リアルの國、裁判所ランド

幾島溫

小説

13,044文字

離婚調停をしていた頃に日記代わりに書いた話。

 

裁判所ランドへの入場は、基本二人一組で言ふことに決まつてゐる。すべてのアトラクションはペアでしか利用できず、一人で入つても調停や法廷ショーを見ることくらゐしか出來ない。
テレビでは連日、裁判所ランドのCMが流れ、朝の情報番組はこぞつて「今週の裁判所ランド」の特輯を組むし、夜の番組では「大人の休日・裁判所ランド」の特輯が流れるし、深夜放送では「裏裁判所ランド」なんてテーマで情報通たちが1時閒近く裁判所ランドについて語り合つてゐるし、とにかく裁判所ランドは流行つてゐるやうだつた。
街に出てもそのことはよくわかる。
裁判所ランドの經營は政府が行つてゐるから、テーマ曲の「イッツア・リアルワールド」や「事實のままで」は著作權フリーといふことになつてゐて、至る所でこの樂曲が流れてゐる。歌つてゐるのは、國民的人氣歌手のコリスハートで彼は第二の故鄕である日本に恩返しがしたいといふことで、特にギャラは貰つてゐないらしい。ちなみに作曲と編曲を擔當したのも彼だ。
ネット上では「裁判所ランドが大人氣といふのは、マスコミの印象操作だ」「政府のプロパガンダだ」といふ聲が私の觀測範圍では9割を占めてゐるけれど、でも實際街へ出てみれば裁判所ランドが流行つてゐるのは紛れもない事實で、さうなるとミーハーぢやない私でも裁判所ランドへの興味が湧いてしまふ。

 

 

チケットを手に入れてしまつたのだ。
裁判所ランドの。
結果論である。
否、ここは通過點でしかない。
とにもかくにも、私の手の中には裁判所ランドの入場券が2枚ある。
赤い券には「被告」、靑い券には「原告」と書いてある。
一緖に行く相手はゐない。
なんて誘ふ前から諦めることは良くない、と自分を奮ひ立たせて、最近バイト先で仲良くなりかけの、奈良出身の西原さんを誘つてみるがやつぱりプライベートが忙しく、行く事は無理だと斷られる。
友達がゐない譯ぢやない。大人になつて暫く經つと、みんな仕事や家庭の事で忙しく、住む場所もバラバラで離れてゐる。私は西原さんが「この前實家歸つたから」と關西特有のイントネーションで渡してくれた、くずもちを貪り喰ひながら、指が覺えたURLをブラウザに打ち込んで愛用SNSのトリさんマークのサイトに書き込む。
「ゆるぼ。裁判所ランドへ行く相手募集」
submitした直後は、自意識が私を搖さぶつてドキドキが止まらなかつたけれど、3時閒待つても誰からの反應もなゐなかつた。
ドキドキは靜まり、平常心、平常心。落ち込まないやうに氣をつける。

 

 

勇氣を出して新しい扉を開いたつもりの私!
ドアを開けっ放しで眠るよ。
おやすみなさい。
てきとーに生まれろ、樂しい未來。
むにゃむにゃ。

 

 

寢る前の祈りは、起きれば大槪忘れてる。
きつと眠りに食べられてゐるのだ。
翌朝起きると、トリさんマークのサイト經由でメッセージが一通屆いてゐて、寢ぼけ眼で確かめると「もしよければ、裁判所ランドにご一緖させて下さい」といふ內容で、差し出し人はヒカリさんだつた。
途端に私の目は見開いて、動悸が驅け出してドキドキが止まらないっ。
ヒカリさぁぁぁぁぁんっ! 私も會ひたいっ!!!!
ヒカリさんと私はかれこれ數年の付き合ひになるが、お互ひ餘り言葉を交はしたことはなく、互ひに「イイネ」を付け合ふだけの、大變愼ましいコミュニケーションをしてゐる仲だつた。
ヒカリさんの氣持ちが變はらないうちに私はすぐさま返事を送る。

 

 

