゃ』って何だよ?」
「叩いたり殴ったりフルボッコでめちゃくちゃにして欲しい」
「はぁ?」
「何なら腹パンだってキメてくれてもいいし、あ、そうだ。飛び蹴りもちょうだいよ。サンタさん、分かるかなぁ。大倉孝二みたいな見事な飛び蹴り。あれが欲しいんだ、私」
そこまで喋ると私は半笑いで彼を見上げた。沈黙が訪れる。もしかして怒っちゃったのかな。サンタクロースって暴力とは正反対のイメージあるし。
私はボトルからワインを直接摂取する。その間彼は黙っていたけれど、私がボトルから口を離すと再び口を開いた。
「花菜子、ズルいよ……」
「え?」
「そんな言い方されたら断れねーだろ」
「そうなの?」私はもう一杯、酒をあおる。飲めるだけ飲んで酔ってしまいたい。
「サンタの血筋を引く者ってさ、みんなこうらしくて『欲しい』とか『ちょうだい』って言われると、断れねーんだよ。まじ呪われし血筋だよ。みんなは『祝われし血筋』って言ってるけど」
「へぇ、そうなんだ」
ということは、この人は本当に本物のサンタクロースなんだろうか。でも私はそれ以上聞かない。聞いたところで、どうせ本当のことなんて分からない。
「しかも今日はクリスマスイヴだからなー。普段なら頑張って断れるモノも、断れねーんだよ。だから花菜子、本当に欲しい物だけを言え♡」
彼はにっこり笑った。ならば、と私は「じゃぁ……愛されたい。彼氏欲しい」そっこー本音を晒すけど「無理!」すぐに却下されてしまう。
「何でよぉー! 何でも上げたくなっちゃうんじゃないの!?」
「そうだけど、そういうのは無理。他人の気持ちや行動を、花菜子のためだけに段取りする訳には行かないんだよ」
「そうなの? ぐすっ……」
と、ここへ来て急に涙がこみ上げる。感情が身体に表れる速度が速すぎる。私は思っているより酔っているようだ。
「わーっ、どうしたの!? 花菜子ちゃん!」
「どうせ、私なんて……ぐすっ、ひとりぼっちで……ふえぇぇ、誰も……うぅぅぅ、愛してくれる人なんて……あーん、いないからぁぁぁぅぅうぅぅ」
一旦入った涙のスイッチは中々止まらない。でもいいや、関係ない。初対面だろうが、サンタだろうが、鬼畜眼鏡だろうが。悲しいんだから泣いてやる。
「そんなことないよ、まだそういう相手に出会ってないだけだから」
「えぇぇぇぇーん。そういうの、ひぐっ、もういいもん、だって……うえぇぇぇ~ん、みんな誰かに愛されて……ふぇっ、愛し合ってるのに……っ、私だけ、誰にも……うぅぅぅぅ、ちゃんと愛されたこと……えぇぇぇん、無いから……ふぇっ、ぐすっ、だから、もう……ぅえぇぇぇぇぇん」悲しみの生産量が多すぎて、涙の排出が追いつかないらしく、顔面に熱が籠もって、鼻水とか、嗚咽とか、体中のあらゆる場所が悲しみの排泄器官と化して行った。
「何か俺に出来ることある?」
悲しみを帯びた目で、彼が私の顔を覗く。確信した。この人絶対鬼畜なんかじゃない。
「だからもう、さっきから言ってんじゃん! ぶってよぉ、たたいてよぉ、ビンタしてよぉ。こんな私、いらないの。めちゃくちゃにしてよぉっ!」アルコールが血管の中を駆け抜けて、身体の重心を揺らす。
「えー嫌だよ。俺、女の子にぼーりょく振るう趣味ないもん」
「あーもうわかった、ぐすっ、ビンタちょーだい、このほっぺに。パチーンと目の覚めるやつ。気持ちいやつ。痺れちゃうやつ。ビンタが欲しいのっ!!」
「あーもう、あほー! 花菜子のあほあほー!」
彼は耐えられないと言った様子で叫ぶ。
「うるさーい! 鬼畜眼鏡はとっとと鬼畜な仕事を遂行しやがれちょうだいなんだよっ♡」だけど私はかわいこぶって応戦。
「くっそ……マジ油断してた……。教えるんじゃなかった……クソッ」
ほらじゃぁ行くぞ、と彼は私の頬に掌でアタリを付ける。そして、一度深呼吸すると掌で水平に空を切って、私の頬を叩いた。
衝撃で肌がぱちぱちして、それが退くとじんじんと痛みが頬を覆う。
与えられるべき罰を与えられたようで気持ちが良い。でも罰って何だ? 一体私がどんな罪を犯したというのだろうか。
さっきまでとは違う涙が瞳に滲む。
「これで満足?」
私は首を横に振る。
「もっとちょうだいっ♡ さっきみたいなビンタ」