翌日わたしは、久し振りにつけまを付けて、待ち合はせの裁判所ランドの入口前に赴いた。
平日にもかかはらず、裁判所ランドは盛況で若い女性を中心に家族連れやカップルなどが次々と、鐵門の中に吸ひ込まれていく。スーツを着た人、くたびれた服を着た人、作業着の人、マントを羽纖つた人……みんな思ひ思ひに裁判所ランドへの愛を表現してゐる。
ガラケを握り締めて私は、周圍の人の樣子を伺ふ。あの女性がヒカリさんだらうか、いいや意外と年配かもしれないし……などと考へてゐると、行き交ふ人の全てがヒカリさんに見えてしまふ。私は時計を見る。時刻は午前10時3分。待ち合はせから3分過ぎたけどヒカリさんは來てゐるのだらうか。と思つてゐるとぶるるっと手の中でバイブが震へた。
ディスプレイには「ヒカリ」さんの文字。
「はい、もしもしー……」
「着きました……えっと……」
意外と聲が低かつた。
「門の所にゐます」
と言つたところで、あちら側にゐるピンクのフリルのついたLIZLISAつぽいコートを着てゐる女の子と目が合つた。
「あ〜♡」
彼女は茶髮のゆるふわロングヘアーを搖らして私に驅け寄る。
「つるりさん!? ヒカリですっ」
彼女はとても背が高かつた。身長多分175cm。元彼の身長が173cmだつたから、それ基準つてことで。
「わ〜! はじめましてー! つるりですー!」
ヒカリさんは背が高く、目がぱっちりしてゐて、付け睫毛がお人形みたいに決まつてゐて、お肌が綺麗で、ブラウザで見てゐた猫さんアイコンis 彼女って思ふと昂奮しちやつてもう何から話していいか分からない。
「あ……、と、取り敢へず中入りますか?」
「はい♡」
ヒカリさんは少し屈んで私に目線を合はせてにっこり笑ふ。
私はヒカリさんより30cmは背が低い。

裁判所ランドの面積は東京ドーム11個分ほどあるのだと言ふ。
さう言はれても、東京ドームに行つたことがない私にはまつたくピンと來てゐない。
ヒカリさんに何氣なく、靑いチケットを渡すと「あ、つるりさん、被告の方で良いんですか?」と訊かれるから「あ、いや、よく分かつてないんだけど、どつちでもいいですよ」と返して「いやいや、あたしもどつちでもいいんで」「いやいや、わざわざ來て頂いたんだから好きな方を」なんて、スイート押し問答の末に結局初めの通りに、私が被告で、ヒカリさんが原告として、入場した。
警備員に券を渡すと、その先に眼鏡を掛けた女性が待つてゐて、私たちの半券を確認する。
「このチケットでお樂しみ頂けるのは調停ですね。今なら、「リコン♥パーティー」が待ち時閒ゼロでお樂しみ頂けますよ」と、園內の案內圖を見せてくれた。
アトラクションの「リコン♥パーティー」はここから割と近いところで、園內を半分にしたら手前にあたるエリアに在る。
「ぢや、そこにします?」
「はい」
私とヒカリさんは、早速行き先を決めると、女性にリコンパーティーの座席豫約を取つて貰ふと、早速裁判所ランドの中へ一步踏み出した。
示談金♪ 手切れ金♪ 慰藉料♪ 養育費♪ 婚姻費用♪ 辯護士費用に交通費♪ お金、お金がいーっぱい♪
といふ歌が園內で流れてゐる。歌つてゐるのは女性で、コリスハートではなかつた。アクのない伸びやかな歌聲は誰なのか分からないけど、上手い。
園內に入るとまず大きな噴水が私たちを出迎へて、中心の巨大な法廷ハンマー(と、私が呼んでゐるもの)から水が湧いてゐる。
噴水の前から道が左右に分かれてゐるから、私たちは「←調停パラダイス」の札が立つてゐる左側の道を步いて行く。鋪裝された眞つ黑い道は眞つ直ぐ伸びてゐて、奧にある灰色のビルの前まで續いてゐるやうだつた。沿道には街路樹が澤山植ゑられてゐて、視界の隅で綠のもさもさが踊つてゐる。
私とヒカリさんは互ひにもじもじして、まるで中學生の初デートのやうだつた。
「あの……突然名乘り出てしまつて濟みません」「いやいや、すごく嬉しかつたですよ」「氣持ち惡いつて思はれないかなつて思つて……」「いやいや、そんなすごく嬉しかつたですよー!」と、話してなんとなく沈默。こんな言葉じゃ自分の氣持ちを傳へきれない。かといつて、前のめり過ぎると、ヒカリさんに退かれさうだから、私は何も言へなくなる。
「實を言ふと、ヒカリさんにお會ひしてみたいなーと思つてゐたから、あの、メッセージ頂いた時、すごく嬉しくて……」「えーさうなんですか?」ヒカリさんが口元を手で隱して笑ふ。動きが細やかで可愛い。書き込みからして、可愛い女の子だらうな、と思つてゐたけど思つてゐた以上に可愛いな、これは。
ヒカリさんは私のドブのやうな呟きに、澤山「イイネ」をくれるから、それなりに何かしら抱へてるんだと思ふけど、彼女からの發信は、好きなラジオと音樂のことと食べたもの位で、それもそんなに多い譯ぢやないから、私はヒカリさんがどういふ人なのか、はつきり知らない。
「ヒカリさん、お住まひはこちらの方でしたつけ?」「はい、羽多賀谷です。つるりさんは、たまプラ—ザでしたつけ?」「いえ、あれはちよつと、本當は違ふんです……。實は今は松尾市の方で……」「さうなんですかぁ。それぢやぁかなり、遠いですよね」「えぇ、まあ……。てか、あの、敬語……ぢやなくて、いいですよ?」「いやいや、でも」「あの、もう、ほんと」だつて言葉遣ひに氣を取られて內容が疎かになる。それに私はもつとヒカリさんと仲良くなりたい。
「あ、ここでせうか」
彼女が足を止めた。
顏を上げると、綠の中に埋もれるやうにして、「リコン♥パーティー」の札が見えた。
「つぽいですね」
「では、行きませうか……」
「はい」
ヒカリさんは扉についた鐵のバーを握ると、手前に引いて扉を開けた。