「あーもう、またそういう事言う−!」
彼はしかめつらをするけれど、それでもやっぱり私の「ちょうだい」には逆らえないようで、手を上げると、私の頬に狙いを定めて「えへへへ」そしてさっきと同じ手順で、平手打ちをキメた。
衝撃と刺激、そして遅れてくる重たい痛み。
頬が熱を帯びている。
この痛みは私に相応しい。
痛みを背負って惨めになればいい。
こんな自分はどこか歪んでるって判っているけれど、それでも私はこういうモノなんだと思う。誰にも愛されたことの無い自分に相応しいのはこんな姿だ。
「ふぇ……っ、ぐすっ……」そこまで思い至るとまた私は泣き出してしまう。
「あーもう、だから嫌だったんだよ……」
「違うもんっ……うぅっ、痛いんじゃないもんっ、ひぐっ、悲しいだけだもんっ」
「……俺に出来ること、何かある?」
優しい声音で彼は言う。最早鬼畜でも何でもなく、ただのサンタのお兄さんだ。
「飛び蹴りしてよぉぉぉ。うぅぅっ、そしたら、私、ぐすっ、スッキリするからぁあぁぁぁうぅぅぅぅぅ」
「マジか……」
「マジだよぉぉうぅぅぅ」
「……仕方ないなぁ。花菜子がそれでいいっていうなら、やってやるよ」
ほら立て、と彼は私の手を引くと砂場まで連れて行って
「今から俺は、お前の背中目がけて飛び蹴りをする。足音が聞こえたら避けろよ」
と言う。
「えへへへへ」
鼻水でぐずぐずになった顔で私は笑う。誰かに何かをしてもらうことは嬉しい。
「行くぞ」
背中が期待と緊張でビリビリする。砂を踏む軽快な足音はこちらへ近付く、と思うと足音は不意に途切れ、そして私の背中のど真ん中に衝撃が重く響いた。受け止められない私はそのまま、重力に従って顔面から砂場に倒れる。鼻の中と唇、それから睫毛を砂が覆った。
「うわっ! ちょっ、花菜子ちゃん! 大丈夫!?」
「うん……きもちい……」
私は顔面の砂を拭って、寝転んだまま赤い服を着た彼を見上げる。
「マゾなの?」
「違う」
「じゃぁもう止めようよ」
私は首を横に振る。涙で視界がぼやけている。
「だって、だって私は……」
砂粒を指の股で感じながら私は話そうとする。
けれども言葉より先に、「ひぐっ」と嗚咽が漏れた。
「だってぇ……ぐすっ、うぇっ……私なんて……うぇぇえぇん、めちゃくちゃで、ぼろぼろになっちゃえばいいんだよぉ……そう思ったからぁ……うわぁぁぁぁぁぁぁん」
「花菜子はそれでいいのかよ?」
彼は私に言葉を投げる。
「よくないよぉ……。でもっ、ひくっ、誰も、愛してくれないんだもん……」
あーもう自分でもわかってる。私、ちょうウザい。でもこんなこと、この人くらいにしか言えないよ。
「さっきからさ、他人のことばっかじゃん? そんなのどーでもいいだろ」
彼は私の手を引いて身体を起こさせる。
「そんなことないもん」
私は砂の上でしゃがんで膝を抱える。
「花菜子を愛さないって決めたのは、他人だろ? 他人の下したジャッジを、自分の身の上に振り下ろすなんて下らないことだよ。それに、いつだって他人が正しいとは限らないんだから」
「……うん」
もっともだ。仰言るとおりの正論だ。だけど、彼はこの悲しみに、どうケリを着けろと言うのだろう。
「愛してくれない他人の気持ちを花菜子が変えることは出来ないけれど、花菜子だって他人に気持ちを変えられる必要なんてないんだからな。だから、誰かが花菜子を愛さなくなって、花菜子は花菜子で自分を愛して可愛がってやればいいんだよ」
「……」
「まして暴力なんて。そういう性癖でもないなら、受けるべきじゃないよ」
私は膝の上に顔を伏せている。彼の声は穏やかで静かな声だった。どんな顔で言っているのかは分からないけれど。
「花菜子がもし、少しでも自分のことが好きなんだったら、自分を愛することを他人任せにしちゃいけないよ。大事なものは手放すべきじゃない」
「うん……」
私は顔を上げる。
「花菜子は自分のことが好き?」
「嫌いだけど……」
私は逡巡する。けれどすぐに心の奥から答えを見付ける。
「本当は好き」
「それなら自分自身を手放して、他人に委ねちゃいけないよ。誰かに取られたら、取り返しがつかなくなるんだから」