 

 

「リコン♥パーティ−」の內部は更に三つの部屋に別れてゐて、私たちは端から順にその三つの部屋の前へ行つて案內板を確認する。
その結果、左から順に「相手方待合室」「調停ルーム」「申立人待合室」と書いてあつた。
「てことは「えーと」と私たちは何となく行くべき所を察するけれど、二人ともここが初めてで確信が持てない。
「でも、誰もゐないし、取り敢へず部屋に入つてみませうか」私は握り締めたチケットに視線を落とした。
「さうですね」ヒカリさんも俯いてチケットを見る。
鏡のやうな反應をするヒカリさんに、私は親しみを感じてゐた。と、その時、眞ん中の部屋の扉が開いて「あらー11時からの方ですね」と、上品なおばちゃまが現れる。年の頃はover60だらうか、きつと。自分より年上の人の年齡はよく分からない。
「えとあの、初めてなんですけど……」
「と、私が言ふと、おばちゃまは私たちの券を確認して「あなたはこちら、あなたはあちら」と右と左を交互に指して、順に呼び出すまで部屋で待つてゐるやうに、と笑顏で告げた。
「それぢや」「あ」「はい」「また」「あとで」
私とヒカリさんは微笑み合ふと、それぞれ指定された部屋へ別れて入る。

待合室といふのは本當に待つためだけの部屋で、私が入つた相手方待合室にあるものは、橫2列:縱5列で竝ぶ合計10脚の黑革のカリモクソファだけだつた。
私はまづ、一番前のソファに座る。
手摺りの角度が丁度良くて、座り心地も氣持ち良い。
呼び出しはまだ來ない。
本當に何もないのかな。と改めて部屋の中を見廻すと、裁判所ランドのマスコットキャラクターの法子ちやんと正義くんが「お得な年閒パスポート販賣中!」とアピールしてゐるポスターが目に入つた。法子ちゃんがセミロングにスーツ姿の女の子で、正義くんはオールバックにサングラスの男の子だけど、繪柄のタッチは3等身で割とかはいらしい。さうだ、西原さんへのお土產は法子ちやんと正義くんの何かにしよう。さう決めた私は、今度は前から三番目のソファに腰を下ろす。
二、三人掛けのソファが合計10脚だけど、待合室には私が一人。
待ち放題である。
寢轉がつても後ろを向いても、床の上に轉がつてもソファのど眞ん中を陣取つても、誰にも文句を言はれない。
今日は本を持つて來てゐないし、ケータイはガラケだからネットを見る氣にもなれないから、私は今、ただ、待つといふことに向き合わざるを得ない。
混じり氣一切なしの純粹な「待ち」……!
待合室と銘打つてゐるのなら、漫畫の一つでも置いておけばいいものを、それを敢へてしてゐないのは、「待つ」といふ行爲をとことん見詰めてほしいといふランド側の計らいなのかい!?
……頭の中で、大見得切つてた。一人きりでも歌舞伎役者にはなれない。
暇を持て餘した私は、ソファの上に寢轉んで天井を見詰める。ガラケで時閒を確認すると、部屋に入つてからまだ15分も經つてゐなくて、時閒の重みを思ひ知る。
あぁ。
不意に扉が開く。
ビクッと反射で私は起き上がつた。
「調停ルームへどうぞ」
部屋の入口でさっきの上品なおばちゃまが微笑んでゐた。