「……」
彼が正しいことを言っているのは、酔った頭でも何となく分かる。だけど、だからって、どうすればいいの? 私は。
「けど、花菜子はちゃんと自分を大事にしようとしてるよね。だから大丈夫だよ」
彼が私の頭を軽く叩く。触れられた場所が見る間にとろけていくようで気持ちが良い。
「そうかな?」
「だって、ほらあれ」
振り返ってサンタのお兄さんはベンチの上のごちそうを指差す。
「あー」
「『自分へのご褒美』ってやつでしょ?」
「ううん、違う」
「じゃあ何?」
「あれはね、カップルたちに負けたくなくて買っただけ。一人寂しいクリスマスなんて嫌だから、一人楽しいクリスマスにしようと思ったんだ。カップルに対抗してるつもりだったけど、結局カップルたちは私のことなんて眼中にないし、何だか虚しくなっちゃったよ。バカだよね、私。あんなに食べきれるわけないのに」
へへ、と苦笑いを落とすと息が白かった。
いつの間にか塵のような小さな雪が、はらりはらり降っている。
「花菜子、ほら立てよ」
不意に彼は私の手首を握って引っ張り上げて立ち上がらせると、
「ちょっと待ってろ、いいもの見せてやるよ」
と言って、ポケットから端末を出して片手で何かを入力した。
塵雪は徐々に大きくなって、夜空を白く彩っていく。
不意に頭上から強い風が垂直に吹き降りて、雪が乱れ舞う。辺りが急に薄暗くなった。
見上げると、巨大な円盤が頭上で旋回していた。薄暗くてよく見えないけれど、鉛色のボディの底には大きな排気口が幾つもついていて、そこから風が吹いている様だ。
「来た」
「なにこれ……」
「サンタの乗り物」
「うそ!」
「ほんと。雪降って来たし、早く行こう」
と、彼は言ってまた端末を操作しようとするけれど「あ、ごちそう!」と言うと、慌ててベンチへ走ってビニール袋二つとワインのボトルを持って「おまたせ」そして今度は私の手をしっかり握って、端末を円盤に向かってかざす。
鉛色の底に入口が現れて、赤い光が降り注いで私たちを包む。
次の瞬間、私は白い部屋の中にいた。
「えっと……ここは?」
「『サンタのソリ』の中だよ」
広さは一人暮らしの私の部屋の4倍くらいある。丸い床には鮮やかな黄緑色のラグが敷いてあって、壁は一面ガラス張りで、夜の中で雪が降っている様子がよく見えた。彼は私のコートを脱がすと、壁についているフックに掛けた。
「まぁ座ってよ」
彼は窓際にある木製のテーブルを指すと、テーブルとお揃いのデザインの木製の椅子を引いて私を座らせる。
眼鏡のサンタは、手際よくテーブルの上にごちそうを並べると、奥の方からワイングラスを二つ出して「一緒に飲んでいい?」と訊いてから、あの5000円のワインをグラスに注ぐ。
「それじゃ、改めて」
グラスを持って彼は私の向かいに腰を下ろした。
「メニークリトリス」「いらない」
私たちは、互いのグラスをぶつけて軽快な音を響かせる。
ぐい、と深紅のワインを一口飲むと彼は訊ねる。
「花菜子は、鬼畜眼鏡男子がタイプなの?」
「全然違うよ」
「マジで。じゃぁもう、鬼畜ぶるの止めていい?」
困り顔で彼が笑うから、私もつられて笑って
「いいよ。無理しないで♡」
と、ふざけた調子で答えた。
「あーよかった。大体さー、女の子を呼び捨てにするのとか、何かしっくりこないっていうか、居心地が悪くてさ。あと壁ドン? あれかなり練習したからね!」
そう言いながら、眼鏡のサンタのお兄さんは、サラダやムール貝のトマト煮なんかを手際良く、取り分けていく。
無謀な量に見えたごちそうの山も、二人で食べれば何とかなる。私たちはチキンもシーフードリゾットも、みんな残らずお腹の中に収めていった。
「あー美味しかった。こうやってクリスマスに食事するの初めてだ」
「あ、そっか。サンタさんだから?」
「そう」
私はグラスに口付けて、ワインを飲みながら何となく窓の外を眺める。
小さな光の粒が集まって、街全体が煌々と輝いている。「サンタのソリ」は高いところを飛んでいるらしくて、東京タワーが眼下に小さく見えた。白い雪は吸い込まれるように、次から次へと東京の夜景の上に落ちていく。
「すごいよね。東京の明るさって」
「うん」