 

 

部屋に入ると、50代くらゐのをぢさんが長机の前に座つてゐて「こちらにどうぞ」と、私に、彼の向いにある椅子をすすめる。
私が腰を下ろしてゐる閒、おばちゃまはをぢさんの隣に腰掛けて、私は机を挾んで二人と向き合ふことになる。
「こちらにお名前のご記入をどうぞ」
をぢさんに渡された紙に名前を書かうとすると、「申立人」として既に「島田光里」の名前が書かれてあつた。これがヒカリさんの本名なのだらうか。
私は「中野梢惠」と自分の名前を書いて、をぢさんに紙を返した。
「それでは早速、第一回の調停を始めます」
おばちゃまが微笑む。穩やかで優しさうな人だ。
「あなたは、先方とどうなりたいとお思ひですか?」
「うぇっ!?」
唐突に來たな。といふか、裁判所ランドってかういふ場所なの?
「もし、都合の惡いことでしたら、先方にはお傳へしませんので、まづは正直に仰つてみては如何でせう?」
をぢさんも微笑んだ。
「うぅ……えっと……さうですね……。仲良くなりたいですね……」
「それはどの程度?」
をぢさんが聞く。
「何でも話せるやうな仲といふか……何でせうね、う〜ん……」
こんな質問されてもこまる。どの程度とか、普通は會つてすぐ考へることぢやない。
そりや仲良くなれるもんなら、なれるだけ仲良くなりたいけれど。だつてその方が人生は樂しい。でもそれは相手がヒカリさんに限らず、だ。
「何でも。成る程。あなたは何か、ヒカリさんに隱してゐることはありませんか?」
話すのは相變はらずをぢさんだけで、おばちゃまの方はせつせとノートに記錄を取つてゐるやうだつた。
「さうですねぇ……えーと……」
私は考へる。
だけどこれといつて、祕密にしてゐることを思ひ出せない。
そもそも私は心の露出狂で、思つてゐることは何でもSNSへ書いてしまふ性質だ。
「例へばですね、戀愛のことですとか、性的なことですとか」
をぢさんが私の目を覗く。
「あぁー……さうですねぇ……」
戀愛のことはほとんどすべて、愚癡や恨みや反省や、自嘲や自戒や祈りとして、トリさんマークを通じて全てヒカリさんに傳わつてゐるはずだ。
だけど、性的なことは……。
私は下ネタは書くけれど、自分の性癖については言及しない。
さういふ主義を貫いてゐる。
……だつて、それを讀んだ友人知人が、私があんな所やこんなことでイクところを想像させられてしまつては、可愛さうぢやないか。
これは氣遣ひ、大人としてのマナーだ。さう考へて私は、性的なことは一應祕密にしてゐる。
「それ、言つた方がいいんですかねぇ……?」
「『何でも話せるやうな仲』になりたいのなら、言つた方がいいんぢやないですか?」
「さうですか……うーん」
私は躊躇ふ。それといふのも、私の性的嗜好はあまり一般的ではない。
「決意にお時閒掛かるやうでしたら、もう少しお待ちしますよ」
「さうですね……その方がいいかもしれないです」
「では、次にまた先方をお呼びして、あなたのお氣持ちを傳へますが、他に何かお傳へしたいことはありますか?」
「さうですねー」
と、ちよつと考へて、今度はすぐに思ひ出した。
「あの、私、プレゼント買つて來たんです。これ、渡してもらへますか?」
私は小さな紙袋をカバンから出してをぢさんに手渡す。
中身は、ドイツ製のクリスマス仕樣のクッキー罐だ。鮮やかな赤がかわいくて、ヒカリさんに上げたいと思つたのだ。
「はい。たしかにお預かり致しました。それではまた、お呼びするまで待合室でお待ち下さい」
二人が微笑み、私は席を立つ。

 

 

待つことを「まちまちする」と言つたのは水木しげる先生で、この大變可愛らしい韻が氣に入つた私はことあるごとに「まちまちしてるね(◍•ᴗ•◍) 」などと、使ふやうにしてゐる。
まちまちすること5分が過ぎた。
まちまちすること15分が過ぎた。
性癖や性感帶を告白することで、ヒカリさんと仲良くなれるのなら、別に言ふ事に抵抗はない。ただ、問題はそれによつて不快感を與へたり、退かれたりすることなんだ。それつてカミングアウトし損ぢやん。
時計を見るとまちまちしてから30分が過ぎてゐた。長い。ヒカリさんの話が長引いてゐるのか、それともをぢさんとおばちゃまで何か準備をしてゐるのか……。
暇を持て餘した私は、先日サイトで見かけた、さくら色のういろうのことを思ひ出すことにする。彈力のある、淫らさうな艷肌、控へめなピンク色は私の劣情を誘ふ。舌の上で轉がしたらきつと、イヤラシい反應をするんだらうな……。それを唾液でぐちゅぐちゅにして、奧齒で何度もその肢體を貫いた後は、きつとあの美しい姿は見る影もなく……私の喉の奧にごっくんされる……。あぁ……。
私は、ういろうに性的昂奮を覺えてしまふ、いはゆる「ういろう性愛症候群」なのだ。
まちまちすること40分弱。暇を持て餘して何度もういろうのことを考へてゐるうちに、本格的にムラムラしてきた。やばいな。昨日もオナニーしてゐないし、ちよつと本當に、ムラムラエネルギーがフルチャージされてゐる。
自慢ぢやないが、といふ時は大槪自慢で、自慢ぢやないが、私は本氣になれば膝頭をもぞもぞ愛撫することで1分以內にイケる。これは開發の賜だ! 溜まつたものをすぐに發散することが出來る點に置いてはそれは便利で、今こそこの特技を使ふ時ぢやないかと思つてわたしは、膝丈スカートをずずつと上げて、ハイソックスの眞上にある膝頭をででーんと自分の前に出す。
ここをこちょこちよつとしてたら、卽イキだ。でも……。
もしイッてる最中におばちゃまが入つて來たらどうしよう。
聲を抑へてゐても、表情だけはどうしやうもない。
私は膝の上に伸ばした手を下げた。
せめてトイレに行かう。さうしよう。
私は待合室を出る。

 

 

トイレは何處だ。部屋を出て廊下できょろきょろしてゐると、ピンクの透け透けベビードールを着た大柄な人が調停ルームへ入つた……ように見えた。一瞬のことで、はつきり見てゐたわけぢやないけれど、視界の隅に映る映像はさうとしか解析出來ず、いやでもわたし、見閒違へ多い方だし、おこと敎室ををとこ敎室だと思ひ込んでて早幾とせだつたし、私は自分の映像處理能力をあまり信じてゐない。
それにこの場所で、大柄な女性と言へば、ヒカリさん以外に考へがたく、一體どんな經緯であのLIZLISAじみたかはいいコートを脫ぎ捨てることになつたのか、さつぱり想像出來ないから、だから私は「MY腦みそちゃん、ギャグ飛ばしすぎやで!」つてことにしておく。
トイレは「申立人待合室」を超えたところにあつて、私は女性用手前の個室に入つて最新式の美しい樣式便器に腰を下ろす。パンツを脫ぐ必要はない。膝でイケるやうになるといふのはさういふことだ。
スカートを上げて膝小僧を出す。指を這はせる。三角コーナーから黑いものがはみ出してる。……多分ゴミ。續ける。ソフトタッチで膝を觸る。黑いものは、よく見ると薔薇の柄が入つてゐる。ストッキングつぽい。……さういへばヒカリさん、あんなストッキング履いてたよね? 私は氣になる。傳染でもしたのかな。だとしたら、替へのストッキングの包裝ゴミが何處かにありさうなものだけど。私は個室の中を見廻してみる。すると便座の眞後ろに、ベビードールを着た金髮ギャルの寫眞が乘つてゐる空き箱を見附けた。中を見ると、ビニール袋がくしゃくしゃに突つ込まれてゐた。さっき見た氣がするベビードールの人が着てゐたものと、よく似たデザインだ。そんな氣がする。何もかも確信が持てないけれど。
寫眞を見る限り、ベビードールは透け透けで、下着の意味をなしてない。裸以上にエロく見えるやつだ。
こんな所に空き箱があるつてことは、さっきの人(ヒカリさんだとは斷定しないよ!)はここで着替へたんだらうか。……ストッキングを脫ぎ捨てて?
いや違ふ。このストッキングとベビードールには何の關聯も無いかもしれないぢやん!
やばいなまつたく意味がわからない。これが調停、これが裁判つてことなの?
敎へてよ、かはいい法子ちゃん!
ここまで頭が、ベビードールの空き箱と、脫ぎ捨てられたストッキングに支配されるともう一發拔くとかそれどころぢやなかつた。さっきのエロ妄想の餘韻はすつかり冷めて、ドキドキもムラムラも何處にも無い。代はりにモヤモヤが私の胸を渦卷く。
スカートを上げて、靴下を伸ばして膝を隱して、私はトイレから出た。
廊下を步いて、自分の待合室へ向かはうとすると、あちらからおばちゃまが驅けてきて「あら、お手洗ひでしたか。お待たせしました。あなたの番ですよ」と私を調停ルームへと案內する。