「やっぱ、この街の明るさって世界トップクラスなんだよね。花菜子ちゃんはシベリアには行ったことがある?」「ない」「あそこなんて、夜通ったら真っ暗闇だからね。ま、人が住んでない場所も多いからだけどさ」「うん」「街の明かりって、人間がそれぞれ自分の意思で灯すものだろう?」「うん」「ってことはさ、これだけ明るい東京にはこの明かりの数だけ人間がいるってことじゃん?」「そうだね」
私は身を乗り出して、窓の外を眺める。
白い光、オレンジ色の光り、青い光、赤い光、小さな光、大きな光、強烈な明るさ、穏やかな明るさ。あらゆる種類の光が、この街にはある。
「この明かりの下にどれだけの人がいるのか……想像しただけでも目眩がするよ」彼は笑う。
「この中で花菜子ちゃんが出会った人間って、どれだけの割合?」
「うーん……。すごく少ないと思う……」
「だよね。だからさ、そんなほんの一握りの人たちと両思いになれなかったくらいで、花菜子ちゃんは自分のことを、ぼろぼろにしなくたっていいんだよ。そんな大事な結論を出すには、データとしても弱すぎるよ」
「……うん」
また涙がこみ上げそうになる。今度は何だか胸がいっぱいになってしまって。
「それに、花菜子ちゃんにとって、この明かりの下にいる人たちの殆どは顔も名前も知らない人だろ? そういう人たちと自分を比べる必要なんてないんだから。みんな違う人生を送ってるんだから、そもそも比べることなんて出来ないんだよ」
上空から東京の夜を鳥瞰しているせいか、彼の言う事が分かるような気がしてくる。
「そっか。そうかもしれないね」
テーブルの上に残っているのはもう、クラッカーと合鴨のパテとチーズの盛り合わせだけで、サンタの彼は、ブルーチーズをひとかけ口に放ると「おいしい」と言ってもぐもぐ食べる。
「だからまぁ、花菜子ちゃんには、この景色を見て欲しかったんだよね」
「うん。ありがと……。サンタさんの気持ち、わかった気がするよ。私、すぐには出来ないと思うけど、きっと少しずつ、誰にも愛されなくても平気……ううん、そうじゃなくて、自分のことをちゃんと大事に出来るようになると思う……」
そうなりたいな、という願望を込めて私は笑う。
「そうだよー。花菜子ちゃん、いい笑顔。俺はそういう顔が見たかったんだよ」
ガラスに私の顔が映っている。自分にはにやけ顔にしか見えないけれど。
「へへ。そう?」
「うん、可愛い。笑った方が絶対に可愛いよ」
かわいいとか言われたのってどれだけ振りか思い出せないほどで、くすぐったい気持ちになった私は益々笑ってしまう。
「もし花菜子ちゃんが、それでも自分を大事にする気になれなかったら、その時は、俺を助けると思って笑顔で居続けてみてよ。俺は可愛い女の子が好きだからさ、花菜子ちゃんが笑うことで、この世界に一人でも可愛い女の子が増えることが、俺のハッピーだよ」
「ん、わかった」
えへへ、と私は笑う。今度は笑いのスイッチが入ったかのように。
サンタのソリは山手線の上空をゆっくり回って、そしてまた中央線の方へ戻る。
「そろそろ花菜子ちゃんのおうちだよ」
「そうだね」
彼の口数は少なくなって、私はもう別れが近いことを悟る。
「来年も来て欲しい」そう言おうかと思ったけれど止めた。願いを叶えてくれる彼とのそれは約束になり、そうなると結局私はクリスマスイブを彼に依存することになってしまう。
そんなのは嫌だ。今と何も変わらない。
次に会うのは、自分をしっかり自分で愛せる様になってからだ。そうじゃないと、また私はろくでもないプレゼントを願ってしまうだろう。
彼はフックに掛けた私のコートを取ると「ほら」と言って着せてくれる。
「ワインとディナーごちそうさま、ありがとう」
「こちらこそ」私は笑顔で云う。
「花菜子ちゃん。きみは可愛いよ。だから大丈夫」
そう言うと、彼は一度私を抱きしめた。人の温もりは何だか安心する。
「それじゃ、扉開けるから」
彼は端末を操作した。
「ありがとう楽しかった」
床板が開いて、目映い光が私を包んだ。
ばいばーい、と私は手を振り、彼の姿が遠ざかる。
——あっ、今日のことは誰にも言わないでね!
遠くで彼の声が聞こえた気がした。