 

 

部屋へ入ると着席した私に、をぢさんは一枚のメモを渡す。
それはヒカリさんからの傳言と言ふ事で、私は一行ずつ叮嚀に文面を追ふ。

・實はずつと前からお友達になりたかつたです
・今日は物凄く勇氣を出して聲を掛けてみました
・氣持ち惡いつて思はれないやうに、あまり絡まないやうにしてゐました
・本當いふと、つるりさんが昔運營していたサイトからのファンで、ここまで追つ掛けてきました
・一晚中お酒を飮んでみたいです

細くて凜々しい文字で、こんなことが綴られてゐた。
讀み終はると私の胸に熱いものがこみ上げる。つて言ふのかな、かういふのは。
嬉しさと、喜びと、でもさういふんぢやなくて、そこを超えたもの。
「うっ……ふぇっ」
淚がこみ上げた。
過去の悲しみが喜びに變はる瞬閒つて、切なさと嬉しさで胸が張り詰める。
「どうしたんですか?」
をぢさんが言ふ。
「いや、すいません……嬉しくて……、ごめんなさい」
「いいんですよ」
私は昔からずつと、ネット上に色んな思ひを每日每日眞劍に書いてゐたけど、人からの反應はそんなになくて、そりやゼロではないけれど、ランキングだとかブクマ數とか、さういふものとは無緣の存在だつた。
どうせ誰も見てないからいいや、と思つて閉ぢたサイトを、眞劍に讀んでくれて、しかも好きでゐてくれた人がゐて……その事が溜まらなく嬉しかつた。
あの頃の自分のことは、自分でそんなに好きぢやなかつた。
だけどそんな自分を好きだつたと言つてくれるなんて。
私は今までの自分が肯定されてゐるのを感じる。
「……うぅっ」
ハンカチで淚と鼻をちょちよいと拭ふと、私は泣くことを止めた。このことを考へさへしなければ、淚はすぐ止まる。大人だから制禦出來る。
「それともう一つですね、ヒカリさんから大事な傳言があります」
をぢさんは神妙な面持ちで私を見詰めると、言葉を續けた。
「實はヒカリさんは、男性なんです」
「えっ?」
本氣で言つてるんだらうか。唐突すぎて何も言へない。そりや當然、ヒカリさんは女性だと思ひ込んでゐたからだ! モデル體型のハスキーボイスのかわいこちゃん。これが彼女の印象だ。
「まじですかー」
「本人は、そのことを言ふとアナタに嫌はれるんぢやないかつて氣にしてゐましたよ」
「えっ、そんなっ。むしろ、もつと好きになりましたっ!」
あのくるんとした睫毛とぷるんとした唇と、それから、高身長でピンクでフリルとリボンのついたコートを着こなす女子力の高さを持つ男の子って、一體どうなつちやつてんのと思ふ。
愛の反對は無關心だと言ふやうに、ヒカリさんに對して急上昇した興味のメーターは一氣に振り切つて、K點越え、全てがピコーンと好意に染まつた。
「先方もきつとお喜びになるでせう」
「それなら私も嬉しいです」あぁ、ここを出たらヒカリさんにどんな顏をして會へばいいんだらう。萌え萌えしちやふ。男の娘? それともニューハーフ? 何れにしてもときめいちやふ☆
「あなたの方は、先ほどのお話は決心が付きましたか?」
「え?」
「あなたの隱してゐる事を、あちらへお傳へするといふ件です」
「あ……」
私は少し迷ふ。
けれど、ヒカリさんは私に男だといふことを打ち明けてくれたんだ。あの子は私に踏み出してくれた。
「はい、大丈夫です。今まで誰にも言つたことのない祕密を打ち明けます」
「では、どうします? 我々から傳へませうか? それとも、先方をこちらへお呼びして直接仰つて戴く事も可能ですが」
「さうですね……。自分で傳へます。ヒカリさんをこちらへ呼んで下さい」
「分かりました。それでは少しお待ち下さいね」
おばちゃまはさう言つて微笑むと、部屋を出た。
背中で扉がばたんと閉まる。