 

☆。

 

目が覚めると午前八時で、私はベッドの上で倒れるようにして寝ていた。ダウンコートを着たままで。
ごちそうを買い込んで、公園に行って鬼畜眼鏡のサンタに会って、UFOに乗った気がしていたんだけど、あれは夢だったのだろうか。
私は一先ずコートを脱ぐ。すると襟のファーの部分に赤い繊維が着いているのが見えた。
私は赤い服を持って居ない。
外を見ると雪が積もっていて、テレビによると何年かぶりの大雪ということだった。でもそんな話、毎年聞くような気もするけど。
シャワーを浴びて一通り身支度を済ませると、家を出て会社に向かった。
電車は遅れていたけれど、数本見逃せば難なく乗れた。電車の中は人でいっぱいだけれど、少しだけ隙間があるからマシな方だ。電車が揺れると、スーツ姿の背中が揺れて、こちらへ寄り掛かるから私はしかめ面で受け止める。
昨日の夜の出来事を誰かに言ったところで、信じてくれる人はいないだろう。私だって自分の記憶が半信半疑だ。ワインでかなり酔っていた気もするし。昨日の私は酷かった。あんなのメリークリスマスじゃなくて、メニークリトリスに等しいよ。って、これあの眼鏡のサンタくんが何度も言ってた言葉だ。
私はおじさんたちの谷間で小さく笑う。尖らせた唇と眉間の皺を綻ばせると、車内の空気が少し緩んだ気がした。
そういえば彼は私に笑うように言ってたっけ。笑った私は可愛いし、可愛い女の子が増えると幸せだ、と。
ひょっとしたらそんな小さな事で、色んなことが変わっていくのかも知れない。そのことに気がつくと、自然と口角が上がった。
電車が新宿に着くと、私はホームに降りる。人波に流されるように私は階段を上がる。いつもの光景だけど、私はいつもみたいに不機嫌にならない。
きっともう大丈夫。なんとなくそんな気がした。

 

 

2024年12月15日公開 (初出 2014/12/24 個人ブログ(現存せず))

© 2024 幾島溫

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