 

 

「すいませーん……」
ドアが開くと、低めのあの聲が聞こえて、振り返つたらピンクの透け透けベビードールを着たヒカリさんがゐた。小さな乳首と、女性用のランジェリーとそして納まりの惡さうな股閒のもっこりが見え隱れする。
ヒカリさんは私の隣に腰を下ろすと、氣恥づかしさうな笑顏でもじもじする。
ヒカリさんは素足でやつぱりトイレに捨ててあつたストッキングは、この子のモノだと確信する。
でも何でどうして……。
聞きたいことは色々あるけど、まづはこのアトラクションを樂しまう。
おばちゃまが座ると、をぢさんが調停の進行を始める。
「では、まづ中野さんの方から、島田さんへお話があるんですね?」
「はい」
ヒカリさんが私を視た。頬が紅潮してゐるやうに見える。
「えっと、あのね。今まで誰にも言つてなかつたし、何處にも書いた事ないんけど……」
ヒカリさんはこくんと頷く。
「私ね、ういろうフェチなんですよ。ういろう性愛症候群って知つてますか?」
「えっ……分からないです」
「ういろうを見るとドキドキむらむらしちやふんです。あの、男の人がエロ本見るのと同じです。あれと同じ感じになるんです」
「へぇ〜さうなんですか。……面白いですね!」
ヒカリさんが少し前のめりになつた。良かつた。
「それとね、あと一個。もう一個敎えちやひますね」
「はい」
「私ね、自分でめちやくちやに開發しちやつて、えっと、あの、膝が物凄く感じるんですよ」
「あ、膝……。ちよつと分かる氣がします。妙にくすぐったいといふか……」
「ほんとですか!? 私、實は膝を觸るだけでイケちやつて、最近なんて多分1分も掛からないです。……そのくらい開發しちやひました」
「さうなんですか! ……あの、素敵だと思ひます♡」
ヒカリさんが滿面の笑みを見せた。かと思へば、今度は神妙な面持ちで口を開く。
「それと、あの……もうご存知だと思ひますが……」
「はい?」
「實は私、男なんです」
「はい♡ 素敵だと思ひます♡♡」
私は彼女の言葉を眞似た。
「普段は女裝をしないんですけど、休みの日とか……あと、ネットとかでは、一應女の子として暮らしてて……」
「さうなんですかぁ。でもすごく似合つてるし、女の私より女子力高いし、すごくいいと思ひます。かはいいですっ!」
私は思ひの丈をヒカリさんに傳へた。
「女裝」つて言ふことは、意識は男性としてあつて戀愛對象は男なのか、それとも女子になつてる閒は男性の事が好きなのか、もともとバイセクシャルなのか、そして何でストッキングを脫ぎ捨ててセクシーランジェリーを着てゐるのか、聞きたいことは澤山あつたけれど、でも、それは今ぢやなくてもいいと思つた。
をぢさんもおばちゃまもゐるし。
調停ルームだし。
リコン♥パーティーだし。
「それでは、二人の希望は『友達になりたい』といふことで、一致してゐるやうですが、それで問題ありませんか?」
おばちゃまが言ふ。
「ハイッ!」
私たちの聲が重なつて、みんな思はず笑ふ。
「それでは今囘の調停は終はりですね。いい方にまとまつて、良かつたですね」
をぢさんが笑ひ、拍手をする。
それにつられておばちゃまも拍手をし、だつたら私も拍手をするから、ヒカリさんも拍手をした。

 

 

調停コースのアトラクション「リコン♥パーティー」を出たら、14時過ぎだつた。
お腹が減つた私たちは、園內の眞ん中にある食堂で、二人でオムライスを食べた。
私が賴んだとろとろチーズのオムライスの上には「合意」、ヒカリさんの賴んだトマトたつぷりオムライスの上には「勝訴」と書いてあつた。
ヒカリさんは生脚のままだけど、セクシーランジェリーの上は元通りピンクの可愛いコートを羽纖つてゐるので傍目には中が際どいことは分からない。
お互ひ結構なカミングアウトをしたものの、いざ顏を合はせると、どこからどう話をしていいのかわからなくて、結局また中學生カップルのやうにもじもじしてしまふ。
食事を終へると、私たちは裁判所ランドの中をのんびり散步する。
園內には、人の姿は多いわけではなかつたけれど、どのアトラクションも「滿員」の表示があつたからやつぱり大盛況と見える。
私たちの持つて居たチケットでは調停コースを一回しか樂しめず、また假にアトラクションがあいてゐたとしても1プレイ邊りの料金は結構高額で、ヒカリさん曰く「そこまでして入るなら、どこか飮みに行つた方がいいですよ」とのことだつた。
裁判所ランドの鐵柵から外へ出ると日が傾いてゐた。
最近は日沒が早い。
「時閒大丈夫ですか?」
ヒカリさんが聞いてくれる。
「そろそろ歸らなくちやいけないですね。うち、ここから電車で3時閒くらゐかかるんで」
「ですよね」
一日一緖に居たけれど、私たちはまだ敬語だつた。
私は驛の方に向かつて步いて、ヒカリさんもそれに付き從つてゐる。
よく見ると、ヒカリさんの靴は大きくて、やつぱり男性なんだなあと思ふ。
私はこの子を「彼」と呼ぶべきか「彼女」と呼ぶべきか分からない。その迷ひは恐らく、私がこの子を戀愛對象としていいのかどうか、と躊躇つてゐるところから來てゐる。彼女の心がもし女性なら、私は彼女に戀をしない。だつて彼女の要求に私が應へられることはないのだから。
そのことをどうやつて聞き出せばいいのか、と考へてゐるうちに驛に着いた。
「今日はありがたうございました。私はこつちの方なので……」
ヒカリさんは私鐵の方を差す。
「じゃぁここでお別れですね」
私は足を止めた。
結局ヒカリさんを男性として意識した方がいいのか、女の子として扱つた方がいいのか分からなかつた。
けれど、そんなことより、私たちに必要なのは時閒だ。一緖に過ごして、澤山喋つて二人の關係を作ること。
「また時閒作るんで、今度は一緖にお酒飮みませう」
私は彼女を見上げた。
「はい、さうですね。飮みませう!」
「それぢや、行きますね。また遊びませう」
彼女に手を振つて私は改札の中に入つた。一度だけ振り返つてお辭儀しながら笑つて、その後は振り返らずにホームに向かふ。

 

 

車窻の光景は都市から住宅地、そして田苑地帶へと徐々に移り變はつていく。
空の色も靑からオレンジ、そして藍色へと變はつていつた。
「ゆるぼ。裁判所ランドへ行く相手募集」なんてネットに書いて世界中に發信することは、無謀なことだと思つて射たけれど、思ひがけない良い結果をもたらした。
會ひたい人に會へたのだから。
人生が突然好轉することなんて滅多に無くて、おそらく少しづつじりじりとイイ方に變はつて行くしかないのだらう。街竝みと同じだ。大都會の隣に田苑地帶が擴がるなんてことはなく、家や建物は少しづつ減り、その分田畑が增えて行くのだ。
これからきつと、少しづつ樂しいことが增えて行くよね。
私はポケットにしまつてゐたヒカリさんからのメモを取り出すと、ニヤニヤ眺めてゐたけれど最後はやつぱりうわっと泣いてしまつた。車內には人が少ないからセーフ。
電車は三時閒掛けて私の地元の最寄り驛に到着した。
おなじみの寂れた商店街の明かりが見える。
ホームから改札へ行く途中で私は氣附いた。
西原さんへのお土產忘れた! と。ヒカリさんと遊ぶことに夢中になりすぎたやうだ。
困つた末に、私はキオスクで地元の名產枝豆まんじゅうを買つてみることにする。
せめて氣持ちだけ。氣持ちだけ。ないよりマシだよね。祈るやうな氣持ちでキオスクに向かふ。

 

2024年10月11日公開 (初出 2014/11/22 個人ブログ(現存せず))

© 2024 幾島溫

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